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ドイツ空軍

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ヴァルター(兄、1913-1998 左)とライマール(弟、1915-1994 右)のホルテン(Horten)兄弟
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ちょっと、古い記事ですが興味深い話題なので取り上げてみました。

“ヒトラーのステルス戦闘機”を復元

 忘れ去られていたナチスドイツの先進的な戦闘爆撃機が、現代のステルス爆撃機の専門家たちの手により復元された。第2次世界大戦当時、ドイツの科学力は未来的な戦闘爆撃機「ホルテンHo229」を生み出したが、実戦配備には間に合わず、量産にまでは至らなかった。
 今回のHo229復元プロジェクトの目的は、世界初のステルス爆撃機ともいわれるHo229が本当にレーダーを回避する能力を持っていたのかどうかを確かめることである。そして検証の結果、新しい事実が次々と判明し、当時のドイツの技術力がジェット機の潜在能力を解き放つかなりの水準にまで達していたことがわかった。あと一歩開発が進んでいたら第2次世界大戦の結末は大きく変わっていたのかもしれない。 
 昨年末、アメリカの軍需企業ノースロップ・グラマンの専門家が集まってプロジェクトチームを結成し、ナチス時代の本物の設計図と、現存している唯一の機体を基に実物大のHo229を複製した。モデルとなった機体は、戦後50年以上に渡ってアメリカ政府関連施設に保管されていたものである。 
 全翼機であるHo229は、今日のアメリカのステルス戦略爆撃機「B-2」とよく似ており、最近のSF映画に登場しても違和感はないほど洗練された外観が目を引く。第2次大戦当時に活躍した航空機とは全く異なる印象だ。主な構造材は鋼管ベニヤ板から成り、ジェットエンジンを動力として最高時速約970キロで飛行できるよう設計されていた。 
 また、4基の30ミリ機関砲、および2発の500キロ爆弾を搭載する仕様で、実戦時には相当な攻撃力を持つ機体になるはずだった。 
 1944年のクリスマス直前、Ho229試作機がテスト飛行に成功した。しかし、すでにナチスに残された時間はほとんどなく、実用機の完成には至らず、数機の試作機が製造されたところで終戦を迎ることとなった。 
 もしHo229が量産態勢に入っていたなら、歴史にどのような影響を及ぼし得たのか。それにはまず、Ho229のステルス性能をはっきりと特定する必要がある。 
 自らが築き上げた“千年王国”が崩壊していく中、ヒトラーは“奇跡の兵器(Wunderwaffen)”という幻想にとりつかれるようになっていった。そこで登場したのが、たぐいまれな才能を持ち、実際にそのような秘密兵器を作り上げたホルテン兄弟だった。 
「Ho229の設計を率いたのは、元々はグライダーの設計者だった三男のライマール・ホルテンだ。空気抵抗の削減と性能の向上を突き詰めていく中で、全翼機のデザインばかり考えるようになった」と、アメリカのフロリダに拠点を置く航空歴史学者のデイビッド・マイラ氏は話す。マイラ氏は、1980年代初頭からホルテン兄弟が亡くなる1990年代末まで、実際に何度も兄弟にインタビューを行っており、1998年には『The Horten Brothers and Their All-Wing Aircraft(ホルテン兄弟と全翼機)』という著作を発表している。 
 マイラ氏は続ける。「一方、次男のヴァルター・ホルテンはドイツ空軍の軍人で、“バトル・オブ・ブリテン”などのイギリス軍との空戦で多くの仲間を失っていた。復讐(ふくしゅう)に燃えるヴァルターは、イギリスが開発した“チェーンホーム”というレーダーシステムをなんとかしてかいくぐる方法を探していた。そこで、弟のライマールにそのような爆撃機を設計できないかと頼んだのだ」。 
 こうして二人の共同作業の結果、ドイツ空軍の中でも例を見ない爆撃機が誕生した。 
 ワシントンD.C.郊外にあるアメリカ国立航空宇宙博物館併設のポール・E・ガーバー維持・復元・保管施設で、現存する唯一のHo229の管理にあたっている博物館キュレーター、ラッセル・リー氏は次のように話す。「いわゆる全翼型の航空機であるHo229は、安定性や機体制御をつかさどる垂直尾翼が省かれており、胴体そのものが揚力を発生させる主翼となっていた。ライマール・ホルテンがたどりついた実践的なアイデアは卓越しており、完全な実用機はB-2まで存在しない」。 
 このステルス性能をHo229が本当に備えていたのか明らかにするため、プロジェクトチームはまず現存するHo229に対して、第2次世界大戦当時のレーダー技術に基づく携帯レーダー装置を用いて調査を行った。 
 そして、2008年の秋から冬にかけて、カリフォルニア州のモハベ砂漠にあるノースロップ・グラマン社所有の部外者立ち入り禁止の試験施設で、Ho229の実物大の複製が製造された。 
 素材や製造技術も当時のまま再現されている。ただし、滑空は可能だが自力での飛行能力はないという。2009年1月には、復元されたHo229に向けて、第2次大戦当時と同じ形式のレーダー波が放出された。 
 航空機のステルス性能は2つの要素から成り立っている。レーダー波が発信源に跳ね返らないようにする形状と、レーダーエネルギーを吸収する素材である。 
 戦後になってホルテン兄弟は、「ステルス爆撃機を作るつもりだった」と話したが、ポール・E・ガーバー施設のリー氏など、一部の専門家はその点を疑問視している。リー氏は、「ホルテン兄弟は速度を追求しただけで、あのような形状になったのは空気力学的な理由によるものだ」と話す。 
 それに対し、前述のマイラ氏などは、意図的にステルス性能を持たせるように設計されたと考えている。マイラ氏は、「次男のヴァルター・ホルテンはドイツ海軍士官とも交流があり、潜水艦のレーダー回避技術の話を聞いていた。だからドイツ空軍の中でも独創的な発想ができたのだ」と話す。 
 Ho229復元プロジェクトのリーダーでノースロップ・グラマン社のステルス技術専門家のトム・ドブレンツ氏は、「Ho229の複製をレーダーでテストした結果、その流線形の先進的なデザインには、実際にレーダーを回避する効果があったことが判明した」と話す。
 ホルテンHo229は、どうやら本当に世界初のステルス爆撃機だったようだ。ただし、それが意図的に設計されたものだったのかという点は、まだ問題として残っている。 
 ドブレンツ氏は、「個人的には、独特な形状は空気力学的な理由から設計された可能性が大きいと思っている。ただし、現存するHo229をレーダーでテストした結果、合板の層の間に炭素材が挟まれていることが判明した。この素材はレーダー回避ぐらいしか役割が思いつかない。それでも、ホルテン兄弟がその性質を理解していたのかという点については何ともいえない」と断言を避ける。 
 まだ大きな疑問が残っている。もしHo229が量産体制に入り実戦に投入されていたとしたら、この“ヒトラーのステルス戦闘機”は第2次世界大戦の結末にどのような影響を与えていたのだろうか。 
 プロジェクトチームのリーダーのドブレンツ氏によると、Ho229のステルス性能は、レーダーの投射範囲をおよそ20%減らすものであったという。第2次大戦当時、イギリス軍のレーダーは、通常の爆撃機をイギリス海峡の160キロ地点で捕捉していた。Ho229ならば130キロまで接近しても捕捉されなかったはずである。速度を考慮すると効果はもっと大きく、通常の爆撃機はレーダーに補足されてからイギリス本土まで19分かかっていたが、Ho229は8分で到達する。 
「連合軍の対抗処置が開発されるまで、少なくとも一時的にはHo229によって戦局が変わっていた可能性はある」とドブレンツ氏は話す。 
 ホルテンHo229の設計は決して完全ではなかった。たとえば、当時のジェットエンジンは信頼性がそれほど高くなかった。また、全翼機の宿命として垂直方向の安定性が弱く、正確な機関砲掃射や爆撃も難しかったと考えられる。 
 別の場所、別の時代に、さらに開発を進めることができていれば、Ho229にも違う将来が約束されたかもしれない。しかし1945年初頭のドイツには、パイロットも燃料も、時間も残っていなかったのである。 
Photograph by Linda Reynolds/Flying Wing Films

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本日はベルリンの壁崩壊20周年記念日ですので、それに因んだ話をする予定でしたが、急遽予定を変更し、いつもお世話になっている週刊オブイェクトさんから、面白い一文を見つけましたので、その話をしようと思います。
なお第二次世界大戦でドイツ空軍のハヨ・ヘルマン大佐が爆撃機Ju-88のパイロット時代の1941年にギリシア戦で、夜間に港へ機雷を散布する任務なのに命令違反を承知で250kg爆弾をついでに搭載し、任務終了後に適当な船に投弾したところ、偶然にも弾薬を満載していた貨物船であった為に、周囲の船舶10隻を全て巻き添えに吹き飛ばす大戦果を挙げ、命令違反は不問にされたという漫画みたいなエピソードがあります。この時の貨物船は数千トン以上の火薬を搭載していた筈で、このように危険物を満載した輸送船の方が戦闘艦よりも遥かに危険な事は自明の理です。

ハヨー・ヘルマン大佐(終戦時)は、ドイツ空軍の有名人で1943年7月24日のハンブルグ空襲後、ヘルマン・ゲーリングから対策を依頼され、ヴィルデ・ザウ戦術(ヴィルデ・ザウ戦術とは、夜間無差別爆撃を仕掛ける英空軍に対し、アドルフ・ガランドの言葉を借りると、新聞を読めるくらい照明弾で夜空を照らし、その照明で昼間用単発戦闘機で夜間邀撃を行う発想を転換した戦術)を考案し、大戦末期にはエルベ特別攻撃隊と呼ばれるドイツ版体当たり部隊を編成したことで知られています。
しかし、上記のエピソードは恥ずかしながら知らなかったので、英語版ウィキペディアを翻訳しました。
それによりますと、
1940年まで、ヘルマンはKG−4(第四爆撃航空団のこと、少なくとも7月まではハヨー・ヘルマンはこの時点で第30爆撃航空団にいた筈であるが?)の第7中隊の指揮官で、バトル・オブ・ブリテンの間、イングランドへの多くの攻撃を導きました。1941年2月に、彼の航空団はシシリーに行きました、そこで、彼らはマルタとギリシャに対して飛びました。そのような攻撃において、彼は一つの爆弾を弾薬艦に落としました。爆撃の結果、11隻の船が沈んで、ギリシアのピレウス港を一ヶ月の大部分の間、使用不能にしました。

英語版ウィキペディアの記述は、やや正確性に欠くもののハヨー・ヘルマンは、大戦果を挙げたのは疑う余地が無いでしょう。それにしても、このような派手な活躍にも関わらず、ちょうど注目を浴びる戦域から外れたためあまり注目されなかったのかも知れません。
ちなみにこの大佐殿は、現在もご健勝とのことです。恐るべしジャーマン・スピリット!?
暗い話題に成りがちなドイツ統一の話題ですが、出来る限り明るい話題を厳選して見ました。

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