知多の美浜から

愛知県の知多半島中南部の釣り場の玄関口、美浜町上野間からお送りします
 カワハギのおちょぼ口と、その中に備えた歯、そして波打たせるように動かす背鰭と尻鰭こそが、餌盗り名人と呼ばれる摂餌行動の要因になる。ただし、このカワハギの歯については、うかつにインターネットの記事を見ようものなら、
「上下二枚の板状の歯でエサを噛み切る」
などと誤記しているサイトが、ここに出典を書くにも大変なほどにたくさんある。もちろんお分かりのとおり、これは一般的なフグの仲間の歯の特徴であり、カワハギの場合はむしろ
「上下それぞれ何本かの細い歯が並び、餌を削り取るようにして食べる」
とする方が正解に近い。
 
 インターネットといえば、カワハギの摂餌の動画がいくつも出ていて、これらはカワハギ釣りの参考になると思う。やはりカワハギの摂餌の仕方は独特だなあと実感させられるとともに、水槽のカワハギだけでなく、実際の海の中のカワハギの、垂下式の水中カメラの前でも撮影者が水中にいる映像でも、実におおらかに貪欲に餌をついばんでいる姿、時折、好奇心丸出しでカメラレンズに向かってきて、「おめえ、何よ?」とでも言いたげな姿は、実に印象的だ。
 
 これに対して、例えばシロギスでは、自然状態の摂餌の映像はほとんどなく、これは、シロギスがとても臆病で、普段目にしないものがあるとすぐに逃げてしまうため、カメラの前で餌を食べるのを撮るのが非常に難しいためらしい。だから、出回っているシロギスの摂餌の映像のほとんどは、臆病さを忘れてしまった(と書くと擬人的ですが、本当は人工環境への順化acclimatizationといいます。)水槽の中のものである。これら水槽のシロギスの摂餌動画は、懇意にしていただいているキス釣り名人には、  
「こんなドでかいアオゴカイを丸ごと放りこんで漂ってるのをのんびりモゴモゴ食ってるのを見たって、置き竿大物狙いならまだしも、餌を小さくつける通常のキス釣りの参考にはならん。」
と酷評されていた。
 
閑話休題
 
 普段の自然状態のカワハギは、主に海底などの餌をついばんだりかじり取ったり吸い込んだりして食べる。時に砂底に半ば入った餌の場合、口から水を噴射し掘り出して食べる。カワハギは投げ釣り仕掛けには比較的針掛かりしやすく、ごく普通に連掛かりもする。底に餌がある場合は普段の摂餌姿勢に近いのと「吸い込む」という動作が鍵になるような気もするが、確証はない。胴突き仕掛の水中にぶら下がった餌には、普段と違う不信感より好奇心と食欲が勝るのかどうか、寄ってきて、背鰭と尻鰭を波状に動かし、かつ、ほかの鰭も巧みに使って、鳥類や航空機でいえば停空飛翔(ホバーリング)の状態で、かじったりついばんだりして食べる。好奇心をそそるのか、仕掛けに集魚板をつけるのが有効のこともあるようだ。
 
 かくもカワハギはとても好奇心が強いうえに餌に対して貪欲なので、ピンポイント狙いや広角狙いに意味はなく、カワハギのいる場所でまっとうな釣り方をして仕掛けを垂らせば、
「おいおい、ナンダナンダ」
とカワハギが次々に寄ってきて餌をかじったりついばむ。防波堤などでは、カワハギ釣りの人が和気あいあいと並んで仕掛けを入れることで、より多くのカワハギが周辺から寄ってくる。だから、と逆のことを書こうと思ったが、釣り場とカワハギを独占しようとするかのように、自分のまわりにせこく・みみっちく・美しくない陰湿な結界を張って他の釣り人を排除するのは、釣り場の雰囲気にくわえて本人の釣果も含めてマイナスに作用しかねない、とだけにしておくのがいいだろう。僕自身には思いもよらないし、全く関係のない話だ。  
 今、知多半島では、サビキ釣りのアジ・サバ釣りで、近年にない好釣果が出ている。僕にとっての防波堤からのカワハギ釣りのイメージは、サビキ釣りに近いものがある。アミ類(いわゆるアミエビ)をコマセに使うサビキ釣りでは、程よい距離を保って釣り人が集まり釣ることで魚群を足止めしやすい。他の釣り人がいるからこそ釣れるともいえるため、海の中の無主物たる魚の所有権を主張する人はいない。カワハギでも、僕自身は握ってポンと海中に放りこむ寄せ餌などが有効かどうかは試したことはないが、何人もの釣り人が並んで好奇心と食欲をそそる餌つきの仕掛けを入れることそのもので、集魚効果が期待できる。
 こんなことはカワハギの習性を正しく理解すれば自明の理であり、知多半島の防波堤ではほかの釣りの人も多い時期と盛期の重なるカワハギ釣りだけに、まわりの釣り人はみな同じ釣りを楽しむ同好の人たちと考えて、戦う相手は海の中のカワハギだけでよく、せこくなく、みみっちくなく、美しく、大人の知恵を持って釣りをするのが僕は好きだ。
 
(以下2014/8/2追記)
 いちおう僕としては確信を持って自明の理と図々しいことを書いた上記について、防波堤でカワハギが釣れ始めたよと釣果を見せてくれた何人かのカワハギ釣り名人に見解を聞いてみた。いずれの名人も、
「カワハギや小物狙いで釣りをする人がまわりにいるときの方が、カワハギの寄りつきもよく釣果も上がるということでいいだろう。」
で一致していた。名人からお墨付きをもらったものと理解している。
(以上追記) 
 
 釣り人の多い季節だけに、知多半島の防波堤にはいろいろな人が訪れる。その中には、釣り場でのふるまいに関して、自分の価値観と異なるものをお持ちの方もあるかもしれない。でも、僕の目的は、ひとときカワハギに熱くなって釣りを楽しむこと、そして、幸せな気分で持ち帰ったカワハギを自分と家族で分かち合って食べることにある。隣り合った釣り人どうしの和気あいあいとした雰囲気が晴れ空だとすれば、価値観の異なる人が来た時はにわか雨である。そんな時は、「どうせにわか雨が去るまでさ」と再度晴れ空の広がるのを待つか、雨のかからないところに移動するかして、目的を果たすのがいい。僕は自分の腕の悪さをわかりきっているから、それを棚に上げて、もっと釣れるハズだったのににわか雨のせいで・・・などと、帰ってカミさんにグズグズ愚痴る必要もない。ましてや、こういったブログで釣行記と称して、
「あの釣り人がああだった、あの釣り人がこうだった。」
などと悪しき例を列挙して「世直し」するかのようで、実態はみっともない愚痴を書きつけ世間に恥をさらすのは、せこく、みみっちく、美しくないことで、いい歳をこいたおっさんである僕には本当に恥ずかしくてできない。うちのカミさんはそんなどこかのブログをいくつか見たらしく
「釣れなかった言い訳に、ほかの人がドウシタカラ・コウシタカラと愚痴るのもアレだし、ブログなんかで鬱憤晴らしするおっさんは本当に情けない。」
と言う。
 
 などと書いても、実は僕自身、混んでいる釣り場ではマナーに反することもしょうがないなどと思ったこともなければ、そんな容認発言をしたことも一切ないにしても、これまで無駄に防波堤カワハギ釣りの場数を踏んできて、その時だけ「あれ?」と思う曇り程度のことはあったが、愚痴愚痴いうようなにわか雨の状況に遭遇した覚えがない。かといって、僕は人格者ではないから、自分の中にある悪意を他人の表面に写し出しておいて相手から悪意を感じるようなことをしないとは、とても言えない。ただ単に僕が能天気で鈍感なだけかもしれないし、それならそれで幸せなのだろう。
 僕にとっては、好きこそものの上手でないカワハギ釣りだからこそ、釣果自慢も道具自慢もできないのだから、せめてひとりの大人として粋に楽しみたいとは思う。
 
 カワハギ釣りに関しては、稚拙な腕前の僕には特にこれが最高というものは思い当たらない。あまりものごとを考えない僕の拙い現況みたいなのは次のようになるが、僕はたいして腕も良くなく、あれこれとわけのわからない薀蓄をたれる資格はないだろうし、先に引用した小西英人氏の文章にあるとおり、
「考えすぎると、あなたの釣りが、せこくなるのである。みみっちくなるのである。美しくなくなるのである。」
(出典: 小西英人の遊魚漫筆 「第17回 皮剥 カワハギ」 小西英人(2010年))
は正しく、あくまでもカワハギ釣りには各人それぞれに
「正解ばかりあって間違いはない。」
(出典: 同上)
だろう。見方を換えれば、カワハギ釣りは防波堤や沿岸近くの釣船などでお手軽に始められる釣りであり、釣りにくいからといってマニア向けでもなく、また、特別な竿などが必要というわけでもない。やってみたいという方はお気軽な気持ちで始めてみればいい。
 
 釣竿については、僕は、7mの延べ竿が必要であれば使うし、クロダイ前打ち竿が最良の選択と思える状況であれば使い、釣り場の混雑状況次第で、長竿を振り回してほかの釣り人に迷惑をかけるのがはばかられるようであれば、落とし込み竿だって、場合によっては7尺の筏竿だって使う。どちらかといえば、アタリの取りやすいことと、まわりの釣り人への迷惑や威圧感を避けての和気あいあい感を含めた釣りの楽しさのためには、竿は短いほどいい。船からでは、高度に発達したカワハギ釣り専用竿を使うのもいいし、あまり深くない穏やかな海域では、筏竿を持ち出したりする。
 
 狙いは底近くになるため、先錘の胴突き仕掛けを使う人が多いが、先針の吹き流し仕掛けを好んで使う名人もいる。いずれにせよ、カワハギはゆっくり落ちてくるものに興味を示すわけでもなさそうなので、重めの錘を用いて仕掛けの「なり」をよくして、カワハギのわずかなアタリを出やすくする方がいいようだ。
 
 針は、ハゲ鈎系や狐鈎系などいろいろな形が出ている。餌盗り名人が相手だと小さな針を使いたくなるところだが、夏秋の防波堤からのカワハギ釣りでは、とにかくアタリを送ってきたものは釣ってやろうとあまり針を小さくすると、小型の掛かりも多くなってしまう。いくら速やかに再放流するとはいえ、手元の水汲みバケツの海水が季節柄すぐにぬるくなってしまう中で小さなカワハギが青息吐息であえぐ姿を見るのは極力少なくしたいと思う。また、フグほどはなはだしくないにせよ、特に軸の短い形状のハゲ鈎系で、小さすぎる針がカワハギの口に完全に入ってしまうと切り刃にも似た歯でハリスが切られることになる。僕の場合は、ハゲ鈎系も狐鈎系も4号以上のことが多く(ただし、キス用などを転用する場合は、同じ号数の狐鈎系とはいえ小さめのものが多いので補正して選ぶ。)、より大きなカワハギが釣れる、あるいは、期待できる場合には、より大きくしている。
 
 小型については、僕は15cmを再放流のめどとしている。13cmだろうと17cmだろうと次年初回産卵の個体だから殺す罪深さは同じだが、捌いた際の歩留まりや食べごたえなどを考慮して無駄な殺生を減らすためだ。防波堤では、放流する小型はロープ付き水汲みバケツに入れ、できるだけ速やかに、エレベーター式に水面に降ろして逃がす。高いところからカワハギを放り投げて水面に「ペッターン」と派手な音を立てさせるのは、針掛かりして暴れて釣り上げられて元気のなくなっているところに、また水面に叩きつけられるダメージを考えるとどうにも切ないからだ。
 
 カワハギは釣り糸の太さにはあまり頓着がないようで、常識的なものであれば警戒心を気にする必要もなく、針にかけた時点でこちらの勝ちだから(カワハギにしてみればなんと僕も身勝手な・・・)、針掛かりしてからのやり取りにスリルを求めて魚にも逃げるチャンスを増やすためなどと、細いものを使う意味がないと僕は思っている。僕はサディストでもないし、針掛かりして暴れる苦しみから早く開放するため、かつ、針が刺さったまま生きていくことになるカワハギを出さないため、十分に引っ張り強度の高い材質で2号以上を使い、素早く強引ともいえる抜き上げができるぐらいでいい。いくら好奇心の強いカワハギとはいえ、なにかに引っ張られるように尋常でない泳ぎ方で暴れまわる仲間を見て、さすがに「おいおい、ナンダナンダ」と寄ってくることはないような気がするので、取り込みに手間取って、寄っていたカワハギを散らすことになったら、周りの釣り人にも迷惑千万な話だと思う。
 
 餌は、貪欲なカワハギらしく貝類・エビ類のむき身やゴカイ類・イソメ類などいろいろなものが使える。若干、貝類へのつきがいいかな、と思える程度で、食いそのものは実質的にどれも違わないようなので、お好みで選ばれるといい。僕自身の好みでいえば、手返しの良さとカワハギの針掛かりの良さから貝類・エビ類のむき身を使うことが多い。先に引用した小西英人氏によると、虫餌はバラバラになりにくくて餌もちがいいとしているが、僕が試した限りでは、虫餌を使ってもアタリの出やすさはあまり変わらず、さすが餌を選ばないカワハギという感じがするものの、不思議なことに一部の形状の針で針掛かり率の低さと餌を取られるだけの率の高さが目立ったような気がした。とはいえ、他人の釣り方をむやみに公開するわけにはいかないので詳細は割愛するとして、虫餌の使い方にも見事な工夫を凝らし釣果を上げている人もいる。
 
 カワハギは完全な昼行性の魚といっていいだろう。夜は活動を停止し、海藻などを口にくわえ体を支えて流されないようにして眠るらしい。もちろん瞼はないから目を閉じてはいないが、カワハギの寝姿を僕も一度見ていたいと思っている。
 昼行性の魚だから、釣行はゆっくりでいい。どうも僕には、カワハギ釣りで防波堤のいい場所を取るのに早出というのは、せこくなく、みみっちくなく、美しくの精神からすると野暮に思えてダメだ。
「あのポイントで」
など無用にこだわって他の釣り人を敵視する必要性も僕は全く感じない。むしろ、早朝組の釣り人が引き上げるぐらいの時間にゆったりと始めるのが好きだ。
 また、僕自身は、何の釣りにせよお楽しみ真っ最中の先行の釣り人に対して、挨拶と称するものを、まるで割り込みの免罪符を求めるかのようにまくしたてるのは「能天気で空気読めない」NKYとして迷惑をかけるような気がして苦手で、顔見知りの人でもなければ、先行者には軽く目礼するにとどめて邪魔しないのを基本にして、状況により、必要に応じて、決して押しつけがましくないよう配慮しつつ言葉を交わすこととしており、「釣り場と釣り人の空気をよく読む」TTKYYでありたいと思う。
 
 仕掛けをセットして投入し、カワハギが寄ってくれば、擬態語でいえば「コン コン コン・・・」という感じのアタリが竿先に送られてくる。初めてカワハギ釣りをする人は、そのアタリの小ささに驚くぐらいで、
「カワハギを釣るぞ」
と意識していなければ、気づかないほどだ。だから、夏から秋にかけての防波堤からの小物釣りで、いつの間にか餌がなくなってしまうのはカワハギの仕業ということも多いだろう。
 
 カワハギ釣りのアワセは、擬態語でいうと基本は「スッ」又は「スーッ」である。初心者によくあることとして、掛からないからと熱くなって、アワセを大きく鋭くするほど釣れなくなる。周りの人をビックリさせるうえに、せっかく寄っていたカワハギまでビックリさせて散らしてしまうようなアワセは、カワハギ釣りでは古くからビックリアワセと呼ばれ禁じ手とされ、実際の針掛かりの効率も悪く、本当に情けないほどカワハギは掛からない。どこのインターネットサイトで見たか失念してしまったため引用できないが、顔文字を使って「 ビシ!!」などと表現するようなアワセは、正解ばかりのカワハギ釣りの中では、数少ない「完全な間違い」のひとつである。釣り一般の常識どおり、カワハギ釣りでも必要十分な強さのアワセにとどめることとし、鋭くあるべきはアワセではなく針先である。
 
 「コン コン コン・・・」のうちでも「ゴン」と竿先が鈍くほんの少しだけ大きめに下がるとき、「ココン」とほんの少し強めに連続するとき、竿先がほんの少し上がるときなどがアワセ時だといえるが、僕にはいつも的確に反応してアワセることができるとは限らない。実際は、どの「コン」でアワセればいいかもわからない場合も多い。誘いをかけるのに竿先を上げ下げしていることもあって一定間隔でもない「コン コン コン・・・」のリズムを読んで、次の「コン」で鈍く大きめに竿先が入るのを祈って、空アワセ的にタイミングを予測してアワセることもある。複数針の仕掛けではそれぞれの餌に別のカワハギがついてリズムが複雑になり、なおさらわかりにくい(これがあまりお気に召さずに単針仕掛けを好む人もいる。)。カワハギの摂餌の特徴から、一般的な用語でいう聞きアワセはあまり成功しないようだ。そんな調子なので僕にはなかなか掛けられない。
だから熱くなる。
やっと掛かる。
取り込む。
ほっとして横を見ると隣の人と目が合う。
雰囲気次第で「ああ同好の人よ。」と言葉の代わりに微笑んでthumbs-upする。
そしてまた仕掛けを振り込み、多くは
「あーっ、畜生」
時に
「ようっし」
などと周りの人に聞こえない程度の小声を発しながら静かに熱くあり続ける。
これがカワハギ釣りの醍醐味だと思っている。
 
 暑い季節に始まるカワハギ釣りは、飲料水をがぶ飲みしながらの釣りから、だんだんと秋風を感じながらの釣りになる。やがて、冷たい風の中での船釣りからの帰港の折、
「今日の本ギマは鍋にしようよ。」
などと義父に話しかけるころになると、もう、知多半島周辺での僕たちのカワハギ釣りの季節は終わりに近い。

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 信じられない程に小さなアタリを取って強い手ごたえの後に釣り上げたカワハギをしげしげと見るほどに、実に面白い魚だと思う。ちょっと変形した正方形みたいな体型に地味な模様のざらざらの皮膚、小さいながらも真ん丸で驚いたようにとびだした目、釣り上げてなお背鰭や尻鰭を波打たせるように動かしているのも面白い。そして、おちょぼ口としか言いようのない口には、カワハギを持つ手の向きを変えて正面顔を眺めるうちに、今度はこちらが釣られて同じように口をとがらせそうになるぐらいだ。
 
 知多半島の防波堤などでは、夏からカワハギ釣りシーズンが始まる。それに多少遅れて周辺海域の船釣りシーズンが始まる。
「カワハギの旬といえば冬でしょ?」
という方もあるかもしれない。カワハギが、産卵に向けて生殖巣を成熟させるのに、盛んに肝臓でさまざまのものを生合成し蓄積するのが冬で、いわゆる「肝パン」として肝臓を食べるのにおいしい季節にあたる。でも、カワハギの身そのものの味わいは、夏秋でもじゅうぶん、いや、むしろ、摂取した栄養分の多くを生殖巣の成熟に振り向ける時期よりもおいしい気がする。
 
 次年初回産卵とおぼしき10cmから18cmぐらいのものが釣れ始めるのが夏秋のカワハギ釣りであり、経産魚でないため、ヒトでいう「産後の肥立ち」は関係なく、真夏のはしりの時期から実においしいと思う。
 ただ、この大きさのカワハギは、産卵されてからの過酷な減耗期を生き抜いてきた後で自然死亡率が下がって、初回産卵を翌年に控えているものであり、漁獲して殺すのはカワハギ資源の再生産への影響はあるものと考え、僕自身は、常にうしろめたさを持ちたいと思っている。釣れるから、手ごたえが楽しいから、そして、釣りにくいといわれるカワハギをたくさん釣ったと自慢したいからなどとむやみに釣りすぎるのを慎むこと、それが「意識の高さ」に通じるのではないかと思う。
 
 カワハギは非常に上質な白身であり、刺身や塩焼き、包み焼き、煮付け、揚げ物、鍋ものなど、何にしてもおいしい。残念ながら鮮度の落ちるのが早く、釣り人だからこそ味わえるおいしさが際立つ魚でもある。鮮度のいいものだったら、カワハギの頑丈な皮を生かして姿焼きというのもまた、おいしさが身の中にしっかり閉じ込められ、皮の焦げた風味も加わっていいものだ。
イメージ 1
 
 夏からのカワハギの肝だっておいしい。僕自身の好みでいえば、生よりも、加熱した肝臓の方が食感もよくて味に深みがあるようで、刺身には湯がいた肝を添え、交互に食べるのがいい。煮付けにする際も肝を加えた方が身自体のおいしさが上がるような気がする。カワハギを捌く際に肝を取り出すにあたり、胸部にはしっかりした軟骨組織などがあるので、大事な肝臓をズタズタにしないよう気をつけた方がいい。また、肝臓には胆嚢がついているので、これを忘れず・つぶさず取り去ったほうがよく、さもないと、
「さすがは海のフォワグラ」
などと口では言いつつも苦味に顔をしかめることになる。
 カワハギはそんなに皮をむきにくい魚ではないと思うが、鮮度の落ちるのが早いからといって、釣ってきて皮のついたまま冷凍し解凍してからでは、皮むきがしにくくなってしまう。余計に釣ることなく食べるだけ釣って、持って帰ったらイキのいいうちに調理し味わうという基本に忠実な楽しみ方がいいようだ。
 
 夏ごろから釣れる10cm〜18cmぐらいのカワハギは、初回産卵を経ていないとはいえ、すでに二次性徴で雄の第二背鰭(第一背鰭は棘条一本なので直感的には第一背鰭に見える。)最前部の軟条が伸びてきており、これは雄、これは雌と分かる。二次性徴が出ているため未成魚でないので、以下、便宜的に「次年初回産卵魚」とする。この時期に盛んに摂餌するカワハギ次年初回産卵魚の成長は速いようで、だんだんと釣れるものが大きくなってゆく。ただし、晩秋の防波堤からの釣りの季節が終わりに近づいても、まだ小型魚は混じり、これは、生まれた時期や場所、浮遊・生育などの履歴の違いによるものだろう。また、カワハギ釣りの季節が進むと、知多半島でも場所によってはより大型の20cm〜30cmものが釣れるようになる。このぐらいの大きさだと、春から夏にかけて産卵を終えた後の経産魚だろう。
 
 知多半島近海のカワハギ船釣りは、僕の義父が、8月下旬に早稲の収穫を終えて(かつては海苔養殖に向けての準備も含めて終えて)、気もそぞろになってきて、
「ギマ、行かんかえ?」
と言い始める頃が季節到来のようだ。義父の言うギマとはカワハギ科カワハギ属カワハギStephanolepis cirrhiferの知多地方の呼び名で、本ギマともいう。ギマ科ギマ属ギマTriacanthus biaculeatusの方は、背鰭第1棘と左右腹鰭第一棘2本を合わせて、三本ギマと呼ぶ。文にするとややこしいが、なあに、棘3本の三本ギマの季節が終わって、初冬から海苔の収穫作業で忙しくなる前のひとときの楽しみの釣りの対象として、待ち焦がれていた本当のものということで本ギマという、実に生活に根ざしたわかりやすく良い呼び名ということだ。
 
 また、カワハギに近い仲間でウマヅラハギThamnaconus modestusも釣れ、こちらは「ウマヅラ」と呼んでいる。
「ウマヅラハギの食味はカワハギに劣る」
などとよく言われるが、鈍感な僕が何度か同時に食べ比べても、身のキメの細かさはややカワハギが上かな、ウマヅラハギにはほんのわずか渋みを感じるけれど意識しなければ味の違いは分からない程度かな、が結論で、僕自身では優劣つけがたいと思う。
 岸壁際に姿の見える「小さなカワハギ」は、実は白い石垣状の模様のアミメハギRudarius ercodesのことも多く、こちらは大きくなっても10cmにも満たず、ごくまれにカワハギ釣りでも釣れてくるぐらいだ。
 近縁種のウスバハギAluterus monocerosも知多半島周辺にいるはずだが、僕は釣ったことがないし、義父に図鑑を見せて釣ったこと・見たことがあるか聞いても
「さあ、どうだったけえのお」
ということだ。
 これに似たソウシハギAluterus scriptusの方は伊勢湾口部の三重県答志島でも採捕例があり、こちらはフグ毒テトロドトキシンよりずっと毒性の強いパリトキシンを内臓に持つ個体もあって、釣れても安全に捌ける自信がなければ食べない方がいいだろう。
 
 知多半島のカワハギ釣りは、現象的には、盛夏の頃にまず防波堤などの岸から次年初回産卵魚が釣れ出して始まり、大型の経産魚もまじえて秋が深まるころまで続き、やや沖合の岩場まわりなどの船釣りは晩夏の頃に始まって主な釣り場を深みへと移動させながら晩秋・初冬まで続くというところだ。
 
 単純に解釈すれば、知多半島のカワハギは、夏場に防波堤まわりなどについて、その後、順次沖合に出て岸近くの岩場まわりにつき、冬にかけてさらに沖合へと移動していくとも考えられる。ただしこれは、あくまで「釣り」というバイアスを経ての仮説であり、冬から次の夏までの動向も含めて、実際はどうなのか不明としておくのがいいだろう。
 
 知多半島のカワハギの生態は、釣りという手段を通して考えるとやはり謎が多い。初夏から沿岸の定置漁具である角建網に次年初回産卵魚が入網する例はあるが、夏前までは経産魚も含めて知多半島及び周辺でカワハギが釣れた例がない(これもあくまで僕が知らないだけのレベルではある。)。
 
 8月の上旬ころから伊勢湾の湾口部のカワハギ船釣りが始まって釣果が上がる。こちらは、次年初回産卵魚ではなく、産卵を終えた20cmを超える大型の個体が対象になる。
 5月頃から、三重県南部などでは大きなカワハギが釣れることは有名である。僕も五ヵ所湾でのキス投げ釣りの折に、30cm近い大型カワハギを連発したことがあり、豪快な手ごたえを感じながらリールを巻くうちに、水面にボコッと出て横倒しになって寄せられてくる大きなカワハギ、しかも、時折、連で上がってくるのを見るのはとても痛快だった。これらは生殖巣の状態から、あきらかに産卵を終えた個体だった。こういった例は、知多半島周辺では経験したことも聞いたこともない。
 
 カワハギ以外にも一般的に、釣りを通して魚の生態を知ろうと思っても、釣りそのものには当時状況ごとの特殊性や実にさまざまのバイアスがあり、外に向けて主張できるような明快な結論としてまとめられることは少ないような気がする。
「○○について、ある日、ある時、あるところで、自分がこのようにしたら、こうだった。」
というのは確かに事実の蓄積のひとつとなる。でも、さまざまの特殊性やバイアスなどを含む可能性のあるこれだけをもってして
「だから○○はこうだ。」
とまでいうのは、ひとつ(あるいは少数)の事例から普遍的な法則として決めつける
「エピソード主義」
であり、検証・実証したなどと言いながら、実際の中身は本人が言い張っているだけで愚にもつかないようなものもある。ましてや、ありもしないことをあった、やってもいないことをやったというのは(その逆も)論外である。一度ぶち上げてしまった決めつけが間違っていたなら間違っていたで修正・撤回すればまだいいものの、あれこれと無茶な理屈で煙に巻こうとしたり、いつの間にか勝手にダンマリを決めこまれては、受け取り手としてはたまったものではない。何かを主張するに当たっては、事実を積み重ねたうえで客観的に示せるもののみに根拠としての価値がある。
 
 世界的な科学雑誌にありとあらゆるデータが出鱈目な研究報告論文を出して派手に喧伝しておいて、不正を指摘されると謝罪の言葉もなく「到底承服できません」と戦闘モードに入り、博士論文からして何から何までが出鱈目だったのを指摘されると、草稿を誤って提出していたと驚くべき発言を重ねた不思議博士が、疑義に対する科学者としての武器であるまともな証拠を何一つ持たない代わりになぜか弁護士を伴って現れ、涙ながらに
「○○○○細胞はありまぁす。」
「私は200回作成に成功しています。」
「私だけが知るコツがあります。でも次の論文のネタだから教えません。」
などと言い張って、世間一般からは顰蹙を買い、世界中から失笑を買って、日本の科学技術の信頼を地に落とした実例がつい最近もあったところだ。
 釣り人ならば、身内や仲間内では釣りについて気軽に・大いに考えて語るのは当然である。しかし、いざ、外に向けて何かを主張するならば、しっかりした根拠の裏付けのある事柄なのか、あるいはそうでないのか、区別したいものだと思う。
 
閑話休題
 
 カワハギ釣りに夢中になるのが症状の「カワハギ病」という言葉があるらしい。僕もまさにその一人かもしれない。夏から防波堤などの岸から、あるいは、晩秋にかけて義父の操船する船で沖からの、カワハギ釣りが大好きだ。カワハギは、投げ釣りでは割とあっさり釣れてしまう感じもあるが、胴突き仕掛などでは、アタリ一発針掛かりとは反対で、ごく小さなアタリが出ているうちにアワセてもなかなか掛からない。
「小さなアタリは前アタリ、大きな本アタリが出てからアワセる。」
などと念じて待っていると、小さなアタリが終わって、仕掛けを上げてみたらエサはなくなって針だけということになる。なかなか針掛かりさせられない魚だから釣り師は熱くなる。なかなか針掛かりさせられない焦燥感・屈辱感と針掛かりさせて釣り上げたときの達成感とを繰り返すうちに、ますます熱くなってのめりこむ、それがカワハギ病の正体らしい。
 
 ただ、僕に関していえば、エサや仕掛け、道具、釣り方、アワセ方など、いろいろやってきたものの、カワハギ釣りは何年やっても実に下手だと自己評価して、
「この程度しか釣れない自分・・・」
といつも思っている。そんな下手くそな僕が、カワハギを釣ることのできる自分はスゴイ、などと自慢するなどもってのほかである。負け惜しみながら、アタリがあってもなかなか掛けられないからこそカワハギ釣りは面白いんだと思い込むことにしている。
 
 釣魚に関する優れた随筆を数多く出している小西英人氏も、カワハギについて、次のような非常に面白い名文を書いている。
 
「カワハギ釣りは簡単である。なにせ、そこに五万といるのだから、勘所さえ間違わなければ釣れる。(中略)餌を動かしてやるとよい。(中略)オモリが先にある胴付き仕掛けにして、ハリ数を多くして、ハリスを短くして、変則的に上下に誘ってやるとよい。そして、たまには空合わせをするよい。胴付き仕掛けにすると、仕掛けの感度が上がるのと、より広い棚を探れる。ハリ数を多くすると、チャンスが増えるのと、餌が並んで誘いになるのと、より広い棚を探れる。ハリスを短くするのは、仕掛けの感度が上がるのと、絡まないのと、合わせが早くできる。上下に動かしていると、より広い棚が探れるのと、カワハギがそっと忍んできて、ホバリングしつつ上下にも移動しながら、一所懸命ついばまざるをえなくなり、つい魚信をだしてしまうという、へまも期待できる。その誘いの動きが変則的だと、いくら餌盗り名人のカワハギでも、へまが増えるであろう。たまに空合わせをすると、餌とまったく同じように動きながら、ついばんでいた、凄い餌盗り名人のカワハギでも、やられるであろう。そのうえに、餌も工夫したらよい。貝などで狙うことが多いようだが、たとえばゴカイなどの虫餌は、少々ついばまれても、ばらばらになりにくく餌保ちがよい。」
(出典: 小西英人の遊魚漫筆 「第17回 皮剥 カワハギ」 小西英人(2010年))
 
 このように、カワハギ釣りのコツをうまく紹介しつつも、次のようにすぐあとに最も大切なことを述べているのは、さすが小西氏とうならされる。
 
 「しかし、こういうことは、あまり考えすぎてはいけない。これを考えすぎると、あなたの釣りが、せこくなるのである。みみっちくなるのである。美しくなくなるのである。(中略)悔しがりながら釣るのがいいのである。(中略)カワハギ釣りには、正解ばかりあって間違いはない。しかし、その正解は星の数ほどあるのである。あれも正解、これも正解、たぶん正解、きっと正解…。そう正解だらけなのである。そのなかで迷えばいいのだ。(中略)そして、輝ける一日が終わったあと、神経戦を戦い抜いて、へろへろになったあなたと、五万といる中から家族の数だけのカワハギが残れば、それで楽しいのである。」
(出典: 上に同じ)
 
 これはもう、僕も諸手を挙げて大賛成、僕のような下手くそで暗中模索を続けている情けないカワハギ釣り師でも、たくさん釣れなくていいのだ、せこくなく、みみっちくなく、美しく、カワハギ釣りを楽しめばいいのだ、と勇気づけてくれる。そして、カワハギのようないい魚には、釣れるからといって数自慢で後のことを考えず釣りまくって処理・消費能力を超え、「皮むきが大変だ」「大量に冷凍して保存しなきゃ」などというのは、まったく似つかわしくないと思える。
 
 また、カワハギ釣りに関して小西氏の述べられている、
「正解ばかりあって間違いはない。」
とは、僕なりに解釈すると、自分のやり方に自信があるからといって他人の釣り方に余計な詮索・否定的な批評をしないで、お互いに釣り師として尊重しあうべしということにつながるような気がする。「マナーとは」などと大上段に構えて語るような資格は僕にはないようだが、釣りに関する全てのマナーの源流はそこにあり、各マナー項目はその源流から派生すると思う。
 源流からの脈々たる水の流れのない枯れ川のような意識のままで、すなわち、釣り人どうし尊重する意識も持たずに、マナー各論を振りかざして他人の非をあげつらう空虚さは、どうにも僕は想像しがたいことだ。

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さよなら ちょこさん

初夏から初秋までの暑い時期、知多美浜釣具店に来ていた預かり犬兼営業部長のちょこさん
については、12歳の誕生日を迎えてまだ幾日も経っていない2013年12月26日18時50分、脳梗塞(推定)による衰弱等のため死去しました。
 
ちょこさんは、雑種の父親、ゴールデンレトリーバーの母親から2001年12月に生まれ、その3か月後の翌年3月に僕の義父母の家に来ました。穏やかな気質はその時すでに備わっていた一方、元気と食欲は旺盛で、健やかに育ってきました。
 
人が大好きで、立っているときも座っているときも、伏せの姿勢でくつろいでいるときも横になっているときも、誰かが近づいていくと尻尾を振って、体に触れたりなでたりすると尻尾の動きを止め、手を放すとまた振り、遠ざかっていくにつれ動きが小さくなっていきました。食べるものを持っていると大きい丸く黒い目を輝かせ、「クレ」と見上げていたものです。
散歩のときは、綱を引っ張ることも好き勝手な方に行こうとすることも特になく、いつも少し斜め前を歩いていたので、連れやすい犬でした。それでも、散歩の帰りに義父母の家が近づくと歩調が速まったのは、「ごはんちょうだいスイッチが入った」と呼んでいました。
 
食欲旺盛といえば、義父母の畑についていき、作物をもらって食べるのが大好きでした。ミカンやビワ、クリ、カキに、カブやハクサイ、キャベツなど何でも好み、特に好きだったのはキュウリとダイコン、ピュアホワイト種のトウモロコシ、サツマイモでした。
作業中は畑の傍らに座って休憩時間のおやつを待ち、誰かが近づくと尻尾を振って、遠ざかると止めて、を繰り返していました。画像はそんな小春日和の日の風景です。 
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ちょこさんは暑い夏が苦手で、知多美浜釣具店に避暑に来ていました。人が大好きだったちょこさんは、犬好きのお客さんになでられてうれしそうに尻尾を振ったり止めたりしていました。
「ワンちゃんがいるからここに来るんだよ。」
というお客さんもいて、営業部長として活躍しました。
 
今年8月、僕が散歩に連れ出したとき、左前足・後ろ足の動きがわずかにぎこちないのに気づきました。確かに元気そのもので相変わらず食欲旺盛ではあったけど、なんとなく、そう遠くないうちに今生の別れの日が来るような気がしました。9月のはじめにはあのちょこさんの食欲が減退することもあり、高齢犬だけにとても心配になったものでした。
 
暑い時期は終わり、ちょこさんは1日中義父母宅ですごすようになっても体調を崩したときがありましたが、それでも回復してすごしていました。
そしてこの12月15日、夕方まで元気だったのが、夜になって突然深刻な状態になって立ち上がれなくなり、うずくまりました。僕たちは必要な対処をして動物病院の開く朝を待ちました。獣医師の診断は、
「脳梗塞の疑いがあり、また、肺炎を併発しているおそれ」
でした。あの日見た左半身の動きのわずかな異常のことが僕の頭をよぎりました。
 
義父母の家の居間で手厚い看病を受けていましたが、栄養強化食を口元にもっていっても日ごとに食べる量が減っていき、ついに食物をとらなくなって、点滴と給水だけが頼りになりました。衰弱が進んでいたにもかかわらず、誰かが近づくと横たわったまま尻尾を振っていました。
「ぽこぽこぽこぽこ・・・」
尻尾があたって居間の床を鳴らす音が、ちょこさんらしく少し間抜けで妙に滑稽に響くのは、無性に悲しいものでした。
 
12月26日には容体がいっそう悪くなり、優しい義父母に見守られながら、夕方、かわいがっていた妻の来るのを待っていたように、ついに三人の前でちょこさんは尻尾の動きと細い呼吸を永遠に止めたそうです。
今日12月27日、ずいぶん軽くなってしまったちょこさんを、長年暮らしてきた美浜町の大地に還しました。
 
ちょこさんはゴールデンレトリーバー系とはいえ雑種ということで、それほど高貴でも上品でもなく間の抜けたところがあるけど、そこがまたいいと皆さんにかわいがっていただき、あらためて厚くお礼を申し上げます。美浜町の地で暮らして幸せな生涯だったと思います。
 
食べることと寝ること、そして人が大好きだったちょこさん
義父母宅の人と近所の人たちみんなにかわいがられたちょこさん
知多美浜釣具店を訪れた人たちにもかわいがられ、釣り場に向かうのを、又は、楽しい釣りを終えて帰路につくのを見送ってきたちょこさん
さよなら
 
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また思い出話になる。僕の父は一応、旧財閥系の大企業に勤めてはいたものの、僕は詳しい事情をいまだに知らないが、生活はつつましいもので(いや、貧しかったといってもいいと思う。)、母もパートタイム労働に精を出して、やっと生活が成り立つといったところだった。大学に入った時、こんな家計の事情ならばと自虐的に授業料免除の申請を出したところ、なんと通ってしまい、大学院修了まで「勤め人の家庭なのに、俺は国家認定の貧乏人だ」と自嘲できるぐあいだった。
当然うちには自動車もなく、僕のものごころついたときから、釣りに行くときはもっぱら公共交通機関だった。家族で道具を分けて持ちあい、質素な(貧乏な、とした方が正しいのだろうが、あまり悪く書きすぎるのも気が引けるので)身なりをして、電車とバスを乗り継いであとは歩いて釣り場に向かった。自動車であちらこちら好きなところに出かけてお気楽釣り三昧などという贅沢は想像もしなかった。質素な釣道具で釣れた魚は大切に持ち帰って食べ、無駄にすることはなかった。
 
確かあれは、僕の小学生の頃の夏休みのある日、父と兄の三人で名古屋から名鉄電車の碧南線に乗って、西三河の高浜港駅で降り、しばらく歩いて衣浦大橋南の岸壁について釣りをしたときだったと思う。子供の掌にはやや余るぐらいの大きさの、丸っこく平べったい銀色の魚が次々に釣れた。これが初対面のヒイラギかと思い、針を外そうとすると吻が突出するのが面白くてもてあそんでいると、そばにいた釣り人に、
「ゼンメだな。煮つけにするとうまいぞ。」
と言われた。その日の晩の大きな卵巣つきの煮つけはとてもおいしかった。小さなガキのことだから箸さばきは下手だったのだが、骨からの身の離れのよさもよかった。これが僕とヒイラギ Leiognathus nuchalisとの出会いだった。
 
愛知県ではヒイラギのことをおおむねゼンメと呼ぶようだ。ガキの頃に貧しい家庭で釣りに行って釣れた大切な魚の思い出から、というバイアスを除いても、今でも僕は、ゼンメはとてもおいしい魚だと思う。ヒイラギはヒイラギ科であり、アジ科に近いことからも食味の良さは当然といえばそうで、特に、夏に肥大した卵巣をつけての煮つけや刺身にするとこたえられない。キス釣りでゼンメの群れに当たると大喜びで、キスが掛かると「なんだキスか・・・」とつぶやくぐらいだ。
 
これはうちに来られたお客さんとの会話だ。
「今日はキス釣りですか。今年はゼンメがいい調子でキス釣りで釣れてますよ。」
「いや、ゼンメは掛からない方がいいです・・・。」
次の週の会話
「先週はどうでしたか。」
「キス釣れたけど、ゼンメが多かったですね。どうやって食べたらいいか、それにやっぱりヌメリがねえ・・・。」
「じゃあ、ぜひ今日は持ち帰って、塩で洗って煮つけで食べてみてください。」
また次の週の会話
「キス釣り、結構調子いいですね。」
「いや、今日はゼンメ狙いでいきます。」
ということで、ゼンメ愛好者の誕生となった。かくもゼンメには食材としてのポテンシャルがあると思う。おいしいからと狙って釣るのもいいし、釣れてしまったゼンメでも、おいしい魚だけに大いに利用してほしいと思う。
 
ゼンメは、知多半島では、初夏から秋ごろにかけてシロギスと同じようなところに生息し、食性も似ているから外道としてよく釣れる。
投げ釣りで釣れると巻き上げる時に回転して仕掛けがヨレるから嫌い。
鰭に棘があるから嫌い。
ヌメリでヌルヌルしているから嫌い。
さんざんに酷評され嫌われることもあるゼンメだが、巻き取りの速度を落とせば仕掛けのヨレも気にならないし、ヌメリと棘は、ほとんど針を飲み込むことのない魚だから、針を持ってひとひねりして外してやれば気にならないし、メゴチばさみなどのトング様のものを使うのもいい。
ゼンメのヌメリを取るには、僕は持ち帰ってボウルなどの容器に入れ塩を2つかみほど入れてしゃもじで魚にまぶし、冷水で洗い去るという方法にしている。1回目でまだヌメリが残っていればもう一度繰り返すといい。ほかの方法としては、釣り場で日陰の乾いた砂にまぶし、海水で砂ごと洗い流す人もいる。最近では、ミョウバンの冷たい水溶液の中でかき回して冷水で洗うと一発だという話を聞いたので、ぜひ自分でもやってみたいと機会をうかがっている。
ゼンメは鱗も気にならない魚なのでヌメリさえ取れればあとはこっちのもの、内臓と鰓を除いて優秀な食材となる。新鮮なものでは刺身が秀逸で、これは頭を切り落として脊椎骨に沿って体側に切れ目を入れ、カレイやヒラメなどの五枚おろしのように身を切り出すのがいいと思う。
煮つけにする際には、雌の卵巣はとらないでおいて、一緒に煮るといい。または、卵巣を取り出して集め、別で煮てもとてもおいしい。かくもゼンメは肉のみならず卵巣もおいしい魚だと思う。
ゼンメは群れで行動するから、釣れるとすれば本当によく釣れる。また、これも最近複数の方から聞いた話では、初夏のゼンメは、場合によっては雌ばかりまたは雄ばかり釣れるといったことが起きるそうだ。ゼンメの産卵前の生態・行動に関する知見はほとんどないようで、これを裏付けるようなことは調べられなかったが、そうだとすると、雌ばかり釣れる時がチャンスなのかもしれない。
 
ゼンメゼンメ ゼンメうまいかしょっぱいか
あはれ梅雨の風よ情(こころ)あらば伝へてよ
男ありて初夏の夕餉にカミさんと二人
ゼンメを食らひて思ひにふけると
 
僕自身に関しては、どんな魚にせよ、釣れるからといって釣れるだけ釣ってしまうという釣りは、かなり前に卒業した。ゼンメのようないい魚は、釣ったらいい状態で持ち帰り、冷凍など考えずにおいしいうちに食べてしまった方がいい。
僕自身は、釣りをしたいから、そして釣った魚を食べたいから釣る。自分が食べる以外では、食べる喜びを親しい人と分かち合える程度にすることとしている。これが以前の記事でも述べた僕自身の掟、心のルールである。
産卵前の魚を釣るとき、捌くとき、そして食べる時、特に卵を持った個体の場合、甘っちょろい僕としてはいまだに切なさを感じる。なんとまあ自分は罪深いことをしているものだと思う。釣りというのは、たとえキャッチ&リリースなどでも、自分の手元から釣った魚がなくなったからいいんだと口を拭ってすむものでもなく、本質的には魚の命をあやめる行為であるとともに、エサの生命も奪うものだし、なにかと罪深い遊びであることは否定しようもない。おいしい卵を味わいつつ、自分が釣りあげて殺さなければどれだけの生命が生まれてきたものか、と思う。
ただ、親魚となるまでここまで生きながらえてきた魚だって、もとは生み出されたたくさんの卵から熾烈な試練をかいくぐってきたものであることは間違いない。確率的には、雄雌1個体ずつから生まれて次の世代の親魚になるのは2個体であり、それより少なければ種は絶滅、多ければ世界中の海にその魚があふれかえることになる。ともに生み出された多くの生命の犠牲の上に今の個体がある。魚の命の軽重の評価などできるわけもなく、みな重いのだ。
こんな当たり前のことでも、自らの心のルールにより、食べるために釣り、釣ったら食べることを基本とする釣り人だからこそ実感できるというと、ともすると、これみよがしにうっとおしいことを書く奴と罵られるだろうか。ほかの命を取り込まなければ生きていけない業を背負った生き物の一員の僕自身としては、自身の処理能力を超える分まで釣りまくると、楽しいはずの釣りなのに、どうも心が荒んでしまうような気がしてならなかったのだ。
そして、ガキの頃のあのゼンメとの出会いの日の夕食で、ゼンメのおいしさに家族の顔がほころび、貧しい家にも光が差したような、あのときもまた自分の原点であるべきだと思う。

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これを書いている5月上旬はおそらくまだ知多半島でも釣りシーズン中といえるマコガレイについて、昨年秋から、釣れた実物を見せていただいたり釣果情報をいただいたりする機会が、実に多くある気がする。ただ、マコガレイ釣りの情報については、それ以前から積極的に集めていたわけではないので、この何年かの「あまり釣れない魚 マコガレイ」の印象から、あくまでもそういう気がするといった程度だ。
 
とはいえ、定番といわれる釣り場ではそれほど釣果は上がらなかったようで、
「俺は釣れやせんかったぞ。」
と異論のある方がいらっしゃるのも理解している。確かに、船で渡る、あるいは、釣座陣取り合戦のあるような有名な釣り場でのマコガレイ釣りは特筆するほど盛り上がらなかったかもしれない。僕が注目しているのは、カレイ釣り場として地味なところ、又は、かつてカレイ釣り場といわれたところ、そしてカレイ釣り場としてみられることのなかったところで好釣果があったことだった(いずれも陸からの釣りの話です。)。
 
いちばんいい時には、一日に一人で17尾・最大37cm・半数近くが30cm超という猛者もいた。これは、産卵期前にカレイが集まってきていたのに加えて当日の気象・海象条件から密集したところを叩いたようで、例外かもしれない。でも、カレイを釣りたいという投げ釣りファンでも、初心者やちょい投げ派でも、僕に「あそこで釣れてますよ。」と言われて行ってみて、あっさり「尺マコ」も含めてうれしい釣果に恵まれた人もかなりあった。
 
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初めてカレイ釣りをした人が釣り上げた立派な身厚のマコガレイ
(画像左のものは、巻き尺を押さえるのに置いた僕の私物で、特に意味はありません。)
 
 
 
 
 
 
 
どんな釣りについてもいえることとして、空間軸と時間軸の広がりの中での一つの断面か点にすぎないだけの、ある日ある人ある場所の釣果から、まるで全体をひとくくりにまとめるかのように「知多の○○釣りは好調」又は「知多の○○釣りはキビしい」などと僕ごときが結論づけることはできない。ただ、冒頭に述べたように、昨秋からマコガレイを手にしてニッコリした人が妙に多い気がする。
 
また例によっておっさんたる僕の思い出話ではあるが、25年くらい前までは、イシガレイも含めて、カレイ類は知多半島でもそんなに釣れない魚という気がしなかった。また、小学生の頃、野間海岸で海水浴をすると、浅い海に小さなネズミゴチ類と合わせて小さなカレイが敷きつめるほどいた。今思うと、イシガレイもマコガレイも水温30度くらいになると弱いはずなので、夏の浅海域でもそれほど高水温になっておらず、沿岸を好む当歳のカレイ類が渚近くに多くいたということかもしれない。あのころは夏の最高気温が35度を超えるとニュースになるような時代だったと思う。
年月は過ぎ、僕がこの地に暮らすようになった数年前には、カレイ類はかつてほど釣れないものになっていた。昨年までは、春から夏にかけて野間の海に入ってみてもカレイ類の幼稚魚は見られず、小さなカレイを見ながら泳いでいた時代は遠い過去の幻のように消えていってしまったのかと寂しくなった。
 
今、知多半島では、潮干狩りシーズンを迎えている。たくさんの大きなアサリをめがけてまだ潮の引ききらないところに繰り出し、「小さなカレイがいっぱいいるね。」という人が今年は結構いるようだ。また、うちに寄られるお客さんからも、キス投げ釣りをすると、場所によっては小さなカレイがよく掛かってくる、というお話もよく聞く。
「もしや、マコガレイの稚魚がたくさん出ているのでは。確かめてみようか。」
という考えも浮かんだ。僕は昨年までこの時期にキス投げ釣りをして、小さなカレイを釣ることはほとんどなかった。例年どおりキス投げ釣り仕掛けを入れてみて、小さなカレイが連掛けでたくさん釣れれば、これまでとの比較でその多さが実感できるかもしれないし、ブログネタに画像のひとつでも、というところだが、思いとどまった。いつかのこのブログ記事で書いた、「心の掟」だ。
 
他の生き物の生命をいただいて自らも生きていく業(ごう)を背負った者として魚の命をもてあそぶことを良しとせず、食べるのを前提に釣る、釣ったら食べる(または親しい人と食べる喜びを分かち合う)、釣った魚を虐待せずいたわる、再放流ならば魚を傷めないよう速やかにする、という僕自身のルール、心の掟がある。再放流するからいいんだと小さなカレイを釣るのが目的では、それに反する行為となってしまう。ただでさえ恥多きわが人生なのに、自分で食べもしないような小さな魚を対象に釣りをして連掛けで喜んでブログネタするようなおっさんに成り下がったら、まさに恥の上塗りだ。
水産資源は再生産可能な資源であり、賢明なる利用をするべきだ。うちに来られるお客さん方によると、今年のこの時期は、切なくなるほど小さくて元気な当歳・1歳のアイナメもかなり掛かってくるらしい。同じく当歳魚・1歳魚の小さなメバルも多いようだとのことだ。もちろん、こういった稚魚・若魚が本当に例年より多く出ているのかどうか、確証を得るのは難しいかもしれないが、知多の魚族資源のこれからに期待をもって見守りたい心境である。
 
魚が生み出されてから成魚となって次の世代につなぐまでに、餌料不足など生育不適海域への移送や捕食など、もっとも過酷な状態にさらされるのは稚魚期までとされる。稚魚期以降になると、体のつくりや遊泳力、習性から、自然死亡率は成魚の値に近くなる場合が多い。だから、いろいろな魚の繁殖戦略は、いかに稚魚期まで生き残らせるかの反映で説明できることが多い。
たとえば、シロギスでは、6月頃から10月にかけて分離浮遊卵の多回産卵により多くの産卵数(大量に抱卵して一度に生み出すのではなく、順次卵を成熟させ産卵していくことで親魚の負担が少なくスマートな魚体でいられ、結果的には産卵期を通して多数の卵を産む。)と多様な条件での卵稚仔の生育環境を確保している。アイナメ類では、岩などに産みつけられた沈性粘着卵から仔魚が孵出するまで、雄がつきっきりで卵塊を保護し、大きめの卵から孵出する仔魚は比較的遊泳力があって、稚魚期に底生生活に入るまでの青緑色っぽい体色はプランクトンを追って水面近くを泳ぐ際の保護色になる。カサゴやメバルでは孵出まで体内で卵を守り、ある程度の遊泳力のついた仔魚を生み出し、仔魚はその遊泳力によってあまり浮遊せず、藻場や岩場などに近いところで生育する。マタナゴ類では遊泳力のある少数の大きな稚魚を生み出す。
 
自然死亡率の下がる稚魚期以降の生き残りには漁獲死亡率の関与が大きくなる魚種も多く、水産資源の永続的な利用という観点では、基本的に年魚で個体数の多いマハゼなどを除いて(実際僕もハゼ釣りは大好きです。)、未成魚の利用にあたっては十分考慮することとして、特に個体数の多くない根魚類やカレイ類などでは、初回産卵以降の個体を対象とする方がよさそうだということでもある。実際、食べる楽しみでいえば、根魚類もカレイ類も初回産卵年齢以降の魚体は食べでがあっておいしいし、皆さんもより大きな魚を目指しているはずだ。
 
仔魚期から稚魚期にかけて有眼側・無眼側が分化し底生生活にはいるカレイ類・ヒラメ類のことを異体類という。異体類では、産卵場に親魚が集まり、一斉に多数の卵を放卵・放精し、受精卵の数の力でその後の生き残りに賭けるという繁殖戦略をとることが多い。卵として生み出されてから稚魚期までには数多くが減耗する。幸運にも生き残った個体が稚魚となり底生生活に入る異体類の場合、潜砂行動もとるようになり外敵から身を守りながら積極的に摂餌するようになって、自然死亡率が下がる。当然、ここまでの生き残りには環境要因が大きく影響し、好条件の時には多くの稚魚が生き残ることになる。これが大量産卵の魚種でありえる卓越発生年級群だ。卓越発生のある魚種では、親の個体数と生じる次の世代の個体数の関係はそれほど密接でないともいわれるが、本当に親魚の個体数が少ないと、そもそも産卵場に集まって一斉産卵ということも起こりにくくなる。そこまで危機的な状況でなく産卵条件が確保され、稚魚期までの好条件があれば卓越発生となって次世代以降の個体数が回復する可能性もある。
 
知多半島周辺海域は、伊勢湾・知多湾・三河湾という内湾にあって、岩場の点在する砂泥地・粒径の小さな砂地のところが多く、マコガレイの好む生息場の条件にも産卵場の条件にも合う。今期、知多半島周辺に多くのマコガレイ稚魚がみられるとすれば、この秋から冬にかけて各産卵場に達したマコガレイから生み出された卵からは、何らかの好条件で稚魚期までの生き残りが多かったのだろうか。
 
僕も今度、潮が大きく引くときに海に入り、小さくても頼もしいカレイ稚魚をぜひともたくさん見てみたいものだ。仮定のうえに仮定を塗り重ねる話ではあるが、これらが卓越発生年級群となって、低水準だった知多のカレイ生息数に一発逆転をもたらすものであれと願いたいし、またかつてのように、ごく手軽にカレイ釣りが楽しめる時代が来てほしいと切に願う。

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