大天使ミカエルとミカエルの仲間達

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「ゴジラ俳優」スーツアクター・中島春雄さん死去 88歳…12作品に出演

8/8(火) 10:33配信
 1954年の映画「ゴジラ」で、初代ゴジラを演じたスーツアクターの中島春雄(なかじま・はるお)さんが7日午後、肺炎のため亡くなったことが分かった。88歳だった。山形県出身。

 中島さんは25歳の時に、日本初の特撮怪獣映画「ゴジラ」で、主役のゴジラのスーツアクターを務め、その後18年、12作品にわたり、ゴジラシリーズでゴジラを演じた「ゴジラ俳優」として名をはせた。

 71年「ゴジラ対ヘドラ」の出演後、42歳で東宝から専属契約解除を言い渡され、東宝系列のボウリング場勤務に。翌年公開の「地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン」で、特撮スタッフらの声かけによって再びゴジラを担当したが、この作品を最後にスーツアクター業を引退した。

 勤務先のボウリング場が閉鎖された後は、同社経営の麻雀店の店長などを務めた。

 中島さんは、海外でも「ゴジラ俳優」としての知名度が高く「ミスターゴジラ」の愛称で親しまれた。2011年には米ロサンゼルス市から市民栄誉賞を受賞している。



これ、偶然ですか?キンジョーヘーカwww


退位「次第に考え始めておられた」 川島前侍従長に聞く

8/8(火) 8:00配信
朝日新聞デジタル
 天皇陛下が退位の意向をにじませるおことばを発してから8日で1年。2015年まで侍従長を務めた川島裕氏(75)が朝日新聞のインタビューに応じた。川島前侍従長が在任中から、陛下は加齢により先々、象徴としての務めを果たすことが難しくなった場合でも天皇の位に在り続けることがあるべき姿なのか、「次第に考え始めておられた」と明かした。

【写真】川島裕・前侍従長

 陛下は昨年8月8日のおことばで「全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています」と語った。それから10カ月たった今年6月、国会で退位の特例法が成立。川島氏は「陛下のお気持ちに共鳴した国民の総意にもとづき、退位が実現することになったのはよかった」と話す。

 川島氏が、陛下が追い求めた象徴の意味合いを「如実に感じた」のは11年の東日本大震災だったという。天皇陛下は、発生5日後にビデオメッセージで、「被災者のこれからの苦難の日々を、私たち皆が、様々な形で少しでも多く分かち合っていくことが大切であろうと思います」と語り、その後、皇后さまと7週連続で被災地や避難所を回った。宮城県南三陸町の避難所では、行方不明の孫娘の写真を差し出した女性を気遣い、福島県を訪れた際には県産の野菜も購入した。

 「象徴の具体的なあり方は憲法に書かれていない。両陛下は各地で出会う人々と、心を込めて話をされ、視線を一瞬でも合わせる。お迎えした側は喜び、元気づけられる。そうした相互作用の積み重ねこそが、象徴天皇の意味だと感じた」という。
朝日新聞社



中島 春雄(なかじま はるお、1929年1月1日 - 2017年8月7日[1])は、日本の元俳優スーツアクタースタントマン。愛称は春ちゃん。趣味・特技は水泳潜水スキューバ・ダイビング柔道


山形県酒田市出身。実家は肉屋で、五人兄弟の三男だった。水泳・素潜りが得意で、のちのゴジラ役では大いにこれが役立った[2]。三男坊に家業は継げず、小学校卒業後に横須賀へ移る。
1943年(昭和18年)、14歳で横須賀の海軍航空技術廠の養成所に入る[3]。養成員(予科錬)となり、発着機部(カタパルト担当)配属となる。円谷英二有川貞昌と同じく、飛行機乗り志望だった。
1945年(昭和20年)、16歳。敗戦となり、実家へ戻る。家業を継いだ兄がまだ復員しておらず、肉屋を1年間手伝う。
1946年(昭和21年)、17歳。兄が復員したため、予科錬の同僚の紹介で、三沢飛行場進駐軍の物資輸送トラックの運転手となる[4]
1947年(昭和22年)、18歳。進駐軍の仕事が横浜に移るが、トラックを速度超過運転してしまい、牢屋に留置された後、占領軍から解雇される。新聞広告を見て「映画俳優学校」という俳優養成所に応募し、東宝や新東宝などの映画撮影所に出入りするようになる。
1949年(昭和24年)、20歳。黒澤明監督作品『野良犬』で映画に初出演するが、編集で出演シーンを全てカットされてしまったため、幻のデビュー作となった。
1950年(昭和25年)、21歳。俳優学校の講師からの誘いで東宝に入社。同期生には広瀬正一丹波哲郎高倉みゆきらがいる。役のつかない、いわゆる「大部屋俳優」となる。当時の東宝は賃金不払いが常態化しており、運転手時代の貯金を切り崩しながらの不安定な立場だったという。こうした状況から、組合に加入し、映画界の労働争議にも加わっている。
1953年(昭和28年)、24歳の折に『太平洋の鷲』での攻撃機航空兵役で、日本で初めて身体に火をつけてのファイヤースタントを演じる[5]。当時、日本にはスタントマンという職業はまだなく、「吹き替え」と呼ばれていた。この時期、数々の吹き替えをこなす。
1954年(昭和29年)、25歳。日本初の特撮怪獣映画『ゴジラ』で、主役の大怪獣ゴジラの中島曰く「ぬいぐるみ役者(スーツアクター)」を務める(この起用については、前述のファイヤースタントを見た監督の本多猪四郎に褒められたことがきっかけではないかと中島は述懐している[6])。以後18年間にわたり、ゴジラシリーズでゴジラを演じた「ゴジラ俳優」として有名になる。また、ゴジラ以外の怪獣映画でも、主役の怪獣役を演じる。
1956年(昭和31年)、27歳。『空の大怪獣ラドン』でラドン役を演じ、日本初の本格的なワイヤーアクションを演じる[5]
1965年(昭和40年)、36歳。『三大怪獣 地球最大の決戦』公開後、松屋デパートを皮切りに、撮影用の「本物」のゴジラを着てのキャンペーン巡業が始まり、大阪や名古屋など各都市でゴジラの実演を行う。
同年、円谷英二監督から直接、「春坊、TV番組をやるからちょっと助けてくれ」と声をかけられ、円谷プロダクション初のテレビ特撮作品『ウルトラQ』で怪獣「ゴメス」役を演じる[7]。以後、『ウルトラマン』、『ウルトラセブン』にも怪獣役などで出演したほか、怪獣ショーの立ち回り指導も行なっていた[7]
1971年(昭和46年)、42歳。東宝から専属契約解除を言い渡され、その後、東宝撮影所脇の東宝経営のボウリング[8][注 1]に勤務。
1972年(昭和47年)、43歳。特撮スタッフからたっての願いを受けて『地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン』でゴジラを演じる。この作品を最後に、ゴジラのぬいぐるみ役者を引退する。ボウリング場閉鎖ののちは、東宝経営の麻雀店の店長を務めた。麻雀店のほか、東宝共栄企業や東宝日曜大工センターで勤務していた時期もあった。
2011年(平成23年)、アメリカ合衆国ロサンゼルス市より市民栄誉賞を受賞する[9]
2012年(平成24年)11月、出身地である酒田市より「第1回酒田ふるさと栄誉賞」を受賞する[10]
2017年8月7日、肺炎のため死去[1]。88歳没。



酒田と言えば…
東京・千代田区の朝鮮総連中央本部ビルの売却先に、山形県酒田市のグリーンフォー リストという貸し倉庫会社が登場した。高松市の不動産会社マルナカホールディングスが 22億円で落札した朝鮮総連本部ビルを44億円で購入



で。英二さんこと円谷英一さん・・・


円谷 英二(つぶらや えいじ、本名:円谷 英一(つむらや えいいち)、1901年7月7日 - 1970年1月25日)は、福島県須賀川市生まれの特撮監督映画監督撮影技師発明家株式会社円谷特技プロダクション(現:円谷プロダクション)の初代社長。



昭和における特殊撮影技術の第一人者であり、独自に作り出した技術で特撮映画界に多大な功績を残したことから、特撮の神様と呼ばれる。円谷の人生は、活動大写真と呼ばれた明治時代の黎明期から、映画斜陽期を迎えた東宝解体までの日本映画界の歴史とそのまま重なっている。
一家は全員カトリック教徒で、英二の洗礼名はペトロ。墓所は東京都府中のカトリック府中墓地にある。
1957年東宝特撮映画『地球防衛軍』までは、圓谷英二の表記名でクレジットされていた。
円谷のもとには数多くの若き才能が集い、彼らは親しみを込めて円谷を「オヤジさん」と呼んでいた。ただし、英二本人に向かって「オヤジさん」と呼ぶ者はいなかったという。[1]



1901年明治34年)、7月7日、福島県岩瀬郡須賀川町(現・須賀川市)で誕生する[2][3]。生家は大束屋(おおつかや)という業を営む商家だった。
1904年(明治37年)、3歳。母セイが次男出産後病死(享年19)[2]。婿養子だった父の白石勇は離縁され、英一は祖母ナツに育てられる[2]。ナツの家系には、日本に銅版や洋画を持ち込んだ亜欧堂田善がいた。また、5歳年上の叔父一郎が、兄のように英一を助け、可愛がってくれた。
1908年(明治41年)、7歳。須賀川町立尋常高等小学校尋常科に入学し、成績は優秀だった。自宅敷地内の蔵の二階を私室としてあてがわれ、水彩画に没頭する。絵の腕は大人も驚く出来だった。あまり外向的な子供ではなかったという。
1910年(明治43年)、9歳。代々木錬兵場で徳川好敏日野熊蔵両大尉が飛行機により日本初の公式飛行に成功、これに強く感銘を受けた円谷は飛行機乗りに憧れを持ち、模型飛行機の制作に没頭する[2]。6年生になると、金属製の飛行機の発動機を製作するほどの飛行機少年だった。
1911年(明治44年)、10歳。巡業の活動大写真で『桜島爆発』を鑑賞するが、映像よりも映写メカニズムに強く興味を持つ。貯金をして子供用映写機を購入し、巻紙を切ったフィルムで手製の映画を作った。
1912年大正元年)、11歳。新聞に載った一枚の飛行機の写真を元に、精巧な模型飛行機を制作し、地元新聞の『福島民友』の取材を受ける。
1914年(大正3年)、13歳。尋常小学校高等科に入学。
1916年(大正5年)、15歳。尋常高等小学校8年生の課程を終える。米国人飛行士アート・スミスが東京で曲芸飛行を行い、この報道を受けてさらに飛行機熱を高める。
同年10月に上京、京橋区の月島機械製作所に見習い入社するが一月余りで退社[2]



円谷家の子孫の1人(英二の叔父の孫)で、英二とも面識のあった円谷誠は、英二本人は自身の誕生日を1901年(明治34年)7月7日と信じていたが、円谷家に残る家系図や戸籍上の記載は同年7月10日[6]であったことを明らかにしている。それもあってか文献によって5日、7日[2]、10日と様々であるが、円谷プロダクション公式サイトの「創業者・円谷英二」の項[7]では、現在の関係者間では「英二の誕生日は7月7日」が共通の見解となっており[8]、その見解を尊重、踏襲すると記されている。
円谷誠は明治時代の戸籍であることから、出生届を出し遅れて記録上は10日付で登録されてしまった可能性を示唆している。



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須賀川市(すかがわし)は、福島県中通りの中部に位置する

福島県の空の玄関口である福島空港があり、観光資源では全国の牡丹園で唯一の国指定名勝である須賀川牡丹園が代表格として挙げられる。
特撮の巨匠、円谷英二の出身地であることから代表作品のひとつであるウルトラマンに関する町おこしやイベントを精力的に行っている。



鎌倉時代以降は二階堂氏城下町として栄えたが、天正年間、伊達政宗に攻められ、須賀川城落城した。毎年11月の第2土曜日に行われる日本三大火祭りの1つ「松明あかし」は、このときの二階堂家の弔うために行われてきた伝統行事である。
江戸時代白河藩領となってからは、奥州街道屈指の宿場町として栄え、独自の町人文化も花開いた。江戸中期には俳諧が盛んであったため、松尾芭蕉は『奥の細道』の旅で須賀川宿に8日間も滞在した。



2011年(平成23年)3月11日に発生した東日本大震災で須賀川市は震度6強を観測。 市内西部の藤沼ダムが決壊し、下流の長沼地区で家屋が流失。死者7名、行方不明者1名が出た(cf. 東日本大震災)。[1] 津波の被災に隠れていたが、農業用ダムの決壊で死者が出たのは、世界でも例がなく、極めて稀な災害であった。

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