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夕方、料理をしながら旅行案内のTV番組を見ていたら、 聞き覚えのある曲がバックグラウンドミュージックに流れた。 料理の手を止めて聞いたが、涙がぼろぼろ流れてきてしまった。 聴いていた当時の状況が丸々と思い浮かんできたのだが、 どうしてもその曲名とシンガーの名前を思い出すことが出来ない。 あれは確か1990年代後半のことだったはずだ。 料理を中断してインターネットサーチ、 わずかに覚えているのはNZの歌手、そしてさびの部分だけだが、 コレだけで一発でYouTubeのビデオまでたどり着いた。 NZのSinger Songwriter、Bic Runga のSwayという曲だった。 1997年に発売されたアルバムDriveに収録されている。 Bic Rungerは1976年生まれのNZ人、 中国名のBicはNZアクセントではBec(Rebeccaの愛称)と同じ発音になるらしい。 Chinese Malaysiaの母親とMaoriの父親を持ち、 Christchurch生まれのSinger Songwriterである。 父親はベトナム戦争に出兵してた時に母親と出会い、 共にNZへ戻りBicを授かる。 1973年生まれのLeeよりわずかに年下であるが、 同じMaoriの血を引く者同士、共感があったらしく、 彼女も大好きであった曲だ。 実は今、ものすごく大きなde ja vueを感じている。 この記事、以前に書いたことがあるのではないだろうか... それで自分のブログの音楽の書庫を見直してみた。 しかし、この曲の記事は見当たらない。 それでは書きかけの原稿の中にあるのか... しかし、書きかけ原稿の中にも見つからない。 こんなにも強いde ja vueは久し振りだ。 あまりに強いのでどうも納得がゆかない。 判る人には判ると思うのだが、最近私はとても「冴えている」ようで、 外に出歩くと必ずといって良いほど知り合いに会うし、 他にも偶然と呼ぶにはあまりにも恐ろしすぎる偶然がたくさん身の回りに起こっている。 この「冴え」の代償は、肉体の疲れ。 今、体がものすごくだるい。 自分のアンテナが開放状態になっていて、 要らない情報までどんどん入ってくるからなのだろうか、 とにかく体がだるい。 このだるさ、運動した後のだるさや、考え事の後のだるさとは異なり、 うまく説明することが出来ないのだが、 ずぶぬれの衣服を引きずって、一晩中歩き通した後のだるさ、とでもいうのか、 とにかく体が重い(単に食べすぎなのかもしれないが...)。 de ja vueの仕組みはいまだ科学的には解明されていないよだが、 経験的に、疲れている時に良く起きるようだ。 今回、あえて「冴え」という言葉を使ったが、 この「冴え」ですら、なんら科学的な根拠は無く、経験的に使っている言葉だ。 経験的に、冴えた状態になると気になる人の気持ちに深入りしてしまうということがある。 気になる人の体調が悪いと、一種、情緒不安定になり、涙もろくなり、 普段ならなんでもないことでも涙がぼろぼろ流れてしまうこともある。 この「冴え」という言葉を使い始めたのは実は最近のことだ。 それまで、やけに偶然が多いなとは思っていたのだけれど、 自分ととても似た価値観を持つ人と出会い、 色々と気が付いたというか、発見があった。 もしかしたら、全くの思い違い、あるいは勘違いなのかもしれないけれど、 もやもやとして形が見えなかったのが、なんとなく形として見えるようになった。 形が見えると、それまで不思議であったことが、 なんとなく納得のできる出来事であったように思えるのだ。 この話、どう締めくくって良いのか判らないのだが、 ひとつ、経験的に判ることは、この「冴え」には周期があるようだ。 クリスマスの少し前から始まったこの冴えも、 肉体の疲れと共に収束に向かうと思われる。 またしばらく平凡な生活に逆戻りだが、 平凡な生活も、それはそれで悪いものではないと思う。 「知らぬは仏」ともいうが、
理解が出来ることによって、知識を得ることによって、 その対処法が初めて判ってくるものだと思う。 一番恐ろしいのは無知だ。 |
エンジェル・ストーリー
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以前、私の奇妙な体験について記事にしたことがありますが、 どうも、私とミニには「知り合いに出会う」という奇妙な能力があるようです。 彼と一緒に街を歩いていると、10中7,8の割合で、知り合いに出会います。 出会わないと、今日は珍しく誰にも会わなかったね、と話すくらいなのです。 いくらブリスベンは小さな街といっても、200万人都市です。 しかも、ゴールドコーストからサンシャインコーストまでカバーすると、200kmを超えます。 アジア人親とハーフの子供だから目立つのかも知れませんが、 それにしても本当に良く知り合いに出会うのです。 最近あった例は... モンスター・トラック・ショウでは2万人くらいの観客がいたのに関わらず、 座った席の隣がたまたまミニの学校のクラスメートの女の子でした。 ゴールドコーストのヒンタランドへブッシュ・ウォークへ行った時には、 ファミリー・ドクターのスモール先生と出会いました。 ピクニックへ行って知り合った見ず知らずの老夫婦は、実は私の友人のご両親でした。 このようなことがかなりの頻度で起こるのです。 先週末、ミニと久し振りにシティへ出かけたのですが、4組もの知り合いに出会いました。 一日でこんなにたくさんの人達に出会ったのは初めてでしたので、 大変びっくりしてしまいました。 最初、この不思議な偶然は私のものか、あるいはミニのものか判断しかねていたのですが、 どうやら、両方に備わっているようで、 私だけでも良く起こりますし、ミニだけでも良く起こるそうです。 ですから、2人一緒に出かけると、鬼に金棒状態なのです。 出かける前に、今日はどんな人たちと出会えるかな、と考えるとわくわくしてしまいます。 人と人のめぐり合いはいつも偶然の風の中です。 残念ながら、できれば会いたくない人と会ってしまうこともあります。 そんな偶然の残酷さに、悲しくなってしまうこともあります。 でも矢張り、楽しい出会いの方がはるかに多いのです。 私は、そんな楽しい出会いを大切にしたいと考えるのです。 このブログを通じて知り合うことが出来た皆さんも、そんな出会いの中のひとつです。 文章を通じての出会いですが、出会いには変わりはありません。 コメントを残してくださるブログ友の皆さんとは、直に会ったことはありませんが、 私の中にはそれぞれ皆さんのイメージ像があります。 皆さんの記事を読むたびに、その想像は膨らみます。 「一期一会」 最近では一度しかない出会い、一生に一度かぎりという意味でも使われていますが、 本来は一生に一度きりという思いをこめて、誠心誠意、真剣に行うべきことを説いたことばです。 何事にも一期一会の精神でのぞんでゆきたい、と思う今日この頃です。 |
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帰り道の運転中、信号待ちでふと右側の隣のレーンを見ると、
隣の車の後ろの車が、前の車に異常に接近して停まっています。 危ないなぁ、そんなに近づいたら...と思いふとその車のキャビンを見ると、 運転席からおじさんドライバーが手を振っているのです。 全く知らない人です。 久し振りに「へ?」の気分になりました。 一生懸命思い出そうとしたのですが、このおじさんに思い当たる節が全くありません。 いつも安全運転には心がけていて、この日も無茶な運転なんかしてません。 こちらではRoad Rage(ロード・レイジ)といって道路上の喧嘩が過激になって、 殺人事件にも発展してしまうケースもありますので、ちょっぴり怖くなってきました。 それで、知らん振りをしていたのですが、おじさんは盛んに何かを叫んでいるようです。 くるくるとウインドウを下げて、 おじさん、隣のレーンの助手席から (昨日、同じ時間に同じ場所であんたを見たんだよ!) (へ?...あはは、本当?) 攻撃的な気持ちがすぅーっと引いて、なんだかにやにやしてしまいました。 攻撃的な気持ちになってしまった自分が恥ずかしくすら思えました。 信号で停まっている間に話しかけられたのなんて初めてだったので、びっくりしてしまいました。 ちなみに運転するLand Cruiser Uteには会社のロゴとかは入っていなくて、 ごくごく普通にみかける白いLand Cruiser Uteです。 同じような時間に仕事が終わり、同じ方向に帰るのだから当たり前のことであろう、 と思っていましたが、そう思わない人もいるらしいのです。 なんだか、とても不思議な気持です。 今度はおじさんドライバーでなくて、美しい女性ドライバーにしてくださいね。 コーヒーの一杯でも奢っちゃうってもんです。 今朝のブリスベンは雨が上がり気温が下がったので、霧に包まれました。 |
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本当に体験した奇妙な出来事のうちの、いくつかをピックアップしてみました。 多少省略してはいるものの、全て事実です。 (その1) 携帯電話が存在する以前のお話。友人のMさんに電話をかけたときのことだ。 呼び出し音が全く無く、電話が通じたので、 きっと彼女も電話機のすぐそばにいたのだろうと思って話していたが、 どうも話の内容が通じない。 もちろん、電話をかける約束なんてしていなかった。 もし一秒でもずれていたら、お互い話中になるはずだ。 実際、実験してみたら矢張り話中だった。 何度もトライしたけれど、二度とつながらなかった。 母に電話した時にも起こる。 もっとも、このときは一度電話をかけたら話中で、もう一度かけたらつながった。 母も同じ事をしていたらしい。 (その2) これも携帯電話が存在する以前のお話。 同僚のDとティールームでお昼ご飯を食べていた時、 何の脈絡も無く、ふと中学校の頃の友人Yを思い出した。 (By the way, I have a friend whose name is Y... I met her when we were high school student... we haven't talked each other for long long time... perhaps 10 years or so. I just wonder how she is, she may be married, having a kid or two, don't know.) (Why don't you contact to her?) (Hey, S, call for you. A girl.) (Wonder who she is... hello?) (その3) 10年ほど前のお話。 滅多に両親に電話をすることは無いが、珍しく電話でもしてみようという気になった。 元気?どうしている?と一通りの会話の後、何の脈絡も無く、 子供の頃、ふらりと東京にやってきて数日滞在し、良く可愛がってもらった。) (その4) 仕事中、ビーチの波打ち際で時計を拾った。時計には指輪2こが付いてた。 安っぽいデジタル時計だったし、拾いものだから 車のダッシュボードのスリットの中に放り込んでおいて 時計の存在そのものを忘れていた。 指輪は、拾った時に気持ち悪いから捨てようと思ったけれど、 捨てずに家のキッチンベンチの隅に放り投げておいた。 ボトルショップのあんちゃんがお店からやってきて車の窓越しに、 (G'day, what would you like?) (Hey, where did you find that watch..... ) (The beach, I found this watch at the beach when I was working.) (Hey, there were two rings with this watch, where are they???) (How do you know?) (Those rings are from my grand dad!! I lost the watch and rings on the beach when i was surfing, that's my watch!! I don't need the watch, but please give my rings back!!) 海で落としたものが全く見ず知らずの私を通じて、 ボトルショップを通じて本人の元に戻る....こんなことがあってよいのだろうか。 それにしても、本当に捨てなくて良かった。 ちなみに幽霊や妖怪を見たことは無いし、 死者とお話したり通じ合ったりすることもありません。 超能力も念力も無い、ごくごく普通の一般市民です。 |
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私には金運があるのでしょうか。 「臨時収入」の記事では、皆さん、大変驚かれていたようだけれど、 誰にでもあることだと思って書いたので、皆さんの驚きに大変驚かされています。 周りの人と話をしていても、自分だけが特別金運が良いとは思えないし、 ごくごく普通の一般大衆の一員です。 もちろん、運の悪いこともたくさんありますし、後悔することもたくさんあります。 運悪く無くしたお金もたくさんあります。 でも、それを「臨時収入」のようにリストにしようとしても、もちろんできません。 そんなものは全て忘れてしまっているわけですから。 誰もがそうだと思うのですが、人は良いことは覚え、悪いことは忘れ去ろうするものだと思うのです。 ですから、悪いことも臨時収入であったことと同じくらい、あるいはそれ以上あると思うのです。 ただ、それを覚えていないだけのことだと思うのです。 自分の人生はひとつしかないので、比較などできませんから、 自分の人生が本当に運が良いのか、あるいは悪いのかは判断できませんよね。 もちろん、人と比べるなんていうのは、無意味です。 ただ、自分の人生は、いつも目に見えぬ何かに守られているような気がするのです。 どんなピンチでも、いつも誰かが助けてくれ、 危機一髪で切り抜けた場面なら数え切れません。 エンジェルストーリーとして書き綴っているように、 私はその目に見えないものをエンジェルと表現しますが、 表現方法は守護神でもいいし、何でも良いのです。 自分は”何かに守られている"と思うだけで、 とても勇気が沸いてきますし、明るい気持ちになれます。 ”まぁ、何とかなるだろう”、という楽観的な気持ちになれます。 そう考えることが運を呼ぶのか、 あるいはそう考えることによって悪い運が見えなくなるのか、 それは私にはわかりませんが、 ネガティブからは何も産まれない、ということは経験からわかります。 一方で、今こんなことをぺらぺら言いふらしたら、 守ってくれている何か(エンジェル)に、見放されてしまうのではないか、 という畏敬心というか、恐怖心もあるのです。 ネガティブからは何も産まれないと判っていても、 ネガティブのスパイラルに落ち込み、何もしたくなくなることもあります。 そんな時にいつも思うのは、「時間が答え(Time is the answer)」ということです。 今は落ち込んでいても、この落ち込みが一生続くわけではない、 必ず這い上がれることができる、 だから今は、じっとこらえよう、ということです。 できれば、心を取り出して、たわしでごしごし洗って、 ”ハイ、また一からやり直し!”とできたらどんなに良いことか、と思うことがあります。 自分の心なのに、自分でコントロールできない歯がゆさで、いたたまれなくなることもあります。 でも、やっぱり自分の心は自分のもので、 傷ついても、打ちのめされても、立ち上がって、立ち向かってゆくしかないのです。 またいつか傷つく、打ちのめされる、と判っていても、立ち向かってゆくしかないのです。 ほんの少しでも、幸せの光がその先にあるのなら、それに向かってゆくしかないのです。 つらいけれど、それが人生というものなのかもしれません。 終わりよければ全てよし、ではないですが、 最後に残るのは思い出だけです。 人生の終わりに、あー、良い人生だったなぁ、と思えるよう、 今は、一日、一日を大切にすごしてゆきたいと思うのです。 |






