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『意識と本質』より 『東洋哲学の中には、仏教と同じく「本質」否定から出発し、同じ方向に道を辿りながら、 しかも終着点において全く正反対の見所に達するものもある。 その典型的な例をシャンカラの不二一元論的ヴェーダーンタの哲学に見る。 なぜ正反対のテーゼに帰着するのかというと、仏教では、その形而上学の構造の極点に 空とか無が置かれるのに反して、不二一元論では、形而上学構造の 頂点にブラフマン(梵)という有的充実の極限、最高度にリアルな実在を据えるからである。 仏教の哲人たちと同じくシャンカラも経験的事物の「本質」の実在性を否定する。 現実の世界が「名と形」的に分節された多者の世界と見る点でも仏教と変わらない。 またそれらの分節された「存在」の形、いわゆる事物が、「存在」のあるがままの、 真の姿ではなくて、実はそれらは絶対無分節であるものが、われわれ普通の人間の 表層意識、「・・・の意識」を通して屈折し、歪んで現れた偽りの姿、虚妄の映像である、 とする点でも。 本当はないものなのに、あたかもあるかのように見えている。 あるかのように見えるのは、われわれの経験的意識が、そこの名すなわち語が意味的に 指示する「本質」を妄念して、それを一つのものとして立てるからである。 しかしそれは、シャンカラにあっては、まったく何もない空無の空間に忽然として何かが 見えるということではなくて、絶対無分節の実在者がある特殊な限定を受けて、限定された 形で現れるということである。 ただ、そういう様々な限定形態は、元来、絶対無分節的実在者、ブラフマンそのものには 所属していないというだけのこと。 ところで、本来、何かに所属していないものを、あたかも所属しているかのようにそれを 押しつける、押し被せることを「付託」という。 不二一元論の重要な術語だ。 この術語の指示する線にそって考えるなら、我々の経験的世界は、我々自身の意識の 「付託」的働きによって、様々に分節されて現れるブラフマンの仮象的形姿にほかならない、 ということになる。 どこにも分節線のない絶対一者が、分節された形でわれわれの表層意識に映るのだ。』
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