ハイ、タケゾウですっ

考えすぎる宇宙人院生のブログ。言いっ放しの言われっ放しでどうぞ。

喜怒哀楽 emotions

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人は どんな死を見たかで 生きるということの在り方が決まるのではないか、
と思う。

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大好きだった仲間が亡くなった。葬儀に参列した。

当たり前に拾骨するものと思ったら、

はい、では解散!

誰も火葬場まで行くことができなかった。

家族は誰も葬儀に来なかったし、
法律上の決まりで、許可なく誰も骨を触ることができなかった。

仲間はそれから一週間ほど火葬場で一人(? 骨も一人って呼ぶのか?)で過ごした。

結局、仲間は無縁仏のお寺に預けられることになった。

たくさん、たくさん 仲間に新しい命を吹き込んだ人の最後だ。
回復の希望を与えた人の最後だ。

こんなのあんまりだ。

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親しかった仲間の死 ということとは別に、

引き取る人のない死ということは、こういうことなのだと
どこか自分の家族のこと思い 背筋がゾッとする気持ちになるのだった。


半年後、父が病に倒れ1ヶ月の意識不明に陥った。
もう帰ってこないかも知れない という状態だった。

幸い彼は 帰ってきたのだが、
今の彼は 左側の存在を忘れ、注意がそれてる時などは会話の理解もむずかしい。

あの論理的な父が、
生まれてすぐ養子に出され 誰にも頼らず生きてきた父が、
先に倒れた母の介護を10年独りで続けてきた父が、

今は介護ヘルパーの援助なしでは 生活も難しい。

これも一つの死だと思った。


ときに、父がくも膜下出血で倒れたのは59、母は50の時だ。
2人は障害者。父が倒れて3週間後、ボクはタバコをやめたのだけど。
ボクはいま38だ。


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母が初めてガンに罹ったのは35の時、ボクが13の時だ。
片方の乳房を失った。

子どものボクには、
母の乳房より 母がいてくれることの方が大事だったけど。

決して甘えることの許されない母だとしても、
いてくれることが大事だったけど。

2度目のガンはボクが22の時だったか。
母は両胸を失ったけど。

それは、母の病気のハズだった。
ガンになったのは母のハズなんだけど。

35が近くなり、
僕のこころに いつも差し込む影が現れた。

僕のカラダに骨腫や脂肪腫が見つかりだすのは
ここ数年のことだ。

10円ハゲが、一瞬でできた。

骨腫に気づいたとき
ほんとうに 一瞬でできた。

耳鼻咽喉科、口腔外科をまわり
これは骨腫です、心配ないよ って言われるまで
影はしばらく こころに留まるのだった。

脂肪腫しかり。
カラダにしこりを見つけることは あんまり心地いいものじゃない。


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いっぺん学業というものに取り組んでみたかった。
自分の力を試してみたかった。

いろんな死が、
僕のこころをゆさぶって

今日を生きろと
ささやきかけてくるのだった。


ボクはいま、
こころから長生きを望んでいる。

未来永劫。

生まれ育った家が、
まもなく消え去ろうとしている。

障がい者になった両親の 新しい暮らしのためだから
悪いことじゃない。

だけど 爺さんとの思い出も、婆さんとの思い出も
取り壊した壁や屋根瓦と一緒に

持って行かれてしまうような感覚。

血のつながった爺さんではなかったが、
両親の代わりに おいらが毎晩眠りに着くまで背中を掻いてくれた。

馴染みのない、実の親よりも
おいらを見守り育ててくれた爺さん。

屋根瓦と一緒に持ってかれなきゃいいけど。


この家で生まれ、この家で育つということ。
永遠不変のふるさと、それは未来永劫ではなかったのだなあ…。


歩き出さなきゃ。
そろそろ自分の人生を歩き出さなきゃ。

自分にとって本当に心地いいものと向き合い、
手にとり 触れて 愛するということ。

私の人生なのだから、
私が心から愛する世界を大切にしていこう。


ある人は言う、

生きている限り何もかもが去っていってしまうことへの、
限りない嘆きと悲しみに、私は祈り続ける。

愛したという記憶は永遠でありますように。

愛の投げたちいさな波が、いまも世界を巡っていることを
私が信じられますように。

と。


明日は10周年のフォーラム。

私はそこに、私らしくいたいと思う。

ネジゆるめる。

国家試験終了し、
やっとこさ開放感が出てきつつ、あります。


そういえば、この1年くらいテレビも見てなかったな。

音楽活動も休止。

出かけるときもPC持って、
出先でレポート書いてたり…。

頭皮が ひりひりー ってしながら、
ストレスの中勉強してたこととかも。

あー

次から次へと出てくる。

いったいどれだけ抑圧されとったんや、って感じ。

あーーー、 あーーーーー。

へんなの。

おいらの住んでるあたりのインド料理店は
実際はネパール人で構成されてることが多い。

ま、理由もなんとなくわかるけど。


で、ネパール料理とインド料理はやっぱり違う。
で、“そのインド料理”は日本人向けにアレンジされている。
で、お客は おいしい、おいしいと言っている。

それでいいんだけどね。

やっぱインド人の作る本場の味はうまいなあ、って。

それを聞いてるネパール人コックをチラ見しながら、
うまい うまい って食ってるお客見ながら、

おいらドキドキしてる。

へんなの。 −0−;

どんな死を見たか。

イメージ 1

今まで どんな死を見てきたかで
今日を生きる感覚が変わるような気がする。

ウチの貸してるアパートで孤独死した老人、
心臓手術の途中でそのまま亡くなった父の本当の母
(父のこと育てなかったから婆さんじゃない)

彼らはある日以来、二度と戻ってこなかった。
子どものころ 死は とても恐ろしいものに思えた。


子どもの頃から 事あるごとに
自分という存在が 歓迎されて生まれた人間でないのは理解できた。

だから死にゃいいんだろう と思った。
こんな人生こっちからゴメン被ってやる。

だけど、最後に思い切れないのは 上手に死ねるか、ということだった。

葬式、みんな泣くだろう。

それからの数ヶ月(そんなに長いかしらん)、
自責にかられてオレのこと 少しだけ大切に思うだろう。

だけど、その後はどうだ。

奴らが自分の自責の禊ぎを済ませた後は、
奴らが元通り、オレのいない幸せを生きる 生を喜ぶことを

オレは墓場の下に埋まりながら平気な気持ちで見ていられるだろうか。

自ら選んだ死の結果越えてしまった、二度と戻れない川の向こうから
どんな気持ちでこちらの世界を見たらいいんだろう。

それがあまりにつらい事なら、
向こうの世界ですら も一度自殺というのは可能なのだろうか。
もう一つ、向こうの世界に行けるのだろうか。

こんな悲しみを もう感じなくていい世界に
行けるだろうか。

そんなこと考えたら 結局、死ねないのだった。13歳。

あの時、
死が もっとハッピーで 美しいものだったら
いま生きていなかったかも知れない。

誰かが悲しみ、
二度と立ち上がれないほど悲しむ人がいるのだと知っていたなら
いま生きていなかったかも知れない。

Photo: Nagarkot/ Nepal Takehito



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