|
『東洋の精神的伝統では、少なくとも原則的には、人はこのような場合「嘔吐」に 追い込まれはしない。 絶対無分節の「存在」に直面しても狼狽しないだけの準備が始めから方法的、組織的に なされているからだ。 いわゆる東洋の哲人とは、深層意識が拓かれて、そこに身を据えている人である。 表層意識の次元に現れる事物、そこに生起する様々の事態を、深層意識の地平に置いて、 その見地から眺めることのできる人。 表層、深層の両領域にわたる彼の意識の形而上的・形而下的地平には、絶対無分節の 次元の「存在」と、千々に分節された「存在」とが同時にありのままに現れている。 この境位にある意識に現われる「存在」には、どこにも「本質」的区分がない。 まさしく言語脱落、「本質」脱落の世界。 それを老子は「妙」という言葉で表現する。 これに反して表層意識の見る世界は、「存在」がいろいろな名によって、つまり言語的に、 分節され、様々な事物がそれぞれ「本質」によって規定された存在者として生起してくる世界、 「徼」の領域である。 「徼」とは明確な輪郭線で区切られた、はっきり目に見える形に分節された「存在」のあり方を 意味する。 そして、そのような世界を見る意識、表層意識を老子は「常有欲」という。 「常有欲」とはものに執著する心のあり方。存在論的にいえば、様々なものを 「本質」的に措定して、どこまでもそれらをありとする意識である。 「本質」のない世界と、無数の「本質」によって形成されたものの世界と― この二つの「存在」の次元が、ここでは鋭く対立しつつ、しかも一つの「存在」地平の うちに均衡を保って融和している。 「本質」によって区劃された事物の充満する世界を、無「本質」の世界を見た人の目が 静かに眺めている。 「常有欲」と「常無欲」が一つの意識構造に円成する。 互いに根本的に異質でありながら、「常有欲」と「常無欲」との間には致命的な断絶がない。 言語が脱落し、「本質」が脱落して、一切のものの符牒がなくなっても、この哲人の意識には なんの困惑もなければ戸惑いもないのだ。 深層意識と表層意識とを二つながら同時に機能させることによって、「存在」の無と有とを いわば二重写しに観ることのできる、こうした東洋的哲人のあり方を、僧肇は次のように言う。 聖人はその意識を空洞にして、いかなるものも「本質」によって固定された客体として
認知することなく、実際に活動する日常的現実の世界に身を処しながら、しかも無為の境地にとどまり、 あらゆるものがそれぞれの名を通して分節された世界の中におりながら、しかも言語の「本質」 喚起作用と超絶したところに住んでいるのであって、その境位はひっそりと静まりかえって ものの影すらなく、形象とコトバで捉えられるようなものは一つだにない―およそ、そんな世界に 聖人は住んでいるのである、という。』 |

- >
- Yahoo!サービス
- >
- Yahoo!ブログ
- >
- 練習用



