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『人間知性の正しい行使、厳密な思考の展開、事物の誤りない認識のために、
「定義」の絶対的必要性をソクラテスが情熱をもって強調して以来、
思惟対象あるいは認識対象の「本質」をきわめるという
ことが西洋哲学伝統の主流の一部となって現在に至った。
東洋でも「本質」またはそれに類する概念が、言語の意味機能と人間意識の階層的構造と
連関して、著しく重要な役割を果たしていることに我々は気づく。
このようなコンテクストにおける「本質」の問題性を手がかりにして、それが提起してきた
いろいろな哲学的問題を論じつつ、東洋哲学全体を、その諸伝統にまつわる複雑な
歴史的連関から引き離して、共時的思考の次元に移し、そこで新しく構造化しなおしてみたい
というのが私の当面の狙い。
「意識と本質」という表題の示すとおり、人間意識の様々に異なるあり方が「本質」なるものを
どのようなものとして捉えるかを、ここでは特に「本質」の実在性・非実在性の問題を中心として
考察してみたい。
経験界で出合うあらゆる事物、あらゆる事象について、その「本質」を捉えようとする、ほとんど
本能的とでもいっていいような内的性向が人間、誰にでもある。
これを本質追求とか本質探究とかいうと、何か特別のことに響くけれど、われわれの日常的意識の
働きそのものが、実は大抵の場合、様々な事物事象の「本質」認知の上に成り立っている。
日常的意識、すなわち感覚、知覚、意志、欲望、思惟などからなるわれわれの表層意識の
構造自体の中に、それらの最も基礎的な部分としてそれは組み込まれている。
意識とは本来的に「・・・の意識」だというが、この意識本来の志向性なるものは、意識が脱自的に
向かっていく「・・・」(X)の「本質」をなんらかの形で把捉していなければ現成しない。
たとえその「本質」把捉が、どれほど漠然とした、取りとめのない、
いわば気分的な了解のようなものであるにすぎないにしても、である。
意識を「・・・の意識」として成立させる基底としての原初的存在分節の意味論的構造そのものが
そういうふうに出来ているのだ。
Xを「花」と呼ぶ、あるいは「花」という語をそれに適用する。
それができるためには、何はともあれ、Xがなんであるかということ、
すなわちXの「本質」が捉えられていなければならない。
Xを花という語で指示し、Yを石という語で指示して、XとYとを言語的に、
つまり意識現象として、区別することができるためには、初次的に、少なくとも、
素朴な形で、花と石それぞれの「本質」が了解されていなければならない。
禅者のいわゆる(第一次的)「山はこれ山、水はこれ水」とは、
このような「本質」から成り立つ世界。
無数の「本質」によって様々に区切られ、複雑に連関し合う
「本質」の網目を通して分節的に眺められた世界。
そしてそれがすなわちわれわれの日常的世界なのであり、また主体的には、現実を
そのような形で見るわれわれの日常的意識、表層意識の本源的なあり方でもある。
意識をもし表層意識だけに限って考えるなら、意識とは事物事象の「本質」を、
コトバの意味機能の指示に従いながら把捉するところに生起する内的状態であると
いわなければなるまい。
表層意識の根本的構造を規定するものとしての志向性には、「本質」の無反省的あるいは
前反省的―ほとんど本能的とでもいえるかもしれない―把握が常に先行する。
この先行がなければ、「・・・の意識」としての意識は成立し得ないのである。』
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