大天使ミカエルとミカエルの仲間達

きままに投稿。(転載ネタが多いかもです)

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醤油の続き
 
 
>じゃあ、今夜は、日本の調味用カルテル、日本の3大醤油会社、
ヤマサ醤油、ヒゲタ醤油、キッコーマンについて、説明しようか。
実は、ヤマサ醤油、ヒゲタ醤油、キッコーマン、この3大醤油会社の
経営一族は、全部、親戚。この3社の中で、最も重要な家柄は、
ヤマサ醤油の創業家の濱口家。というのも、濱口家の7代目
当主の7代目濱口儀兵衛(濱口梧陵)が、勝海舟のパトロンとして、
明治維新を進め、10代目当主の10代目濱口儀兵衛(濱口梧洞)が、
理化学研究所の評議員を務め、結婚した妻の堀ユキの姉妹である
堀ヒデの夫が、西郷隆盛の息子の西郷牛次郎であった。
 
この10代目濱口儀兵衛(濱口梧洞)と堀ユキの六男が、「菊正宗」で
知られる嘉納家の嘉納貴久子と結婚して婿養子になった毅六で、
ここで、醤油と酒が混ざったことになるのですが、さらに、10代目
濱口儀兵衛(濱口梧洞)には、他にも数名、息子がいて、そのうちの
1人である慎七郎が、日立グループの創始である満州・久原房之助の
娘の愛子と結婚し、もう1人の息子で11代目当主の11代目濱口儀兵衛
(濱口勉太)の娘の朝子が、大日本製糖の会長の藤山覚一郎と結婚を
して、醤油に砂糖が加わったわけです。11代目濱口儀兵衛(濱口勉太)の
もう1人の邦子の嫁ぎ先、それは、鳩山家の親戚の石橋家、つまり、
ブリジストンの創業家でした。
 
ヤマサ醤油の創始者である初代濱口儀兵衛には兄がいました。
そう、ヤマサ醤油の創始者である初代濱口儀兵衛の兄とは、
ヒゲタ醤油の創業者である初代濱口吉右衛門です。この
ヒゲタ醤油(兄の方)の濱口家の濱口順子の結婚した相手が、
キッコーマンの創業家である茂木家の当主の茂木新七だった。
茂木新七は、キッコーマンの社長を務めた人物です。で、
茂木家の恵子は、資生堂の創業家である福原家の福原有一と
結婚しています。福原家は渋沢財閥家の親戚です。
 
 
 
(貼り付け終了)
 
醤油って奥が深いね。
で、私、朝、こんなも見つけました。
 
ヤマサ醤油をたどったら、ラストエンペラー溥儀の弟の奥さん、嵯峨浩まで辿りついたよ〜〜
 
 
イメージ 2
 
 
 
イメージ 1
 
 
 
まだ、全部じっくり読んでないんだけど、
醤油の菌の研究から、何だか73○臭かったりするな〜〜とか思ったりした、(まだ全部読んでないんだけど)
とりあえず、メモしておきます。
(東京タワーの周辺でもバイオの研究はお盛んなようですぜ…)
 
殿の気まぐれ散策日記
 
 
 
で。こんなのあった
 
 
 
で。仁ねw
(こ、これは、独立党向けかな?w)
 
 
 
 
 
 
 

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閉じる コメント(1)

で。徳島県にも医者一族がいたりする。
後藤田さんとか石川さんとか。
ちょっと気になるけど何の脈略もまだない。

梧陵の支援と影響を受けた一人が、関寛斎である。寛斎は1856年(安政3年)、佐藤泰然の推薦によって銚子で医院を開業し、梧陵との知遇を得た。当時流行していたコレラの防疫に意を傾けていた梧陵は、寛斎を江戸の西洋種痘所(後の東京大学医学部)に赴かせ、伊東玄朴、三宅艮斎(三宅秀の父)の下でコレラの予防法を学ばせ、銚子でのコレラ防疫に業績をあげた。なお、西洋種痘所が焼失すると、1859年に梧陵は種痘所の再開のために300両を寄付している。
その成果により、梧陵は寛斎を経済的に支援し、1860年(万延元年)長崎に留学させた。
蘭学医・ポンペのもとで1年間学んだ寛斎は、1862年(文久2年)、銚子に戻る。梧陵は寛斎に長崎での留学を続けるよう勧めたが、寛斎は翌1863年に徳島藩の藩医となり徳島へ移住する。寛斎はのちに梧陵の勧めに従わなかったことを悔いたという。

2014/12/12(金) 午後 2:56 [ ミカエル ] 返信する

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