シルクロードから嫁が来た!!

キルギス共和国出身のロシア人と結婚した男のムダ話。旧ソ連諸国のお話も

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【不屈の大投手ビクトル・スタルヒンさん。ファイト溢れるプレースタイルとは裏腹に素顔はとても優しい人でした。時代の流れとは言え、時にはひどい仕打ちをした日本を憎むことなく球界発展に一生を捧げた姿勢は時代を超えて見習うべきものと感じます。(画像はフリー百科事典ウィキペディアより転載)】


先日会社の上司、同僚とプロ野球観戦に行きました。

試合は最後の最後まで手に汗握る好ゲーム。
残念ながら相手チームのサヨナラ打で終わりましたが、大満足の一戦でした。

『野球とは筋書きのないドラマ』とはよく言ったものです。

今回はそんな野球界で『筋書きのないドラマ』を演じた1人のロシア人の物語。
“ロシアからやって来た大投手”ビクトル・スタルヒンさんのお話です。

日本球史上初の300勝投手として神話的存在のスタルヒンさん。
華やかな記録とは裏腹にその野球人生は苦難と波乱に満ちたものでした。

スタルヒンさんは、1916年、帝政ロシアのニージニ・ターギルで生まれています。

日本から遥かに遠いウラル山脈の東に位置し、古くから重工業都市として発展してきた街。
何事もなければスタルヒンさんは、一生日本とは無縁の生涯だったかもしれません。

しかし、歴史の荒波は、スタルヒンさんの人生を大きく翻弄したのです。

きっかけは1919年に起きたロシア革命でした。

帝政ロシア軍人で王制派だったスタルヒンさんのお父さんは革命派の追及を恐れ亡命を決意。
一家は、住み慣れた故郷を離れることになります。スタルヒンさんわずか2歳。

東へ東へと逃避行を続ける一家。

シベリア、ハルピン、、、ユーラシア大陸横断の長い流浪の末、最後にたどり着いたのが極東の島国、日本。今の北海道旭川市でした。

この時、スタルヒンさんは9歳。
故郷を捨て早や7年が経過していました。

スタルヒンさんの両親は、毛織物やロシアパンの行商で生計を立てます。
幼いスタルヒンさんも両親を手伝い、ロシアパンを売り歩いていました。

やがて資金がたまったのか両親はロシア風喫茶店やミルクホールを設立し、旭川を終の住処に定めます。

旭川を永住の地と決めた理由は、経済的に安定し、生活の目処が立ったこともありますが、地元の人々が一家を優しく迎え入れてくれたことが大きかったようです。

無国籍状態だったにも関わらず地元の日章小学校はスタルヒンさんの入学を無条件で許可。
加えて近隣の住民も一家のために何かと世話を焼いてくれました。

スタルヒンさんはその恩義を終生忘れることはありませんでした。

大投手になっても旭川の知人から贈られた木彫りの熊を常に手元に置いていました。
また、たびたび旭川を自らの第二の故郷とコメントしたことからも強い“郷土愛”がうかがえます。

そして、、、、、、
この旭川でスタルヒン少年は野球に出会ったのです。

地元野球チームに入ったスタルヒンさんはめきめきと頭角を現します。
すぐに地元では知らぬ人がいない名投手として人気を博します。

特に進学した旭川中学(旧制)はスタルヒンさんの加入で北海道随一の強豪に成長。
“旭川にスタルヒンあり”の名声が北海道全域にとどろいたのです。

順調に見えた野球人生。
そんな中、突然の大事件が起こります。

父親が自身の経営する店のロシア人従業員とトラブルになった末に相手を殺害、懲役8年の刑を宣告されたのです。

一家の大黒柱の逮捕は経済的な困窮を生んだだけではありませんでした。

殺人犯の息子となったことで日本国籍取得が困難になったのです。

“無国籍”、“亡命者”、“殺人犯の息子”

暗い三重苦は、その後のスタルヒンさんの人生に深く影を落とすことになります。
(余談ですが、後年スタルヒンさんは再度日本国籍取得を試みたものの対応した特高警察外事課は、『お前の顔はどう見ても日本人に見えない。』と申請を一蹴したそうです。)

それでも地元旭川の人々は失意のスタルヒンさんに優しく接しました。
経済的にも精神的にもスタルヒンさんを支えたことが当時の記録に残っています。

加えて、素晴らしい素質を持つスタルヒンさんを周囲が放っておくはずがありません。
様々な団体やチームが勧誘合戦を繰り広げます。

中でも熱心だったのがアメリカ大リーグチームと対抗戦を行っていた日本選抜チームでした。

当時日本選抜チームは大リーグに対し一勝もしていませんでした。
1931年に行なわれた第1回大会では泥沼の17連敗。そして1934年の第2回大会が迫っていたのです。

日本としては一勝は必達目標。
悲願達成に天才スタルヒンは何としてでも欲しい戦力でした。

当初全日本選抜チーム参加の誘いをスタルヒンさんは断ります。

スタルヒンさんの夢は世話になった旭川のチームを甲子園に導くことだったからです。
その後早稲田大学に進んで花形であった大学野球をすることを目指していたからです。

しかし、最終的には日本選抜チームに参加することになります。

“入団しないなら日本政府に働きかけて一家全員を国外追放にする!”
日本選抜チーム勧誘者の脅し文句が無国籍者スタルヒンさんに苦渋の決断をさせたのです。

日本選抜は、後に『大日本東京野球倶楽部』を経て現在の巨人軍になります。
スタルヒンさんは巨人軍創成期を支えた選手の1人となる訳です。

プロ野球選手となったスタルヒンさんは伝説的エース沢村栄治さんの後釜として期待されます。
その期待通り大車輪の活躍で観客を沸かせました。

最大の武器は190センチの長身から投げ下ろす剛速球。
あまりの速さと2階から落ちてくるような迫力に震えない打者はいなかったと聞きます。

一説によると球速は160キロは出ていたとのこと。

当時の日本人の平均身長は150センチそこそこ。

現代の野球選手に比べきゃしゃな選手が多かった分、大男スタルヒンさんが渾身の力で投げてくる球は、実際以上に速く見えたはずです。

そんな訳で160キロは眉ツバですが、いずれにせよ相当な投手だったことは間違いありません。

実際長年選手、指導者として野球に携わってきた“打撃の神様”川上哲治さんは『私が見た様々な選手の中でスタルヒンこそ最高の投手だった』と断言していますし、他にも往年の大選手が同様の発言をしています。

エースとなったスタルヒンさんは、1937年にはノーヒットノーラン。1939年にはシーズン42勝(!)と言う大記録を次々に打ち立て、巨人軍初期黄金時代の立役者となりました。

ちなみに通算100勝到達はわずか165試合目。
この記録は今なお破られていない不滅の金字塔として野球ファンの間では語り草になっています。

しかし、、、、、、
時代はスタルヒンさんにまたもや試練を与えたのです。

1939年に起きた日ソの国境紛争ノモンハン事件で日本の対ロシア感情は急激に悪化。
日本政府はロシア系住民を『敵性人種』として排外政策を採ります。

これはよく考えてみるとおかしな話です。

当時のソビエトは連合国側でしたが日本とは中立条約を結んでおり、砲火を交えていません。
さらに在日ロシア系住民の多くは元々反ソビエトで日本に亡命してきた人々です。

日本政府の対応が非常識であったとのそしりは免れないでしょう。

ともあれ、政府や国民からの批判を恐れた巨人軍は、スタルヒンさんに『須田 博(すた ひろし)』と言う日本名への改名を強制。さらに追い討ちをかける様に、政府の意向に沿う形で散々酷使したスタルヒンさんを球界から追放したのです。

球界追放は1944年秋。
通算200勝まであと1勝と言う大一番での冷たい仕打ちでした。

日本政府は、『敵性人種』を各地に幽閉しました。
スタルヒンさんも長野県軽井沢に移送されます。

幽閉先での生活はほとんど罪人扱いのひどいものでした。
乏しい配給を補うため、スタルヒンさんは材木運びや電化製品の修理をして生活していました。

苦境はスタルヒン夫妻にも亀裂を生じさせます。
長らく苦楽を共にしたロシア人の妻は去っていきました。

この時期、スタルヒンさんは知人にこう語ったと伝えられています。

『僕の野球人生は裏切られっぱなしだ。』。

野球も家庭も失ったスタルヒンさんの無念さがにじみ出る言葉です。

やがて終戦。
スタルヒンさんが待ちに待った球界復帰の日がやってきました。

待ってましたとばかりに誘いをかけてきたのが、かつてスタルヒンさんを追い出した巨人軍でした。

これに対し、スタルヒンさんはにべもなく断ります。
自らを追放した巨人軍の手の平返しは余程スタルヒンさんを怒らせたのでしょう。

戦後のスタルヒンさんは、主にパ・リーグを主戦場に活躍しましたが、残念ながら、既に全盛期の力は残っていませんでした。

体重は20キロ以上増え、身体のキレは失われていました。
売り物の剛速球も影を潜め、球速は130キロそこそこまで落ちていました。

おまけに渡り歩いた所属チームの多くは弱小球団。
せっかくの好投も味方の貧打や失策で星を落とすゲームが少なくありませんでした。

しかし、実はこの時期のスタルヒンさんこそホンモノだったと評価する野球ファンもいます。
ずらり揃った悪条件の中でも勝ち星を挙げ続けたことこそ名投手の証と言う訳です。

では、悪条件にも関わらず、スタルヒンさんは何故勝ち星の積み重ねることができたのか?

秘密は、発想の転換にありました。

恵まれた身体能力任せの剛速球一本槍から変化球主体に組み立てた老練なスタイルへと投球術の切り替えを行なったのです。

実際スタルヒンさんの現役時代後半に捕手を努めた人は、速球主体と思っていたスタルヒンさんがカーブ、シュート、スライダーに加え、アベックボール(チェンジアップ)など多彩な変化球を投げたことに驚いたと証言しています。

加えてスタルヒンさんは当時の選手には珍しく身体のケアに熱心でした。

タオルでこまめに身体を拭いて肩の冷えを防いだり、ワセリンで肌の乾燥を防いだりと入念にコンディション作りをしていました。

この頃まだ駆け出しだった後の大投手 金田正一さんはそんなスタルヒンさんの姿に強い影響を受けたと言います。

根性野球のイメージが強い金田さんですが、早くから身体ケアへの強いこだわりを持っていました。
そのルーツはスタルヒンさんだったのかもしれません。

いずれにせよスタルヒンさんの現役延長へのこだわりが分かるエピソードです。

そのこだわりからは誰からも庇護してもらえない無国籍者故の強い信念が垣間見えるのです。
“生きるためには投げ続けなくてはならない。”と言う信念が。

1955年には通算300勝を記録。
同年、燃え尽きたかの様に現役を引退。

約20年に渡り日本球界を支えた男は、波乱の野球人生に静かに幕を下ろしました。

通算成績303勝(歴代6位)176敗、防御率2.09(歴代5位)。
数々の偉業の中には今なお破られていない記録も多々あります。

そして、引退のわずか2年後、事故で死去。
享年40と言う若さでした。


生きるために投げ続けた男は、まさにグラウンドを去った途端に命の灯を消したのでした。

“亡命者”、“無国籍者”、“殺人犯の息子”、、、

差別や偏見と戦い、幾多の試練を乗り越えた不屈の男、ビクトル・スタルヒン。
その生き様は、偉大な記録と共に今も日本球界史の中に輝き続けています。

閉じる コメント(6)

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スタルヒンさんの名前は知っていたんですが、ここまで詳しくは知りませんでした。
本当にいいお話をありがとうございます。40歳で亡くなられたんですか。もっと長生きしていただきたかったですね

現在外国に日本国籍を持ち続けて永住(未定だけど)している私ですが、今の時代の私のような勝手に自らの意思で移民している人間からは想像もつかない苦労が昔は多々あったことでしょう。スタルヒンさんは幼少期から日本に住まわれて日本国籍取得を試みても『日本人に見えない』って理由で却下された・・・それなら私の住む国には『カナダ人に見えない』カナダ人、たくさんいます。大体英語・フランス語が話せないカナダ人もいますけどね

戦争中の日本政府、軍部は、非常識というかもやは洗脳ですね。
精神論は大切だし日本の文化の1部でもあるかもしれませんが、一歩間違えるとこういった洗脳になってしまう。今もどっかの国では洗脳が行われているようですが、うちの祖母曰く『戦争中の日本だって同じだったわよ』と言ってました

2010/5/21(金) 午後 1:18 [ Mahalkita ] 返信する

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>>続きです。

旭川の皆さんがスタルヒンさん一家に暖かかったと聞いて心が救われました。
そしてお嬢さんのナターシャさんが日本初の日焼けサロンを開業され、御活躍されているようで嬉しく思います。

2010/5/21(金) 午後 1:19 [ Mahalkita ] 返信する

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スタルヒンさんは、一人の人間対国という支配理システムに翻弄されている現代人の苦悩を、典型的な形で経験したのです。
古今東西、誰もが、この社会管理システムから一歩踏み外した時には、彼と同様に、過酷な人生を強いられるのです。
そう考えると、彼は、もしかして、野球以外に望む仕事があったのではないのか、日本以外のどこか別の国へ行きたいと考えたことがないのだろうかとか、もう叶わぬことなのに、思わず彼の心の中を覗きたくなってしまいました。
旭川スタルヒン球場⇒
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%AD%E5%B7%9D%E5%B8%82%E8%8A%B1%E5%92%B2%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%84%E5%85%AC%E5%9C%92%E7%A1%AC%E5%BC%8F%E9%87%8E%E7%90%83%E5%A0%B4

2010/5/26(水) 午後 4:43 [ doroboukamome ] 返信する

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Mahalkitaさん お返事遅れてすみません。今年は本当に忙しくブログの更新もママならぬ状態で難儀しています。とは言えロシア圏のPRはもはや僕のライフワーク(?)ですので、今後も地味に懇親していきます。

さて、Mahalkitaさんのようにカナダと言う国に住まれている人や多くの人種が共生するロシア圏では信じられない時代があったのでしょう。その中でたくましく生きたスタルヒンさんの記憶を是非消さないで欲しいと思います。

また、戦時中の日本には現代日本にはない美徳もあったことは否定しません。ただし、やはり大部分はMahalkitaさんご指摘の通り異常だったと思います。最近過去の戦争を美化する風潮もありますが、やはりそれはあってはならないことだと思います。

スタルヒンさんのような孤高のヒーローを作らないためにも人々が住みやすい国になって欲しいと願ってやみません。

2010/6/8(火) 午前 7:40 mig21 返信する

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Mahalkitaさん 旭川の人々とスタルヒンさんのエピソードは調べれば調べるほど心温まるものがありました。ロシア圏に親族を持つものとして本当に感謝したいと思います。

また、ご令嬢のナターシャさんはMahalkitaさんごしてきの通り今もご健在で健康法などの本も出されているようです。それにしてもロシアの西端で生まれた人の子孫が極東の島国で活躍する、、、歴史の長さと重さを感じます。

2010/6/8(火) 午前 7:44 mig21 返信する

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doroboukamomeさん お返事が遅れてスミマせん。最近は仕事の忙しさに加えキルギス情勢がまたもや不穏でして。。。

さて、スタルヒンさんが他の国に行きたかったのでは?と言う疑問は僕にもありました。特に大リーグ打線を震撼させた投球術を思い起こすと本場アメリカからの誘いがなかったとは思えないんですよね。

ともあれ、ご指摘のように国家というタガに立ち向かった一個人と言う意味でスタルヒンさんの生き様は本当に感慨深いものがあります。

旭川スタルヒン球場、娘さんが確か始球式で投げていましたね。綺麗な球場と聞きます。是非一度行ってみたいです。そして海の果てから来た見知らぬ異邦人に優しく接してくれた旭川という街に感謝を捧げたいですね。

2010/6/13(日) 午前 8:02 mig21 返信する

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