|
『意識と本質』より 『「天地の始」、一切の存在者がものとして現れてくる以前の「道」 すなわち根源的「存在」には名前がない。 それは言語以前であり、分節以前である。 それを老子は天地分離以前という。 ところが名の出現とともに天と地は互いに分かれて「道」は「万物の母」となる。 言語によって無分節の「存在」が分節されて、存在者の世界が経験的に成立する。 (“根源的「存在」には名前がない”ということは、以前『道(タオ)―名の無い領域』でも 取り上げたことがありました。 http://blogs.yahoo.co.jp/mieletrose/35802148.html) 言語以前から言語以後へ、「無名」から「有名」へ―「存在」の形而上的次元から 形而下的次元へのこの転換点に「本質」が出現する。 換言すれば、Xが一定の名を得ることによって、一定のものとして固定され凝固するためには、 それをそのものとして他の一切から識別させ、他の一切と矛盾律的に (つまりXは非Xではないという形で)対立させるような何か、 つまりXの「本質」の認知あるいは「本質」の了解がなければならないのだ。 われわれの日常的世界とは、この第一次的、原初的「本質」認知の過程をいわば省略して― あるいは、それに気付かずに―始めから既に出来上がったものとして見られた存在者の形成する 意味的分節的存在地平である。 われわれはこのような存在地平に現出する世界の中に主体として存在し、われわれを取り巻く それらのものを客体として意識する。 その時、当然、意識は「・・・の意識」という形を取る、「・・・」の中に伏在する 「本質」認知にほとんど気付くこともなしに。 だからこそ、何かのきっかけで言語脱落が起こり、本質脱落が起こると、 手がかりも足がかりもない、つまり全く符牒のついていない無記的、無分節的「存在」の 真只中に抛り込まれて愕然とするのだ。 以上はあくまで表層意識を主にして、表層意識の立場からの発言であって、深層意識に 身を据えた人の見方ではない。 むろん、サルトル的「嘔吐」の場合、あの瞬間に意識の深層が垣間見られることは事実である。 もともと言語脱落とか本質脱落とかいうこと自体が、深層意識的事態なのであって、 それだからこそ「存在」が無分節のままに顕現するのだ。 しかしサルトルあるいは『嘔吐』の主人公は、深層意識の次元に身を据えてはいない。 そこから、その立場から、存在世界の実相を視るということは彼にはできない。 それだけの準備ができていないのである。 だから絶対無分節の「存在」の前に突然立たされて、彼は狼狽する。 仏教的表現を使っていうなら、世俗諦的意識の働きに慣れ、世俗諦的立場に身を置き、 世俗諦的にしかものを見ることのできない人は、たまたま勝義諦的事態に触れることがあっても、 そこにただ何か得体の知れないものあるとしか見ないのである。 実は東洋の哲学的伝統では、そのような次元での「存在」こそ神あるいは神以前のもの、 例えば荘子の斉物論の根拠となる「渾沌」、華厳の事事無礙・理事無礙の窮極的基盤としての 「一真法界」、イスラームの存在一性論のよって立つ「絶対一者」等々であるのだが。 では、表層意識に身を置く人が、絶対無分節の「存在」を、どうして「嘔吐」的にしか 受け取れないのかといえば、それは無分節の「存在」を、あくまで「・・・の意識」の志向対象として、 しかもそれが直接に開顕したままの姿で、じかに把捉しようとするからである。 これは表層意識にとって堪えられるようなことではない。 勿論、表層意識にも遁げ道はある。 他の一切の普通の対象のように、無分節の「存在」を概念化して、一つの対象として 取り扱うことだ。 そうすれば無分節の「存在」は空の概念、無の概念、一者の概念というふうに無害なものとなり、 「・・・の意識」の対象となる。 だが無害になるかわり、完全に表層意識の中に取り込まれて死物と化してしまう。 つまり、「存在」の深層意識的真相は全く失われてしまうのである。 しかしまた、そうかといって、「存在」の無分節的真相をそのまま本源的な姿で表層意識に 受け止めようとすれば、もともと「・・・の意識」であるものが「・・・」を失って 宙に迷い、自己破壊の危険に曝されることになる。 「嘔吐」とは、意識論的には、そうしたものである。』 特にこの“本質”は転換点に出現するという部分に深く共感しました。 『言語以前から言語以後へ、「無名」から「有名」へ―「存在」の形而上的次元から
形而下的次元へのこの転換点に「本質」が出現する。』 |

- >
- Yahoo!サービス
- >
- Yahoo!ブログ
- >
- 練習用



