平賀譲
艦政本部は1936年1月、第四艦隊事故調査結果を総括してそれまでの全溶接船体を一挙に大幅にリベット接合に戻す指令を出した。これには溶接嫌いな平賀の顔が見え隠れする。これにより船体の主要構造継手には溶接が禁止された。
これは先進世界の10年前のレベルに戻ったことになる。 これら船体構造の強化改造と溶接の縮減で艦艇の重量はさらに重くなった。
このまま大東亜戦争に入ったので帝国海軍艦艇の運動性は敵米艦艇より劣ったと推定できる。またリベット継手であった我が艦艇の最大の弱点は至近弾のショックでリベットが緩みみ容易に漏水することであった。これは米艦艇に比し致命的な弱点だ。機雷、雷撃を受けるリベット潜水艦は特に不味い。この弱点による沈没が戦記にあまり記されていないのは分折する余裕までなかったせいだろう。
さて多少専門的になって恐輻だが、一般にリベット継手の船は万一亀裂が外板とか甲板に伸展してもリベット継手で止まる性質があり、他方溶接継手は亀製が止まず伝播する傾向がある。この 溶接構造の欠点をカパーするのがねばい鋼(
靭性のよい鋼、溶接性のよい鋼)の使用である。
このように考えると平賀の勘、溶接は危ないからリベットに戻した判断は溶接性の劣る鋼材使用の帝国海軍艦艇にとって技術的には間達いとはいえない。
問題は構造の安全性向上は戦闘力かという海軍用兵側の判断が正しいかどうかだ.日本造船学会の百年史などによるとリベットに戻した平賀は正しかったという造船屋もいる。何故なら日本の艦艇に
脆性破壊がなかったのはリベット艦だったからだという。
台風に対し安全だが鈍重なのがいいか軽快で重武装だが耐波浪性にやや難があるのがいいかの判断の間題だ。用兵の立場は後者を優先するべきだろう。要は海戦で勝つのが目的だから、問題となった駆逐艦を改造する程度でよく、台風によって壊れる艦艇がどれほどの確率かだ。
溶接からの全面撤退指令は如何なものか。
羹に懲りた過剰反応と小生は思う。
さらに辛口の評価だが、造船の神様まかせにして本来の軽快艦艇を鈍重艦艇に改造させたような愚から、当時帝囲海軍のトップの側近に有能な技術スタッフがおらず総合的判断力が欠けたか、下層の技術屋の声を聞く耳を持たないトップの独裁かいずれにして総合判断したリーダーシップがなかったのは誠に残念に思う。
日本では、欧米のように専門家を集めた対等な立場のプロジェクトチ一ムで問
題解決に導くのが弱いのは昔も今も変わりがないように思う.(士、農、工、商の
上下関係の体質がプロジェクトチームの邪魔)
3-2 アメリカ
アメリカは当初第二次世界大戦の連合国側だったが当初は参戦せず、欧州
に大量の戦略物資を海上輸送することとなり。その後の参戦で東南アジアヘ輸
送が増え続けたためアメリカは1940年建造開始の全溶接の
リバティ型貨物
船、
T-2タンカーなどの戦時標準船をさらに増産し続けた。これらは自動車工場
のような流れ作業の量産方式で短工期で生産するため新旧22造船所で対応し
た。
折損事故を起こしたスケネクタディー
これら船標船は終戦までに累計約5,000隻という天文学的な数量が建造された。(ルーズベルトは太平洋をこの船でアメリカがらJAPまて橋架けよと叱咤、激励したのは有名)しかしこの素人集団が造った粗製乱造船は内約10%の約500隻が戦争によらず船体構造に脆性破壊を発生して壊れた。
中にはには冬季岸壁係留中夜明方にいきなり大音響とともに船体が二つに
折れたものがあった。(図・4)内部応力による低温脆性破壊だったが、当時米と
いえどもこの脆性破壊の知識が皆無だった。(脆性破壊というのは鋼が低温で
脆くなり亀裂は1,500〜2,000m/sという高速で伝播し、瞬時に轟音とともに崩壊
にいたり恐ろしい)
米の事故調査委員会ではこの破壊の事故原因に動員された不熟練溶接工の
低技能、高い残留応力の内在などを挙げた。戦後3、4年経ってから脆性破壊
の研究が進みようやく鋼材の溶接性(溶接割れ感受性と鋼材のねぱさ、靱性)
が不良を主原因に挙げる始末だった。(リベット用の溶接性の悪い鋼材をそのま
ま使用したのが原因)
しかしアメリカの事故調査委員会はこれだけの大事故を起こしながらこの事
故の技術者の責任を不問とし、この船が戦争を勝利こ導く貢献をした実績から
この戦標船建造のた大プロジェクトは大成功と賞賛した報告がある。日本とは
技術的責任、評価および対策がかなりに違うことに注目したい。
3-3 ドイツ
ドイツ軍規格の溶接性高張力St52鋼材(引張強度52kg/m㎡、一般の構造用
鋼材の42Kg/mm2に比べ約1.5倍の強度材)の歴史は古く1930年頃に規格化
が始った。
ドイツが高強度材を開発した狙いは省資源だ溶接の比較
(1)溶接性軟鋼という報告がある。省資源小国の自認からきたもので高い強度
の鋼を使えば鋼材使用量が減るからだ。
この鋼材は高強度の上驚くべきことに開発当初から溶接割れ感受性の少な
い溶接用の鋼材を狙った特殊のものだ。
溶接割れは溶接棒と溶接工の技量で防ぐべしとし鋼材に頓着しないのが当
時の世界の常識だったにもかかわらず、このような早期にこの画期的着眼をし
生産に実現した偉業については先に述べた。
溶接割れの危険性を下げるには低
C〔炭素〕量とし、このため強度不足になっ
た分の補償には有効な合金元素を投入することが溶接工学の基本だが、この
独がこのための元素
Siとか
Cuおよび
Mnという、地球上で得やすくかつ安価なも
のを選んだんだことこも注目したい。SiとMnは脱酸元素のねばさを改善する効
果もあることは今では常識だが当時はなかったようだ。(脆性破壊防止に有効
な元素)
アメリカとの比較をしてみよう。米ではこれよりかなり後だが1942、3年頃に、
艦艇用溶接性高張力鋼VANITY(Ni,V系で高価な溶接性高張力鋼材だが靱性
向上した溶接性鋼)を開発実用化した。金持ち国の開発だけのことはある。
高価な元素
Niとか
Vを使用して溶接性を向上した。
50キロ級高張力鋼では独型・米型の両鋼材について溶接性を比較すれば両
者に優劣の差はないといえるが、安価な分だけ独が優位といえる。
鉄は国家なりと称した時代に造船屋がお上の如き鉄屋を動かしたことは信じ
難いことだ。しかも溶接のまだ幼稚な時代に反対派もあっただろうが、これを乗
越して将来を見て実用化を推進したのだ。多分造船、機械の製造者、製鉄業
者等がリーダの海軍に協力プロジェクトチームを結成した筈だ。優れたリ一ダシ
ップのもと総合的研究・開発が推進されたに違いない。プロジェクトによる総合
力発揮が下手な日本人に参考になる。
独の高張力鋼の強度の狙いが60キロというようなさらなる高強度材ではなく
ほどほどの強度て無理の少ない52キロを狙ったことはドイツ人らしく堅実で、憎
い限りだ。
安価なSi-Mn系鋼で靭性が期持できる上限強度が52キロということも既に知
っていたのか、または偶然の結果なのかは分らないが大したものだ。
彼等は、まずドイツ、ベルギ-など欧州の全溶接の橋梁に初期成分のSi-Cu系
St52鋼材を適用した。艦艇用のトライヤルだったのためではなかろうか。1936
〜1938年にかけ.これらの橋梁の幾つかに亀裂が入り、なかには大音響ととも
に3つに分折崩壊したトラス橋もあった。(図・5)全く予期せぬ大事故発生だった
が、彼等はこの事故でも溶接を諦めず、あくまで鋼材の改善と溶接の改善に向
って初志貫徹した。
その後鋼材と溶接棒の改良は進み、最終的には適度の成分量バランスのSi
-Mn系を最良鋼として選び、この鋼材を1935、6年頃以降艦艇に使用したらし
い。当然これが潜水艦Uボートにも採用された。
開戦前1941年当時の独駐在の海軍武官西島亮一は、艦政本部にSt52鋼材
の情報を伝え我が海軍でもこれを真似て開発すべきことを艦政本部に促した。
第四艦隊事件のあと我が海軍はリベット多用に逆戻りしたが`潜水艦だけは
さすがに堪らずリベットでは無理として海軍造艦溶接派の一部は上層部に嘆願
しこれが認められた。
1941年艦政本部の通牒によって呉工廠に溶接性高張力鋼開発プロジェクトを
立ち上げた。(造船屋小岩健、寺尾貞一と冶金屋堀田秀次、堀川一男の4人のチーム。開発の目的は居住区の緩和と生産性向上ということであった。呉海軍工廠製鋼部史料集成による)
彼等は独、および米の艦艇用高張力鋼を試作してて比較研究した結果、独
のSt52を手本とすることになった。
日本海軍がやっとインド洋に出撃する約束に小躍りして喜んだヒットラーはお
礼にUボート2隻を日本に送る約束をした。ミッドウェイで大半の艦艇を喪失した
後だけに我が海軍はインド洋出撃を澁ったがUボートの欲しい海軍はインド洋
出撃を約した。