無題
「エリファズの告発」ヨブ記4章、5章 「エリファズの告発」ヨブ記4章5章
Ⅰ ヨブの呪い、空に向かっての呪い
O 3章ではヨブの呪いの言葉を見てまいりました。そのヨブの呪い、それは誰を呪う呪いでありましたか。それはこのようなヨブのすべてを失ってしまった苦しみ、このようなみじめな姿となってしまった痛み、それをサタンに赦した、そうすることをサタンに認めたその主なる神に対する呪い、神に向かう呪いであったのか。妻の、「神を呪って死になさい」、というその言葉を受けての、神への呪いであったのか。あるいはその当事者であるサタン、そのサタンを呪う呪いであったのか。あるいはまた人を呪う、そういう呪いであったのか。そうではない、そうではありませんでした。
O 彼の呪い、それはどこまでも彼自身のいのちに向かっての呪い、自分が生まれたことへの呪いでありました。そしてそれはとめどもなく続いていっておりました。その呪い、その叫びは大きく激しくあったでありましょう。三人の友人、彼らは遠くでヨブの惨状を見って、近づくこともできないでおりました。直接慰めることもできないでおりました。ヨブのあまりにも惨めな、痛々しい姿に、それゆえに、声をのみ、ただ遠くで立ち尽くすかありませんでした。しかしヨブの呪いの声は、その彼らの耳にもはっきり届くところの大きな呪いであったのです。
O しかし、ヨブはその苦しみにあっても、惨めさのただ中にあっても、妻が言うところの「神を呪いなさい」、その言葉を受けても、なお妻に次のように語りかけて、神に対する信仰を守ろうとしていっております。2章10節「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」ヨブはこのようになっても、罪を犯すようなことを口にしなかった」。ここにこそ、神がサタンに誇って言ったところの、「地上でヨブほどの信仰を見たか、世にはヨブほどの信仰者はいない」、と言わしめるところの信仰の姿があったと言えましょう。
O 「神は幸いを私たちに与えてくださっているのだから、災いをも受けなければならない、それは当然である」、そう言ってヨブはなお、神に対する信仰を貫いていこうとしておりました。しかし、彼の神のみ前に貫く信仰は、それをやっていけば行くほど、貫いていこうとすればするほど、彼の心の内はどうなっていったのであるか。信仰をまっとうしようとすればするほど、かえって、ヨブ自身のどうしようもない呪い、恨み、憤り、それは心の奥底にあって、いやますばかりでありました。そしてそれを抑えれば抑えるほど、かえって、逆に大きなうめきとなってヨブの口をついて、一挙にほとばしり出てきたのです。それはヨブの神に対する立派な信仰、それをやっていけば行くほど、その恨み、呪いの思いは強まっていくばかりであったと言うことの現れでありました。
O しかし、見えるところ、その呪いの先にあるのは、さっきも見たように、神ではない、他人ではない、どこまでも自分のいのち、自分が世に生まれたことについてでありました。3章1節から12節まで。「その後、ヨブは口を開いて自分の生まれた日をのろった。ヨブは声を出して言った。私の生まれた日は滅びうせよ。「男の子が胎に宿った」と言ったその夜も。その日はやみになれ。神もその日を顧みるな。光もその上を照らすな。やみと暗黒がこれを取り戻し、雲がこの上にとどまれ。昼を暗くするものもそれをおびやかせ。その夜は、暗やみがこれを奪い取るように。これを年の日のうちで喜ばせるな。月の数のうちにも入れるな。ああ、その夜は、はらむことのないように。その夜には喜びの声も起こらないように。日をのろう者、レビヤタンを呼び起こせる者がこれをのろうように。その夜明けの星は暗くなれ。光を待ち望んでも、それはなく、暁のまぶたのあくのを見ることがないように。それは、私の母の胎の戸が閉じられず、私の目から苦しみが隠されなかったからだ。なぜ、私は、胎から出たとき、死ななかったのか。なぜ、私は、生まれ出たとき、息絶えなかったのか。なぜ、ひざが私を受けたのか。なぜ、私の吸う乳房があったのか」。このように、神への信仰を貫かんとするヨブの心の内から呪い、叫びがあてどなく、空を切って空しく叫ばれていったのであります。
Ⅱ エリファズの説得
O 今日のところは、ヨブの友人、三人のうちの一人、エリファズのヨブへの語りかけ、慰めの語りかけのところであります。彼ら友人三人は、ヨブのその余りの無残な姿に驚き、しばらくは遠くでただ立ち尽くすだけでありました。声をかけることもできない、ましてや慰めることもできない、それゆえにただヨブを遠くから見やる、そういうしばらくのときが続いておりました。そこにあって、ヨブが大声で叫び呪う、その声を聞いて、友人たちも、そのヨブの叫びを聞くに及んで、ようやく語りかける思いが出てまいりました。いや思わず声をかけざるを得ないようになったのです。なぜなら、ヨブの呪い、ヨブの叫びは彼らにとって聞き捨てならぬものがあったからです。それは彼らの信仰、彼らの信仰の基準にあって、受け入れることのできない叫び、呪いであったからです。今日のところはその友人エリファズの語りかけ、であります。
O 1節2節。「1 すると、テマン人エリファズが話しかけて言った。2 もし、だれかがあなたにあえて語りかけたら、あなたはそれに耐えられようか。しかし、だれが黙っておられよう」。ヨブの余りの惨めな姿、その様を見たなら、誰がヨブに語りかけることなどできようか、語りかけることなど到底できるものではない、ただヨブをいよいよみじめの底に追いやるだけだ、嘆きの中に突き落とすだけ。ヨブは今や、それに到底耐えられないであろう、それが友人エリファズの思いでありました。それゆえにしばし遠くからヨブを見続けていたのであります。しかしエリファズはここにきて、あえて声をかけたのです。「 もし、だれかがあなたにあえて語りかけたら、あなたはそれに耐えられようか」こう言ってから、「しかし、だれが黙っておられよう」、かくしてエリファズのヨブへの語りかけが始まったのです。
O 見るところあまりに無残でみじめなヨブ。それを見る限り、もう慰めの言葉、励ましの言葉、それをかけることはできない、まったくできるものではない。ならばどうしてエリファズはヨブに声をかけたのであるか。「しかし、だれが黙っておられよう」、それはヨブのあの叫び、あの呻き、自らのいのちを呪う、自らの生まれを呪う、その激しい叫び、それを聞くに及んで、であります。彼はヨブの姿のすさまじさ、そしてその苦しみの様子にもかかわらず、ヨブのその空に向かっての訴えに、その呪いの言葉を耳にするに及んで、思わずそれに異を唱える思いが込み上げてきた、それゆえに、声を発したのであります。
O 3節以下はヨブに対するエリファズの説得であり、諭であります。エリファズにとって、信仰者エリファズにとって、ヨブの呪いの叫び、それは聞き捨てならぬものであったのです。今までの友人ヨブからは想像できない呻き、呪いをヨブが発したからです。そんな呪い、そんな呻き、それはヨブにあってはあってはならないこと、その強い思いからであります。3節から6節「見よ。あなたは多くの人を訓戒し、弱った手を力づけた。4 あなたのことばはつまずく者を起こし、くずおれるひざをしっかり立たせた。5 だが、今これがあなたにふりかかると、あなたは、これに耐えられない。これがあなたを打つと、あなたはおびえている。6 あなたが神を恐れていることはあなたの確信ではないか。あなたの望みはあなたの潔白な行いではないか」。
O 自分を呪い、自分のいのちを呪うヨブに対し、エリファズは、今までのヨブの歩みを通し、ヨブが今まで、多くの苦しむ人を慰め、悩んでいる者を励ましてきた事実をここで述べていっております。あれほどあなたは多くの悩みを持つ者、苦しみに喘ぐもの、そういう者たちに助けの手を伸べてきたではないか、慰めてきたではないか。それなのに、自分がいざ、そういう事態に置かれたとなると、たちまち自らを嘆き呻き、呪う、それはいったいどういうことか。自分たちが思っているあの信仰者ヨブ、素晴らしいあの信仰の姿、それをエリファズは引き合いに出しながら、あなたのあの信仰はいったいどこへ行ってしまったのか、こう迫っていくのです。
Ⅲ だれか罪がないのに滅びた者があるか
O なぜ人を慰めながら、一度(ひとたび)自分に、はなはだしい困難がおこるとなると、惨めな境遇に落とされるとなると、自らを励まし、慰めるのではない、ただ呻くだけ、ただ叫ぶだけとなる、それはどうしてなのか、それはおかしいのではないか。あなたの信仰、あなたの神礼拝はいったいどこへいってしまったのか。いったいどうしてあなたはそうなってしまっているのか。どこにその原因があるというのか。こうエリファズは迫ってまいります。そして、それは何かがあなたの内側にあるからなのではないのか、その何かが、あなたをそのような有様にしていっているのではないか。それは何か、それこそは、あなたの罪ではないか、それがすべての原因ではないのか。そうでなければ、あなたがこうなることはないはずだ。
O あなたがこういう様になっている、それは、あなたが何か罪を犯しているからではないのか。自分では分かっていないかも知れないが、あなたの奥に潜む罪、それがあなたをこのように狂わせてしまっているのだ。エリファズはここに至って、ヨブの立派な信仰の裏に何か罪があるとして、それを指摘していこうといたします。そしてその罪を認め、それを神の前にはっきり告白していくように、勧めていこうとするのです。罪を犯している、というのでなければ、このような惨めな姿はありえないこと、こういう事態にあることは、ないはずだ。だから今、神のみ前にその罪を告白していきなさい、いや告白していくべきだ、そう迫って行くのです。
O それが7節から11節です。「7 さあ思い出せ。だれか罪がないのに滅びた者があるか。どこに正しい人で絶たれた者があるか。8 私の見るところでは、不幸を耕し、害毒を蒔く者が、それを刈り取るのだ。9 彼らは神のいぶきによって滅び、その怒りの息によって消えうせる。10 獅子のほえる声、たける獅子の声は共にやみ、若い獅子のきばも砕かれる。11 雄獅子は獲物がなくて滅び、雌獅子の子らは散らされる」。ここでエリファズは、罪人が蒙るところの刑罰を次々に挙げていっております。これこそ今のヨブに当たることではないか、ならば、今、どんな罪を犯しているか、それを知れ、それを自ら探れ、そして神のみ前にそのことを告白していけ、これはそのような勧めであります。
O 12節から16節。ここではそれを裏付けるような幻を見たことをエリファズは告げております。「12 一つのことばが私に忍び寄り、そのささやきが私の耳を捕らえた。夜の幻で思い乱れ、深い眠りが人々を襲うとき、14 恐れとおののきが私にふりかかり、私の骨々は、わなないた。15 そのとき、一つの霊が私の顔の上を通り過ぎ、私の身の毛がよだった。16 それは立ち止まったが、私はその顔だちを見分けることができなかった。しかし、その姿は、私の目の前にあった。静寂…、そして私は一つの声を聞いた」。ここに何か霊的迫りを感じたことを強調し、それをもって自らの告発の正しいことを裏付けていっております。
Ⅳ 人は神の前に正しくありえようか O 17節以下21節まで。「17 人は神の前に正しくありえようか。人はその造り主の前にきよくありえようか。18 見よ。神はご自分のしもべさえ信頼せず、その御使いたちにさえ誤りを認められる。19 まして、ちりの中に土台を据える泥の家に住む者はなおさらのことである。彼らはしみのようにたやすく押しつぶされ、20 彼らは朝から夕方までに打ち砕かれ、永遠に滅ぼされて、だれも顧みない。21 彼らの幕屋の綱も彼らのうちから取り去られないであろうか。彼らは知恵がないために死ぬ」。ここにエリファズの神観、信仰観が述べられて行っております。「人は神の前に正しくありえようか。人はその造り主の前にきよくありえようか。見よ。神はご自分のしもべさえ信頼せず、その御使いたちにさえ誤りを認められる」。まさに彼の神観がヨブに対して語られている。それをもって罪を露わにし、その神に向って告白し悔い改めるよう、説得をしていこうといたします。
O そして、5章1節から6節まで。「1 さあ、呼んでみよ。だれかあなたに答える者があるか。聖者のうちのだれにあなたは向かって行こうとするのか。2 憤りは愚か者を殺し、ねたみはあさはかな者を死なせる。3 私は愚か者が根を張るのを見た。しかし、その住みかは、たちまち腐った。4 その子たちは危険にさらされ、門で押しつぶされても、彼らを救い出す者もいない。5 彼の刈り入れる物は飢えた人が食べ、いばらの中からさえこれを奪う。渇いた者が彼らの富をあえぎ求める。6 なぜなら、不幸はちりから出て来ず、苦しみは土から芽を出さないからだ」。
O エリファズのヨブのあの呪いの叫びに対するとりなしが続きます。けれども、それはもはや取りなしではない、ヨブに対する慰めではない、今やそれは責めたてとなり、告発となっていっております。「2 憤りは愚か者を殺し、ねたみはあさはかな者を死なせる。3 私は愚か者が根を張るのを見た。しかし、その住みかは、たちまち腐った。4 その子たちは危険にさらされ、門で押しつぶされても、彼らを救い出す者もいない」。「 憤りは愚か者を殺し、ねたみはあさはかな者を死なせる」。ヨブ、あなたの罪から来るところのその呪い、その憤りこそが、この惨めな事態を招いたのではないか、財産を失い、子どもたちが取り去られる、そして今やその身体は腫れ爛れて、無残な姿になっている、それはあなたの罪、あなたの隠されている汚れ、それが原因ではないのか。そうであるなら、「その住みかは、たちまち腐り、その子たちは危険にさらさ、門で押しつぶされ、彼らを救い出す者もいない」、そうなるのは、当然の結果ではないのか。そうエリファズはいよいよ責めたててまいります。慰めが今や、責めたての言葉となっていっております。
Ⅴ 神は悪賢い者のたくらみを打ちこわす
O 7節以下11節まで。「7 人は生まれると苦しみに会う。火花が上に飛ぶように。8 私なら、神に尋ね、私のことを神に訴えよう。9 神は大いなる事をなして測り知れず、その奇しいみわざは数えきれない。10 神は地の上に雨を降らし、野の面に水を送る。11 神は低い者を高く上げ、悲しむ者を引き上げて救う」。ここでさらに、エリファズは自ら神とはどういうお方か、私たちをどうお扱いになるのか、それを語り続けてまいります。私なら苦しみにあったなら、すぐに神に向かうであろう、自分のこの事態を神に訴えていくであろう、そこにあって、神は奇しき御業を必ず与えて下さる、そう言ってまいります。
「神は地の上に雨を降らし、野の面に水を送る。 神は低い者を高く上げ、悲しむ者を引き上げて救う」。だから今、自分の罪を認め、神のみ前にそれを告白していくべきだ、ならば神は必ず貴方をその悲しみから引き上げて下さるはずだ。 O そして12節から15節。「12 神は悪賢い者のたくらみを打ちこわす。それで彼らの手は、何の効果ももたらさない。13 神は知恵のある者を彼ら自身の悪知恵を使って捕らえる。彼らのずるいはかりごとはくつがえされる。14 彼らは昼間にやみに会い、真昼に、夜のように手さぐりする。15 神は貧しい者を剣から、彼らの口から、強い者の手から救われる。16 こうして寄るべのない者は望みを持ち、不正はその口をつぐむ」。12節では「神は悪賢い者のたくらみを打ちこわす。それで彼らの手は、何の効果ももたらさない」、と言っております。今やここに至って、エリファズはヨブを悪賢い者、と言い始めております。そして、あなたの悪知恵、ずるいはかりごと、はくつがえされる」、こう決めつけていこうとしております。
O 17節から21節。「17 ああ、幸いなことよ。神に責められるその人は。だから全能者の懲らしめをないがしろにしてはならない。18 神は傷つけるが、それを包み、打ち砕くが、その手でいやしてくださるからだ。19 神は六つの苦しみから、あなたを救い出し、七つ目のわざわいはあなたに触れない。20 ききんのときには死からあなたを救い、戦いのときにも剣の力からあなたを救う。21 舌でむち打たれるときも、あなたは隠され、破壊の来るときにも、あなたはそれを恐れない」。
O ここに神はこういうお方である、このようにあわれみに富むお方である、という言葉が次々に述べられてまいります。「神は六つの苦しみから、あなたを救い出し、七つ目のわざわいはあなたに触れない。ききんのときには死からあなたを救い、戦いのときにも剣の力からあなたを救う」。だから神のみ前に自分を立たせなさい、あなたが今神によって苦しめられている、それをないがしろにしないで、神がそう懲らしめているそのあなたの罪を、露わにしていきなさい、そうであるなら、神は決してあなたを損なわない、「あなたは隠され、破壊の来るときにも、あなたはそれを恐れない」
Ⅵ あなたは長寿を全うして墓に入ろう
O そして22節から25節。「22 あなたは破壊とききんとをあざ笑い、地の獣をも恐れない。23 野の石とあなたは契りを結び、野の獣はあなたと和らぐからだ。24 あなたは自分の天幕が安全であるのを知り、あなたの牧場を見回っても何も失っていない。25 あなたは自分の子孫が多くなり、あなたのすえが地の草のようになるのを知ろう」。
O あなたが神のみ前に立つなら、そして自分の罪をはっきり告白するなら、神はあなたをどう扱って下さるか、そのことをエリファズはいろいろ語り聞かせていこうといたします。あなたが罪を認めるなら、罪を告白するなら、あなたは破壊や飢饉には合わない、地の獣も恐れない、あなたの天幕は安全であり、牧場でも何も失うことはない、あなたの子孫は多く残り、その末は豊かな地の草のようになるだろう、そのように、神はきっと豊かにあなたをあしらい、恵みをもって扱ってくれるはずだ。こう言いながら、今の状態はあなたが罪を犯していることから来ること。だから、罪をはっきり告白するべきだ、とさらに責めたててまいります。
O そして26節以下。「26 あなたは長寿を全うして墓に入ろう。あたかも麦束がその時期に収められるように。27 さあ、私たちが調べ上げたことはこのとおりだ。これを聞き、あなた自身でこれを知れ」。エリファズは自分の神観、信仰観、それをこのように述べ、あなた自身こういう神のみ前に立って、直接神を知れ、そうやって、神の恵みとあわれみを受けとるべきだ、そう言って言葉を終えております。
Ⅶ 真の慰め
O このようなエリファズの姿を通して、私たちのとりなしはどうあるべきか、それを改めて、考えなければなりません。真のとりなし、真の慰め、真の励まし、それはどういうものであるかを、であります。とくにこれはともに神を信じる、信仰者との関係において、同じ神を信じる兄弟姉妹において、大切なことだからであります。私たちは相手の苦しみ、悲しみ、痛み、それを目の当たりにしますと、どうですか。確かに相手に同情いたします。そして慰め、労りをもって接していく、それは確かであります。
O しかしそれとともに、その痛み、悲しみはどこから来るのか、その原因や理由、それを探り、そこからどう抜け出すべきか、何を反省すべきであるか、そういうことを考え、それを指摘していこうとするのではありませんか。そうやって、性格のせいにしたり、親や、夫のせい、あるいは境遇のせい、生い立ちのせいにしたりして、ああでもない、こうでもない、そうやって互いに向き合って、あれこれ考えていこうとする。あれこれ互にあげつらっていこうとする、この世の人間関係にあってはこれは当たり前のことであると言えましょう。
O しかし兄弟姉妹の関係にあってはどうか。信仰にあっての関係ではどうか。Ⅰコリント12章を見てみましょう。12節から読んでみます。「12 ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。13 なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。14 確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。15 たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。16 たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。17 もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。18 しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。19 もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。20 しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。21 そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うこともできません。22 それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。23 また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、24 かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。26 もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。
O ここに教会における兄弟姉妹の関係、信仰者同士の互いの関係がここに述べられております。それこそは霊を一つにする、御霊をひとつにする者同士の互いの関係であります。そこにあっては、その悩み苦しむ者に対する慰め、それは、ただ、相手のその事実の前に、そのまま身を置き、その叫びを、我が叫びとし、その痛みを我が痛みとし、その悲しみを我が悲しみ、その呪いを我が呪いとして、互いが向き合うのではない、互いが罪を指摘しあうのではない、相手の苦しみを我が苦しみ、我が痛み、その罪を我が罪として、共に主に向かうのです。共に主に取りすがるのです。そうやって主をすべてとしていく。このことを忘れてはなりません。
O ですから26節でパウロは、「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです」とあるのです。そうやっていっさいを神に委ね、神に明け渡していく。そこに互いのとりなし合いがなされていくのです。その関係にあっては、自分自身がヨブのように、「足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で打たれ、土器のかけらを取って自分の身をかき、また灰の中にすわる」。それこそは、ヨブばかりではない、この私なのだ、私の実態なのだ、それがいよいよ分からされてまいります。そこにあって自ずから、真のとりなし合い、真の慰め合いというものが与えられていくのです。
O エリファズがしきりに取りなす、そのとりなしは、結局は、頭の中での神観、知識としての信仰観、それに基ずくものであって、痛みを共にし、悩みをともにするところから来るものではない、それは今苦悩のただ中にあるものにとって、何の励ましにも、慰めにもならない、ただその苦悩を直接わからないまでも、その実態を我がこととして、共に主に向かう、いや共に主を呪う、そこにあってこそ、今のヨブにあっては真の慰めになっていくはずであります。
O しかし、エリファズの「べきだ論」、こうあるべき、こうするべき、その勧めは、いよいよヨブのように、苦しみのただ中にあるものの、その苦悩を、その痛みをいよいよ深めていくばかり。ならば慰める言葉もありません、どうしたらいいのでしょうか、それをその場で神に訴えていく、そうやってヨブの痛みを我が痛みとしていく、そこにこそ、真主にある兄弟としての在り方があると言えるのではありませんか。しかしこのエリファズの慰め、それはそこに全く至ってはおりません。ならばヨブはそれにどう応えていくのか、それが次回であります。
O ここでの、エリファズとヨブ、彼らの向かうところの神、それはどこまでも旧約の神であります。旧約の主です。すなわち人間の側が神の律法、神の与えなされしモーセの律法、それをしっかり守り、しっかり行う、そこにあってはじめて相見えるところの神であり、主であります。その点において、エリファズも、ヨブも、まったく変わることはないのです。いやこれこそが、生まれながらの人間すべてが持つところの神という存在なのです。神はさばく神である、だから、私たちはいよいよきよくなり、立派になって、神のみ前に出ていかなければならない。そうやって立派な信仰を貫くのでなければならない。
O しかしこれこそは、アダム以来、罪に陥って真の神を見失ってしまっているところで、人間の側が造り上げているところの神なのです。そして、その神に向かうところの信仰なのです。その点において、ヨブも、エリファズも全く変わりはないのです。しかしヨブはその神に躓いたのです。その信仰に行き詰ってしまったのです。それも見えるところ、ヨブから直接来るところの躓きではない、神ご自身がサタンを通して、神がなされたこれは出来事でありました。
Ⅷ 信仰に躓いた者
O ならば、ヨブは、そこにあって、その挫折を、その躓きを神に直接向けたのであるか。神に向かって直接憤り、呪ったのであるか。そうではありませんでした。ヨブはそこにあって、なお神を謗り、神を呪うということをしなかった、そこにあってなお、信仰を保ち、神に向かって、叫び憤ることはしなかった。彼はどこまでもその信仰をなお貫き通そうとしたのです。しかし、それは結局は、躓くしかなかったのです。いやそれはそもそも、主が、神がサタンを通して躓かせたものでありました。
O しかし、その躓きを通し、そこから来る自らが負うところの苦しみ、その惨めな境遇、惨憺たる姿、それに対するどうしようもない怒り、憤懣、それが留め度もなく湧き上がってくる。抑えようとすればするほど、強く強くほとばしり出てくる。ならばそれをどこに向けていったのであるか。信仰者ヨブにとってのその向う先、それは自分自身であったのです。自らの存在に怒りのすべてを向けていったのです。自らの信仰を貫こうとする限り、そこにあって、結局は自らの存在を呪い、それを損なう、そのようなかたちにおいて、その呪いを吐き出していくしかなかったのです。
O しかしエリファズはどうであったのか。彼は躓いてはおりません。彼は自らの信仰観、自らの神観をもって、ヨブに向かっております。確かにヨブに同情しております。しかもヨブのその自らの向かう呪い、それを聞くに及んで、それが神に向かわずして、自らに向かっている、しかしその心は神を呪う呪いであることを察知しております。それゆえに、その事態が、ヨブの事態そのものが、神に対してヨブが罪を犯したがゆえ、それゆえにこのようなみじめな事態に陥っている、そのように受け取っていったのです。
O 神に向かって正しい信仰者であろうとする、これにおいてはヨブも、エリファズも変わるところはないのです。しかし、ヨブは、自分は神に喜ばれていない、それを知ったのです。そう思ったのです。あの旧約最初の殺人、それはあのカインの弟、アベル殺しでありました。それはどこから生じていたのか。カインも、アベルも、自らの働きの実を神のみ前に持ってまいりました。しかし神は、カインの持ってきた彼の働きの実である穀物、それを喜ばれなかった、そしてアベルの持ってきた羊を喜ばれた。そこにあってカインはどうであったのか。カインは神に躓いたのです、神に憤ったのです。そして心の中で、神を呪ったのです。その結果があの弟殺しとなったのです。神に躓く、ヨブもそれは同じでありました。ヨブも神に躓いたのです。ヨブはそれゆえに怒りにかられたのです。
Ⅸ パリサイ人の信仰
O しかし、なお、神に直接向かうことはありませんでした。しかしそれはカインもそうでありました。カインも神に直接向かうことはなかった。ならばカインはどこに向かったのか。カインは弟に向かったのです。弟アベルに怒りをぶつけたのです。ならばヨブは何に向かったのか。ヨブは自らに向かったのです。自らを損ねること、自らを呪うこと、自らのいのちを誹っていったのです。それをもって神への呪いとしたのです。人間、神に、真の神に躓くしかない私たち人間は人を殺すか、自分を死に至らしめるか、このどちらかしかないのです。その典型的存在があのユダでありました。ユダは、結局はキリストを殺し、そして自らをも殺したのです。ここに罪に陥っている私たちの究極の姿があるのです。
O そこにあって、ヨブは自らを殺そうとしたのです。しかし神はヨブのいのちを保とうとしておりますから、死ぬこともできない、命を断つこともできない、そこにヨブのとことんの絶望があったのです。まさしく、出口のない憤り、それゆえ、自分を呪う形でしかその呪いを吐き出すしかない、ここにヨブがおりました。なお神にありのまま、思いのままぶつかることをしないヨブがおりました。まさにこれこそ、旧約の信仰をまっとうしようとして、全うできない姿と言えるでしょう。ヨブの絶望はそれだけ深刻であったのです。
O ここで詩篇38篇を読んでみたいと思います。ここはダビデが思いのたけを主に訴えている、訴え尽くしている姿があります。「1【主】よ。あなたの大きな怒りで私を責めないでください。あなたの激しい憤りで私を懲らしめないでください。2 あなたの矢が私の中に突き刺さり、あなたの手が私の上に激しく下って来ました。3 あなたの憤りのため、私の肉には完全なところがなく、私の罪のため私の骨には健全なところがありません。4 私の咎が、私の頭を越え、重荷のように、私には重すぎるからです。5 私の傷は、悪臭を放ち、ただれました。それは私の愚かしさのためです。6 私はかがみ、深くうなだれ、一日中、嘆いて歩いています。7 私の腰はやけどでおおい尽くされ、私の肉には完全なところがありません。8 私はしびれ、砕き尽くされ、心の乱れのためにうめいています。9 主よ。私の願いはすべてあなたの御前にあり、私の嘆きはあなたから隠されていません。10 私の心はわななきにわななき、私の力は私を見捨て、目の光さえも、私にはなくなりました。11 私の愛する者や私の友も、私のえやみを避けて立ち、私の近親の者も遠く離れて立っています。12 私のいのちを求める者はわなを仕掛け、私を痛めつけようとする者は私の破滅を告げ、一日中、欺きを語っています。13 しかし私には聞こえません。私は耳の聞こえない者のよう。口を開かず、話せない者のよう。14 まことに私は、耳が聞こえず、口で言い争わない人のようです。15 それは、【主】よ、私があなたを待ち望んでいるからです。わが神、主よ。あなたが答えてくださいますように。16 私は申しました。「私の足がよろけるとき、彼らが私のことで喜ばず、私に対して高ぶらないようにしてください。」17 私はつまずき倒れそうであり、私の痛みはいつも私の前にあります。18 私は自分の咎を言い表し、私の罪で私は不安になっています。19 しかし私の敵は、活気に満ちて、強く、私を憎む偽り者が多くいます。02また、善にかえて悪を報いる者どもは、私が善を追い求めるからといって、私をなじっています。21 私を見捨てないでください。【主】よ。わが神よ。私から遠く離れないでください。22 急いで私を助けてください。主よ、私の救いよ」。
O どうですか、ここに何と神と一体とされている、ダビデの姿があると言えるではありませんか。存在をすべて明け渡していっている、自分のはなはだしい罪を認め、それをそれを神のみ前にそのまま、述べ尽くしている、それがまた何とすがすがしい、解放された思いを与えることでありましょう。3節から9節「 あなたの憤りのため、私の肉には完全なところがなく、私の罪のため私の骨には健全なところがありません。4 私の咎が、私の頭を越え、重荷のように、私には重すぎるからです。5 私の傷は、悪臭を放ち、ただれました。それは私の愚かしさのためです。6 私はかがみ、深くうなだれ、一日中、嘆いて歩いています。7 私の腰はやけどでおおい尽くされ、私の肉には完全なところがありません。8 私はしびれ、砕き尽くされ、心の乱れのためにうめいています。9 主よ。私の願いはすべてあなたの御前にあり、私の嘆きはあなたから隠されていません」。
Ⅹ 丸ごとの罪を認めるまで
O ここに自分の罪をそのまま主のみ前に認めて、あわれみを乞うている姿、がある。これこそあのルカ18章の取税人の姿があると言えましょう。しかし、ヨブはどうですか、彼はなお自分の内側に信仰ありとしている、信仰を保とうとしている。破れきっていない、破れているのに関わらず、人の前には破れていても、神のみ前に敗れていない、しかしそれこそが神との間の大いなる隔たりとなっていたのであります。
O あのヨブの惨めな姿。すなわち、「足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で腫れ爛れている」、これは他の誰から来ることではない、これは一重にヨブ自身の真の姿、これこそヨブの実態、真の姿、それをほんとうに認めるまで、このヨブ自身の苦しみ絶望は続くのです。それをダビデのようにはっきり主のみ前に認めるまで、認め切るまで続くのであります。まさにダビデはその意味では、新約を先取りする存在でありました。しかしヨブはなお旧約にあって、その信仰をまっとうしようとする存在であったということであります。
O それではエリファズはどうであったのか。躓くことのない信仰、それゆえに、自らの信仰を、自らの神観を自信をもって述べております。述べ尽くしております。そしてその信仰を誇っていこうとしております。その自らの信仰にあって、ヨブを慰め、ヨブを励まし、全うな信仰へと導こうとしていたのです。しかし躓きを知らない信仰者、自らの信仰をそれゆえに誇っていく信仰者、その姿はどういう姿であるか。それこそはまさに、あのルカ18章のあのパリサイ人の信仰の姿と言えるのです。
O 彼は自らの信仰を誇っておりました。自分自身の信仰に自信がありました。まさにここに、躓きを知らない、自分の実態を知らない信仰者の姿があるのです。絶望を知らない信仰者です。それゆえに神のみ前に自らの信仰を誇っていっていた。その結果はどうなっていくのか。パリサイ人、彼はどうしたのか。傍らの取税人をそしっておりますね、侮ってさばいております。ここにエリファズと、ヨブの関係があるのです。エリファズのその慰め、そのとりなし、それは結局は、ヨブをさばく、その方向へと行くのです。行くしかないのです。
O 自らの信仰の挫折を通して、自らの無力、無能、それを知ることこそ幸いであります。しかしそれをほんとうに知る、それは新約を待たなければなりません。新約のイエスの救い、聖霊の降臨、それをもって、自らの存在のどうしようもない実態、それをはっきり知るまでは、なおヨブの苦闘は続くのです。自らの力によって信仰を貫き通そうとする、しかし貫きえない、ここにこそロマ書7章のパウロの姿であると言えるではないですか。そしてそれこそは私たちのことでもあるのです。自らのまったき罪の存在、頭の先から足のつま先まで罪によって膿ただれている、それをほんとうに知らされ、我がこととするまではほんとうの神との出会い、それはないということを知るのです。ヨブは私たちなのです。
O これから、ヨブの三人の友人と、ヨブとの互いのやり取り、その根本には、その関係があるのです。その関係の下に、互いの告発し合いが続いていくのです。次のところは、エリファズの告発に対するヨブの反論です。
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