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日本陸軍

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兵站の違いが勝敗を分けた、明治と昭和の戦い
不幸な歴史は二度と繰り返してはならない
2010.09.01(Wed) 飯島 矢素夫
 
近、「坂の上の雲」ブームや、歴史に関心を示し活動する女性を表現する所謂「歴女」の言葉も生まれ、戦国時代や日清、日露戦争等に関心を持つ人々が、性別を問わずあらゆる年代に多くなってきたように感じられる。
 

プロは兵站を語り、素人は戦略・戦術を語る

兵站は軍用語で駅を表す。写真はドイツのハンブルク駅〔AFPBB News
 
 「兵站」という言葉は、軍事用語で「軍の中継点」「駅」を意味するものとされてきた。
 
 現在においては、企業活動の物流管理全般を意味するビジネス用語として広く用いられ、一般用語化しており、その重要性は多くの人々に認識されてきていると思われる。
 
 軍における兵站の目的は「部隊の戦闘力を維持増進し、作戦の遂行を可能にする」とされ、極めて重要な要素と言われてきた。
 
 また、戦争のプロは兵站を語り、戦争の素人は戦略、戦術を語るとも言われているが、歴史上「兵站」を軽視したために大敗を喫した戦例は世界中に多く存在する。
 
 戦後65年間、武力衝突もなく平和を享受して現在に至っている日本は、果たして兵站についてどれだけ意識しているだろうか。もしその意識が薄くなっているとすれば危険である。
 
 そこで温故知新の精神にのっとり、近代国家を目指し、富国強兵を国家目標として日清、日露の2大戦争を勝ち抜いた明治時代の軍の活動のうち、陸軍の兵站にスポットを当てて歴史を振り返ってみたい。
 

明治の時代背景

 明治における陸軍の創設から日露戦争終了までの約40年間の時代背景は、次のようなものと思われる。
 
 江戸時代から営々と続いてきた徳川幕府の国家体制が崩壊し、明治政府ができたが、その国家基盤は不安定な状態であり、アジア地域で吹き荒れていた列国の植民地支配の脅威にさらされていた。
 
 このため早期に国内統一を図り、治安維持を成し遂げ、治安維持型の軍から列国並みの近代軍に脱皮させ、明確な国家目標「富国強兵」を旗印に、政府主導の国内産業の近代化により製鉄等の基幹産業を育成し、兵器弾薬の自力生産に向け歩み出した時代であった。
 
 明治当初から行われてきた、外国軍人や外国人技術者の指導を受けての兵器の製造設備建設や兵器の生産・修理の状況から早期に脱皮し、明治政府の「兵器の独立なくして、国家の独立なし」の指導の下、兵器弾薬の国産生産に邁進した時代であると考えられる。
 
 これにより多くの課題は残したものの、短期間に「技術レベル」の揃った多くの兵器弾薬が自力生産された。そしてこれらの兵器弾薬が戦場に補給され、日清、日露の両戦争に勝利を収める大きな要因となったと言える。
 

明治陸軍の創設

クレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケル少佐(ウィキペディアより)
イメージ 2 
 明治政府は当初、独自の軍を保有しておらず、主要3藩(薩摩藩、長州藩、土佐藩)が藩の軍隊を天皇に謙譲した御親兵が始まりであり、これが日本陸軍のルーツとされている。
 
 明治政府は当初、軍のモデルをフランスに求めた。また軍の性格は西南戦争(明治10年=1877年)終了までは国内治安維持型というべきものであったが、明治15(1882)年ドイツ陸軍指導者(クレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケル少佐)を招聘し、軍のモデルをドイツ式に改めた。
 
 軍の性格も大陸型の外征軍的なものに体系化された。また軍の基本となる徴兵令が明治6(1873)年に、物資等の取得を行う徴発令が明治15(1882)年に公布された。
 
 兵器生産等に関する組織のうち、中央行政組織は当初の兵部省(陸軍砲兵部)が陸軍省(軍務局兵器課)となった。
 
 このほか、砲兵工廠、砲兵会議、工兵会議、陸軍火薬研究所、陸軍砲工学校、陸軍砲兵工科学校等が逐次整備され兵器行政、兵器製造補給、兵器研究開発及び、これらの人材の育成に関する法体系が確立された。
 

政府主導の兵器生産体制

 明治政府は兵備の速やかな整備の必要性を痛感し、当初は各藩でバラバラに保有していた歩兵銃の改造を、外国(ベルギー)から招聘した技術者の指導の下に実施した。
 
 さらに、フランスから招聘したジョルジュ・ルボン砲兵大尉を中心とする将校等の指導の下、製造工場の設計、建設や兵器生産設備の設置等を行い、近代的な東京砲兵工廠(現在の小石川後楽園一帯の地域)の礎を築いた。
 
 また、大村益次郎の進言により大阪砲兵工廠(現在の大阪城内一帯の地域)を建設し、自前の兵器生産体制が整うとともに「2大工廠制」の完成を見た。
 
 また、東京砲兵工廠には技術者養成機関も設置され、人材の育成に多大の努力が払われた。
 
 さらに、優秀な将校を外国に留学させ最新技術を習得させるとともに、明治31(1898)年に員外学生制度を制定して東京帝国大学に派遣し、兵器技術に関する基幹要員の将校養成制度が整えられた。
 
 明治10(1877)年に勃発した西南戦争では、政府軍は各藩の保有していた多種多様の兵器を使用していたため、補給、整備に大変苦労した。
 
 その経験を教訓として、兵器の統一のため国産兵器の開発を急がせ、「13年式村田銃」を完成させた。その後、数々の改良が加えられ、「22年式村田連発銃」が開発され日清戦争に投入された。
 
 この戦争において村田銃に対する数々の改善要望が出され、より近代的な歩兵銃の必要性が叫ばれた。
 
有坂成章・陸軍砲兵少佐が開発した30年式歩兵銃(ウィキペディアより)
 
イメージ 1 これを受けて明治30(1897)年、有坂成章・陸軍砲兵少佐(当時)が研究開発した「30年式歩兵銃」が完成し、部隊に補給され日露戦争に使用された。
 
 この銃は「口径6.5ミリ」「5発クリップ式」の、当時としては画期的な歩兵銃であり、現在でも「有坂ライフル」として世界でも高い評価を得ている。
 
 またこの銃は、後に南部麒次郎砲兵少佐(当時)により開発され第2次世界大戦終了まで使用された「38式歩兵銃」の原型となった歩兵銃である。
 
 火砲についても国産化の努力がなされたが、良質の鉄の生産、製鋼技術が不十分であったため、我が国で産出していた銅を使って「青銅製イタリア式75ミリ野砲(山砲)」が模倣生産され、日清戦争で使用された。
 
 その後、世界の火砲の技術革新は目覚ましく、次々に高性能火砲が出現したため、我が国においても新火砲の必要性を痛感した軍首脳は、国内開発を進める一方、諸外国各社の火砲および国内開発の火砲を10種類集め比較試験、評価を行った。
 
 その結果、昇任した有坂砲兵大佐(当時)が開発した31年式速射野(山)砲が採用され、ここに国産製鋼砲の完成が実現し、直ちに大阪砲兵工廠で製造され、日露戦争において活躍した。 


(2)へ続く
 
jbpress.ismedia.jpより引用。
 
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戦闘機「隼」の活躍を下の動画でご覧下さい。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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富士通の顧問、山本卓眞氏
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■ 技術者になろうと決意した理由
(前略)
 世界で最初のコンピュータは、1946年のENIACとされているが、実は、そうではなく、英国の暗号解読機である。ドイツの暗号を解読したものの、それにあわせて市民を待避させると暗号を解読していることがわかってしまうので、待避させないという判断を下してまで、その秘密を守った。しかも、1980年までその秘密を公開しなかった。ENIACが世界最初のコンピュータといわれ続けた陰で、英国は秘匿し続けてきたのだ。

 私は1925年に生まれ、2歳の時に消化不良を起こし、生命については、医者がさじを投げた状態だった。母があきらめずに日本に古来伝わる「ゲンノショウコ」を用いて回復し、今日まで生きている。

 ただ発育が後れ、学校に上がる前でも自分の名前が書けない、文字が読めない状態。父親は「ついにわが家系にも知的発達の遅れた子が生まれたか」と天を仰いだほどだった。私の子供のころの夢は「銀ヤンマ」を捕まえることだった。

 その後、陸軍の幼年学校、航空士官学校に入り、満州に行った。飛行訓練を行うのに日本では空襲が激しくてできない。そのため、満州にいって飛行訓練を行った。空中戦の訓練で、プロペラやエンジンからの油で風防が汚れ、前が見えない。撃たずに降りてきたら教官に怒られたことがあった。また、訓練で米国の戦闘機に乗った際に、なかがカラっと乾いていることを感じた。なにかが違うと感じた。それが油漏れがないという技術の差だった。

 ある日、通信兵から日本の通信機を使ってくれと言われて飛び立ったが、飛行場が見える間は使えたが、見えなくなったら使えなかった。士官学校でも通信工学、機械工学は習ったので、その理由がわかった。真空管が悪いのが原因。通信兵に「お前のせいじゃない、真空管のせいだ」と慰めた。こうした経験も、戦後、「なんとかしなくてはいけない。技術者になろう」と決意した理由になっている。

 士官学校で通信工学、機械工学を学んだ経験はその後の人生に大きく生きている。防衛大学に理工系の学生が多いことは、日本の防衛のためにはいいことである。一方で、戦争中に作った第2工学部をなぜ戦後になくしてしまったのかが残念である。

 日本の海軍には、零式戦闘機という優れた戦闘機があった。技術者にとって非常に興味深いものであり、戦後、本を読んでこれを調べた。堀越二郎さんという航空技術者が生み出したものだが、「ネ堀越さん」、「ハ堀越さん」といわれるぐらい根掘り葉掘り聞く人だったという。その人でさえも、昭和7年の7試、昭和9年の9試、昭和12年の12試という3回の挑戦を経て、世界においても傑作といわれる戦闘機を作り上げた。

 ただ、零式戦闘機は整備が大変だった。一方、陸軍の一式戦闘機である隼は、整備が楽である。加藤隼戦闘隊の歌の2番で整備士をたたえる歌詞がある。寒風や酷暑のなかで整備をする様子が描かれているが、整備が容易であるというのは重要な要素であるということを感じた。

■ 鼻の高い技術者をやりこめられる企業が成長する

 防衛技術は、その後、インターネット、CDMA、暗号技術として民間に広がり、米国はこれらの技術を民間利用して発展した。では、日本の防衛技術においてはどうか。残念ながら見るべきものがあったとはいえない。

 終戦の際に部隊長から「これからは飛行機から離れて故郷に帰れ」と命令をされ、さらに、訓示として、「これまでは死ぬことを求めてきたが、これからは地をはい、草をかみ、犬になっても、こじきになっても生き抜け。生きて祖国の再建に力を尽くせ」といわれた。これは生涯忘れられない言葉である。そして、「衣食住についてはこれまで国が支給してきたが、お前たちは自活する道を学んでいない。それを思うと哀れで涙が出る」といわれた。当時、部隊長は40歳。自分の身を考えず、国の将来のこと、部下たちのことを考えた言葉を、この歳で発していたことには驚く。
(後略)


原文は、"Enterprise Watch"より引用。

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陣地跡で慰霊祭 三鷹

高射砲台に散った命
 昭和戦争末期、三鷹市内で唯一、米軍と交戦した場所がある。同市大沢にある旧陸軍の高射砲陣地跡。首都防衛の使命を帯び、米軍機を迎え撃つために建設されたこの地で、17日、65年前に散った日本兵4人を悼む慰霊祭が行われた。

 (大野潤三)

 高射砲陣地が建設されたのは1943年9月。日増しに戦況が悪化する中、調布飛行場と周辺の軍需工場を米軍機の攻撃から守るために編成された東部第1903部隊調布隊が、高台に高射砲6門を設置した。

 B29爆撃機などと度々、交戦して撃墜したこともあったが、上空1万メートルを飛ぶ敵機に砲弾が届かないことも多かったという。当時、伍長だった栗山武さん(88)は「アメリカとの技術力の差を感じた。砲弾も徐々に少なくなってきて、戦況に不安を感じていた」と振り返る。

 45年2月17日午前、陣地は、グラマン戦闘機の機銃掃射を浴び、中尉と兵長、上等兵の計4人が戦死。その2か月半後、部隊は、富山県の食糧補給港を援護するため、陣地を離れた。

 悲惨な戦争の傷跡が、平和の象徴と変わったのは、終戦後の57年。三鷹市長を5期務めた故・鈴木平三郎さん(84年没)が、周辺一帯を買い取り、自身が設立した社会福祉法人「楽山会」に寄付し、陣地跡を保存することに決めた。73年には、保育園「椎(しい)の実子供の家」を開園。鈴木さんの妻で、同会理事長のスミさん(81)は「戦争の悲惨さと命を懸けて日本を守った人たちがいたことを、子供たちに語り継ぎたかった」と語る。

 その後、記念碑が建立され、元同隊員で作る「調布戦友会」のメンバーやその遺族が中心となって、2月17日と終戦記念日の8月15日の年2回、慰霊祭を行ってきた。

 現在、高射砲の台座周辺では、園児たちが元気に走り回る。眼下に広がる調布飛行場からは、戦闘機の代わりに、レジャー客らを島しょ部へ運ぶ小型機が飛び立つ。ここが戦争遺跡であることを知る人も、年々少なくなっているという。

 この日の慰霊祭には、戦友会メンバーの遺族や園児ら約25人が参加。記念碑の前で黙とうをささげた。

 数年前から、戦友会のメンバーの出席者は減り、この日はゼロだったが、「若い人たちが、慰霊祭を引き継いでくれることは大変ありがたい。冬場の参加は体力的に難しくなったが、8月には私も参加したい」。栗山さんは、そう話した。

(2010年2月18日  読売新聞)

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「ビアク島」米軍上陸前の資料発見、地獄のニューギニア戦線

太平洋戦争のニューギニア戦線で、最大級の激戦地となったビアク島(インドネシア)の上陸(1944年)直前に米軍が作成した偵察資料が、ワシントン近郊で発見された。作戦の総指揮をとったマッカーサー大将(当時)が作成を命じたもので、上陸地点の地勢や旧日本軍の防衛状況が、航空写真や詳細な地図を交えて解析されていたことが分かった。 

赤道直下のビアク島は、当時日本の絶対国防圏内にあり、歩兵第222連隊(青森)を主力とする日本軍将兵や台湾人軍属、インドネシア人兵補が、守備や飛行場設営に当たっていた。43年5月27日に始まった米軍との戦闘で、日本軍は約1万人が戦死(戦病死を含む)する壊滅的な打撃を受けていた。 

発見された資料は、連合軍兵要地誌部が前線指揮官らに配布した地誌ハンドブックのうち、ビアク島を含むスハウテン諸島(ニューギニア島北西部)に関するもの。ワシントン近郊の古書店で、国防総省関係の放出資料からみつかった。 

資料は軍機扱いとされ、「敵に奪われる危険のある場合は廃棄せよ」の注意書きがある。作成責任者には、南西太平洋方面の連合軍総司令官だったマッカーサーをはじめ、戦後の日本占領で情報工作を担当したウィロビー准将(当時)らが名を連ねている。作成はビアク島上陸開始の約2週間前である5月12日付となっている。 

ビアク島の攻略目的として、資料は「軍事的な価値は、現存するものと今後の設営を含めた航空施設にある」と指摘。日本の統治下にあったパラオ諸島までの距離を明示するなど、同年6月に始まるサイパン島攻略を支援する目的という戦史の通説を裏付けた。 

航空写真や地図などは、島の全周にわたり日本軍の哨戒線や道路、飛行場の位置を詳しく示している。実際の上陸地点となったボスネク海岸など島の南東周辺については、上陸用舟艇の接岸に適した砂浜である一方、「身を隠すものがない」などの注意や、上陸直後に米軍を悩ませた高台が海岸近くに広がっていることを指摘していた。 

ビアク島戦没者の遺骨は戦後約4000柱が収集された。インドネシア内務省は今月、新たに291柱の遺骨を現地で日本政府の関係者に引き渡していた。
MSN産経(30日17:49) 

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