ミッドウェー海戦研究所

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日本陸軍

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日本は大東亜戦争の開戦時に大量の敵捕虜を想定して15か所もの収容施設をつくりました。
ここには英・米・蘭の将兵30万人を収容し、捕虜を管理する国の責任として彼らに寝具、衣服、食器をきちんと与えました。
当時、日本人の食生活は欧米人に比べて肉類の摂取が極端に少ないものでした。しかし捕虜の食事はその点を配慮し、日本国民の配給を上回る特別配給を続けていました。
 

戦後、占領軍が日本に上陸すると直ちに捕虜キャンプに大量の食料とビタミンを届け、捕虜たちを解放しました。終戦により武装解除された軍隊は戦時捕虜ではありませんが、日本の内地に復員するまで日本将兵は事実上捕虜として扱われました。しかもその扱いは言語に絶するものでありました。東南アジアの最大の収容施設レンパン島でのことです。

 
シンガポール南方のこの無人島に日本兵8万人が移動を命じられました。ここはかつて第1次大戦でドイツ軍捕虜2000人がマラリアで全員死んだ島です。その後もここで民間が開発をしましたが全て失敗し、放棄されてきた島でした。
この島は蛇以外の生き物は少なく、ヤシの木も少ないまさに「死の島」と言われるゆえんであります。
イギリス人はこの「死の島」へ日本兵を地獄に追いやるために移動させたのです。
 
島の施設は全て日本軍の手で建設させました。日本軍はあり合わせの道具と自前の食料を持って、桟橋、道路、倉庫など何から何まで作らされました。
雨期に吹きさらしの甲板に積まれて到着した設営隊は、後続部隊のために掘立小屋を建てながら、約束していたイギリス軍による食料を待っていましたが、島には何も届きませんでした。
日本兵たちの1日分の米は15勺にされ、全員が空腹と栄養失調になっていきました。

彼らは生きるためにあらゆる動植物が食料となるのか試され、毒以外の野草は取り尽くしていました。蛇、サソリ、ムカデ、ナメクジまで貴重な栄養源だったのです。軍医部の報告では主食のカロリーは必要量の3分の1、タンパク質は16グラムに過ぎず、餓死寸前に至ったと書いています。

最重点で取り組んだ開墾から農産物自給が進められ、食糧の生産と採集が行われました。そして、遂に蛇もムカデも取り尽くされて絶滅してしまいました。
 
8万人に餓えが迫った128日、イギリス軍の食糧5000トンが届きました。
しかし、この食料は熱帯で半年も貯蔵され賞味期限どころかイギリス軍が廃棄するような食料を持って来て、しかもわざと日本の記念日である128日まで待たせておいて、この日に日本兵にくれてやったのです。
イギリス、オーストラリア軍の食料は33004200カロリーありましたが、日本兵はこの1食分を3食に分けて食べ、それでも今までの倍の量を食べることができたのです。
 
こういう過酷な状況の中でも日本兵は抵抗もなく、脱走もなく、餓死者も出さなかったのは奇跡であったといえます。命令系統が失われていたので混乱があってもおかしくありませんが、日本兵の秩序は乱れませんでした。白人が「死の島」と言った無人のジャングルを切り開き、飢餓に迫られながらも、しのいだ日本兵。あらゆるものを利用して道路、農地、井戸、貯水池、宿舎、倉庫、司令部、病院まで建設しました。塩、みそ、しょうゆ、石鹸、履物まで工夫して作っていたのです。
ついにはイギリス軍の陰険な策謀は見事に裏切られたのです。世界のどの軍隊であろうとも、敗戦後の極限状態に追い詰められながら落胆し、意気消沈し、絶望に自暴自棄になる状況でも、これだけの統率を取ることができた日本兵は天皇の軍隊、皇軍としての誇りであったといえるでしょう。
 
この白人の陰湿な日本兵への扱いに対して、日本にいた捕虜の扱いはどうであったでしょうか。
昭和20年、戦局悪化の一途の中、我が国の民需が枯渇し、「欲しがりません、勝つまでは」のもと、食べざかりの子供達までお国のためにあらゆることを我慢し、わずかな配給に列をつくって日本国民全体が飢えていた時、敵捕虜に対しての待遇は日本の将兵と同じであったのです。
敵の将兵に妻子に与える2倍の食料を供給し続けたのです。
日本国民が極度の窮乏の中でも戦時国際法は固く守られていたのです。
これこそ白人社会ではあり得ない日本精神であり、武士道でもあるのです。このことはなぜか戦後隠されたままです。
同胞を殺した憎き敵に対しても、我が先人たちの高潔なるの行いを日本人は広く知り、誇ってもいいのではないでしょうか。・・・
 

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                         レンパン島の日本兵抑留の碑        
 
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転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

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陸軍が用いた海上戦力とは?
日、旧知の方と偶然に会い、挨拶もそこそこに「ところで『船舶隊』と『船舶工兵』はどちらが正しいのかな」という質問を投げかけられた。
 
 詳しく説明すると、その方が愛唱していた「船舶隊の歌」という曲が「船舶工兵の歌」と題されて掲載されている本があるということであった。
 
 ちなみに「船舶隊」は海軍ではない。陸軍の部隊だ。外地に赴くための物資輸送を担っていたのが陸軍船舶司令部で、広島県の宇品にあったが、その隷下全てが船舶隊と呼ばれた。
 
 別名「暁部隊」──。特殊な船を持ち、その船から多数の上陸用舟艇が出入りすることが可能だったという。「船舶工兵」はこの輸送任務を担っていたと見られる。
 

ボートに爆弾を積んで体当たりする陸軍の特攻隊

 もう1人、最近、偶然再会した方がいる。1944(昭和19)年に発足した「陸軍海上挺進戦隊」に所属したMさん。陸上自衛隊第一施設団の部隊行事で久しぶりにお目にかかったのだ。
 
 Mさんは陸軍士官学校57期。終戦後は自衛隊の前身である警察予備隊に入隊した。陸軍海上挺進戦隊とは、ベニヤ製のボートに250キロ爆弾を積んで夜間に敵艦隊に密かに接近し、体当たり攻撃をするというもので、陸軍による舟を使った特攻隊であった。
 
 秘匿名称は、用いた連絡艇(れんらくてい)の「れ」を取って「〇」で囲んだ「マルレ」。陸軍にこのような部隊が存在したこと自体が極秘だったために、情報は厳重に管理され、現在もこうした事実さえあまり知られていない。
 
 1945(昭和20)年3月、沖縄の慶良間地区では3個の海上挺進隊が「その時」をじっと待っていた。Mさんもその中にいた。
 
 生還することなど望めない作戦だった。「その時」とは、すなわち死地に赴く時のことだ。しかし、国を守るためにはもはや他に策なしという段となっていた。
 
 沖縄に縁もゆかりもない隊員が多かったが、沖縄県民を巻き添えにしたくないという思いも強かったという。
 
 3月23日、沈黙は破られた。怒涛のごとき米軍の大部隊が襲来したのは、まさにその慶良間列島であった。空からの圧倒的な攻撃に日本軍はなす術もない。
 
 そして4日後に米軍は渡嘉敷島に奇襲上陸する。特攻艇出動の時が到来したのだ。ところが、彼らに思いがけない指令が下された。
 
 「作戦は中止。特攻艇を直ちに沈めよ!」
 
 全身の力が抜けた。助かったという思いなどではない。国に身を捧ぐ覚悟をしていた身にとっては寝耳に水のことだったのだ。
 
 この判断の背景には、この時、沖縄本島にも特攻艇の部隊が展開されていたため、本島に敵の手が及ぶ前に、この時点で手の内を明かすわけにはいかないという考えがあったようだ。
 
 Mさんたちのその後は壮絶だった。なんとしてもこの島を守らねばならないという思い一つで、軽火器程度の装備しかなかったが、海岸で敵を待ち受けたのだ。
 
 海上特攻隊として編成されたため、陣地もなければ陸上戦闘のための武器もない。しかし、もとより舟で体当たりしようとしていたのだ。舟がなくなった今となっては、身を盾にして戦うしかない。雨あられと弾の飛び来る中、体を張って敵の進行を少しでも食い止めるしかなかった。
 
 渡嘉敷島で集団自決が起きたのはこの頃だった。この痛恨の経験から、Mさんは今でも渡嘉敷での慰霊祭に参加している。
 
 戦後は、あの美しい島の人々や日本のために、一度は諦めたその身を国防に捧げようと自衛官となった。そして、戦死した部下の故郷にずっと住んでいる。部下の霊とともに生きようと決めたからだという。
 

「専守防衛」での陸上戦が意味するものは?

 今回このような話を書いたのは、沖縄戦についてどうこう言いたいわけではない。それは、読者の皆さんがそれぞれに汲み取り、考えていただければ幸いに思うのだが、ふと思うところがあったのだ。
 
 それは、昨今、熱を帯びてきた「陸上自衛隊に海兵隊的機能を期待する」という議論についてだ。
 
 JBpress上でも拙稿や北村淳氏の論考など、繰り返し取り上げられているテーマであり、国会でも石破茂元防衛大臣がしばしば発破をかけているが、今、わが国でそのような装備を保有した場合はどうなるのだろうか。
 
 陸海空の統合運用は確かに欠かせないが、陸軍がかつて船舶隊や船舶工兵という自前の輸送機能を有していた史実は注目に値する。
 
 連携だ協力だと言っても、そう上手くはいかないのは今に始まったことではなく、この方式がやりやすかったのだろう。
 
 歴史とは皮肉なものだ。今は日米同盟があり、状況は全く違うのだが、万が一、日米同盟がなくなった場合、専守防衛の日本の陸上戦闘は、制空権を奪われた中で何ができるかというと、「マルレ」のような特攻作戦しかなくなってしまうのではないだろうか。
 
 米海兵隊が上陸作戦を敢行するのは、当然ながら制空権を取ってからである。陸自が装備を多様化させるのはいいが、それだけで島嶼奪還ができるわけではない。
 

 憲法改正を含めた国のあり方そのものの深い論議が必要であり、また、そんな気を起こさせない国の守りが何より求められる。


JBpress.ismedia.jpより引用
 
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1945年1月30日、ストックホルムの日本公使公邸でドイツのフォン・ウッタマン武官(左)、神田襄太郎参事官(右)と談笑する小野寺信陸軍武官(小野寺家提供)
イメージ 1 第二次大戦末期のヤルタ会談直後、ソ連が対日参戦する密約を結んだとの情報を、スウェーデンの首都ストックホルムにあるドイツ公使館が把握、打電していたことが英国立公文書館所蔵の秘密文書で明らかになった。ストックホルムでは、陸軍の小野寺信(まこと)駐在武官がドイツの情報士官と緊密に情報交換しており、武官が得た「ヤルタ密約」情報が士官を通じ、ドイツ側に流れていた可能性が出てきた。新たな情報経路の判明はソ連参戦の半年前、大本営に同じ情報を送ったとする小野寺武官の主張を支える有力な根拠になりそうだ。(岡部伸)

                       ◇

 中立条約が存在していたソ連に、英米との和平仲介を依頼すべきだと考えた一部政治家や陸軍にとって、ソ連の対日参戦情報は不都合なものだった。小野寺武官が送ったとするソ連参戦情報が軍上層部に届いた形跡がなく、情報が握りつぶされたとすれば、結果として終戦が遅れ、米国の原爆投下やソ連による北方四島の不法占拠などを招いた点で責任はきわめて大きい。

ヤルタ密約情報が独政府に伝わっていたことを示す秘密文書の一部。
「TOP SECRET」として、独外務省から全在外公館にソ連の対日参戦情報が打電された(英国立公文書館所蔵)
イメージ 2 秘密文書については、産経新聞がロンドンの公文書館で存在を確認した。ドイツの在ストックホルム公使館がヤルタ会談直後の1945年2月14日に入手した情報として、独外務省が全ての在外公館宛てに発信した電報を英国のブレッチリー・パーク(政府暗号学校)が傍受、解読したものだ。

 内容は「英国からの情報で、ソ連は三巨頭会談において対日政策を変更し、参戦を決めた」との趣旨だが、参戦時期は明示されていない。
 
カール・ハインツ・クレーマー情報士官
(英国立公文書館所蔵)
イメージ 3 小野寺武官とストックホルムで連携していたのは、ドイツ軍のカール・ハインツ・クレーマー情報士官だった。

 英国立公文書館の所蔵資料によると、英情報局秘密情報部(SIS)は44年12月9日付で、「小野寺とクレーマーは同じ情報を共有して、それぞれ本国に打電している」と分析。

 また、産経新聞が一橋大学の加藤哲郎名誉教授から提供を受けた、米国立公文書館所蔵の米中央情報局(CIA)のファイルにも、「小野寺武官がポーランド情報でドイツ諜報部門の事務所を頻繁に訪れている」=CIAの前身である戦略情報局(OSS)の45年2月15日付行動監視メモ=との記録が残っていた。

 さらに、CIAファイルには、クレーマー士官が戦後の米側の尋問で、「小野寺から44年秋ごろと45年2、3月ごろの2回、欧州で連合国の有力情報をもらった」と証言していることも分かった(46年3月19日付調書)。

 これらの文書は、小野寺武官が入手したと主張する「ヤルタ密約」の情報が、クレーマー士官を経由してドイツ側に流れていた可能性を強くうかがわせる。

 一方、大島浩駐独大使は昭和34(1959)年、防衛庁(当時)の聴取に「昭和20年3月ごろか、『ヤルタ会談の結果、ロシアが適当な時期に参戦する』ことを(ドイツの)リッベントロップ外相から聞いた」(防諜ニ関スル回想聴取録)と語っていた。

 クレーマー士官はSISの尋問(1945年7月23日)に対し、上司だったドイツ親衛隊情報部のシェレンベルク国外諜報局長に「小野寺情報を報告していた」と答えており、小野寺武官が獲得した「ヤルタ密約」の情報はドイツ政府中枢で検討された末、大島大使に伝わった可能性も見え隠れする。(肩書はいずれも当時)

                       ◇

 □大本営 握り潰す?

元ソ連課長「入手」と記述

 米英ソ三国首脳が昭和20(1945)年2月4〜11日、クリミア半島のヤルタに集い、南樺太返還、千島列島引き渡しなどを条件にソ連がドイツ降伏3カ月後に対日参戦することを約束した「ヤルタ密約」。ストックホルム駐在武官だった小野寺信氏が会談直後にキャッチし、発信したとされるソ連参戦情報は大本営や政府上層部に届いた形跡がなく、終戦に向けた当時の日本の動きをめぐる大きな謎として残されてきた。

 小野寺氏は、終戦時のソ連大使だった佐藤尚武氏が昭和58(1983)年に発表した「回顧八十年」で、本国に打電した情報が上層部に伝達されていなかったことを知った。そして3年後に母校・仙台幼年学校の会報「山紫に水清き」に、「ストックホルム陸軍武官として、特別にロンドンを経た情報網によって、このヤルタ会談の中の米ソ密約の情報を獲得し、即刻東京へ報告した」と書いた。
 
イメージ 4 小野寺氏の妻、百合子さんもその後、産経新聞の取材や自著を通じて、「ヤルタ密約」の情報はヤルタ会談終了直後の45年2月半ば、夫の武官仲間だったポーランド人、ブルジェスクウィンスキー氏から「英国のポーランド亡命政府から入った情報」としてもたらされ、夫の依頼で特別暗号を組んで参謀本部次長(秦彦三郎中将)宛てに打電したと証言し、「機密電の行方」を追い続けた。

 しかし、この機密電を見たり、接したりしたという軍の元高官は現れなかった。

 平成元(1989)年になって、参謀本部情報部の情報将校だった堀栄三氏が「大本営参謀の情報戦記 情報なき国家の悲劇」を著し、「ヤルタ会談で、スターリンは『ドイツ降伏後三カ月で対日攻勢に出る』と明言したことは、スウェーデン駐在の小野寺武官の『ブ情報』の電報にもあったが、実際にはこの電報は、どうも大本営作戦課で握り潰されていたようだ」と明らかにした。堀氏がいう「ブ情報」の「ブ」は、百合子さんが指摘したブルジェスクウィンスキー氏を指すとみられる。

 一方、小野寺氏が佐藤元ソ連大使の回顧録により「機密電の行方不明」に気づく9年前の昭和49(1974)年、大本営参謀本部ソ連課長を務めた林三郎氏が回想録「関東軍と極東ソ連軍」の中で、「彼(スターリン)は同会談(ヤルタ会談)において、ドイツ降伏3ヶ月後に対日参戦する旨を約束したとの情報を、わが参謀本部は本会談の直後ごろに入手した」と記していた。この記述は最近まで関係者の間でほとんど知られず、改めて「小野寺氏の機密電」との関係で注目されている。(岡部伸)

抹殺された不都合な真実

≪ゾルゲ事件などの国際情報戦を研究する加藤哲郎一橋大名誉教授の話≫
 「英米のアーカイブ資料の信頼性は高く、ヤルタ密約情報が小野寺からクレーマーに渡っていたことがうかがえる。実際の電報は見つかっていないものの、これで(ヤルタ密約の内容を入手して打電したという)小野寺証言の信憑(しんぴょう)性はきわめて高くなった。小野寺電が届いていたとなると、受け取った参謀本部、とりわけソ連情報分析を行っていた関係者がどう対応したかが問題となる。ヤルタ会談が行われたころから政府、軍部をあげて密(ひそ)かに始まったソ連を仲介とする和平工作の大きな動きのなかで、不都合な真実だった小野寺のスクープ電報が抹殺され、握りつぶされたと考えられる」

                        ◇

終戦の遅れ 統帥部に責任

 ≪インテリジェンス分野に詳しい手嶋龍一慶応大学大学院教授の話≫
 「ヤルタ密約を亡命ポーランド政府から極秘に入手し、大本営に打電したとされる小野寺信駐在武官の証言が裏付けられることになった。大本営が小野寺電を受け取った記録が見当たらず、関係者の間で大きな謎とされてきたが、現代史の空白がまたひとつ埋められることになった。ソ連を仲介者に終戦工作を進めていた陸軍が意図的に小野寺電を握りつぶした可能性が高くなった。もし1945年2月半ばにソ連の対日参戦の密約が明らかになっていれば、英米直接和平派の発言力が増し、終戦が早まったかもしれない。終戦が遅れ、原爆投下、ソ連参戦と北方領土占拠を招いてしまった統帥部の責任が改めて問われることになろう」
産経ニュースより引用
 
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我が国が戦後、平和であったのは日本国憲法があったからだとか、日米安保のお陰であったと思わされていますが、憲法は別としても日米安保はひとつの要因ではあったでしょう。
しかし、もうひとつ、日本人が忘れてはいけないことがあります。それは神風特別攻撃隊をはじめ、英霊たちの命を惜しまず敵に体当たりした事実であります。これを知る者たちに「日本に侵攻しようものなら生きては帰れない」と思わせたことは間違いないでしょう。
昭和28年頃、シナの瀋陽(奉天)の公立中学校では特攻隊のフィルムを見せながら、「これこそ真の愛国心の実行」と生徒たちに教育していた事実があります。これを見せられたシナの生徒たちは日本人の戦いぶりに驚愕したという。
 
特攻隊は何も鬼の塊ではありません。皆さんと同じようにそれぞれ思い思いの人生がありました。
お父さんやお母さんがいて、兄弟も、妻も、そしてかわいい我が子もいたのであります。
特攻隊の消してはいけない貴重な話をここに書き記しておきます。
 
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茨城県の農家の長男として生まれた藤井一は、親が農家を継がせたかったが、本人がどうしてもと陸軍軍人を志願します。
歩兵として入隊しましたが、優秀だった藤井は陸軍航空士官学校に入校します。
士官学校卒業後は熊谷陸軍飛行学校に赴任し、中隊長として少年飛行兵に訓育を行います。
藤井はパイロットではなかったので生徒に教えたのは精神訓話でした。
藤井がパイロットを志願しなかったのは歩兵科機関銃隊だった頃、支那戦線で迫撃砲の破片を左手に負い、操縦桿が握れなくなったからでした。
 
藤井は特攻攻撃が実施される前から口癖のように、
「事あらば敵陣、あるいは敵艦に自爆せよ。中隊長も必ず行く」と繰り返し言っていました。
忠誠心が強く熱血漢の藤井は、本来心根は優しくても教育は厳しかったと言います。
 
我が国もついに特攻作戦が実施されるようになると、大切な教え子を自分の手で死地へ送り込むことになります。藤井は苦しみ、自責の念にも駆られます。
「俺もかならず後から行く」と言って生徒を行かせておきながら、自分はただ座して教育するだけです。
藤井の性格からすると、そういう自分に耐えられなくなっていました。
 
「このままでは自分は教え子との約束を果たすことはできない」
他の教官たちは何の疑問も矛盾も抱かずにやっていることでしたが、自分に厳しい藤井にはそういう自分が許せませんでした。
「自分の教えを守って、次々と将来ある純粋な教え子たちが毎日、敵艦に突っ込んで行く。あいつも、あいつも・・・。 俺はいつまでこんなことをしているのか」
 
ついに藤井は特攻を志願しました。しかし二人の子供がいる年長の藤井は受け入れられません。
「自分の立場での責任を果たせ」という軍の言い分は当然でしたが、藤井はどうしても生徒だけを死なせることができませんでした。その後も特攻を志願します。生徒と教師の間の命をかけた誓い、その男の誓いを藤井はどうしても破るわけにはいかなかったのでした。
 
藤井の妻 福子は高崎の商家に生まれ、お嬢さんとして育ちました。
戦争中は野戦看護婦として活躍していました。支那で負傷した藤井の世話をしたのが福子で、これがきっかけで結婚しました。
 
藤井は妻の福子と三歳になる一子、生後四ヵ月の千恵子の四人で暮らしていました。
福子は夫が特攻を志願していることを知り驚きます。
軍人なのだから戦場に行けば戦死することは覚悟していますが、特攻の許可が出ない立場の人間が、何度も特攻志願をするというのは、死ぬために行こうとしているとしか思えませんでした。
 
二人の子を持つ母として特攻志願することに納得できず、夫を説得します。
しかし、藤井の性格を誰よりもわかっている福子は、藤井が一度決意すると最後まで変わらないこともわかっていました。
 
そして、昭和19年12月15日の朝。
藤井の家の近くを流れる荒川に二人の子供を紐で結びつけた母子三人の痛ましい溺死体が浮かびました。晴れ着を着せた幼い次女千恵子をおんぶし、3歳の長女一子の手と自分の手をひもで結んだ3人の痛ましい姿でした。
 
すぐに熊谷飛行学校に連絡され、知らせを受けた藤井中尉は鳴田准尉と一緒に現場に駆けつけました。師走の荒川は凍てついた風が吹きつけものすごい寒さです。
流れの中を一昼夜も漂っていた母子三人の遺体は、三人一緒に紐で結ばれたままそこに並んでいました。
 
うめくような声で藤井が言います。
「俺は、今日は涙を流すかも知れない。今日だけは勘弁してくれ。わかってくれ」
藤井は涙を隠すように、三人の前にうずくまって、やさしくこするように白い肌についていた砂を手で払います。
いつも豪快な藤井がうめくように泣く・・・。嶋田は藤井の深い悲しみが伝わって声も出ません。
 
遺書は二枚の便箋に書かれていました。
「私たちがいたのでは後顧の憂いになり、存分の活躍ができないことでしょう。お先に行って待っています」。
藤井の妻らしい気丈な遺書でした。
 
藤井は葬式が終わった夜、死んでいった一子に手紙を書きました。
 
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「冷え十二月の風の吹き飛ぶ日 荒川の河原の露と消し命。
母とともに殉国の血に燃ゆる父の意志に添って、一足先に父に殉じた哀れにも悲しい、
然も笑っている如く喜んで、母とともに消え去った命がいとほしい。
父も近くお前たちの後を追って行けることだろう。
嫌がらずに今度は父の暖かい懐で、だっこしてねんねしようね。それまで泣かずに待っていてください。
千恵子ちゃんが泣いたら、よくお守りしなさい。ではしばらく左様なら。
父ちゃんは戦地で立派な手柄を立ててお土産にして参ります。
では、一子ちゃんも、千恵子ちゃんも、それまで待ってて頂戴」
 
けっして読まれることのない、死んだ娘への手紙です。・・・
 
すでに誰もが、藤井には死しかないと理解できました。
藤井は自らの小指を切って血書嘆願による特攻志願を行います。
今度は軍も志願を受理しました。藤井中尉を特攻隊員として異例の任命をします。
 
藤井中尉は熊谷飛行学校で生徒達に大変人気がありました。
教えは厳しいが熱血漢で情に厚いということで、生徒達は藤井中尉を信頼し、尊敬し、あこがれを持っていました。
藤井が熊谷を去る時は中隊長室に生徒を一人一人呼び、家族のことや思い出話を聞きました。
そして、最後には「これからの日本を頼むぞ」と言って、若い教え子たちを励ましました。
 
昭和二十年五月二十七日、
藤井中尉は陸軍特別攻撃隊 第四十五振武隊快心隊の隊長として知覧飛行場に進出。
 
五月二十八日早朝、
第九次総攻撃に加わり、隊員十名と共に沖縄へ出撃。
 
「われ突入する」の電信を最後に、還らぬ人となりました。 藤井一 29歳。
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戦場に散華した動物たち
馬も犬も鳩も護国の神
「来年も、4月最初の日曜日にお会いしましょう」
 
 この時期、靖国神社の境内ではそんな挨拶が交わされることが多い。かつての戦友たちが集まっての慰霊祭などが集中するのは、やはり桜の咲く頃なのだ。
 

戦場で活躍し命を落としたのは兵士だけではなかった

 今年から、これまで別々の日時だった戦没軍馬・軍犬・軍鳩慰霊祭が合同で執り行われることになった。
 
 遊就館の前にある馬と犬、そして鳩の慰霊像近くに、参列者が集まっていた。本来ならば桜の花びらがヒラヒラと散る中で・・・という心積もりであったが、前日は寒の戻りで大嵐。開花は間に合わなかったが、当日、晴れ渡っただけでも天佑神助(てんゆうしんじょ)と言えそうだ。
 
 国歌斉唱の後、神事は厳かに始まった。祝詞は、戦の庭に赴いた健気な動物たちそれぞれの活躍ぶりが窺い知られるものであった。
 
 先の大戦においては、再び懐かしい故郷に還り得たものは皆無に等しい。馬も犬も鳩も多くが戦場に落命したのである。
 
 屍を野辺に晒した「戦友」には、墓も仏壇もない。靖国での再会だけがその霊を慰める唯一無比の約束だ。
 
 その約束を果たすために、遠方から杖をついて毎年、多くの関係者が来ていたが、最近はやや参列者の年齢も若いように見受けられる。おそらくご家族の代参なのだろう。
 
 その日は南方戦線の戦友会も行われていたようであったが、馬や犬などが活躍したのは大陸戦線が主であったことから、この集まりはさらに時代を遡ることになるわけだ。
 

前線の兵士たちの大きな支えだった軍用犬

 筆者は最近、『ありがとう「金剛丸」 星になった小さな自衛隊員』(ワニブックス)なる一冊を上梓した。
 
 東日本大震災において災害派遣に出た海上自衛隊の警備犬が、生まれてから絶命するまでの一生を記したものだ。
 
 「金剛丸」は、杉本正彦海幕長が呉地方総監時代に付けた名前だが、かつて満洲事変で活躍し、国民的な人気を集めた軍犬の名も「金剛」であったことは興味深い。
 
 1931(昭和6)年9月18日、柳条湖で南満洲鉄道爆破事件が起こったその夜、独立守備隊による攻撃が開始された。その際、守備隊本部まで伝令のため走り続けたのが、軍犬「金剛」と「那智」の2頭だった。
 
 2頭は弾雨の中を何度も往復し、いよいよ突撃となった時、兵士をかばうかのように先んじて敵陣に突進、群がる敵兵に踊りかかって勇猛果敢に戦った。そして、敵弾を浴び2頭とも壮絶な戦死を遂げた。口には敵兵の服をしっかりとくわえていたという。
 
 兵士たちは涙に暮れ、「金剛」と「那智」を愛育していた士官は、2頭の後を追うように、その年、戦死した。
 
 軍用犬の任務は伝令だけでない。「軍用犬行進歌」をひもといてみると、倒れた斥候兵の血染めの手記を野越え山越え本隊に届ける姿や、負傷した兵士のもとに全速力で駆けていき、薬や包帯を渡す情景が描かれている。また、弾薬を運ぶ任も担っており、前線の兵士たちにとって大きな支えとなっていた。
 
 だからこそ、かの時代から幾年月を経ても、今なお感謝と報恩を忘れずに、電車を乗り継ぎ、杖を頼りに九段坂を上り、黙々と動物たちの御霊に拝礼する皆さんの姿があるのだ。
 
 「『愛馬進軍歌』を歌いますので、お聞き下さい」
 
 初めて戦没馬慰霊祭にお邪魔した時、元騎兵や砲兵など関係者の代表者がそう述べたのを聞き、動物に対する言葉としては丁寧すぎてちょっと驚いた。
 
 しかし、馬も犬も鳩も護国の神に違いないのである。穢(けが)れのない心でひたすら人のために尽くしたかけがえのない「戦友」への畏敬の念を、ひしひしと感じさせた。
 
 よく、こうした慰霊行事などが、年々、参加者が減るということで将来を案じる声を聞くが、私は靖国神社がある限りその点は心配ないと考えている。月日が経てば当事者が減るのは当然だ。それを憂いても仕方がない。だからこそ神社の存在意義があるのではなかろうか。
 

我々が果たすべき約束とは何か

 話が飛ぶようだが、私はご遺骨の収集に関してはあまり共感を抱いていない。もちろん、取り組んでおられる方々の志は尊いと思うが、私自身は、ご英霊との「約束」をそこに見出していない。
 
 運良く、帰還できるご遺骨があっても、それはどこへ帰るのか。また、残されたご遺骨を寂しい思いにさせはしないかと心配になるのだ。現政権は遺骨収集にご執心のようだが、どこか欺瞞のようにも見えるのは私だけだろうか。政治利用の臭いを感じるのは考えすぎであろうか。
 
 戦野や大海に屍を晒した幾多の同胞との約束を果たすことは、当時を知る年配の方々だけの務めではない。現在やこれからを生きる我々にも課せられていると私は思う。そして、それは唯物ではなくて、「魂」に思いを致すことではないだろうか。
 
 何年か前の戦没馬慰霊祭で捧げられた祭文の一節が、今でも強く印象に残っている。
 
 「軍馬の霊よ、かつて万歳歓呼の声に送られ祖国を発ちしに、現下の日本、人心の荒廃覆うべきにあらず、汝らの汚れなき心、知る者ぞなし・・・」
 
 最近は慰霊祭でこの時の皆さんをお見かけすることもなくなってしまった。しかし、この時期になると常に私の心の中に現れている。
 

 靖国の桜が満開となる、この頃に。


JBpress.ismedia.jpより引用
 
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