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			<title>聖書講解</title>
			<description>日曜集会毎の、メッセージ。</description>
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			<title>聖書講解</title>
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			<title>「エリファズの告発」ヨブ記４章、５章</title>
			<description>&lt;div&gt;&amp;nbsp;　　　　　&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; 　　「エリファズの告発」ヨブ記４章５章&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;#8544;　ヨブの呪い、空に向かっての呪い&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp; Ｏ　３章ではヨブの呪いの言葉を見てまいりました。そのヨブの呪い、それは誰を呪う呪いでありましたか。それはこのようなヨブのすべてを失ってしまった苦しみ、このようなみじめな姿となってしまった痛み、それをサタンに赦した、そうすることをサタンに認めたその主なる神に対する呪い、神に向かう呪いであったのか。妻の、「神を呪って死になさい」、というその言葉を受けての、神への呪いであったのか。あるいはその当事者であるサタン、そのサタンを呪う呪いであったのか。あるいはまた人を呪う、そういう呪いであったのか。そうではない、そうではありませんでした。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;Ｏ　彼の呪い、それはどこまでも彼自身のいのちに向かっての呪い、自分が生まれたことへの呪いでありました。そしてそれはとめどもなく続いていっておりました。その呪い、その叫びは大きく激しくあったでありましょう。三人の友人、彼らは遠くでヨブの惨状を見って、近づくこともできないでおりました。直接慰めることもできないでおりました。ヨブのあまりにも惨めな、痛々しい姿に、それゆえに、声をのみ、ただ遠くで立ち尽くすかありませんでした。しかしヨブの呪いの声は、その彼らの耳にもはっきり届くところの大きな呪いであったのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp; Ｏ　しかし、ヨブはその苦しみにあっても、惨めさのただ中にあっても、妻が言うところの「神を呪いなさい」、その言葉を受けても、なお妻に次のように語りかけて、神に対する信仰を守ろうとしていっております。２章１０節「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」ヨブはこのようになっても、罪を犯すようなことを口にしなかった」。ここにこそ、神がサタンに誇って言ったところの、「地上でヨブほどの信仰を見たか、世にはヨブほどの信仰者はいない」、と言わしめるところの信仰の姿があったと言えましょう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp; Ｏ　「神は幸いを私たちに与えてくださっているのだから、災いをも受けなければならない、それは当然である」、そう言ってヨブはなお、神に対する信仰を貫いていこうとしておりました。しかし、彼の神のみ前に貫く信仰は、それをやっていけば行くほど、貫いていこうとすればするほど、彼の心の内はどうなっていったのであるか。信仰をまっとうしようとすればするほど、かえって、ヨブ自身のどうしようもない呪い、恨み、憤り、それは心の奥底にあって、いやますばかりでありました。そしてそれを抑えれば抑えるほど、かえって、逆に大きなうめきとなってヨブの口をついて、一挙にほとばしり出てきたのです。それはヨブの神に対する立派な信仰、それをやっていけば行くほど、その恨み、呪いの思いは強まっていくばかりであったと言うことの現れでありました。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp; Ｏ　しかし、見えるところ、その呪いの先にあるのは、さっきも見たように、神ではない、他人ではない、どこまでも自分のいのち、自分が世に生まれたことについてでありました。３章１節から１２節まで。「その後、ヨブは口を開いて自分の生まれた日をのろった。ヨブは声を出して言った。私の生まれた日は滅びうせよ。「男の子が胎に宿った」と言ったその夜も。その日はやみになれ。神もその日を顧みるな。光もその上を照らすな。やみと暗黒がこれを取り戻し、雲がこの上にとどまれ。昼を暗くするものもそれをおびやかせ。その夜は、暗やみがこれを奪い取るように。これを年の日のうちで喜ばせるな。月の数のうちにも入れるな。ああ、その夜は、はらむことのないように。その夜には喜びの声も起こらないように。日をのろう者、レビヤタンを呼び起こせる者がこれをのろうように。その夜明けの星は暗くなれ。光を待ち望んでも、それはなく、暁のまぶたのあくのを見ることがないように。それは、私の母の胎の戸が閉じられず、私の目から苦しみが隠されなかったからだ。なぜ、私は、胎から出たとき、死ななかったのか。なぜ、私は、生まれ出たとき、息絶えなかったのか。なぜ、ひざが私を受けたのか。なぜ、私の吸う乳房があったのか」。このように、神への信仰を貫かんとするヨブの心の内から呪い、叫びがあてどなく、空を切って空しく叫ばれていったのであります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;#8545;&amp;nbsp; エリファズの説得&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp; Ｏ　今日のところは、ヨブの友人、三人のうちの一人、エリファズのヨブへの語りかけ、慰めの語りかけのところであります。彼ら友人三人は、ヨブのその余りの無残な姿に驚き、しばらくは遠くでただ立ち尽くすだけでありました。声をかけることもできない、ましてや慰めることもできない、それゆえにただヨブを遠くから見やる、そういうしばらくのときが続いておりました。そこにあって、ヨブが大声で叫び呪う、その声を聞いて、友人たちも、そのヨブの叫びを聞くに及んで、ようやく語りかける思いが出てまいりました。いや思わず声をかけざるを得ないようになったのです。なぜなら、ヨブの呪い、ヨブの叫びは彼らにとって聞き捨てならぬものがあったからです。それは彼らの信仰、彼らの信仰の基準にあって、受け入れることのできない叫び、呪いであったからです。今日のところはその友人エリファズの語りかけ、であります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp; Ｏ　１節２節。「1 すると、テマン人エリファズが話しかけて言った。2 もし、だれかがあなたにあえて語りかけたら、あなたはそれに耐えられようか。しかし、だれが黙っておられよう」。ヨブの余りの惨めな姿、その様を見たなら、誰がヨブに語りかけることなどできようか、語りかけることなど到底できるものではない、ただヨブをいよいよみじめの底に追いやるだけだ、嘆きの中に突き落とすだけ。ヨブは今や、それに到底耐えられないであろう、それが友人エリファズの思いでありました。それゆえにしばし遠くからヨブを見続けていたのであります。しかしエリファズはここにきて、あえて声をかけたのです。「 もし、だれかがあなたにあえて語りかけたら、あなたはそれに耐えられようか」こう言ってから、「しかし、だれが黙っておられよう」、かくしてエリファズのヨブへの語りかけが始まったのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp; Ｏ　見るところあまりに無残でみじめなヨブ。それを見る限り、もう慰めの言葉、励ましの言葉、それをかけることはできない、まったくできるものではない。ならばどうしてエリファズはヨブに声をかけたのであるか。「しかし、だれが黙っておられよう」、それはヨブのあの叫び、あの呻き、自らのいのちを呪う、自らの生まれを呪う、その激しい叫び、それを聞くに及んで、であります。彼はヨブの姿のすさまじさ、そしてその苦しみの様子にもかかわらず、ヨブのその空に向かっての訴えに、その呪いの言葉を耳にするに及んで、思わずそれに異を唱える思いが込み上げてきた、それゆえに、声を発したのであります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp; Ｏ　３節以下はヨブに対するエリファズの説得であり、諭であります。エリファズにとって、信仰者エリファズにとって、ヨブの呪いの叫び、それは聞き捨てならぬものであったのです。今までの友人ヨブからは想像できない呻き、呪いをヨブが発したからです。そんな呪い、そんな呻き、それはヨブにあってはあってはならないこと、その強い思いからであります。３節から６節「見よ。あなたは多くの人を訓戒し、弱った手を力づけた。4 あなたのことばはつまずく者を起こし、くずおれるひざをしっかり立たせた。5 だが、今これがあなたにふりかかると、あなたは、これに耐えられない。これがあなたを打つと、あなたはおびえている。6 あなたが神を恐れていることはあなたの確信ではないか。あなたの望みはあなたの潔白な行いではないか」。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp; Ｏ　自分を呪い、自分のいのちを呪うヨブに対し、エリファズは、今までのヨブの歩みを通し、ヨブが今まで、多くの苦しむ人を慰め、悩んでいる者を励ましてきた事実をここで述べていっております。あれほどあなたは多くの悩みを持つ者、苦しみに喘ぐもの、そういう者たちに助けの手を伸べてきたではないか、慰めてきたではないか。それなのに、自分がいざ、そういう事態に置かれたとなると、たちまち自らを嘆き呻き、呪う、それはいったいどういうことか。自分たちが思っているあの信仰者ヨブ、素晴らしいあの信仰の姿、それをエリファズは引き合いに出しながら、あなたのあの信仰はいったいどこへ行ってしまったのか、こう迫っていくのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;#8546;&amp;nbsp; だれか罪がないのに滅びた者があるか&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp; Ｏ　なぜ人を慰めながら、一度(ひとたび)自分に、はなはだしい困難がおこるとなると、惨めな境遇に落とされるとなると、自らを励まし、慰めるのではない、ただ呻くだけ、ただ叫ぶだけとなる、それはどうしてなのか、それはおかしいのではないか。あなたの信仰、あなたの神礼拝はいったいどこへいってしまったのか。いったいどうしてあなたはそうなってしまっているのか。どこにその原因があるというのか。こうエリファズは迫ってまいります。そして、それは何かがあなたの内側にあるからなのではないのか、その何かが、あなたをそのような有様にしていっているのではないか。それは何か、それこそは、あなたの罪ではないか、それがすべての原因ではないのか。そうでなければ、あなたがこうなることはないはずだ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp; Ｏ　あなたがこういう様になっている、それは、あなたが何か罪を犯しているからではないのか。自分では分かっていないかも知れないが、あなたの奥に潜む罪、それがあなたをこのように狂わせてしまっているのだ。エリファズはここに至って、ヨブの立派な信仰の裏に何か罪があるとして、それを指摘していこうといたします。そしてその罪を認め、それを神の前にはっきり告白していくように、勧めていこうとするのです。罪を犯している、というのでなければ、このような惨めな姿はありえないこと、こういう事態にあることは、ないはずだ。だから今、神のみ前にその罪を告白していきなさい、いや告白していくべきだ、そう迫って行くのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp; Ｏ　それが７節から１１節です。「7 さあ思い出せ。だれか罪がないのに滅びた者があるか。どこに正しい人で絶たれた者があるか。8 私の見るところでは、不幸を耕し、害毒を蒔く者が、それを刈り取るのだ。9 彼らは神のいぶきによって滅び、その怒りの息によって消えうせる。10 獅子のほえる声、たける獅子の声は共にやみ、若い獅子のきばも砕かれる。11 雄獅子は獲物がなくて滅び、雌獅子の子らは散らされる」。ここでエリファズは、罪人が蒙るところの刑罰を次々に挙げていっております。これこそ今のヨブに当たることではないか、ならば、今、どんな罪を犯しているか、それを知れ、それを自ら探れ、そして神のみ前にそのことを告白していけ、これはそのような勧めであります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp; Ｏ　１２節から１６節。ここではそれを裏付けるような幻を見たことをエリファズは告げております。「12 一つのことばが私に忍び寄り、そのささやきが私の耳を捕らえた。夜の幻で思い乱れ、深い眠りが人々を襲うとき、14 恐れとおののきが私にふりかかり、私の骨々は、わなないた。15 そのとき、一つの霊が私の顔の上を通り過ぎ、私の身の毛がよだった。16 それは立ち止まったが、私はその顔だちを見分けることができなかった。しかし、その姿は、私の目の前にあった。静寂…、そして私は一つの声を聞いた」。ここに何か霊的迫りを感じたことを強調し、それをもって自らの告発の正しいことを裏付けていっております。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;&lt;br&gt;
&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;#8547; 人は神の前に正しくありえようか&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp; Ｏ　１７節以下２１節まで。「17 人は神の前に正しくありえようか。人はその造り主の前にきよくありえようか。18 見よ。神はご自分のしもべさえ信頼せず、その御使いたちにさえ誤りを認められる。19 まして、ちりの中に土台を据える泥の家に住む者はなおさらのことである。彼らはしみのようにたやすく押しつぶされ、20 彼らは朝から夕方までに打ち砕かれ、永遠に滅ぼされて、だれも顧みない。21 彼らの幕屋の綱も彼らのうちから取り去られないであろうか。彼らは知恵がないために死ぬ」。ここにエリファズの神観、信仰観が述べられて行っております。「人は神の前に正しくありえようか。人はその造り主の前にきよくありえようか。見よ。神はご自分のしもべさえ信頼せず、その御使いたちにさえ誤りを認められる」。まさに彼の神観がヨブに対して語られている。それをもって罪を露わにし、その神に向って告白し悔い改めるよう、説得をしていこうといたします。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp; Ｏ　そして、５章１節から６節まで。「1 さあ、呼んでみよ。だれかあなたに答える者があるか。聖者のうちのだれにあなたは向かって行こうとするのか。2 憤りは愚か者を殺し、ねたみはあさはかな者を死なせる。3 私は愚か者が根を張るのを見た。しかし、その住みかは、たちまち腐った。4 その子たちは危険にさらされ、門で押しつぶされても、彼らを救い出す者もいない。5 彼の刈り入れる物は飢えた人が食べ、いばらの中からさえこれを奪う。渇いた者が彼らの富をあえぎ求める。6 なぜなら、不幸はちりから出て来ず、苦しみは土から芽を出さないからだ」。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp; Ｏ　エリファズのヨブのあの呪いの叫びに対するとりなしが続きます。けれども、それはもはや取りなしではない、ヨブに対する慰めではない、今やそれは責めたてとなり、告発となっていっております。「2 憤りは愚か者を殺し、ねたみはあさはかな者を死なせる。3 私は愚か者が根を張るのを見た。しかし、その住みかは、たちまち腐った。4 その子たちは危険にさらされ、門で押しつぶされても、彼らを救い出す者もいない」。「 憤りは愚か者を殺し、ねたみはあさはかな者を死なせる」。ヨブ、あなたの罪から来るところのその呪い、その憤りこそが、この惨めな事態を招いたのではないか、財産を失い、子どもたちが取り去られる、そして今やその身体は腫れ爛れて、無残な姿になっている、それはあなたの罪、あなたの隠されている汚れ、それが原因ではないのか。そうであるなら、「その住みかは、たちまち腐り、その子たちは危険にさらさ、門で押しつぶされ、彼らを救い出す者もいない」、そうなるのは、当然の結果ではないのか。そうエリファズはいよいよ責めたててまいります。慰めが今や、責めたての言葉となっていっております。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;#8548;　神は悪賢い者のたくらみを打ちこわす&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp; Ｏ　７節以下１１節まで。「7 人は生まれると苦しみに会う。火花が上に飛ぶように。8 私なら、神に尋ね、私のことを神に訴えよう。9 神は大いなる事をなして測り知れず、その奇しいみわざは数えきれない。10 神は地の上に雨を降らし、野の面に水を送る。11 神は低い者を高く上げ、悲しむ者を引き上げて救う」。ここでさらに、エリファズは自ら神とはどういうお方か、私たちをどうお扱いになるのか、それを語り続けてまいります。私なら苦しみにあったなら、すぐに神に向かうであろう、自分のこの事態を神に訴えていくであろう、そこにあって、神は奇しき御業を必ず与えて下さる、そう言ってまいります。&lt;br&gt;
「神は地の上に雨を降らし、野の面に水を送る。 神は低い者を高く上げ、悲しむ者を引き上げて救う」。だから今、自分の罪を認め、神のみ前にそれを告白していくべきだ、ならば神は必ず貴方をその悲しみから引き上げて下さるはずだ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp; Ｏ　そして１２節から１５節。「12 神は悪賢い者のたくらみを打ちこわす。それで彼らの手は、何の効果ももたらさない。13 神は知恵のある者を彼ら自身の悪知恵を使って捕らえる。彼らのずるいはかりごとはくつがえされる。14 彼らは昼間にやみに会い、真昼に、夜のように手さぐりする。15 神は貧しい者を剣から、彼らの口から、強い者の手から救われる。16 こうして寄るべのない者は望みを持ち、不正はその口をつぐむ」。１２節では「神は悪賢い者のたくらみを打ちこわす。それで彼らの手は、何の効果ももたらさない」、と言っております。今やここに至って、エリファズはヨブを悪賢い者、と言い始めております。そして、あなたの悪知恵、ずるいはかりごと、はくつがえされる」、こう決めつけていこうとしております。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp; Ｏ　１７節から２１節。「17 ああ、幸いなことよ。神に責められるその人は。だから全能者の懲らしめをないがしろにしてはならない。18 神は傷つけるが、それを包み、打ち砕くが、その手でいやしてくださるからだ。19 神は六つの苦しみから、あなたを救い出し、七つ目のわざわいはあなたに触れない。20 ききんのときには死からあなたを救い、戦いのときにも剣の力からあなたを救う。21 舌でむち打たれるときも、あなたは隠され、破壊の来るときにも、あなたはそれを恐れない」。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp; Ｏ　ここに神はこういうお方である、このようにあわれみに富むお方である、という言葉が次々に述べられてまいります。「神は六つの苦しみから、あなたを救い出し、七つ目のわざわいはあなたに触れない。ききんのときには死からあなたを救い、戦いのときにも剣の力からあなたを救う」。だから神のみ前に自分を立たせなさい、あなたが今神によって苦しめられている、それをないがしろにしないで、神がそう懲らしめているそのあなたの罪を、露わにしていきなさい、そうであるなら、神は決してあなたを損なわない、「あなたは隠され、破壊の来るときにも、あなたはそれを恐れない」&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;#8549;&amp;nbsp;&amp;nbsp; あなたは長寿を全うして墓に入ろう&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp; Ｏ　そして２２節から２５節。「22 あなたは破壊とききんとをあざ笑い、地の獣をも恐れない。23 野の石とあなたは契りを結び、野の獣はあなたと和らぐからだ。24 あなたは自分の天幕が安全であるのを知り、あなたの牧場を見回っても何も失っていない。25 あなたは自分の子孫が多くなり、あなたのすえが地の草のようになるのを知ろう」。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp; Ｏ　あなたが神のみ前に立つなら、そして自分の罪をはっきり告白するなら、神はあなたをどう扱って下さるか、そのことをエリファズはいろいろ語り聞かせていこうといたします。あなたが罪を認めるなら、罪を告白するなら、あなたは破壊や飢饉には合わない、地の獣も恐れない、あなたの天幕は安全であり、牧場でも何も失うことはない、あなたの子孫は多く残り、その末は豊かな地の草のようになるだろう、そのように、神はきっと豊かにあなたをあしらい、恵みをもって扱ってくれるはずだ。こう言いながら、今の状態はあなたが罪を犯していることから来ること。だから、罪をはっきり告白するべきだ、とさらに責めたててまいります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp; Ｏ　そして２６節以下。「26 あなたは長寿を全うして墓に入ろう。あたかも麦束がその時期に収められるように。27 さあ、私たちが調べ上げたことはこのとおりだ。これを聞き、あなた自身でこれを知れ」。エリファズは自分の神観、信仰観、それをこのように述べ、あなた自身こういう神のみ前に立って、直接神を知れ、そうやって、神の恵みとあわれみを受けとるべきだ、そう言って言葉を終えております。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;#8550;　真の慰め&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp; Ｏ　このようなエリファズの姿を通して、私たちのとりなしはどうあるべきか、それを改めて、考えなければなりません。真のとりなし、真の慰め、真の励まし、それはどういうものであるかを、であります。とくにこれはともに神を信じる、信仰者との関係において、同じ神を信じる兄弟姉妹において、大切なことだからであります。私たちは相手の苦しみ、悲しみ、痛み、それを目の当たりにしますと、どうですか。確かに相手に同情いたします。そして慰め、労りをもって接していく、それは確かであります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp; Ｏ　しかしそれとともに、その痛み、悲しみはどこから来るのか、その原因や理由、それを探り、そこからどう抜け出すべきか、何を反省すべきであるか、そういうことを考え、それを指摘していこうとするのではありませんか。そうやって、性格のせいにしたり、親や、夫のせい、あるいは境遇のせい、生い立ちのせいにしたりして、ああでもない、こうでもない、そうやって互いに向き合って、あれこれ考えていこうとする。あれこれ互にあげつらっていこうとする、この世の人間関係にあってはこれは当たり前のことであると言えましょう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp; Ｏ　しかし兄弟姉妹の関係にあってはどうか。信仰にあっての関係ではどうか。&amp;#8544;コリント１２章を見てみましょう。１２節から読んでみます。「12 ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。13 なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。14 確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。15 たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。16 たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。17 もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。18 しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。19 もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。20 しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。21 そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うこともできません。22 それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。23 また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、24 かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。26 もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp; Ｏ　ここに教会における兄弟姉妹の関係、信仰者同士の互いの関係がここに述べられております。それこそは霊を一つにする、御霊をひとつにする者同士の互いの関係であります。そこにあっては、その悩み苦しむ者に対する慰め、それは、ただ、相手のその事実の前に、そのまま身を置き、その叫びを、我が叫びとし、その痛みを我が痛みとし、その悲しみを我が悲しみ、その呪いを我が呪いとして、互いが向き合うのではない、互いが罪を指摘しあうのではない、相手の苦しみを我が苦しみ、我が痛み、その罪を我が罪として、共に主に向かうのです。共に主に取りすがるのです。そうやって主をすべてとしていく。このことを忘れてはなりません。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp; Ｏ　ですから２６節でパウロは、「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです」とあるのです。そうやっていっさいを神に委ね、神に明け渡していく。そこに互いのとりなし合いがなされていくのです。その関係にあっては、自分自身がヨブのように、「足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で打たれ、土器のかけらを取って自分の身をかき、また灰の中にすわる」。それこそは、ヨブばかりではない、この私なのだ、私の実態なのだ、それがいよいよ分からされてまいります。そこにあって自ずから、真のとりなし合い、真の慰め合いというものが与えられていくのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp; Ｏ　エリファズがしきりに取りなす、そのとりなしは、結局は、頭の中での神観、知識としての信仰観、それに基ずくものであって、痛みを共にし、悩みをともにするところから来るものではない、それは今苦悩のただ中にあるものにとって、何の励ましにも、慰めにもならない、ただその苦悩を直接わからないまでも、その実態を我がこととして、共に主に向かう、いや共に主を呪う、そこにあってこそ、今のヨブにあっては真の慰めになっていくはずであります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp; Ｏ　しかし、エリファズの「べきだ論」、こうあるべき、こうするべき、その勧めは、いよいよヨブのように、苦しみのただ中にあるものの、その苦悩を、その痛みをいよいよ深めていくばかり。ならば慰める言葉もありません、どうしたらいいのでしょうか、それをその場で神に訴えていく、そうやってヨブの痛みを我が痛みとしていく、そこにこそ、真主にある兄弟としての在り方があると言えるのではありませんか。しかしこのエリファズの慰め、それはそこに全く至ってはおりません。ならばヨブはそれにどう応えていくのか、それが次回であります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp; Ｏ　ここでの、エリファズとヨブ、彼らの向かうところの神、それはどこまでも旧約の神であります。旧約の主です。すなわち人間の側が神の律法、神の与えなされしモーセの律法、それをしっかり守り、しっかり行う、そこにあってはじめて相見えるところの神であり、主であります。その点において、エリファズも、ヨブも、まったく変わることはないのです。いやこれこそが、生まれながらの人間すべてが持つところの神という存在なのです。神はさばく神である、だから、私たちはいよいよきよくなり、立派になって、神のみ前に出ていかなければならない。そうやって立派な信仰を貫くのでなければならない。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp; Ｏ　しかしこれこそは、アダム以来、罪に陥って真の神を見失ってしまっているところで、人間の側が造り上げているところの神なのです。そして、その神に向かうところの信仰なのです。その点において、ヨブも、エリファズも全く変わりはないのです。しかしヨブはその神に躓いたのです。その信仰に行き詰ってしまったのです。それも見えるところ、ヨブから直接来るところの躓きではない、神ご自身がサタンを通して、神がなされたこれは出来事でありました。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;#8551;&amp;nbsp; 信仰に躓いた者&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp; Ｏ　ならば、ヨブは、そこにあって、その挫折を、その躓きを神に直接向けたのであるか。神に向かって直接憤り、呪ったのであるか。そうではありませんでした。ヨブはそこにあって、なお神を謗り、神を呪うということをしなかった、そこにあってなお、信仰を保ち、神に向かって、叫び憤ることはしなかった。彼はどこまでもその信仰をなお貫き通そうとしたのです。しかし、それは結局は、躓くしかなかったのです。いやそれはそもそも、主が、神がサタンを通して躓かせたものでありました。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp; Ｏ　しかし、その躓きを通し、そこから来る自らが負うところの苦しみ、その惨めな境遇、惨憺たる姿、それに対するどうしようもない怒り、憤懣、それが留め度もなく湧き上がってくる。抑えようとすればするほど、強く強くほとばしり出てくる。ならばそれをどこに向けていったのであるか。信仰者ヨブにとってのその向う先、それは自分自身であったのです。自らの存在に怒りのすべてを向けていったのです。自らの信仰を貫こうとする限り、そこにあって、結局は自らの存在を呪い、それを損なう、そのようなかたちにおいて、その呪いを吐き出していくしかなかったのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp; Ｏ　しかしエリファズはどうであったのか。彼は躓いてはおりません。彼は自らの信仰観、自らの神観をもって、ヨブに向かっております。確かにヨブに同情しております。しかもヨブのその自らの向かう呪い、それを聞くに及んで、それが神に向かわずして、自らに向かっている、しかしその心は神を呪う呪いであることを察知しております。それゆえに、その事態が、ヨブの事態そのものが、神に対してヨブが罪を犯したがゆえ、それゆえにこのようなみじめな事態に陥っている、そのように受け取っていったのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp; Ｏ　神に向かって正しい信仰者であろうとする、これにおいてはヨブも、エリファズも変わるところはないのです。しかし、ヨブは、自分は神に喜ばれていない、それを知ったのです。そう思ったのです。あの旧約最初の殺人、それはあのカインの弟、アベル殺しでありました。それはどこから生じていたのか。カインも、アベルも、自らの働きの実を神のみ前に持ってまいりました。しかし神は、カインの持ってきた彼の働きの実である穀物、それを喜ばれなかった、そしてアベルの持ってきた羊を喜ばれた。そこにあってカインはどうであったのか。カインは神に躓いたのです、神に憤ったのです。そして心の中で、神を呪ったのです。その結果があの弟殺しとなったのです。神に躓く、ヨブもそれは同じでありました。ヨブも神に躓いたのです。ヨブはそれゆえに怒りにかられたのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;#8552;&amp;nbsp; パリサイ人の信仰&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp; Ｏ　しかし、なお、神に直接向かうことはありませんでした。しかしそれはカインもそうでありました。カインも神に直接向かうことはなかった。ならばカインはどこに向かったのか。カインは弟に向かったのです。弟アベルに怒りをぶつけたのです。ならばヨブは何に向かったのか。ヨブは自らに向かったのです。自らを損ねること、自らを呪うこと、自らのいのちを誹っていったのです。それをもって神への呪いとしたのです。人間、神に、真の神に躓くしかない私たち人間は人を殺すか、自分を死に至らしめるか、このどちらかしかないのです。その典型的存在があのユダでありました。ユダは、結局はキリストを殺し、そして自らをも殺したのです。ここに罪に陥っている私たちの究極の姿があるのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp; Ｏ　そこにあって、ヨブは自らを殺そうとしたのです。しかし神はヨブのいのちを保とうとしておりますから、死ぬこともできない、命を断つこともできない、そこにヨブのとことんの絶望があったのです。まさしく、出口のない憤り、それゆえ、自分を呪う形でしかその呪いを吐き出すしかない、ここにヨブがおりました。なお神にありのまま、思いのままぶつかることをしないヨブがおりました。まさにこれこそ、旧約の信仰をまっとうしようとして、全うできない姿と言えるでしょう。ヨブの絶望はそれだけ深刻であったのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp; Ｏ　ここで詩篇３８篇を読んでみたいと思います。ここはダビデが思いのたけを主に訴えている、訴え尽くしている姿があります。「1【主】よ。あなたの大きな怒りで私を責めないでください。あなたの激しい憤りで私を懲らしめないでください。2 あなたの矢が私の中に突き刺さり、あなたの手が私の上に激しく下って来ました。3 あなたの憤りのため、私の肉には完全なところがなく、私の罪のため私の骨には健全なところがありません。4 私の咎が、私の頭を越え、重荷のように、私には重すぎるからです。5 私の傷は、悪臭を放ち、ただれました。それは私の愚かしさのためです。6 私はかがみ、深くうなだれ、一日中、嘆いて歩いています。7 私の腰はやけどでおおい尽くされ、私の肉には完全なところがありません。8 私はしびれ、砕き尽くされ、心の乱れのためにうめいています。9 主よ。私の願いはすべてあなたの御前にあり、私の嘆きはあなたから隠されていません。10 私の心はわななきにわななき、私の力は私を見捨て、目の光さえも、私にはなくなりました。11 私の愛する者や私の友も、私のえやみを避けて立ち、私の近親の者も遠く離れて立っています。12 私のいのちを求める者はわなを仕掛け、私を痛めつけようとする者は私の破滅を告げ、一日中、欺きを語っています。13 しかし私には聞こえません。私は耳の聞こえない者のよう。口を開かず、話せない者のよう。14 まことに私は、耳が聞こえず、口で言い争わない人のようです。15 それは、【主】よ、私があなたを待ち望んでいるからです。わが神、主よ。あなたが答えてくださいますように。16 私は申しました。「私の足がよろけるとき、彼らが私のことで喜ばず、私に対して高ぶらないようにしてください。」17 私はつまずき倒れそうであり、私の痛みはいつも私の前にあります。18 私は自分の咎を言い表し、私の罪で私は不安になっています。19 しかし私の敵は、活気に満ちて、強く、私を憎む偽り者が多くいます。02また、善にかえて悪を報いる者どもは、私が善を追い求めるからといって、私をなじっています。21 私を見捨てないでください。【主】よ。わが神よ。私から遠く離れないでください。22 急いで私を助けてください。主よ、私の救いよ」。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp; Ｏ　どうですか、ここに何と神と一体とされている、ダビデの姿があると言えるではありませんか。存在をすべて明け渡していっている、自分のはなはだしい罪を認め、それをそれを神のみ前にそのまま、述べ尽くしている、それがまた何とすがすがしい、解放された思いを与えることでありましょう。３節から９節「 あなたの憤りのため、私の肉には完全なところがなく、私の罪のため私の骨には健全なところがありません。4 私の咎が、私の頭を越え、重荷のように、私には重すぎるからです。5 私の傷は、悪臭を放ち、ただれました。それは私の愚かしさのためです。6 私はかがみ、深くうなだれ、一日中、嘆いて歩いています。7 私の腰はやけどでおおい尽くされ、私の肉には完全なところがありません。8 私はしびれ、砕き尽くされ、心の乱れのためにうめいています。9 主よ。私の願いはすべてあなたの御前にあり、私の嘆きはあなたから隠されていません」。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;#8553;　丸ごとの罪を認めるまで&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp; Ｏ　ここに自分の罪をそのまま主のみ前に認めて、あわれみを乞うている姿、がある。これこそあのルカ１８章の取税人の姿があると言えましょう。しかし、ヨブはどうですか、彼はなお自分の内側に信仰ありとしている、信仰を保とうとしている。破れきっていない、破れているのに関わらず、人の前には破れていても、神のみ前に敗れていない、しかしそれこそが神との間の大いなる隔たりとなっていたのであります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp; Ｏ　あのヨブの惨めな姿。すなわち、「足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で腫れ爛れている」、これは他の誰から来ることではない、これは一重にヨブ自身の真の姿、これこそヨブの実態、真の姿、それをほんとうに認めるまで、このヨブ自身の苦しみ絶望は続くのです。それをダビデのようにはっきり主のみ前に認めるまで、認め切るまで続くのであります。まさにダビデはその意味では、新約を先取りする存在でありました。しかしヨブはなお旧約にあって、その信仰をまっとうしようとする存在であったということであります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp; Ｏ　それではエリファズはどうであったのか。躓くことのない信仰、それゆえに、自らの信仰を、自らの神観を自信をもって述べております。述べ尽くしております。そしてその信仰を誇っていこうとしております。その自らの信仰にあって、ヨブを慰め、ヨブを励まし、全うな信仰へと導こうとしていたのです。しかし躓きを知らない信仰者、自らの信仰をそれゆえに誇っていく信仰者、その姿はどういう姿であるか。それこそはまさに、あのルカ１８章のあのパリサイ人の信仰の姿と言えるのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp; Ｏ　彼は自らの信仰を誇っておりました。自分自身の信仰に自信がありました。まさにここに、躓きを知らない、自分の実態を知らない信仰者の姿があるのです。絶望を知らない信仰者です。それゆえに神のみ前に自らの信仰を誇っていっていた。その結果はどうなっていくのか。パリサイ人、彼はどうしたのか。傍らの取税人をそしっておりますね、侮ってさばいております。ここにエリファズと、ヨブの関係があるのです。エリファズのその慰め、そのとりなし、それは結局は、ヨブをさばく、その方向へと行くのです。行くしかないのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp; Ｏ　自らの信仰の挫折を通して、自らの無力、無能、それを知ることこそ幸いであります。しかしそれをほんとうに知る、それは新約を待たなければなりません。新約のイエスの救い、聖霊の降臨、それをもって、自らの存在のどうしようもない実態、それをはっきり知るまでは、なおヨブの苦闘は続くのです。自らの力によって信仰を貫き通そうとする、しかし貫きえない、ここにこそロマ書７章のパウロの姿であると言えるではないですか。そしてそれこそは私たちのことでもあるのです。自らのまったき罪の存在、頭の先から足のつま先まで罪によって膿ただれている、それをほんとうに知らされ、我がこととするまではほんとうの神との出会い、それはないということを知るのです。ヨブは私たちなのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp; Ｏ　これから、ヨブの三人の友人と、ヨブとの互いのやり取り、その根本には、その関係があるのです。その関係の下に、互いの告発し合いが続いていくのです。次のところは、エリファズの告発に対するヨブの反論です。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/migiwakan/64897173.html</link>
			<pubDate>Wed, 31 Jul 2019 23:21:37 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>「キリストの焼き印」ガラテヤ書６章１５節～１８節</title>
			<description>&lt;div&gt;Ｏ　今日はガラテヤ書最後のところを学びます。お読みします。&lt;br&gt;
＊＊ガラテヤ６：１５～１８・15 割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です」。16 どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。17 これからは、だれも私を煩わさないようにしてください。私は、この身に、イエスの焼き印を帯びているのですから。18 どうか、私たちの主イエス・キリストの恵みが、兄弟たちよ、あなたがたの霊とともにありますように。アーメン」。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;Ｏ　前回のところを読んでおきましょう。１１節から１４節まで。「11 ご覧のとおり、私は今こんなに大きな字で、自分のこの手であなたがたに書いています。12 あなたがたに割礼を強制する人たちは、肉において外見を良くしたい人たちです。彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです。13 なぜなら、割礼を受けた人たちは、自分自身が律法を守っていません。それなのに彼らがあなたがたに割礼を受けさせようとするのは、あなたがたの肉を誇りたいためなのです。14 しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです」。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;Ｏ　前回のところ１３節でパウロは、「なぜなら、割礼を受けた人たちは、自分自身が律法を守っていません。それなのに彼らがあなたがたに割礼を受けさせようとするのは、あなたがたの肉を誇りたいためなのです」、こう言っております。エルサレムから来たところの伝道者、彼らはキリストを述べ伝えておりながら、同時に、そのキリストをほんとうに信じる者となるためには、まずユダヤ人のように、律法をしっかり守り行わなければならない、割礼を施さなければならない、これこそが真のキリスト者となる道だ、こう言って、異邦人クリスチャンであるガラテヤ人を惑わし、福音ならざる福音、その方向へといざなっていこうとしておりました。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; &lt;br&gt;
&amp;#8544; パウロの断言&amp;nbsp; &lt;/div&gt;
&lt;div&gt;Ｏ　「あなたがたに割礼を強制する人たち」、とパウロが言うのは、まさにそのエルサレムから来ているユダヤ人伝道者たちであります。彼等はキリストを信じていると言いながら、なお律法をも必要とするという信者たちであります。しかし、彼らは律法を守るよう言うけれども、律法を行うようしきりに勧めるけれど、彼ら自身は律法を守ってはいない、行ってはいない、こうパウロは断言しております。この断言、これは何処から来るものであるのか。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;Ｏ　前回も見た通り、それこそはかつてのパウロ自身の経験から来ること、これはそこにあっての断言であります。パウロこそは、律法をどこまでも守り行う、そのとことんの求めと追及において、他に類を見ないほどの存在でありました。彼自身、パリサイ人の中のパリサイ人と豪語していたほど。その言葉にこそ彼の律法に対する熱心が現れていると言えるのです。しかし彼のその律法を守る、守り切る、行う、行い切る、その熱心の結果はどうであったのか。それがはっきり告白されている、それがロマ書７章のパウロの言葉であります。そこを読んでみましょう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;Ｏ　１４節から。「14 私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。15 私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。16 もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。17 ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。18 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。19 私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。20 もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。21 そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。22 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、23 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　Ｏ　パウロが律法を守っていこう、行っていこうとするとき、それに努めれば務めるほど、それを行いえない、かえって罪の意識、それがいや勝って生じてくる、その事実を否応なく知らされていった、受けとらされていった、それが律法を守り行うことにおいての結果でありました。それ、「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」、この呻きにも似た、叫びに現れていると言えるのです。律法を守り切ろうとするところの結果こそはこれである、このパウロの究極の経験、ならば律法を勧める人々が自らがそれを追求しきっているなら、当然、その結果を味わい尽くしているはずである、律法の先にあるのはどこまでも罪の意識、躓き、これしかない。律法をとことん行っていくなら、そこに至っているはずだ、これがかつての律法追求者であったパウロの結論であります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　　&amp;#8545;　隠れた所で見ておられるあなたの父&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　Ｏ　ならばその律法に敗れてしまったはずの彼らが、どうして、なお律法、律法、割礼、割礼と声高に叫ぶことがあろうか、叫ぶはずはないのである。それなのに、彼らは、なお律法信仰をと叫んでいる、それはとことん律法を追求していない、その何よりの証拠ではないか、パウロは自らの律法に敗れたその経験からこう断言するのです。しかしそういう経験のただ中にあって、パウロははじめてキリスト・イエス、生けるキリストに出会ったのであります。自分自身の働きによるところの律法信仰に破れ果てる、その先にこそイエス、よみがえりのイエスは立っていて下さる、待っていて下さる。それがその後のロマ書７章２５節にある、「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します」の言葉です。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　Ｏ　それゆえに、パウロは前回学んだところの１４節で、「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです」とはっきり宣言するのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　Ｏ　そして今日のところにはいります。１５節「 割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です」。エルサレムから来たところの伝道者たち、さかんに律法を守れ、割礼を施せ、と言っているけれど、それは信仰とは何の係わりのないこと、それをもって信仰を立派にしていこうとするなら、甚だしく筋違い、見当違いである、こうパウロは言い切るのです。人間、肉なる人間は見えるところを重んじるものであります。心よりも、内面よりも、外側、目につくところ、それをこそ大事にし、それをもって自らの信仰のありやナシや、信仰の確かさ、立派さをを確認していこうとするのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　Ｏ　心の内側のこと、それは人からは分かりません。見えないからそれは当然のことです。だから、どうしても外側をよくしていこうとする、それをもって、人に自分の信仰の立派さ、熱心さを表していこうとする、そうやって人と比べあっていこうとする。ここにこそ肉に立つところの信仰者の姿があるのです。神のみ前に立つのではない、人の前に立って、自分の信仰の確かさを強調していこう、誇っていこうとする、それこそよく例に出すところのルカ１８章のあのパリサイ人の姿ではありませんか。そしてこれは、肉なる私たちの今もって持つところの強い傾向なのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　Ｏ　だからイエス様はマタイの６章で次のように言っているのです。１節から。「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。&lt;br&gt;
あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。&lt;br&gt;
あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです」。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　Ｏ　ユダヤ人が献金するときの当時の献金箱は金属製で、ラッパのような形をしていたようであります。ですから、そこにお金を投じると音がする、だから大きな音がするように、強く投げ入れる、それをもって自分の施しをみんなに見せびらかす。それがラッパを吹くということであります。また祈りも、会堂や街の真ん中で、人に見られるところで祈って自分たちの立派な信仰ぶりを見せつけようとする、そのようにみんな外側ばかりを飾って信仰ありげに振る舞っていく。割礼もそうです。割礼を施している、という外側の印、それを言い立てて、自分の立派な信仰ぶりを誇っていこうとする。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　　　　　&amp;#8546;　新創造に生きる者&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　Ｏ　だからパウロは言うのです、「 割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です」と。ユダヤ人たちは、神を信じている、信仰をしていると言いながら、彼らの誇りは何であるか。彼らの信仰的拠り所はどこにあるのか。今も見たように、それは見える形であります。見える行い、外側のどうのこうのです。割礼を施されているかどうか。律法を行っているかどうか。まさに外側のこと、見えるところのこと、それこそが彼ら、自ら、肉を誇るところの信仰者のその姿であります。内側の何かを誇るのではない、外側がどうであるか、見てくれがどうであるか、それこそがユダヤ人にとっての問題なのです。肉の信仰、まさしく見てくれの信仰であります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　Ｏ　大事なのは外側ではない、見てくれではない、私たちの内側である、私たちの霊的実態である、これこそが問題なのである、これはそういうことであります。キリストによって新しく造りかえられているかどうか、あの死からよみがえられたイエス・キリスト、新創造である復活のイエス・キリスト、それと一つ存在となっているかどうか。一つ体とされているかどうか。そのキリストにすべてをおいて、このお方により日々歩んでいるかどうか。それこそが私たちキリスト者の唯一の問題なのです。そこに私たちキリスト者のすべてがかかっているのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　Ｏ　キリストを信じるとは、キリストを信じて歩むとは、神がキリストを通して与えてくださっている永遠の命を生きること、よみがえりのイエスのいのちを我がいのちとして生きること、それこそが新創造に生きることであります。旧創造、肉のいのちは、キリストのあの十字架によって死んだのです。日々死んでいっているのです。今やキリストにある者は、そのキリストの新しい命、永遠の命、新創造されて命を生きる者となっているのです。しかし、あなたがたはどうか、私たちはどうですか。なお古い命を命として生きているのではありませんか。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　Ｏ　だから、なお自分を問題にし、いつまでも自分がどうだこうだ、そればかりにとらわれている、そうではありませんか。そうであるなら、それは新創造に生きているのではない、なお、古き罪に支配されている、旧創造に生きるものであるに過ぎないのです。だからいつまでも不安であったり疑いであったり、この世のことであれこれ取り紛れて行って安心がないのです、平安がないのです。私たちはそこがはっきりしているでしょうか。&lt;br&gt;
旧創造に生きる者にとっては、この世がすべてなのです。だから絶えず死を恐れるのです。その死を恐れ、怯えながら歩むしかないのです。ならばどうですか、まさに旧創造を生きるしかない私たちではありませんか。それをそのまま認める、はっきり認めて、主にいっさいを置いていく、実はそこから新創造は始まるのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　Ｏ　生けるキリストにあって歩むなら、キリストの御霊によって導かれているなら、それこそは、神の救いの中に生きる者、新しい永遠の命の中を歩む者、すべてはそこにあって主が導いていって下さる、主がすべてとなっていて下さる、だから大安心の歩み、喜びの歩み、それこそが新創造を生きる者なのです。そのためにこそ、イエスは肉にある旧創造のいのちに死んで、そのいのちを十字架に葬って、今やよみがえられて、新創造をもたらしめた、そしてイエスご自身がその初穂として、後に続く私たちの初穂として、新創造、に生きるお方となったのであります、今なっておられるのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　Ｏ　だから&amp;#8545;コリント５章１５節以下ではパウロは次のように言っております。「また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　Ｏ 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」。誰でもキリストのうちにあるなら、誰でもキリストを信じるなら、キリストの御霊を頂いているなら、その人は新しく造られた者なのです。新創造のものなのです。今やその者にとって、古きは過ぎ去って、すべては新しくされているのです。新しい時代を歩む者とされているのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　Ｏ１６節「どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように」。この基準とある基準、この言葉は、カノーンという言葉です。これを口語訳では、法則と訳し、共同訳では原理と訳しております。ロマ書８章１節、２節でパウロはこう言っております。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです」。ここでパウロが言っている原理、これはノモス、律法と訳される言葉です。カノーンとノモス。カノーンは原理であり、基準であります。ならば、キリスト者にとっての基準は何か、神の言葉です。旧約で言えば律法です。すなわちノモスです。ですからキリスト者にとってのカノーンはノモスそのもの、御言そのもの、二つは一つなのです。「この基準に従って進む人々」とはすなわち、キリストの御言をすべてとして歩む者、であるのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　　&amp;#8547;　私を煩わさないようにしてください&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　Ｏ　１７節「これからは、だれも私を煩わさないようにしてください。私は、この身に、イエスの焼き印を帯びているのですから」。今までガラテヤ人のその信仰のずれを指摘し、その方向違いの方へ引きずり込まれようとする彼らを戒め、真の信仰への立ち返りをいろいろなところから、促し、勧めて来たパウロです。ここまで信仰とは何か、福音とは何か、律法との違い、割礼を施すことの意味、いやその無意味、それをここまでさんざん述べ尽くしてきた、語り尽くしてきた、だからもうこれ以上私には言うことはないのだ、だからこれ以上もう私に面倒をかけないでほしい、思い煩わせないでほしい、これはそういう言い方です。もうあなたがたには言い尽くした、注意し尽くした、もう私にはこれ以上言うことはない、注意することはない、これはそういうことであります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　Ｏ　使徒行伝でパウロは次のように言っております。２０章１８節以下を読みます。「18 彼らが集まって来たとき、パウロはこう言った。「皆さんは、私がアジヤに足を踏み入れた最初の日から、私がいつもどんなふうにあなたがたと過ごして来たか、よくご存じです。&lt;br&gt;
19私は謙遜の限りを尽くし、涙をもって、またユダヤ人の陰謀によりわが身にふりかかる数々の試練の中で、主に仕えました。20益になることは、少しもためらわず、あなたがたに知らせました。人々の前でも、家々でも、あなたがたを教え、21ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。22いま私は、心を縛られて、エルサレムに上る途中です。そこで私にどんなことが起こるのかわかりません。23ただわかっているのは、聖霊がどの町でも私にはっきりとあかしされて、なわめと苦しみが私を待っていると言われることです。24 けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。25皆さん。御国を宣べ伝えてあなたがたの中を巡回した私の顔を、あなたがたはもう二度と見ることがないことを、いま私は知っています。26ですから、私はきょうここで、あなたがたに宣言します。私は、すべての人たちが受けるさばきについて責任がありません。27私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです」。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　Ｏ　ここで、パウロは、もうあなたがたに語るべき言葉は語り尽くしたのであるから、もう私には責任はない、とまではっきり言っております。ここでのパウロの言葉はまさにそれでありますね。もうあとは、あなたがたと神、あなたとキリスト、その一対一の関係である、これはそういう言い切り方です。これは一見真に無責任な言い方のようでありますが、そうではありませんね。御言をもう語り尽くした、あとは御言自身が導いていって下さる、すべてはキリストに任せた、御言に任せた、これはそういう御言に対する信頼から来る言い方であります。後はあなたがた一人ひとりとこの御言、キリストの御言と一体となって歩んで行きなさい。私はあなたがたを御言に託します、御言に任せます、そういう言い方です。そしてそれこそが真の伝道の極致であるということ、これを忘れてはなりません。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　　&amp;#8548;　真の伝道、真の牧会とは&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　Ｏ　真の伝道とは、宣教とは、神の言をそのまま語ること、伝えることであります。御言を御言のままに語るところ、伝えるところ、そこに御言自身が働いてまいります。御霊が働いてまいります。御言が聞く者に対して、その人間自身の実態、真実、すなわち、罪の事実を明らかに示し、その肉を刺し貫いて、悔い改めへと導いてまいります。そこにあって、古きわれを後ろにされ、どこまでも御言に、御霊により頼むようにされていく。そこにこそ御霊によって歩むところの、新創造に生きる生き方があるのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　Ｏ　すなわち、ここに、同時に、牧会とはどういうことか、それが明らかにされているのです。「私は、すべての人たちが受けるさばきについて責任がありません。私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです」。パウロはここで、御言を御言のままに余すところなく語り尽くしてきたからです、と言っております。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　Ｏ　牧会とは、牧師や伝道者があれこれ動き回って、いろいろ活動をしていく、そういうものではないのです。それは枝葉末節のことに過ぎません。真の牧会とは、キリスト自身がなされることなのです。キリスト自身、すなわちキリストの言葉こそが真の牧会者なのです。キリストの御言が私たちをどこまでも導いていって下さるのです。イエス・キリストこそ、イエス・キリストの御言こそ、真の牧会者、真の羊飼いなのです。だから御言を御言そのままをはっきり語って行く、そこにこそ、真の牧会の姿があるのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　Ｏ　キリスト昇天以降、ペンテコステ以降、キリストは、生けるキリストは御言のキリストです。御霊のキリストであります。すなわち御言そのものがキリストなのです。御言そのものが、御霊なるキリストなのです。その御言そのものが御霊にあって牧会をするのです。だからこそ御言が御言のままに語られていくことが何よりも大事なのです。それを人間の知性や理解力、経験、それをもってキリストのことば、神の言葉を理解し解釈するなら、人間の思い、感覚、人間の限られた知力で、御言葉自身を制限していくしかないのです。主の御言の真実がそこにあって大きく制限され、御言自身の力はもはやそこには働きません。人間の肉による理解が大きく障害となっていくのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　Ｏ　古き肉がとことん御霊によって砕かれ、破れていく、存在そのもの罪でしかないその事実をはっきりさせられていく、そこにあって御言そのものが働いていかれるのです。それこそが御霊を通しての御言の働きなのです。神の御霊と一つである御言。それが私たちの実態を明らかにすると同時に、そこにあって自らの肉はあのイエス・キリストの十字架によって死んだ、死んでいる、それをほんとうに受けとる、そこにあって、キリストの御言、キリストご自身がそのまま働かれるのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　Ｏ　それを人間が知恵と知識を凝らして、どんなに信仰を立ち上げ、精緻な神学を展開したとしても、それは人間自身の満足と達成感を示すだけのこと、そこには真の神と一体とされる、平安と喜びは出てこないのです。そこで語られるキリストはもはやキリストではないのです。神学のキリスト、哲学のキリストであるに過ぎないのです。人間が解釈したところのキリスト、それはもはや真のキリストではない。そこにはいのちがない、新創造のいのちはないのです。御言を御霊に促されて語るところ、神のみ前に語って行くところ、そこにこそ真正なキリストの生ける事実がはっきり現れていくのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　　　&amp;#8549;　イエスの焼き印&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　Ｏ　だからパウロは、「これからは、だれも私を煩わさないようにしてください。私は、この身に、イエスの焼き印を帯びているのですから」と言っているのです。焼印とは何か。スティグマ、焼印、牛の飼い主、牛の所有者は自分の牛に鏝などで焼き印を押して、自分の所有であることをはっきりさせいくといいます。そうやって、この牛は私のものだ、私の牛だ、それをはっきりさせてまいります。それと同じように、キリスト者は、聖霊によって、この者は神のもの、神に属する神の子である、その証明として神は聖霊によって焼き印を押されるのです。これは人が押すものではない、神が押すものであります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　Ｏ　聖別という言葉がありますね。聖別とは、神のものとされるということです。神の所有とされた、ということ。聖別と言いますと、何か自分がきよくなって、立派になって、神に近い者となって、神に褒められていく、そういうことを聖別と思う人がいるかもしれませんがそれはまったく違います。その存在がよかろうが悪かろうが、焼き印を押された者、それが聖別された者なのです。それが過去にどんな大きな罪を犯したとしても、この焼印を押された者、その者は、そのまま、見たところどんなになお汚れていて、ボロボロのままであっても、今なお、罪垂れ流しのままであっても、もうすでに神の子なのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　Ｏ　ユダヤ人たちが主張するところの割礼、これも焼き印なのです。神の民としての印、人間が手ずからつけるところの印、旧約の焼印それが割礼です。旧約における割礼、それが旧約の神の民である印、焼印です。新約の焼き印それは神が直接押されるところの聖霊、これが新約の焼き印であります。そしてそれこそが、「大事なのは新しい創造です」とある、新創造に生きる者の証明書なのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　Ｏ　新創造に生きる者、神から直接焼き印を押された者、その者はもはや、自分で一生懸命頑張っていく、どこまでも自分がさきだってやっていく、その必要はもうないのです、まったくないのです。そのすべての導き、そのすべての責任、それは所有者である、神がいっさいの責任を取ってくださるからです。焼印はそのことの証明であるのです。わたしがやる、わたしがいっさいの責任を取る、その証明、それがこの焼印なのです。だから焼き印を押された者は、もう自分であれこれ頑張る必要はないのです。責任は所有者自身が取られるのです。ならば、こんな楽な、こんな楽しいことがあるでしょうか。このことの証明として、イエス様によって福音書に迷える羊の譬えが語られておるのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　&amp;#8550;　新創造、キリストに抱かれていく歩み&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　Ｏ　ルカの福音書１５章４節からを読んでみましょう。「4「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。5 見つけたら、大喜びでその羊をかついで、6 帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。7 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです」。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　Ｏ　ここで羊飼いは私たち迷える羊を見つけ出しますと、どういう行動に出ておりますか。私の後をついて来なさい、従ってきなさい、私について、自分の足でついて来なさい、そう言っておりますか。そうではありませんね。それは旧約の羊飼い律法であります。しかし新約のキリスト、新約の羊飼いはどうですか。自分自身がその羊を、私たちを肩に担いでおりますね。そして羊飼いはすぐに肩からおろすのではない、家まで担いで行っております。「羊を肩に担いで」とある通りです。ここで言うところの家とはどこですか。どういうところを言っておるのですか。羊飼いの住む家、羊飼いなるキリストの行くべき家、それはもちろん神の国です。ですからこれは、すなわち神の国に着くまで羊飼いは羊を担いでいくということなのです。そしてそこにあって、みなで喜び合う、私たちを含めて、神の家族で喜び合う、ということであります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　Ｏ　それまでいっさいを羊飼いがやっていって下さるということです。これこそキリストの焼き印を押された者の特権、です。まさに羊は、まさに私たちはおんぶに抱っこされていくということです。これは何と楽で安心なすばらしい特権であるといえましょうか。それなのに、せっかくイエス様が私たちを肩に乗せ、かついでいって下さるのに、それでは余りにも申し訳ない、いや信仰をしている実感が湧かない、だから、私はおりて自分でやっていきます、歩いていきます、というなら、それはどういうことですか。それは羊飼いの恵み、慈しみ、愛、それを無視していくということではありませんか。それは焼き印を押された者に相応しくない行動というしかありません。それは再び、迷いの中をさまよっていく羊になるということではありませんか。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　Ｏ　羊飼いを信じて、その肩にとどまり続ける、羊飼い、イエス様の御手の中にこの身を、この存在をすべてすっぽりと置き続けていく、それこそが私たちのあるべきあり方であるのです。そこにほんとうの安心、平安、幸いがあると言えましょう。それをなお、自分で歩きたい、自分でやっていきたい、イエス様にやっていただくだけでは申し訳ない、なおそう主張していくとするなら、それはどういうことですか。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　Ｏ　エルサレムから来た伝道者、律法信仰からなお抜け切れていない伝道者、そしてそれに惑わされ、彼らの主張する律法信仰、割礼信仰に魅かれていこうとしている、ガラテヤ人、彼等は、イエス様の方に乗っているだけでは申し訳ない、自分たちでも何かやっていきたい、自分でも歩いていきたい、そうやっていくということではありませんか。まさに自己満足の信仰をやっていきたい、ということではありませんか。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　Ｏ　パウロはそういうガラテヤ人に対して言うのです。「これからは、だれも私を煩わさないようにしてください」、と。私はあなたがたに何度、このことを言ってきたことか。何度戒めてきたことか。何度この素晴らしい福音、こんな楽しい歩みをつたえてきたことか、それなのにあなたがたはそれを侮り、無視していくばかり、何度これからあなたがたに忠告し続けていかなければならないのか。もう私を煩わすことはやめてほしい、今改めて、しっかりキリストに従っていきなさい、キリストの方にとどまり続けていきなさい、すべてはイエス様がやって下さる、だからどこまでも、キリストについていきなさい、これはそういう言い方です。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　　　&amp;#8551;&amp;nbsp; 煩わさないようにしてください&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　Ｏ　「私を煩わさないようにしてください」とは、原語に即して言うなら、「私にほかの苦労を与えないでください」、という言い方です。キリストのこと、救いのこと、神に関わること、福音そういうことなら、私は労をいとわない、何でも聞いてほしいし、それこそ私の望むところです。だからいつも、来てほしい、そのことに関するわざわいならば私はもう労をいといません。しかし、そうではなくて、この世のこと、福音以外のこと、それが例え信仰というものであっても、律法だの、行いだの、割礼だの、そういうものになお思いを寄せて、あれこれ煩わさせられるなら、それはもうまっぴらである。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　Ｏ　今までもこのことは言い尽くしてきた。もうあなたがたは耳にタコができるほどではないか。あなたがたのなすべきこと、向うべき道、それはキリストである。イエス・キリストこのお方をすべてとしていけばいい、それだけでいいのだ。こういう言い方であります。もうはっきり私は言ってきた、何度も何度も言ってきた。なおこれ以上言わせるな。ただキリストにより頼め、キリストにすがっていけ。それ以外この私が言うことはもうないのだ&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　Ｏ　「これからは、だれも私を煩わさないようにしてください。私は、この身に、イエスの焼き印を帯びているのですから」。私パウロはキリストの焼き印をしっかり押された、キリストのもの、私の主は神であり、キリストである、私のすべてはキリスト、我はキリストのもの、キリストは私のもの、私はいよいよその方向へ存在を挙げて歩んでいく、キリストにとどまり続けていく、あなたがたもそうなってほしい、そうあってほしい、そうでなければそれは、私の主への信仰の邪魔立てをすることである、この世のものをもちこんで、信仰ならざるものを持ちこんで、信仰、純粋な信仰を、邪魔することだ、もうこれ以上邪魔立てしないでくれ、これはそういう言葉、そういう言い方であります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　Ｏ　１８節「どうか、私たちの主イエス・キリストの恵みが、兄弟たちよ、あなたがたの霊とともにありますように。アーメン」、こう言ってパウロは最後の挨拶を送っております。ガラテヤ人に対して、兄弟たちよと呼びかけ、キリストの恵みがあなたがたの霊とともにありますように、と祈って終わっています。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　Ｏ　この手紙を終わるにあたって、最後に確信したいこと。それはこのガラテヤ人こそ、私たちであるということであります、それを忘れてはなりません。ガラテヤ人の信仰、これは彼等だけのものではないからです。信仰、信仰といっていても、私たちの信仰は絶えずガラテヤ人の信仰の方向へと必ず外れていくからであります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　Ｏ　キリストの恵みがあなたがたの霊とともにありますように、そう祈られても、なお古き肉を持つ私たちは、その恵みを侮り、無視して、退け、なお古き肉の上に信仰を立て上げていこうとするのです。イエス様の方に抱かれ続けるのではない、それを振り切って、なお自分を先立て自分でやっていこうとする、それは肉にある限り、必ずやろうとするのです。そして人間の働きをもって、立派な信仰を積み上げていこうとするのです。今もってそのガラテヤ人の信仰は私たちにあって続いているのです。そのことを日々知っていく、日々悔い改めていく、そこにこそ、新創造を歩む私たちがあるのです。新創造を歩むというから何か特別のことをするというのではありません。古き肉を日々砕かれていく、自我に日々破れていく、それこそが新創造を歩むことなのです。日々古き肉が死に渡されていく、それが真のいのちを我がいのちとしていくことであります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　Ｏ　ですから&amp;#8545;コリント４章１１節以下に次のようにあるのです。「11 私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。12 こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。13 「私は信じた。それゆえに語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです。14 それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです。15 すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためです。16 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　Ｏ　「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」。外なる人、私たちの肉なる者であります。それが日々衰えていくところ、実は内なる人、霊なる私たちは日々いよいよ新たにされていくのです。羊飼いなるキリストの肩に担がれている私たちであります。見えるところどんなであっても、日々駄目になっていくようであっても、主の肩の上にあって、主の御手のうちにあって、日々主にあやされ、もてなされていく、それが私たちのただ今の現実なのです。主の御手の中の幼子、それが私たちであります。だからこそどこへでも主の守りにあって自由に出ていくことができるのです。そしてそこにあって主の確かな手ごたえ、それをはっきり知らされていくのです。それこそがキリストの焼き印を押されたところの私たちの真の歩み、日々の感謝な歩み、喜びの歩みであるのです。それは来たるべき世にまで続いているのです。&lt;br&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&amp;nbsp; &lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/migiwakan/64888011.html</link>
			<pubDate>Sat, 29 Jun 2019 00:05:59 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>「十字架された我」ガラテヤ書６章１１～１４節</title>
			<description>&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;Ｏ　今日はガラテヤ書６章１１節から１４節までを学びます。お読みします。&lt;br&gt;
＊＊ガラテヤ６：１１～１４・11 ご覧のとおり、私は今こんなに大きな字で、自分のこの手であなたがたに書いています。12 あなたがたに割礼を強制する人たちは、肉において外見を良くしたい人たちです。彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです。13 なぜなら、割礼を受けた人たちは、自分自身が律法を守っていません。それなのに彼らがあなたがたに割礼を受けさせようとするのは、あなたがたの肉を誇りたいためなのです。14 しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;Ｏ　前回のところをもう一度振り返っておきましょう。６節からです。「6 みことばを教えられる人は、教える人とすべての良いものを分け合いなさい。7 思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。8自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。9 善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。10 ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう」。&lt;/div&gt;
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&lt;div&gt;&amp;nbsp; Ｏ　８節でパウロは「自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです」と言っております。自分の肉のために蒔く、とはどういうことですか、何を言わんとしているのですか。これは信仰の在り方、信仰の方向のことを言っているのです。「肉のために蒔く」、これは自らの肉にあって信仰を立ち上げて行こうとする、ということです。自らの働きによって良き信仰を立ち上げ、その信仰を立派にすることによって神の御前に近づこうとすることであります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;Ｏ　「肉のために蒔く信仰」、すなわち、自らの働きをもって信仰をする。しかしこれこそは、今もっての私たちの信仰の傾向なのであります。私たちはみな自分の働き、自分の行為、自分の熱心、それをもって、信仰を立て上げていこうとしている。それをもって信仰を積み上げていこうとする、そうやって自分自身の信仰を確かめる、確認する、これこそが肉のために蒔くところの信仰なのです。そうであるなら、私たちはみなそういう信仰者、肉に蒔くところの信仰者だと言えるではありませんか。&lt;/div&gt;
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&lt;div&gt;&amp;nbsp; Ｏ　いや肉にあってなおこの世を生きていく限り、これは避けることのできない傾向なのです。ですから、気がつけば、私たちは神の御前にではない、人の前に立って、人と信仰の比べ合いをしながら信仰ありやナシや、と一喜一憂していくのではありませんか。これこそ肉に蒔いている信仰者の姿なのです。それはまさにあのルカ１８章のパリサイ人の姿ではありませんか。彼にとって誇りは神ではありません、自分です、どこまでも自分が働くところの信仰です。自分の信仰を立て上げ、自分を立派にし、それをもって神に近づき、神に喜ばれようとする、人からも褒められようとする信仰。ここに肉のために蒔くところの私たちの信仰の姿があるのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp; Ｏ　パリサイ人は、自分の働きをもって一生懸命信仰に励み、信仰を立て上げ、その立派さ、その熱心さ誇り、同時に相手を、傍らにいる取税人をおとしめ、さばいている。そして相手をさばくことによって、さらに、自分の信仰の立派さ、確かさ、それをいよいよ言い張っていこうとする。ここに生まれながらの私たちの、肉にあって信仰をしていこうとする私たちの実態があるのです。それはまことの神のみ前に立っているのではない、人の前に立つところの信仰、人と比べあっての信仰、だからパリサイ人は、取税人と比べあって、自分の信仰の立派さを誇っていっていこうとしているではありませんか。そうやって、同時に、相手や周りを批判し、裁き貶めていこうとする、しかしこれは他人ごとではないのです。今なお私たちが持っているところの肉の信仰の実態なのです。&lt;/div&gt;
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&lt;div&gt;&amp;nbsp; Ｏ　この肉に立つ信仰、肉に蒔く信仰、それをとことんやった者、やり尽くした者、それがこの当のパウロでありました。しかしその果ては何であったのか。肉に頼んで信仰を極めようとしてとことん務めた、熱心を極めてやっていった。しかし、いけば行くほど、やればやるほど、そのパウロの先にあったもの、それは何か。まったくの無力感、いや、絶望でありました、とことんの行き詰まりでありました。まさに彼は自分の信仰に躓いたのです。躓くしかなかったのです。ここにこそ、肉の実を、肉の信仰の実を刈り取るしかなくされた姿があるのです。肉に蒔く信仰、の結果はこれであります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp; Ｏ　福音書に出てくるあの富める青年もうそうでありました。マルコによる福音書を読んでみましょう。１０章１７節から。「17 イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」18 イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。19 戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」20 すると、その人はイエスに言った。「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」21 イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp; Ｏ　この青年は律法を守り行うことにおいて、誰よりも熱心でありました。それは、そのような戒めは小さいときから守っております、この言葉に現れております。しかし一生懸命務めれば務めるほど、やればやるほど、励めば励むほど、そこに主にある平安、主にある喜びが出てきたのでしょうか。そうではなかった、そうではありませんでした。信仰に励めば励むほど、、いよいよ虚しさは募るばかりであった、それゆえに途方にくれて、イエス様の下に来たのです。ここに自らの肉にあって、自らの働きにあって、信仰をして行く者の姿があるのです。まさに肉に蒔く信仰者の姿です。彼は恐らく信仰に疲れ、途方にくれてイエス様の下に来たのでありましょう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp; Ｏ　それはより具体的には、今も言ったように、このパウロの、サウロと言っていたときのその様であると言えましょう。律法を守り行えば行うほど、そこに知るのは、自分の信仰のなさです。いよいよ募ってくる絶望感であります。まさに彼は肉の信仰に躓くしかありませんでした。しかしその躓きにあって、自らにとことん破れてしまった、破れ果ててしまった、そこにあって、彼はあのイエスにはじめて触れていただいたのです。彼はその躓きにあって、滅びを刈り取らされたその現場にあって、よみがえりの主に捉えられたのです。御霊の主に捉えられたのです。そこにあって、御霊によって生きる者、とされたのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
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&lt;div&gt;&amp;nbsp; Ｏ　すなわち、肉に蒔く信仰に、自分の働きに立つ信仰に完全に破れてしまった、破れ果ててしまった、しかしそこにあって、はじめて、「御霊のために蒔く者」とされたということであります。パウロのそれ以降の歩みは、御霊によって歩む歩み、肉を絶えず主の前に明け渡し、いっさいは御霊を委ねていく歩み、そこにパウロの異邦人伝道の根本があったのです。それをもって、多くの異邦人にキリストを伝え、キリストを信じる者を獲得していく者とされていったのです。それはまさに「御霊から永遠のいのちを刈り取るのです」ということの具体的実践の現れであると言えましょう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp; Ｏ　そして１０節、「ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう」と続けております。機会のあるたび、と言っております。これは日々であります。日々のこと、日々の歩みのことであります。そしてまた、これはあらゆることにあって、あらゆる場にあって、ということでもあります。いつどこにあっても、どんな場合でも、すべての人に対して、とくに信仰の家族に対して、すなわち信仰にある兄弟姉妹に対して、善を行いましょう、と勧めるのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp; Ｏ　ならば善とは何か、これはもちろんこの世の善悪の善ではありません。信仰者の善とは、信仰です。すなわち神に従うこと、キリストをすべてとしていくこと、キリストを信じ、キリストに従っていくこと、すなわちキリストをいっさいとしていくこと、キリストにいっさい明け渡していくこと、これが善、真の善です。これ以外にキリスト者にとって善はないのです、真理の道はないのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp; Ｏ　ですから、交わりも、仕事も、いや生活万般すべて、この世のいっさいの出来事すべて、キリストにあって、キリストに託してやっていく、これこそが善を行っていくということなのです。すなわち、事毎にキリストに聞いていく、キリストに向かっていく、キリストに逃げ込んでいく、ということです。御霊のために蒔く者にとっては、御霊によって歩む者にあっては、自分自身にはいよいよ弱さを覚えてまいります。自分の愚かさを知らされてまいります。無力、無能それがいよいよ明らかにされてまいります。だから一つひとつ、もはや、自分に頼るのではない、この世の何かを頼るのではない、主に託して、どこまでも、主にゆだねてやっていくようにされていく。主がそのような方向へと導いていかれるからです。ここにほんとうに心貧しくされているものの信仰というものがあるのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp; Ｏ　そこにあって、失敗することもあるでしょう。間違えることもあるでしょう、お手上げになることもしばしばあるでしょう。しかしそのたびに、主を仰ぐのです、主に向かうのです。主のなかにそのままをもって逃げ込んでいくのです。いやそれは、そういう失敗の場、破れの場だけではない、感謝のことも、喜ぶべきことも、それをそのまま制限せずに、主のみ前に無邪気に喜んでいくのです、主の前にありのまま有頂天になっていくのです。ここに主にすべてを丸投げしていく信仰者の姿、神のみ前に幼子のように歩んでいる信仰者の姿があるのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;#8547;&amp;nbsp; こんなに大きな字で&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp; Ｏ　そのようにすべての場にあって、絶えず主に立ち返り、主に頼っていく。キリスト者にとってすべての機会が主との交わりのときだからです。感謝なときも、躓き倒れたときも、あらゆるとき主に向かう、主に立ち返る、「機会のあるたびに」、とはそれを言っているのです。ですから、そこにあっては、キリスト信仰者にとって間違えること、失敗すること、進退窮まること、途方にくれる、それはいささかも恥ずかしいことではないのです。なぜなら、そこにあって、主の生ける事実、愛の事実、それを具体的に味わわされていくからです。しかし、そういう現場にあって、なお、主を仰ぎ見ないで、主に向かわないで、そこで、なお己を先立て、なお自らの働きをもって立派に信仰を立て上げていこうとするなら、それこそ信仰者にとって恥ずかしいことなのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp; Ｏ　人から後ろ指刺されないような立派な信仰を立て上げていく、不安や恐れ、それを絶えず取り払って、雄々しくゆるぎなく歩んでいく、これこそは私たちが肉にあって望むところの願っていくところの信仰の方向ではありませんか。しっかりした歩み、ゆるぎない信仰、大人びた信仰。しかしこれこそが肉に蒔くところの信仰の方向なのです。しかし、この自分に立つ、肉に立つ信仰、いわゆる立て上げ信仰、これは必ず行き詰るのです、必ず躓くのです、恥をかいていくしかないのです。なぜなら、これは主が望んでおられるところの信仰の方向ではないからです。主の求める信仰、私たちの向かうべき信仰、それはありのままで主に向かう、ありのままで主の中に飛び込んでいく、これこそが主の求める、主の喜ばれる信仰の方向、神に幼子のように向かう信仰の方向なのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp; Ｏ　ですから私たちは弱さを庇いません、愚かさを庇いません、無力無能をいよいよ認めて、その駄目なまま、お手上げのまま、そのまま主のみ前に、主の御手の中に身を投じていくのです。そこにあってこそ、主の愛に、主の慈しみに、主のあわれみに直接触れていただいて行くのです。それは私たちの交わりにあってもそうですね。そこにあって、すべての重荷は主が取っていて下さる、私の一切の責任を主が負って下さる、その事実をも知っていくのです。それゆえに、恥と思ったことも、主にあって恥とはならない、そこにほんとうに楽な、ほんとうに安心な歩み、というものが与えられていくのです。真の信仰者であるなら、それは必ず経験していることでありましょう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp; Ｏ　そして、今日のところ、１１節、「ご覧のとおり、私は今こんなに大きな字で、自分のこの手であなたがたに書いています」。パウロは目が悪かったと言われいます。そう考えられています。ロマ書をみるなら、直接の手紙の筆記者はテルテオでありました。パウロは最後に自らの名をサインしているだけです。こういう事からも目が悪かったという説が出てくるわけです。しかしあるいは、パウロが自分自身で書いてまいりますと、後から後からこみ上げてくる思い、御霊にあって湧き出てくる思いを書き続けることがなかなか、できない、だから筆記者を立てた、ということが考えられます。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;Ｏ　しかしここでは、この手紙を自分の手で書いたと言っております。このころはまだ目がそれほど悪くはなかったのかどうか、あるいは彼が悪かたのは目ではなく、ほかのところであったか、ほんとうのところは分かりません。それはともかくとして、パウロがこれをもって思いの丈をガラテヤ人に書いている、というその思いが、「こんなに大きな字で」ということからも分かりますね。ガラテヤ人の信仰のずれを憂い、彼らの悔い改めと立ち返りを切に求めているパウロの切願がこの言葉に溢れているように思います。「大きな字をもって」そして、同時に、キリストの大きな愛をもって、キリストの大きないつくしみ、慰め、励ましをもって書いている、ということの現れでもあると言えましょう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
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&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp; Ｏ　１２節「あなたがたに割礼を強制する人たちは、肉において外見を良くしたい人たちです。彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです」。エルサレムからから来た伝道者たち、彼らはガラテヤの信者たちに、ほんとうのキリスト信仰に進むなら、まず律法をしっかり学ばなければならない、行わなければならない、また割礼も施さなければならない、その道を踏んで行ってこそ、まっとうなキリスト信者になる。そう彼らはガラテヤ人に吹き込んでおりました。現にユダヤのキリスト信者はみなそういう段階を踏んでキリスト者になっているではないか、そう言って彼らを説得していこうとしておりました。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp; Ｏ　彼らのそういう説得に惑わされ、心揺るがされて、ガラテヤ人は、パウロの説くところの、信仰のみ、福音のみ、人間の側の働き、人間の熱心に立つ信仰、それは一切いらない。どこまでもキリストの一方的な恵みをただ受けるだけ、ただ信じていくだけ、そのパウロの説く信仰のみ、福音のみ、キリストのみ、これにとどまることができず、なお自分の何かで信仰を立て上げていこうとする、すなわち古き肉の上に立て上げていく信仰、その方向へと魅かれていっていたのです。つまり、肉に蒔くところの信仰の方向に引きずられていっていたのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp; Ｏ　彼らをその方向へといざなう伝道者、それこそがここで言うところの、「あなたがたに割礼を強制する人たち」であります。彼等こそ、「肉において外見を良くしたい人たち」です。すなわち肉にあって、立派な信仰を立て上げていこうとする者、そういう信仰をこそ誇っていこうとする者、まさにあのパリサイ人の信仰の方向であります。まさに彼らこそ、８節の「自分の肉のために蒔く者」、なのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp; Ｏ「彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです」。なぜキリストを信じる者たちはユダヤ人たちから迫害を受けるのですか。律法や割礼を奉じるユダヤ人たちから、とくに祭司や律法学者、パリサイ人たちから目の仇にされていくのですか。そこを改めてはっきり見ていかなければパウロに対するユダヤ人の迫害をよく分かることはできません。キリスト信仰、福音信仰、それは人間の働きに足場を置く信仰、律法信仰を完全否定するからであります。キリストの一方的恵みをすべてとする福音こそは、人間の働きで救いを得ようとする律法信仰の完全否定の上に立つ信仰だからです。それこそはユダヤの宗教的指導者たちの拠って立つところの律法信仰の土台を根底から覆すものであるからです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp; Ｏ　ならば、キリスト信仰の根幹は何か、どういうことか。キリストは私たちの罪のために十字架にかかって下さった、その十字架による救いの完全を信じることにあります。あのイエス・キリストの十字架、これこそは私たちの罪を完全に贖うもの、贖ったもの。これこそが私たちの救いの完成、ここには人間の側の働き、人間の側の口出し、行いはまったく必要としない。ですから、その十字架を信じる、十字架のイエスを信じる、そこに信仰の完成、救いの完全がある、キリスト信仰のいっさいがある、福音信仰の根幹があるのです。そこにあっては、もはや、人間の働き、人間の側の行い、人間の何か。それをまったく必要としない、律法を守ること、割礼を施すこと、それを必要としない。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp; Ｏ　いや、それはむしろ、キリストの十字架を不完全とすること、キリストの十字架だけでは足りないとすること、だから、律法を、割礼も加えて、信仰をより完全なものとしようとすること、まさにそれは十字架信仰の完全否定に他ならない。神をすべてとし、キリストをいっさいとするか、そうではなくて、なお人の行いも救いには必要とするか、すなわち律法も必要とするか、ここに決定的な違い、両者の断絶があるのです。このように律法と福音は全く相いれないもの、そこに天と地の、いのちか滅びの、完全な別れがあるのです。その中間はまったくないのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
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&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp; Ｏ　このように、十字架信仰と律法信仰、割礼信仰は、真っ向から対立するもの、互いに相容れないもの。だから、十字架信仰をはっきり言っていくところに、ユダヤ人の猛反発があり、激しい攻撃、迫害があるのです。しかし、今までの律法信仰をすてて、キリストを信じる者とされた者の中にも、クリスチャンとなった者の中にも、十字架信仰を曖昧にして、はっきり言い切っていかない、なお律法を守る必要も説くことをもって、そのユダヤ人の迫害の矛先をかわそうとする者たちもまたいたのです。これこそがあのエルサレムから来たところの伝道者です。彼らこそは福音を説きながら、人間の働きの上に立つ律法をも説くところのあれもこれもという二股信仰者なのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp; Ｏ　しかし、この傾向は私たちに肉の信仰がなお残るように、ユダヤ人の中にぬきがたくあったのです。あのパウロに批判されたペテロ、大使徒ペテロにも、それは見られることでありました。ガラテヤ書２章で学んだことでありますが、今までペテロは異邦人と自由に交わっておりました。しかしユダヤから伝道者たちが来るに及んで、どうなったのか。異邦人と自由に交わっていること、それを彼らから批判されること、それを恐れたのです。彼らは、なお律法信仰が断ち切られていないゆえに、キリストに従っているとしながら、異邦人と交わる、などと言う律法の教えに従って異邦人に対して不自由でありました。そういう彼らの批判、それをペテロはつい恐れて、異邦人との自由な交わりから思わず遠ざかって彼らの批判をかわそうとしていた、それをパウロはすかさず指摘したのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp; Ｏ　これはあの大使徒ペテロにしても、なおユダヤ人を恐れる恐れを持っていた、ということの現れであります。肉というものは、今もって、どこまでも自分をかばい、人を恐れるもの。それはペテロも、いや当のパウロもそのことには変わりはないのです。信仰の歩みとは、ですから、日々この自らの肉の性質を認め、直ちに認め、それを主のみ前に告白していくことからはじまるのです。それこそが日々の悔い改め、であります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp; Ｏ　「彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです。なぜなら、割礼を受けた人たちは、自分自身が律法を守っていません」。律法を守ることを説き、割礼をうけることを勧める者たち、ならば、彼ら自身果たして律法をほんとうに守っていこうとしているのであるか、律法をとことん守ることを通して、救いに与ろうとしているのであるか。そうではない、彼らの律法信仰は、割礼の施しは、どこまでも、表向きだけのこと、ユダヤ人の迫害、避難を避けるだけのことであって、律法をどこまでも守って救いに与ろうなどとはしていない。そうパウロは断言するのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
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&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp; Ｏ　ならばパウロはどうしてこれをはっきり言い切ることができるのか、「彼ら自身は律法を守っていません」と。これこそはパウロの経験から来るところのところの断言であります。自らの律法信仰に完全に破れた、躓いた、そこにあって目が開かれた、霊の目が開かれた、これはそこにあっての言い切り、断言であります。本当に律法を守り行っていこうとしていくなら、その果ては律法は到底守り切れるものではない、行い切れるものではない、その現実にぶつかるはずだ、そこにあって立ち往生するしかない、進退窮まるしかない、ただ躓くしかないその事実に出会うはずだ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp; Ｏ　これこそパウロのあのロマ書７章にも記されているところの自身の経験であり、そこから来る断言です。ならば、どうしてそこにあってなお、律法信仰を人に勧めようとするであろうか。それはできなくなるはずではないか。それなのになお律法信仰、割礼信仰を勧めているとするなら、それこそ、律法をほんとうに守り、行ってはいない、その何よりの証拠ではないか、律法信仰に絶望していない、その姿ではないか、こうパウロは言うのです。これは、すさまじい律法との闘い、に敗れた、パウロのその経験から来るところのゆるぎない説得であり断言であります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp; Ｏ　「それなのに彼らがあなたがたに割礼を受けさせようとするのは、あなたがたの肉を誇りたいためなのです」。パウロ、かつてのサウロ、サウロ時代のパウロの律法信仰の熱心さは、律法を信じることを通して、救いに与ると真剣に信じていた、それゆえのことでありました。しかしその熱心さは実は、肉に立つところの熱心さであったのです。人との比べ合いにあっての熱心さであったのです。けれども、サウロ時代のパウロにあっては、そのことはまったく気がついていなかった。そのころは純粋に律法をだれよりも信じ、一途に邁進していたように思っていた。だからダマスコにまで行ってキリスト信仰者を捕えようとしていたのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp; Ｏ　しかしそれこそ、今思えば、その熱心をもって、誰よりも律法信仰に進んでいる、それを誇りたい、その強い思いがあった、それゆえのことであった。そのときはまったくそれが分からなかった、気がつかなかった。しかし、それは御霊なるキリストに捕えられ、御霊のはっきりした扱いを受けることによって、ほんとうに分からされた事実であるということ。そこにあって、いやというほど知らされてきたこと。かつての自分自身の信仰は、自分の肉にあって立つところの信仰であった、神の前にほんとうに立つところの信仰ではなかった。人の前に立つ信仰、人の前に誇るところの肉の信仰でしかなかった、それを御霊を通して、否応なく知らされていった。そのパウロにとって、今、エルサレムから来て熱心に律法信仰、割礼信仰を勧めている彼らの姿こそ、かつての自分の姿であったのです。だからこそはっきり言い切れるのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;#8551;&amp;nbsp; 十字架抜きのキリスト、偶像のキリスト&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp; Ｏ　「あなたがたの肉を誇りたいためなのです」とはその経験を通してのパウロの結論、断言であります。彼らガラテヤ人を律法信仰の下に引き入れた、それこそは、自分たちの信仰の熱心のゆえのこと、それこそは、自分たちの立派な信仰の証しである、そう彼らは思っていることに他ならない。ここに自らを誇っていこうとする肉に立つ信仰者の姿があるのです。しかしこれは他人事ではありません。あのアダム以来、神に対する背き以来の、人間の願う方向、これこそが、自らの力をもって、働きをもって、神に近い者となろうとする、その者の信仰の方向なのです。肉にあっての信仰はすべてその方向へ行くしかないのです。それは先ほども確認した通りです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp; Ｏ　「あなたがたの肉を誇りたいためなのです」。人間の本質は罪であります。すなわち神に対するとことんの不信仰であります。この神との関係の断絶からこの世の人対人の罪が生じてきているのです。罪の根本は、神に対する不信仰。しかし、そのもっとも大切、肝心なところはぼやかして、肉なる人間が好み求めることをもって、人を引きつけていこうとする、人を集めようとする、ここに古き肉にこびるところの信仰の堕落、現代の多くの教会の方向違いがあるのです。キリストがこの世に降り来たって下さった、それは何のためであるのか。それはこの世の罪人を救うためでありました。何とならばこの世は罪人の世であるからです。何とならばすべての人は罪人であるからです。そのすべての罪人、すなわち全人類を救わんがために神の御子、神のひとりごは世に降り来たって下さったのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp; Ｏ　そしてその罪、全人類の罪をご自身の身にいっさい背負われて、十字架に付いて死んで下さった、それゆえに私たちはなお罪人でしかないのに、罪赦されて、今や神の子とされているのです。そこにあってこそ、真の自由、霊の解放、真の喜びが与えられていくのです。十字架はまさにそのためのもの。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;#8552;&amp;nbsp; 肉を誇りたいためなのです&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp; Ｏ　ですから、教会が愛や恵みで、赦しや寛容ばかりを強調して、罪をはっきり言っていかないというなら、十字架を通しての贖い、救いをはっきり言っていかないというなら、それはキリストのほんとうの救いを覆い隠すこと、ですから、その愛、その恵み、その赦しや寛容それはすべてこの世限りの、人間対人間の薄っぺらな愛となり、寛容となり、慰めとなるばかりであります。そうやって人を多く集め、教会の素晴らしさ、大きさを誇っていこうとする、それはまさに信仰を、いやキリストを誇るというのではない、この世の見える教会を誇っていこうとすることに他ならない。それこそがここで言う「あなたがたの肉を誇りたいためなのです」の出来事ではありませんか。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp; Ｏ　その肉に死んでこそ、十字架のキリストの死は、私、古い私の死である、それを受け取っていってこそ、キリストのよみがえりのいのちを我がいのちとすることができるのです。そこにあってはじめて、罪からの解放、霊の解放、それが具体的事実となるのです。ですから、肉を誇ろうとする、自分を誇ろうとする信仰こそ、悪魔が裏で糸を引くところの信仰なのです。そして肉を誇り、見た目を飾っていこうとする、ここに自らの働き、すなわち肉に立つ信仰、すなわち悪魔に支配されている、肉に蒔く信仰の実態があるのです。&lt;br&gt;
この肉の実態、肉の姿は、御霊にあって、御霊の光にあってはじめてはっきりさせられる者であります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp; Ｏ　ですから、&amp;#8544;コリントでパウロは次のように言っております。１２章３節「ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません」。聖霊にあってはじめて、古き肉に死んで、今やキリストのいのちで生きる者とされるのです、その事実をはっきり受け取らされていくのです。御霊にあってはじめてイエスは私のすべて、私の一切、キリストなくしてこの私はいない、それをはっきり受け取らされるのです。イエスは主、イエスは私のすべて、この告白こそ、御霊によって初めてなされるものであります。そこにあってはじめてキリストこそすべて、とキリストを誇っていく信仰が具体的にされていくのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;#8553;　十字架以外に誇りとするものあってはならない&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp; Ｏ　ですから１４節の言葉は、その御霊にあって、はじめて言えることなのです。「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです」。あのキリストの十字架こそ、私の救いのすべて、私の命の源、それをはっきりされていくのです。御霊にあって、自らの存在の罪に膿ただれている実態、それを日々にはっきりされていくのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp; Ｏ　そうなら、どうしてわが肉を、我が実態を誇っていこうとなどするでしょうか。古き我を日々具体的に後ろにして、キリストのいのちを慕い求めて行く。すなわちこの私は古きに死んだものとして、この世のいのちを後ろにしていく、それを日々はっきりさせられていく、これこそが真のキリスト者の日々の歩みなのです。日々己は肉でしかない、それを日々はっきり認めて、それを絶えず後ろにしていく、古き我を捨てていく、そこにキリストにあって生きる者、御霊にあって生きる者の歩みがあるのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp; Ｏ　しかし、後ろにしていく、捨てていくといっても、それはどうすることでしょうか。それはいっさいを主に明け渡すことです。一つひとつを主にゆだねていくこと、主に投げ込み、主に明け渡していく。これこそが肉に死に、古き肉を十字架にかけていくということなのです。１０節にある機会のあるたびに、とはそれを言っているのです。そこにあって、すべてのことはイエス様の出来事となるのです。イエスがすべてを負って下さるからです。そうやって、ぜんぶを主に丸投げしていく。そこにあって責任すべてを主が取っていって下さるからです。ですからキリストに全託する、キリストに私のすべてを丸投げしていく、それこそが古き私に死ぬということなのです、古き我を捨てていくということ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp; Ｏ　ですから、自分で自分の欲を抑え込んで、一生懸命悪い事、悪い思い、それが出てこないようにする、ということではないのです。それは結局は肉で肉を抑えるだけのことにすぎない。それはそのまま古い肉を生かすことに他ならないのです。後から後から出てくる欲、むさぼり、これは信仰から信仰へと歩んでいくところで、なくなっていくなどと思ったなら大間違いです。それは肉にあってなお歩まねばなりませんから、当然のように出てくること。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;#8553;&amp;#8544;&amp;nbsp; ありのままをもって&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp; Ｏ　この事実を前にして、多くのクリスチャンは大いなる迷いの中に置かれているのではありませんか。何とかしてこの肉の事実、罪汚れ、むさぼり、悪意、嫉妬それをないものとしようと、懸命なのではないですか。しかしいくらおさえこもうとしても、我が欲は、我が罪はいよいよ湧き出てきて止むことはない、だからそれが出てきていないかのように、それを覆っていく、白く塗りたくって、何事もないかのように、立派な信仰を貫いているかのように装っていこうとしている、そしてそのことにほとほと疲れ果ててしまっている。&lt;br&gt;
そしてそこにまた、自分の弱さや不安、畏れ、それが絶え間なく出てくる。家族のこと、将来のこと、病のこと、経済のことなど具体的困難、具体的な悩みが次次にでてくる、まさに立ち往生するしかない。それが私たちの実態ではありませんか。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp; Ｏ　ならばそこにあって、どうするべきか。それをそのまま、主のみ前に、認めていくことです。ありのまま差し出していくことです。これこそがキリストにあって肉に死んでいくことなのです。ぜんぶを主の御手に投げ込んでいくこと、自分で握りしめない、自分で処理しようとはしない、それを事毎に認めて、主のみ前に差し出していく、告白していく、弱さのまま、不安のまま、お手上げのまま、ただただすがっていく、より頼んでいく、それこそが、９節にあったところの、「善を行いなさい」であります。すべて主に丸投げしていく、ぜんぶお任せしていく。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp; Ｏ　それこそは、親にぜんぶやってもらうところの、信仰の幼子の姿と言えるではありませんか。イエス様自身がそれを望まれているのです。もう主の側では、私たちの今もっての肉の様、罪の様、その弱さ、その恐れ、その不安、それをすでにとことん知っていて下さる、分かっていて下さる、だからそれをそのまま整えることなく、申しあげていくのです、差し出していくのです。主のみ前に嘆ききっていく、それをこそ主イエスは今も待っていて下さるのです。しかし、そうやって祈っていっても、差し出していっても、なお不安は消えない、恐れはなお残る、そこになお疑いがある、ならばそれをも含めて、そのままをなお、差し出していくのです。信仰のない私をあわれんで下さい、あなたに対する信頼のない私が、疑うばかりの私がここにおります。しかしほかに行きようがありません、ほかに逃げ場はありません。だからどうかあわれんで下さい、助けてください、と祈りを重ねていく。ここにこそ、私たちのほんとうの祈り、とことん心貧しくされているものの、主へのほんとうの訴えがあるのです。&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; &lt;br&gt;
　　　　　　　　&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/migiwakan/64869910.html</link>
			<pubDate>Fri, 31 May 2019 23:08:34 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>丹羽之記念集会のお知らせ</title>
			<description>&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; 　　 ２０１９年５月２５日　&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; 　　&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; 　　 丹羽之先生・記念集会のご案内&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; &lt;br&gt;
&amp;nbsp;&amp;nbsp; &lt;br&gt;
&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; &lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; 　　　　私たちが神の子どもであ　　ることは、御霊ご自身が、&lt;br&gt;
　　　　 　　私たちの霊とともに、 あかししてくださいます。&lt;br&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（ロマ書８章１６節）&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp; 　　 丹羽之記念集会も今年で第十二回を迎えることになりました。&lt;br&gt;
　　　今年は１９７０年１１月８日の日曜集会の聖書講解のテープを聴き&lt;br&gt;
　　　ながら、御霊に導かれる信仰とは、を中心に交わりのときを&lt;br&gt;
　　　持ちたいと思います。&lt;br&gt;
　　　　多くの方のご参加をお待ちしております。&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; 　 み ぎ わ 会&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; 記&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; 日　　時　　２０１9年６月２2日（土曜日）&amp;nbsp; １０時３０分～１６時&lt;br&gt;
&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; （１０時１５分受付）&lt;br&gt;
　&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; 会　　場&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; 御茶ノ水クリスチャンセンター　９階９０１会議室&lt;br&gt;
&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;#8481;　03-3296-1001&lt;br&gt;
&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; 会　　費&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; ２，０００円　　（会場費・昼食代）&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　&amp;nbsp; 主な内容　&amp;nbsp; 午　前　　聖書講解・「我ら今神の子たり」&lt;br&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　ロマ書・８章１５～１７節&lt;br&gt;
　　　　　　　　　　　　　（１９７０年・日曜礼拝における講解より）&lt;br&gt;
&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; 　　&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; 　　　 讃　美 ・ 今仲幸雄兄&lt;br&gt;
　&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; 　 午　後&amp;nbsp; 　証&amp;nbsp; し ・ 賛&amp;nbsp; 美・祈&amp;nbsp; り&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; 　　　　　　　&amp;nbsp; 以　　上&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; &lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/migiwakan/64868816.html</link>
			<pubDate>Thu, 30 May 2019 10:51:18 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>「イエスのよみがえり」</title>
			<description>&lt;div&gt;Ｏ　先月２１日は復活節、キリストのよみがえりを記念する日でありました。&lt;br&gt;
今日はこのことについて考えてみたいと思います。この主のよみがえり、死からのイエスの復活、これはたんなる死人が生き返る、死んだはずの人が息を吹き返す、そういうよみがえり、そういう生き返りではありません。死人が生き返る、そういうことは世にあっても稀にはあること、それは聞かないわけではない。しかしその人はまた時が来れば、再び死ぬのです、結局は死ぬしかないのです。あのマルタとマリヤの兄弟、ラザロのように、です。しかしイエス・キリストの復活、これは永遠の命をもっての復活、もはや死ぬことのない復活。神と一体とされての、神ととこしえのいのちを一つとする復活、であります。このことを今日改めて考えながら、信仰とは何か、どう私たちは神に向かうべきか、それを確認したいと思います。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;#8544;&amp;nbsp; キリスト信仰は復活にかかっている&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;Ｏ　私たち、キリスト者としての信仰、これは、このキリストの復活、キリストのよみがえり、これにすべてがかかっている、これを先ず確認しておかなければなりません。これこそ、この世のあらゆる宗教、あらゆる信仰、それらとはまったく違うところ、ここにキリスト信仰の本質があるのです。キリストが復活しなかったなら、キリストが甦らなかったなら、そもそもキリスト教はないのです。私たちのキリスト信仰はないのです。あるとするなら、それは他の宗教とまったく変わらない、この世限りの信仰、それが残るだけ。すなわち偶像としてのキリスト、それを空しく信じる偶像信仰者としての私たちがここにあるだけとなるのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;Ｏ　そこにあっては、どんなにキリストの素晴らしさが語られ、その御言が喜ばれ、それが私たちの歩みの基準となり、目当てとなり、目標となっているとしても、キリストが復活されなかったなら、いっさいはこの世限りの出来事。結局は、道徳的信仰、倫理的教え、となるに過ぎない。ならば、私たちは結局はこの罪の世にとどまったまま、救いも、神の子とされたということも、いっさいは空証文。結局はこの世から抜け出ることもできず、ただ滅び去るだけ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;Ｏ　このことから、復活のイエスにこそ、私たちの信仰のすべてがかかっている、それが分かるではありませんか。しかし私たちの信仰はどうですか。そこがはっきりしているのでしょうか。口ではさかんにイエス様、イエス様と唱えながら、なお、この世限りの、釈迦や孔子のようなイエスを信じているだけのようなことになっているのではないか。それが改めて問われるのです。もしイエス・キリストは甦られた、今も私たちとともにいて下さる、その事実がはっきり信じられているなら、私たちの信仰はもっともっと命に溢れ、喜びに満たされた信仰となっているはずではありませんか。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;Ｏ　パウロは&amp;#8544;コリント１５章１２節以下で次のように言っております。「12 ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。13 もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。14 そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。15 それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。16 もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。17 そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。18 そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。19 もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です」。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;#8545;　復活のイエスに出会う場はどこか&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;Ｏ　パウロは１６節で「 もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。17 そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです」、こう言っております。信仰によって義とされる、キリストを信じることによって神の子とされる、そういくら言われても、死とともにそれがいっさい失われるとなるなら、それがまったく空しいものとなるなら、すべてはいっときだけの空手形。いっさいは空しいだけのこと、依然罪の中にあって、救われることなく、やがて確実に死ぬ、滅びる、そうであるなら、復活を信じて喜び、感謝している私たちこそ、最も哀れなもの、恥じるべき存在であるというしかない、そうパウロは言うのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;Ｏ　しかし、この復活がパウロが言うように事実であったとしても、ならばそれを私たちはどのようにして分かることができるのか。それが真実である、事実である、それをどのようにして知ることができ、受け取るることができるのか。そして我がこととして命を懸けて、信じていくことができるのか。ですから復活が事実であったとしても、ここに第二の問題が生じてくるのです。今言ったように、キリストがほんとうによみがえられたとしても、復活は事実であるとしても、それを私たちはどうしたら分かるのか、どうしたら復活を信じることができるのか、であります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;Ｏ　しかし、私たちにとって、あの弟子たちがそうであったと同様に、肉なるこの世の存在にとって、この復活、イエスのよみ返り、これは到底受け入れられないこと、まったく信じられないこと、それがこのキリストのよみがえりであり、また神が約束していて下さる私たちが復活するということなのです。なぜなら、これは、私たちの側にあっての出来事ではない、この世の何かから生まれることではない、それゆえに私たちの及びもつかぬ出来事、すなわちこれは、どこまでも神の側がなされる出来事、一方的な神の側にあっての出来事。だから、この世をすべてとしている私たちにはまったく受けとれない、これは当然のことなのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;#8546;　直心、ありのままで&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;Ｏ　だから、これは、私たちが復活とは何か、よみがえりとはどういうことか、それを一生懸命研究し、自分たちの知恵や知識を総動員して何とか分かろう、何とか理解しようと、知恵を尽くし、力を尽くしていくところで分かることではない。熱心に頑張って、立派な信仰を立て上げていく、その先にあって、人間の働きの先にあって、そこで出会うことではない。いやそういう私たちの頑張り、そういう私たちの働きが砕かれる、破たんする、自らの信仰に絶望する、そのまったくお手上げとされる場、そこにあってはじめて分かることなのです。その良い例があのパウロのロマ書７章の出来事ではありませんか。これはこの世の出来事ではない、どこまでも神の側の出来事、彼岸の出来事だからです。ならば私たちのなすべきは何か、それが今言ったところの第二の問題なのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;Ｏ　ならば、私たちのなすべきこと、なすべき態度は何か。それは、この分からないということ、理解できないということ、受け取れないということ。それをそのまま、そのありのまま、単純に主にはっきり言っていく、言い切っていく、ありのまま訴えていく、訴えきっていく、これであります。これが私たちのなすべきこと、なすべき態度、これ以外に私たちの側の手立てはないのです。私たちが神と、キリストと出会う、その道はないのです。私は復活が信じられません。死んだものが甦ること、永遠の命を頂くこと、それは全く信じられません、それを主の前に言っていく、言い切っていく、それのみが私たちのなすべきことであります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;Ｏ　言い換えるなら、真実の神に向かう、真の神に向かう、それは私たちの何をもって向かうのか、ということであります。真実の神に向かう、それは当然、私たちの真実をもってであります、私の事実をもってです。私が分かっていることをもって、少しは知識があるということをもって向かうというのではない。真実には真実をもって、事実には事実をもってです。神の事実、神の出来事は、私たちの側では到底分からないこと、理解できないこと。私たちのいっさいから隔絶されたところにあっての出来事。ならば私たちの側の真実、私たちの事実、それは何か。それこそは分からないということ、全く理解できないとうこと、これではありませんか。完全にお手上げであるということ、これこそが私たちの真実、偽らざる人間の側の事実ではありませんか。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;Ｏ　ならばそれをもって主に向かうのです。それをそのまま主に告げていくのです、それを祈っていく、そのまま訴えていくのです。これこそ神の真実に対する私たちの当然の向かい方ではありませんか。真実に対しては真実で、事実に対してはどこまでも事実で向かうのです。だから、私は信じられない、理解できない、分からない、受けとれない、それをどこまでも神に向かてはっきり告げていく、訴えていく、その事実を神に言い切っていく、私たちの神に対する場は、これがあるだけなのです。その良い例がデドモと呼ばれるトマスの出来事でありますね。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;#8547;&amp;nbsp; 大胆に言い切る、祈り切る&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;Ｏ　ヨハネの福音書２０章２４節から読んでみましょう。「24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。25 それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言った。26 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように」と言われた。27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」28 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;Ｏ　ここで、トマスはどうしておりますか。周りの弟子たちは甦りの主にお出会いして、大いに喜んでおります。しかしそのとき現場に居合せなかったトマスはどうであったのか。他の弟子たちに合せて、復活の主に出会ったようなふりをしたのでありますか。みんなに合せて喜んだようなふりをしたのですか。そうではなかった、そうではありませんでした。彼はそこではっきり言い切っております、断言しきっております。「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;Ｏ　これこそがトマスの直心であり、それはそのままトマスの真実であり、また、私たちの真実ではありませんか。これこそ私たちのとるべき態度なのです。神のみ前に分からないことは分かりません、私には復活自体が理解できないのです、分からないのです、それをはっきり神に対して言っていくこと、断言していくこと、これです。すなわち直心、真の神に対しては、こちらの真をもって向かう。これこそがトマスの復活の主との出会いを導く叫びでありました。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;Ｏ　私たちはどうですか。長年信仰をやって来ているから、今更、そんなことは言えない、人前に告白することなどできない、そういうためらい、そういう躊躇、いやそういう庇い、それがあるのではありませんか、しかしそれこそが、キリストの真実との隔てとなっているのです。己の事実、己の真実をもって真実なる主に向かう、すなわちありのままで主に向かっていく、ここにこそ私たちの信仰のあるべき姿があるのです。すなわち直心、すなわち幼子としての神への向かい方です。そこにあってこそよみがえりの主との出会いが与えられるのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;#8548;　私たちにとっての復活の主は&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;Ｏ　しかし、私たちにとって、その復活の主、よみがえりのイエスとはどういうお方でありますか。それを次に見ていかなければなりません。弟子たちの復活の主との出会い。霊肉ともに復活された、あのイエスと直接相まみえる出会い、弟子たちはそのイエスを直接目で見て、直接手で触って、身体をふれあって出会った。しかしその復活の主との出会い、それはあの四十日間、だけのことでありました。それ以降弟子たちは、その復活の主をその目で、その手で見ていくことはありませんでした。主が昇天したがゆえであります。しかし彼ら弟子たちはその復活の主との出会いにあっても、今までの肉の囚われから、肉の恐れから、解放されていたのでしょうか。そうではない。彼らのユダヤ人に対する恐れはなお、消えておりませんでした。なお彼れらは人目を避けて室内に引きこもっておりました。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;Ｏ　ならば弟子たちが、ユダヤ人を恐れることなく、大胆に彼らの前に立って、イエスは甦られた、イエスこそ主である、それを大胆に、公然と告白していった、それはいつのときからでありましたか。それは聖霊降臨、ペンテコステの日にあってでありました。そこにあって、彼らはどこまでもはっきりと、公然とイエスの福音をはっきり伝えて行ったのです。それはまさにはっきりイエスは甦られた、それをどこまでも心から受け取ったことの何よりの証拠ではありませんか。イエスのいのちが彼らの内側にはっきり御霊によって刻印された、それゆえであったのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;Ｏ　この御霊について、イエス様はあらかじめ、はっきりと弟子たちに教えておられます。ヨハネの福音書を見てみましょう。１４章２６節「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」。私たちが頂く聖霊、これはイエスが話されていたすべてのこと、復活のことも、永遠の命のことも、そのすべて、それをはっきり私たちに教えて下さる、よみがえりの事実をもはっきり教えて下さる、ということです。ここに聖霊の働きがどういうものであるか、それが明らかに告げられております。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;Ｏ　それから、１５章２６節「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。27 あなたがたもあかしするのです。初めからわたしといっしょにいたからです」。御霊こそがイエスの真実、イエスの事実、それをはっきり教え、伝える。だからこそ、パウロが言っているように、御霊にあってはじめてイエスは主ですということができる、はっきり言い切ることができるのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;Ｏ　そして１６章７節「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。8 その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます」。ここに生前のイエス、そしてあの四十日間の復活のイエスとの関係、それを持つよりも、助け主なり御霊を頂くことこそ、そのすべてを越えて、益である、そう主は言っておられるのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;Ｏ　こう見てまいりますと、弟子たちがイエスの復活、よみがえりのイエスをほんとうに知ったのは、あの墓からの復活のときではなかった、彼らが聖霊をはっきりされたときであったということが分かるではありませんか。もしあの墓からの復活の、あの四十日間のことであったとするなら、私たちは今となっては、もう復活のイエスに会うことはできない、復活を我が内に受け取ることはできない、そういうことになるではありませんか。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;Ｏ　ならばあのパウロも私たちと同じ立場にあるということになるではありませんか。ですから、よみがえりの主に出会う、それは御霊にあってであるということが言えるではありませんか。御霊によって私たちははじめて復活の主の事実をほんとうに知るのです、知らされるのです。それは、御霊こそは復活のイエスの御霊であるということであります。私たちはキリストが甦られた、それをはっきり御霊にあってはじめてはっきり受け取らされるということなのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;#8549;　聖霊経験の証し&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;Ｏ　ある兄弟が先日証しをしておりました。信仰に入って、どうしても受け取れないこと、それはキリストの復活、よみがえりであるということでありました。それが分からなくて、悶々とした日々を過ごしていた、それは大学生のころであったということです。しかしその苦悩の日々の後、突然主の御霊の内住を頂いたということであります。そこにあって、その主の御霊の臨在にあって、よみがえりは当然のこと、当たり前のこと、それを突然はっきり知らされた、そういう証しでありました。ですから復活、キリストのよみがえり、これは甦りの主の霊、御霊を頂くことによって、否応なくはっきりさせられるということなのです。だからいのちの御霊とあるのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;Ｏ　私の場合も同様でありました。私は御霊を切に求めておりました。だから求める祈りをしきりにしておりました。しかし私の場合は、多くの兄弟姉妹が次々に聖霊を頂くのに、一向に頂く気配はありませんでした。その切なる祈り、切なる求めは足掛け三年続きました。多くの人が御霊を頂き、喜びの証しをし、また、異言の祈りをするのを目の当たりにしながらの、失意の日が続いておりました。三年目の夏の聖書集会のとき、これこそ最後のときとして、今まで以上に切なる祈りを続けておりました。多くの兄弟にとりなしても貰いました。丹羽先生にも按手してもらいました。今度こそはと、期待していたのですが、先生はあっさりほかの兄弟姉妹の方へ行ってしまわれました。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;Ｏ　暫くの時を経て、祈りも突き果て、身体も、意欲も尽き果てて、ただ無力、空虚なときを迎えました。やがて、自分はキリストとは関係ない存在である、それが切実に思われてまいりました。自分はキリストには見捨てられた者でしかない、そういう空しい思いのただ中に突き落とされてまいりました。まさに砂を噛むようなとでもいうような、索漠とした思いの中に暫く身を置いておりました。そして、こんな状態がいつまでも続くならば、もう信仰はやめよう、キリストは自分とは関係ないことなんだ、だから、明日早くこの場から抜けて東京に帰ろう、そのような決心をしておりました。そして暫くただ空しいまま床にあおむけになってただただ空しくそこに身を置いておりました。暫くそういうときが続いておりました。しかしそのとき、突然、大きな音を伴って、そのように感じました。そして光のようにキリストが我が眼前に降り来たって下さった。これが私の復活のイエスとの出会いの経験でありました。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;Ｏ　ですから、私たちがいろいろ苦労して復活を知ろうとしなくていいのです。私たちがなすべきは、私には復活が分からない、信じられない、それをとことん認め、それをそのまま、主に正直に、ありのまま、訴えていくこと、これのみであります。分からせて下さる、受け取らせて下さるそれは神の側の働きなのです。神が真の神であるなら、宇宙を造り、私たちを造り、私たちを神の子、神の家族とするために、ご自身の御子を十字架につけて、私たちを贖った、その事実を神が分からせて下さるはずではありませんか。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;Ｏ　神が真の神、生ける神であるなら、私たちにその事実を神の側ではっきり示して下さり、私たちに否応なく受け取らせて下さるのです。ならばそれを求めようではありませんか。それを祈ろうではありませんか。そしてそれがはっきりしないと言うのなら、その事実が示されないというのであれば、信仰をやめます、神がご自身を示して下さらないと言うなら、神、真の神はいないということなのですから、求めても得られない、分からないと言うなら今日限り、神を求めることはやめます、こう主に向かって大胆に言い切っていこうではありませんか。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;#8550;　復活の主の御霊、生ける水となって&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;Ｏ　これこそこちら側の真実、こちら側の実態ではありませんか。それを幼子のように、はっきり主のみ前に言い切っていく、直心をもって主に向かっていく。直心をもって主に向かっていく。それこそ心が貧しくされているところにあっての出来事です。これはですから、幼子にあっての言い切りであり、訴えであります。しかしそこにあってまた、主よお語り下さい、しもべ聞きます、とあのサムエルのように、なおへりくだりがそこに与えられていくのです。これこそ、そこに御霊が働いて下さっている何よりの証拠なのです。ですから、直心、と謙り、これは二つにして一つのことと言えましょう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;Ｏ　先ほどの兄弟の証しの後、ある姉妹、九十近くの姉妹が、私も最近聖霊を頂きました、異言を与えられました、そう言っていたそうであります。神は生きておられる、イエスは甦って、今私たちにご自身の御霊を与えようとされている、それには年齢や、体力、それはまったく関係のないこと、その証拠ではありませんか。主の前に無いものはない、分からないことは分からない、それをはっきり言い切っていく、それこそが幼子の信仰です。しかし、そこにこそ神が真の神であるなら、必ずその生きた事実をはっきり示して下さるはずです。ならば大胆に私は分かりません、はっきりさせて下さい、そう祈ろうではありませんか。幼子のように、直心をもって祈り切っていこうではありませんか。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;Ｏ　この御霊について、イエスはヨハネの福音書７章で次のように仰っております。３７節から３９節。「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである」。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;Ｏ　イエスを信じる者にはやがて、御霊が注がれる、そこにあって、私たちの心の奥底から、生ける水、すなわちイエス・キリストのいのちの水、復活のいのちの水、それが流れ出るようになる、ということです。御霊こそキリストの復活したいのちの水の源泉です。御霊はキリストの霊でありますから、それは当然でありますね。それを日々に飲んでいく、頂いていく、そこに私たち信仰者の日々があるのです。それこそ、日々によみがえりのキリストのいのちを受け続けていく、飲み続けていくということであります。それこそがとこしえのいのちの中に生きること、そして、これこそがキリスト者の毎日の歩みであると言うことであります。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/migiwakan/64847510.html</link>
			<pubDate>Fri, 03 May 2019 00:46:52 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>「目標を目指して」ピリピ書３：１０～１６　　　（１/４）</title>
			<description>&lt;div&gt;　　　Ｏ　今日はピリピ人への手紙３章１０節から１６節までを学びます。お読みします。&lt;br&gt;
＊＊ピリピ３：１０～１６・「10 私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、11 どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。12 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。15 ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。16 それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです」&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&amp;#8544;&amp;nbsp; 律法と福音&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　Ｏ　今日のところへ入る前に前回のところを見ておきましょう。１節から９節までです。「1 最後に、私の兄弟たち。主にあって喜びなさい。前と同じことを書きますが、これは、私には煩わしいことではなく、あなたがたの安全のためにもなることです。2 どうか犬に気をつけてください。悪い働き人に気をつけてください。肉体だけの割礼の者に気をつけてください。3 神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。4 ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。5 私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、6 その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。7 しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、9 キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです」。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　Ｏ 初代教会の信仰の歩みは律法信仰、割礼礼賛との闘いの歩みでありました。ユダヤ人たちはモーセの律法をしっかり守る、行う、また律法に定められ、神がユダヤ人の祖先として崇めていたアブラハムに施すよう命じていた割礼、それを施す、それをもって救いに与る、それによって神の救いに与る、と固く信じておりました。しかし、律法を行って、律法を守って救いを得る、それは、人間のその働き、人間のその行い、それによって救いに与ろうとするものであり、イエスによってもたらされた福音、それとまったく相容れないものでありました。神の御子キリストのあの十字架による救い、罪からの贖い、それは神の側の一方的な救いであり、一方的な恵みによる出来事、それゆえに、人間の側の行為、働き、それらはまったく関係ないこと、ただ信仰のみ、ただそれをほんとうとして受け取っていくのみ。ゆえに福音と律法、これはまったく相容れない、完全に対立するものでありました。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　Ｏ　キリストによるあの救いは、そのまま神からの一方的な恵み、愛の出来事であって、私たちはこのままで、ただその信仰によって救われる、このままで、神の子とされる出来事、それでこそ福音と言われるものでありまして、今まで律法によって苦しんできていたユダヤ人にとって、その行いの束縛から解放されるものでありました。しかしそれは律法にどこまでも固執するユダヤ人、律法をこそ神の民として誇りとするユダヤ人にとって到底理解できないこと、受け入れがたいことでありました。それゆえにキリストによってもたらされた福音はその初めから、律法信仰との激しい闘いの下に置かれていたのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&amp;#8545;&amp;nbsp; 聖霊による伝道&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　Ｏ　ならばそのキリストの十字架による救い、罪からの贖い、その一方的な神からの恵みの出来事、すなわち福音、ユダヤ人が到底受け入れることのできない福音がどうして広がっていったのか。どうしてユダヤ人や異邦人の中に受け入れられていくようになっていったのか。それはイエスの弟子である使徒たちの宣教によってでありました。しかし弟子たち、使徒たちもほんとうにキリストの福音を理解し、そのほんとうをはっきり分からされたのはイエスがキリストとしてこの世にあるときではありませんでした。ナザレのイエスのときではなかった。彼らがほんとうに救いを理解し、それをすべてとして、すべての人に伝えようとさせられていったのは、あのペンテコステの聖霊降臨を経てでありました。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　Ｏ　イエス様生前のときの弟子たちは、確かに忠実にイエスに従がっておりました。イエスに従順についていっておりました。しかしイエスをユダヤ人に売ったユダはともかくとして、他の弟子たちも、ペテロ、ヨハネをはじめとする使徒たちも、イエスが十字架の刑につけられる、その段となって、たちまちイエスの下を逃げ去っていってしまったのです。その彼らが自らのいのちも顧みず、あからさまに攻撃をしてくるユダヤ人の前で、イエスこそキリスト、イエスこそ主である、そう堂々と告白していった、それは彼らが御霊の内住を頂いてからでありました。彼らは、御霊によって、古き我を後ろにされ、イエスこそ真の主、イエスこそわがすべて、そのように大胆に告白させられていったのです。復活のイエスは天に昇られる前にその聖霊が降ることを予告され、彼らがキリストの証人となることを告げておられました。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　Ｏ　使徒の働き１章８節でイエスは、「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」とはっきりおっしゃっておりました。これはすなわち、福音宣教は、福音伝道は、御霊ご自身のなされること、御霊にあって、弟子たちはキリストの証人とされるということ、すなわち弟子たちの力で、頑張り、熱心で証人となるのではない、御霊によって証人とされる、これがイエス様昇天に際して弟子たちに言われていたことであります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　Ｏ　そしてその予告通り、ペンテコステのときにあって弟子たちにはっきり御霊が下り、一人ひとりの上にとどまったのです。すなわち一人ひとりがキリストのものとなった、一人ひとりがキリストの御霊を内に持つところの、キリストの似姿になったということです。ユダヤ人がイエスに激しく対立したように、キリストの似姿とされた弟子たち、使徒たち、彼らに対してもユダヤ人が迫害を加えて行った、それは当然のことであります。パウロ自身もかつてはイエスを信じる者たちに激しく対立したその急先鋒でありました。しかしイエスの御霊に捕えられ、あのダマスコではっきりキリストの招き、よみがえりのイエス・キリストに捕えられ、キリスト伝道、異邦人伝道の第一人者とされたのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　Ｏ　しかし、それはパウロ自身のうちから出ているものではない、パウロのうちにある御霊がすべてを導き、すべてをなしていったことであったのです。そのパウロが、ピリピの人に、「1 最後に、私の兄弟たち。主にあって喜びなさい。前と同じことを書きますが、これは、私には煩わしいことではなく、あなたがたの安全のためにもなることです。2 どうか犬に気をつけてください。悪い働き人に気をつけてください。肉体だけの割礼の者に気をつけてください。3 神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです」。こう告白しているのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　Ｏ　「 神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです」。ここにパウロの宣教の中心がありました。人間的なものを頼みとしない、すなわちそれはパウロの生まれながらのなにものをも頼みとしない、頼みとするのはよみがえりのキリストである、そのキリストの御霊であるという、これはその告白であります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　Ｏ　そして７節以下「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています」。ここにキリストをすべてとし、自分を完全に否定し後ろにしている、まさにキリストの似姿としてのパウロがあると言えるではありませんか。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/migiwakan/64822730.html</link>
			<pubDate>Sat, 30 Mar 2019 00:17:49 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>「目標を目指して」ピリピ書３：１０～１６　　　（２/４）</title>
			<description>&lt;div&gt;　　　　　　　　　　　　　　　　　　&amp;#8548;&amp;nbsp; キリストが捕えてくださっている&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　Ｏ　パウロが望んでいること、すなわち完全な復活、霊肉ともにの復活の体、それを頂く、それを得る、それはまだ実現してはいない、それはなお先のこと、これからのこと、イエスが再びこの世に来たり給う再臨のときのこと。だからこそ、それを望んで、はっきり我がこととしていきたい、その切なる望み、切なる願い、それをもって、その望みをもって、願いをもってただ今を生きている。だからこそ、続いて、「ただ捕らえようとして、追求しているのです」と言うのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　Ｏ　しかもそのように追及するように導き促すそれはどこまでも神の側なのです。それこそはキリストの導き、キリストの御霊の具体的促しなのです。だから追求せざるを得ないように日々に踏み出している、踏み出すように導かれている。だから続いて「そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです」とあるのです。キリストにあるものは、キリストの御霊を頂いているものは、その御霊によって、真のいのちを喘ぎ求めるようにされているものなのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　Ｏ　それを求めねば、もはや居れない、ただ今の状態では到底満足できない、ここにほんとうに心貧しくされているものの姿があるのです。キリストを追い求めキリストの恵みの中に日々なければ満足はない、喜びはない、だからこそ日々キリストを追い求めて行くのです、いや慕い求めて行くしかないのです。それが１３節の言葉です。「13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです」。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　Ｏ　キリストを知る者は、キリストによって本当に恵まれている者は、キリストなくしては一歩も歩めない、キリストなくしては、そこにほんとうの平安、ほんとうの喜び、ほんとうの解放がない、だからこそ絶えず貪るようにキリストを追い求めて行くのです。その霊の飢え渇き、それがキリストによってこそ満たされる、満足させられる、それをよくよく知っていくがゆえであります。「ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み」とはそれを言っているのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　　　　　　　　　　　　　　　&amp;#8549;&amp;nbsp; 自分に絶望しているがゆえに&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　Ｏ　それは私たちにおいても同じです。私たちも、それをはっきりさせられなければなりません。パウロだからもう完全な信仰にあって、いつも喜び満たされている、私たちとはまったく違う、そう思っているかもしれない。しかしそうではないのです。パウロもまた肉にあっては、ほんとうの満たしはないのです。そこに霊の飢え渇きが絶えず続くのです。パウロも肉にあって歩む限り、そこに私たちと全く変わることのない、なお肉に囚われ、罪にとらわれ、日々の出来事に振り回される、まさに私たちの日常と全く変わることのない場所に置かれているのです。だからイエスの御霊にあっての満たしをパウロは絶えず求めて行くようにされていったのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　Ｏ　御霊に導かれる中にあって、いよいよ自分の弱さ、愚かさ、信仰のなさ、それをいよいよ具体的に知らされていく、そこに古き肉に日々破れていく、日々心貧しくされていっているパウロの姿があるのです。だからこそそこでいよいよキリストのあわれみを慕い求めるしかないようにされていったのです。ですから私たちも、日々に苦しんでいいのです、迷っていっていいのです、それはパウロも同じです、パウロはそこでしかし、ただ主に目を向けていったのです。自分に敗れているがゆえです、自分に絶望していたがゆえであります。それを考えるとき、私たちはなおなお自分にまだ期待をしているのではありませんか。なお自分に期するところがあるのではありませんか。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　Ｏ　パウロと私たちの違い、それはただただ自分に絶望しているか、していないか、その絶望しきっているかどうか、その違いがあるだけなのです。私たちはまだまだ、自分にほんとうに絶望してはいないのです、だからこそとことん行き詰っていいのです。お手上げになっていっていいのです。そこにあってこそ真のキリストのいのちに触れるからです。パウロはそのいのちを、キリストのいのちを、その絶望のただ中で知らされていった、日々知らされていった。そこに日々キリストを追い求めるあの歩みとなっていったのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　Ｏ　１３節「 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです」。これはとことん自分の可能性に絶望し、自分の肉のすさまじさにお手上げにされているところからの告白です。だからただただキリストを追い求め、キリストにある満たし、キリストの平安をいよいよ切に求めて行く、求めて行くようにされていっている。「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために」、ここにイエスの御愛に渇きに渇き、ただただイエスにすがり求めて行く切なるパウロの思いが現れているではありませんか。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/migiwakan/64822725.html</link>
			<pubDate>Sat, 30 Mar 2019 00:13:08 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>「目標を目指して」ピリピ書３：１０～１６　　　（３/４）</title>
			<description>&lt;div&gt;　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&amp;#8550;　キリストにある成人&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　Ｏ　「15 ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます」。パウロはここで、「成人である者は」と言っております。成人とは、何か。これは形容詞テレイオスの名詞形です。完全な者、立派に成長した者という意味です。これはすなわち完全なお方、イエスをそのまま受け入れているものという意味です。古き肉を立派にし、いよいよ高みにおいていく、そういう人間自体の成長したと言う様を言っているのではありません。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　Ｏ　人間そうやって古き肉の上に立派な信仰を立て上げていくと言うなら、信仰を成長させていくと言うなら、いよいよ己を高みにおいていくばかりです。そこにあっては自分の信仰、自分の確たる信仰、それが誇られて行くだけであって、あのルカ１８章のパリサイ人の信仰となっていくだけであります。しかしそこでその傍らにあった取税人、彼はどうか。自分にとことん絶望しております。自分の罪にいよいよ破れて行っております。しかしそこにあってあのこの罪人をあわれんで下さい、この祈りにあって彼こそは義とされたということです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　Ｏ　義とはキリストの完全を表す言葉です、神の完全を表す言葉です。取税人こそは義とされた、それはキリストの完全を与えられた、ということです。「成人である者」とはそれを言っているのです。神のみ前では自分の罪をただ認めるしかない、それゆえにひれ伏していくしかない、それこそが成長したものなのです。すなわち自分にとことん破れている、完全に破れている、そこにキリストの完全が与えられていくのです。そのとことん破れている、低くされているところにキリストの事実、キリストの完全がそのまま与えられていくのです。それこそが真に成人となっている者の姿があるのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　Ｏ　「ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう」とは、すなわち、「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進んでいきましょう」。そして「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っていきましょう」ということです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　Ｏ　しかし、「もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます」。しかしもし、あなたがたがそれとは違う考え方していっているなら、とはどういうことを言っているのですか。それは自分の中に成長した自分を立て上げていこうとしていくということです。イエスをすべてとしないで、すべてを挙げてイエス様により頼むのではなくて、自分の中に確かな信仰を立て上げていこうとする、その方向、それこそが違った考え方ということです。しかしそれはそれをとことんやっていくところで、それは必ず頓挫するのです。必ず躓いてしまうのです。だからそこにあって方向違いが示される。たとえ、この世にあっては、それがはっきりされなくても、やがて再臨のとき、これは必ず明らかになる、はっきりさせられる。「神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます」とはそれを言っているのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　Ｏ　１６節「それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです」、私たちはすでに達しているところを基準として、進む、これはどういうことを言っているのでしょうか。達しているところを基準として、とはすなわち、今導かれているところ、今置かれているところに立って、であります。そこを足場として、であります。それはそのまま、今の実態に基づいて、であります、そこを出発点として、であります。そこにあってそこから踏み出して行く、主に向かっていくということであります。信仰がないなら信仰がない、それをそのまま認めて、であります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　Ｏ　「すでに達しているところを基準として、進むべきです」、しかし、ここを読み違えますと、これを私たちの熱心で、私たちの働きで、信仰の高みに達する、そうであるなら、なおその上に信仰を積み上げて、いよいよ確かな信仰へ、揺るぎのない信仰へ、向かっていくべきである、いよいよ熱心に務めていくべきである、そのような受け取り方になるのではありませんか。「進むべきです」と訳しますと、いよいよ出ていく、しっかりやっていく、そのような受け取り方になってしまうのではないですか。「進むべきです」、は「歩むべきです、生活していくべきです」、です。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　Ｏ　今置かれているところを出発点として、絶えず踏み出して行く、進んでいく。今疑いの中にあるなら、その疑いをそのまま主に述べて行って、です。怒りにあるなら怒りのままに主に向かってです。今具体的な問題を目の前にしているなら、それをそのまま自分で何とかしようとするのではない、それをそのまま主にお委ねしていく、そうやって今置かれているところを絶えずそのまま主に差し出していく、そこにあって主にふれて行っていただく。それがここで言うところの、「すでに達しているところを基準として、進むべきです」、であります。そこにあってこそ、確かなキリストの事実にある歩みが導かれてまいります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　Ｏ　それなのに、頭の理解で、自らの知恵と知識、経験でこれこそ信仰であるとして歩むとするならどうか。それは必ず砂の上に立て物を築き上げるようなもの、いったん事があるなら、必ず崩壊するしかない、そういうことになるだけです。日々自分の罪人でしかない、肉でしかない、だから絶えずずれて行ってしまう、絶えず外れていくしかない、それをただ認めていく、それこそが真の信仰者の立ち位置であります。そここそが達しているというところです。そこにあって主に向かう、主にそのまま委ね従っていく、これはそういうことです。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/migiwakan/64822723.html</link>
			<pubDate>Sat, 30 Mar 2019 00:08:09 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>「目標を目指して」ピリピ書３：１０～１６　　　（４/４）</title>
			<description>&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;#8552;&amp;nbsp; 砂の上、肉の上&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp; Ｏ　しかし信仰が自分の肉に期待した信仰であるなら、どうでしょうか。自分の思いや、自分の願い、そういうものをはかりとして、基準として、信仰を立て上げて行こうとするのではありませんか。「すでに達しているところを基準として、進むべきです」、これをそのようにとっていくのではありませんか。そこにあっては、必ず他人との比べ合い、それらをもって信仰、見える形の信仰それを立て上げていこうとする方向に行ってしまうはずです。他人よりさらに先に進んだ信仰を目指して、というような歩みとなってしまうはずです。そこにあってはどういうことが起こっていくのか。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp; Ｏ　あの「使徒の働き」にあるアナニヤ、サッピラの出来事です。自分たちの信仰がさも高いところに達しているように見せかけていく、自分の財産を売った、そのぜんぶを教会に差し出したように見せかけて自分の信仰を誇っていこうとした、これこそ、自分たちの置かれている信仰、そのありのまま、そこに立っての在り方ではない。自分の肉にあっての、自らを、自らの信仰を誇っていこうとする、そのあり方、ではありませんか。私たちは気がつけばそのような方向、自分を誇る、肉を誇るそのような方向へと迷い込んでいきやすいのです。だから自分の今導かれているそこに立って、そこを基として出ていく、それが、&lt;br&gt;
「すでに達しているところを基準として、進むべきです」、であります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp; Ｏ　マタイの福音書７章２１節からを見てみましょう。「21 わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。22 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』23 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』24 だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。25 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。26 また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。27 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp; Ｏ　ここに主よ主とさかんに言っている者たちがおります。彼らは自分が熱心に信仰をやってきた、立派な信仰である、それを自負しております。誇っております。しかしそれはなお自分の熱心で、自分の頑張りで、信仰をやっている、その自分の熱心、自分の頑張り、一生懸命さ、それをどこまでも誇っているだけで、そして自分は人より高みに至っている、より高い信仰の場所にいると思っている、まさに自分の働きによって、自分の熱心によって立てあが得た信仰を誇っているだけで、それは神がご覧になったなら、あのルカ１８章のパリサイ人の信仰にほかなりません。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp; Ｏ　自分の信仰を人と比べて、人との比べ合いで信仰を誇っているだけのこと、真の神のみ前には立っていない、人との比べ合いの信仰をやっている。自分の働き熱心で古き肉の上に信仰なるものを立て上げているに過ぎない。それこそは砂の上に家を建てているようなものだとイエスは言われるのです。神のみ前に立つならば、そこではっきりするのは、信仰などない自分、罪を犯し続けるしかないこの私、それがいよいよ露わにされていくだけであります。神のみ前に立つということはそういう自分をいよいよはっきりされていくということなのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp; Ｏ　そこにこそ自分がいるのです。それこそがこの自分の存在というものなのです。だからそこにあって改めて、あの取税人のように、この罪人をあわれんで下さい、この祈りがなされていくのです。そこにこそキリストにあっての信仰が与えられていくのです。それがキリストの岩の上に立たせられていく信仰なのです。キリストにある信仰であります。古き肉の上に立つ信仰、それは肉にある信仰です。それこそを砂の上に立てた信仰ということです。脆くてすぐに崩れるしかない肉、目の前に問題が生じてまいりますと、たちまち右往左往し、結局は主にすがるのではない、人にすがり、この世の何かに救いを求めて行こうとする。まさにそこにしっかりキリストに足場を置いていない姿がはっきりされていきます。そこに肉に立て上げていく信仰、それをイエス様はここで例えておられるのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp; Ｏ　「それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです」私たちが絶えず達しなければならない基準、いや心のおき場所。それは神のみ前であります。そしてそこにあって絶えず示されること、思われること、それはこの私の実態であります。頭の先から足のつま先まで罪に膿ただれている、それこそがこの私の身を置いていかなければならない場所、現実であります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;Ｏ　それをはっきりさせられる、日々それを知らされる、それこそが真のキリスト者が達しているところ、なのです。そこをほんとうに認める、そこに絶えず立ち返る、そここそが日々の出発点なのです。そこにあってすべてを主にお委ねしていく、それこそが私たちの歩みなのです。そこに信仰における成長というものがあるのです。進み方があるのです。それこそが、「私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです」であります。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;#8553;　キリストの熱心&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp; Ｏ 今日のところ、１４節でパウロは、「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです」、と言っております。ここをもう一度考えてみたいと思います。熱心に、一心に目標を目指して走っている、目標、すなわちイエス様に向かって走っている、向かっている、ここにひたすらなる信仰の姿がある、そうですね。これはそういうことであります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp; Ｏ　しかしここで、私たちは、そのようなパウロをしてひたむきにさせている、その大元はどこにあるのか、それを改めてはっきりさせられなければなりません。イエス・キリストこそが、一心に目標を目指して走っていて下さる、というそのそのことです。目標は何か、イエス様の目当ては何か、それこそがこの私たちなのです。私たち一人ひとりこそがキリストの目当て、目標なのです。その目当てのために、イエスはご自身を死に渡して下さって救いを完成してくださったのです。それをもって、それを通して、御父なる神の御心、私たち人間一人ひとりを神の子とする、それを通して、神の家族を形成する、その御父なる神の御思いを成し遂げてくださったのです、成し遂げてくださっているのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp; Ｏ　そして私たちを確実に天に導くために、今や天にあって私たちひとりひとりを取りなしていて下さるのです。そして私たちひとりひとりにご自身の霊、御霊を与えてくださって、その御霊によって私たちを今懇ろに導いていて下さるのです。私たちが熱心にイエスを目指す、それはキリストの方がもうとっくにこの私を捕えようとひたすらに向かっていて下さる、それゆえであります。その御心ゆえであります。そのことを最後にはっきりさせられたいと思うのです。すべてはキリストの御思い、キリストの愛の熱心から発している出来事なのです。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/migiwakan/64822721.html</link>
			<pubDate>Sat, 30 Mar 2019 00:04:21 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>「主の御名はほむべきかな」ヨブ記１：１～２２　　　（１/４）</title>
			<description>&lt;div&gt;&lt;br&gt;
　　　Ｏ　今日から月の最初の集会は今までの「伝道者の書」に代わってヨブ記を学ぶことにいたします。まずヨブ記とはどういう書であるか、それをまず簡単にみておきましょう。&lt;br&gt;
旧約聖書を三つに分けますと、創世記から始まるモーセの五書を中心とする律法の書、それから、預言者の預言を中心とする預言書、そしてそれに属さない箇所を諸書と区分けをしておりますが、このヨブ記は諸書に属する箇所であります。諸書にはヨブ記のほかに、詩篇、箴言、伝道者の書、雅歌、ルツ記、哀歌、エステル記、ダニエル書などがあります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&amp;#8544;　ヨブ記とは&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　Ｏ　ヨブが架空の人物か、実在者かそのような論議もあるようですが、エゼキエル書１４章１３節以下に次のようにヨブのことが記されております。「13 「人の子よ。国が、不信に不信を重ねてわたしに罪を犯し、そのためわたしがその国に手を伸ばし、そこのパンのたくわえをなくし、その国にききんを送り、人間や獣をそこから断ち滅ぼすなら、14 たとい、そこに、ノアとダニエルとヨブの、これら三人の者がいても、彼らは自分たちの義によって自分たちのいのちを救い出すだけだ」、このようにエゼキエル書にあっては実在者として記録されております。私たちも当然そのように考えて、これから見ていくわけであります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　Ｏ　年代はいつのことであるか、それはこの文書からでは分かりませんがエゼキエルより以前、イスラエルのバビロン捕囚以前であるということは確かです。ソロモンの時代ではないかという論もありますが、そうであるかも知れません。また、この文書の舞台となっているウツとはどこか。１章３節に、東の方のとありますから、イスラエルの東、エドムあるいはモアブあたりではないかとされております。エレミヤ書ではペリシテ、モアブ、アモンなどと並んで、このウツがあげられております。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　Ｏ　このヨブ記は旧約聖書の中では諸書と言われる部類に区分けされておりまして、ルツやエステル、などと同じように、主の御言が先立ってはおりません。他の預言者の書のように、主からイザヤならイザヤ、エレミヤならエレミヤが、アモスならアモスが主の言を示される、それを聞いて、それを受け取り、預言者がそれをユダヤ人に対し、神の御心はこうだ、だから悔い改めよ、と迫る。そして自らもその御言に添って行動をしていく、いわゆる預言者の書はそういう形でありますが、ここにはそういう形はない。だから諸書の部類に分けられていると考えられるわけです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　Ｏ　しかしこのヨブがいきなり、土地や財産だけでなく、家畜やしもべたちを失う、やがて家族、１０人の子どもたちをも失ってしまう。そうやってすべてを取り払われてしまう、そういう中で、主に対し、そのどうしようもない思いをどのように主にぶつけていくのか、と言う主との関係、主とのやりとり、そしてそこに三人の友人が関わりを持ってくる、それがヨブ記の中心をなすもので、神との関係はどうあるべきか、その具体的関わり合いが、このヨブ記の特徴と言えるのです。己の潔白を訴える、自分には罪はないことを訴え続ける、己の非を認めない、己を罪なしと主張し続ける、この神とのやりとりを通し、私たちは神との関係はどうあるべきか、その関係をどう持つべきか、それを学んでいくのであります。これはまたヨナ書にも似たところでありまして、そこにとくに新約ぬ通じる信仰の傾向を見ることができるように思うのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&amp;#8545;&amp;nbsp; ヨブが被る災厄&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　Ｏ　それでは今日の箇所に入ります。まずお読みします。1 ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。2 彼には七人の息子と三人の娘が生まれた。3 彼は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭、それに非常に多くのしもべを持っていた。それでこの人は東の人々の中で一番の富豪であった。4 彼の息子たちは互いに行き来し、それぞれ自分の日に、その家で祝宴を開き、人をやって彼らの三人の姉妹も招き、彼らといっしょに飲み食いするのを常としていた。5 こうして祝宴の日が一巡すると、ヨブは彼らを呼び寄せ、聖別することにしていた。彼は翌朝早く、彼らひとりひとりのために、それぞれの全焼のいけにえをささげた。ヨブは、「私の息子たちが、あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた。6 ある日、神の子らが【主】の前に来て立ったとき、サタンも来てその中にいた。7 【主】はサタンに仰せられた。「おまえはどこから来たのか。」サタンは【主】に答えて言った。「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。」8 【主】はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」9 サタンは【主】に答えて言った。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。10 あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。11 しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」12 【主】はサタンに仰せられた。「では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない。」そこで、サタンは【主】の前から出て行った。13 ある日、彼の息子、娘たちが、一番上の兄の家で食事をしたり、ぶどう酒を飲んだりしていたとき、14 使いがヨブのところに来て言った。「牛が耕し、そのそばで、ろばが草を食べていましたが、15 シェバ人が襲いかかり、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」16 この者がまだ話している間に、他のひとりが来て言った。「神の火が天から下り、羊と若い者たちを焼き尽くしました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」17 この者がまだ話している間に、また他のひとりが来て言った。「カルデヤ人が三組になって、らくだを襲い、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」18 この者がまだ話している間に、また他のひとりが来て言った。「あなたのご子息や娘さんたちは一番上のお兄さんの家で、食事をしたりぶどう酒を飲んだりしておられました。19 そこへ荒野のほうから大風が吹いて来て、家の四隅を打ち、それがお若い方々の上に倒れたので、みなさまは死なれました。私ひとりだけがのがれて、あなたにお知らせするのです。」20 このとき、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、21 そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。【主】は与え、【主】は取られる。【主】の御名はほむべきかな。」22 ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　Ｏ　１節から４節、「1 ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。2 彼には七人の息子と三人の娘が生まれた。3 彼は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭、それに非常に多くのしもべを持っていた。それでこの人は東の人々の中で一番の富豪であった。4 彼の息子たちは互いに行き来し、それぞれ自分の日に、その家で祝宴を開き、人をやって彼らの三人の姉妹も招き、彼らといっしょに飲み食いするのを常としていた」。３節に東の人々の中で、とありますから、さっきも言いましたが今のエドムかモアブあたりかと想像されます。ヨブはその家族においても、その所有する家畜やしもべにしても大変多く、豊かでそのウツ地方での大富豪であったとあります。それゆえに、大変恵まれた歩みをしていたということです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&amp;#8546;&amp;nbsp; サタンの介入&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　Ｏ　その姿はまさにこの世においても、また、神との係わりにあっても、理想的な関係にあった、と思われる。それがこのヨブでありました。神との係わりは５節以下のことばでも分かります。「5 こうして祝宴の日が一巡すると、ヨブは彼らを呼び寄せ、聖別することにしていた。彼は翌朝早く、彼らひとりひとりのために、それぞれの全焼のいけにえをささげた。ヨブは、「私の息子たちが、あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた」。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　Ｏ　しかしそういうヨブの神との関係にあって、裁きはわざわいなどあるはずがない、そう思えるヨブに対し、ふつうでは考えられない災いが次々に生じてまいります。しかし、事はこの信仰の人、ヨブとはまったく関係のないところで起こされたのです。それが６節以下です。「 ある日、神の子らが【主】の前に来て立ったとき、サタンも来てその中にいた。7 【主】はサタンに仰せられた。「おまえはどこから来たのか。」サタンは【主】に答えて言った。「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。」8 【主】はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが」、ここに主なる神と神の子たち、すなわち主なる神と天使たちとの交わりが記されています。そこにあって、この世の人々のその行状、その信仰の如何、それがいろいろ話し合われていたのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　Ｏ　その神の子の中に、サタンもそおっと身を置いておりました。神の子の一人としてであります。そして人々の良からぬ姿をいろいろ告げ知らせておりました。しかしその神のみ前にある様は、他の天使と変わることがないような様であったでしょう。天使の仲間として、周りからも疑いを持たれていなかった、真に自然であった。そのように思われます。しかし、そのサタンの性格を主はよくよくご存じでありました。しかし、このサタンであっても、些細なことも悪く捉え、中傷するサタンでさえ、こと、ヨブに関しては、悪く言うことはあるまい、そう神は思われたのでありましょう。それゆえに神はサタンに対して言っております。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」すかさずサタンは答えました。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　Ｏ　９節「 サタンは【主】に答えて言った。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。10 あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。11 しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」12 【主】はサタンに仰せられた。「では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない。」そこで、サタンは【主】の前から出て行った」。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/migiwakan/64799308.html</link>
			<pubDate>Thu, 28 Feb 2019 23:59:46 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
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