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THE WIND FROM TERRANORA
オーストラリアのTweed Coastからの便り

書庫(連載)俺だった頃

英語が喋れるようになった頃のお話し。いくつかの記事はお気に入りに登録されている方限定です

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新学期が始まりしばらくして、ユニットに電話がかかってきた。
それは...

懐かしいパリチャート(仮名)の声だった。
近々ブリスベンに戻ってくるので、一度俺と会いたいとの事だった。

パリチャートとは語学学校の建物の前で待ち合わせた。
そしていつも二人で一緒に昼食を共にした大きな木の下でお昼ご飯を食べた。
彼女に会うために俺は必死にたくさんのお弁当を作った。
それを彼女はおいしそうに食べてくれた。

実はパリチャートはタイランドへ帰っている間にまた交通事故に遭ってしまったらしい。
それで心配した両親に留学をあきらめるよう説得されたらしい。
ブリスベンに戻ってきたのは残しておいた荷物を引き取りに来たためだったのだ。

俺はすでに自分のコースワークをスタートさせていたので、
パリチャートをG教授にも引き合わせることができた。
なんだが自分のガールフレンドを親に紹介するような、こそばがゆい気持ちだった。

そして、最後のお別れはいつものバス停。

抱擁なんて派手な別れ方はしない。
ただ、ただ、手を取り合って別れを惜しんだ。
それは、本当に静かな別れで、
まるでひとひらの花びらが、
ひらりひらりとちってゆくような、
静かな、静かな別れであった。
でも、俺はこんな静かな別れが好きなんだ。


(エピローグ)
私が俺だった頃の話はこれで終わりだ。
このあと、何度もゴールとスタートを、そして出会いと別れを繰り返して、
俺は今の私へと成長してゆく。
懐かしい俺の時代に戻りたいとは思わないけれど、
あの時代の大ばか野郎の俺がいたからこそ、今の私がいるわけだから、
あの時の俺はあの時の俺で良かったのだと思う。

俺の時代から20年近くの月日が経ち、
今では英語で物事を考え、それを日本語に訳して話すレベルにまでになった。
もちろん、私の英語には日本語訛りがあるけれど、
ネイティブ・スピーカーと同様のレベルで英語を駆使することが出来るようになった。
自分の思っていることを日本語以上に上手に表現できるようになった。
昔は日本語訛りが嫌だったけれど、
今では、日本出身の移民としての誇りさえ感じる。
もちろん、そう感じるのはオーストラリア人としての誇りがあるからなのだが。

外国語の習得は自転車や自動車の運転を学ぶようなものだと思う。
すぐに習得できる人もいるかもしれないけれど、
大抵の人は時間をかけてゆっくりゆっくりと習得してゆく。
そして一度習得すると習得したことを忘れることが無い。
使わなければさび付きはするけれど、
元のレベルに戻すことはたやすい。
そんなふうに思う。

最後の曲はTracy ChapmanのアルバムNew BeginningからGive Me One Reason。
人生には勝ちも負けも、そして失敗も成功も無い。
ゴールは自分自身で決めるものなのだから。
スタートもまた自分自身で決めるものなのだから。
そして、最後に残るのは思い出だけなのだから。

自分の通り過ぎた方法が一番だとは決して思わない。
しかし、あの時はあの選択肢しかなかったのだと思う。
いや、選択肢はあったのかもしれないけれど、あえてそれを選ばなかったのは、
自分には目標、すなわちNew Beginningがあったからだ。

この話は私の中にあるたくさんのNew Beginningのひとつに過ぎない。
そしてこれらのNew Beginningは人それぞれによって異なるものだ。
何故なら自分の人生は自分のもので、他と比べてどうのこうというものではなのだから。
だからこの話は自慢話でもなければ、教育的指導が含まれているわけでもない。

だが、ひとついえること、それは自分の目指すものが何であるのか、
自分のNew Beginningが何であるかを知ることはとても大切だということだ。
それさえ判れば後は簡単だ、その目標に向かって進むだけなのだから。
そしてその目標を達成したらまた新たなスタートの始まり、
そう、New Beginningなのだ。

人生はそんなNew Beginningの繰り返しなのだと思う。
そんなことを私は俺の時代に学んだのであった。

(おわり)

カレーの匂いつきのユニットはギャリーのユニットに比べて決して清潔とはいえなかったが、
それでも人間関係に関してはうまくいっていた。
同じアジアからの留学生で、しかも貧乏学生という共通点もあった。
ヒンドゥーという宗教の実体を知ったのもその時だ。

その頃、俺は思いを寄せるクラスメートがいた。
実は自分ではそう思っていなかったのだけれど、
ある日、テリー(仮名)という英語教師に晩御飯に招かれた時、
「Songlark、SonglarkはParichart(仮名)が好きなんだろう。知っているよ、二人がいつも一緒なのは。
ParichartもSonglarkのことを好きらしいゾ、あはは!
でもな、Parichartはあきらめな、彼女は純情だからな。それに彼女はいずれは国に帰るしね。」
なんてことを言われて初めて自分の気持ちに気が付いた次第だ。
しかし、俺が純情では無いとでもいうのか、まったく。

Parichartはタイランドからの留学生だが、交通事故に遭ったとかで最初の数日欠席し、
クラスに来た時は松葉杖をついていた。
クラスでは席順というものは決まってはいないものの、いつも皆、同じ場所に座る。
最初、彼女は俺から離れた場所に座っていたのだが、いつの間にか俺の隣に座るようになった。
(俺が彼女の隣に座ったのかもしれない...)

普通、タイランドからの女の子達は同じ国の女の子同士で行動するのだが、
彼女は松葉杖をついていたということもあって別行動、
俺も日本人社会から離れているから日本人とは別行動、
必然、二人で一緒に過ごす時間が多くなっていった。
お昼ご飯はいつも一緒に建物の前の大きな木の陰で食べた。
帰りもバス停まで一緒だった。
彼女は足が完治していなかったので、二人でゆっくり、ゆっくり、
時にはベンチに座り休み休みしながら、バス停に向かった。

Parichartはタイランドの南部出身で、
目鼻立ちのすっきりとしたとても可愛らしい娘だった。
長いまつげがとても愛くるしかった。
そんなわけだから、タイランドの男性からはもちろん大人気だ。
その中でも一人、 特に熱を上げているタイ人学生がいるらしい。
Parichartからもそのことは聞かされていたが、どうやらParichartは彼を避けているようで、
そんなこともあってか、俺はある程度余裕をもって彼女と接することができた。

さて、EAPでの10週間も終わりに近づき、
俺は三度目のIELTSのテストを受けることにした。
一番最初の東京で受けた時が3.0、こちらに来て3ヵ月後に5.5。
一番最初のテストから半年が経過したが、
果たして、どのくらいまで上昇しているものなのだろうか。

結果は...

俺の英語力は確実に向上していたようだ。
7.0まで上昇していた。

これで大学に入るためのひとつの条件をクリアーしたわけだ。
10週の予定が20週に延びてはしまったが、それでも一応目標はクリアーした。
あとは奨学金の知らせを待つのみだ。

一緒にIELTSのテストを受けたParichartも6.5、
彼女も同じ大学で学ぶことを望んでいたので、
これでもし俺が奨学金を獲得できれば、
来学期から一緒に勉強をすることが出来るはずだった。

−−−

年末年始、お互いの国に帰ることになった。
年明けの再会を約束して...

俺は日本に帰っている間に奨学金獲得の知らせを得て、
翌年1月中旬、再び、ブリスベンに戻ってくることが出来た。
今度は前回と異なり3年間のビザと奨学金付だ。

しかし、新学期のオリエンテーションでは、そこにはいるはずのParichartの姿は無かった。

(次回、最終回)

EAPのクラスには俺を含めて3人の日本人のみ。
内訳は忘れてしまったが、香港、タイランド、それからイランからの留学生達で占められた。
タイランドからの学生は全て女性で、漫画の「Dr スランプ あられちゃん」にそっくりな娘もいた。
イランからの学生は逆に全て男性で皆名前がフセイン、岡田真澄似のフセインや、
あのイラクの元大統領似のフセインがいた。

タイランドやイランからの留学生に共通していることは、
彼・彼女らは国費留学生で、国を代表してやって来ているということだ。
そのプライドとプレッシャーたるものは、我々日本人には到底理解し難いものであろう。
いくら俺に金が無い、時間が無いといっても、
もしダメでも何とかなるさ、という逃げ道は常に付きまとう。
彼らにはその逃げ道すらないのだ。
この差は大きい。

しかし、これは俺にとって本当に良い刺激であった。
俺は自分自身がいかに恵まれている人間か、
また、世の中には自分よりもっともっと厳しい状況の人間がたくさんいるということを知ることができた。

オーストラリアで生活を始めてから3ヶ月が経過し、
俺の英語も順調に伸びているようであったが、
どうも自分の描いているものと異なる。
確かに3ヶ月前に比べたらボキャブラリーも増えたし、多少の会話も出来るようになった。
しかし、矢張り自分の思っていることを正確に表現することは出来ない。
一般会話はなんとかできるようになったものの、
それは形にはまった会話で、自分の思っていることを瞬時に伝えているわけではない。

それはなぜかということを考えてみた。
実は自分は日本語で考え、それを単に英語訳しているだけではないだろうか、
あるいは聞こえる英語を日本語に訳しているのではないだろうか、ということを考えるようになった。

頭の中からすらも日本語を消してしまう...これは勇気の要る決断であった。
過去3ヶ月間、俺はあえて日本語から離れて生活していた。
それはそれで正解であった。
しかし、やはり頭の中には日本語が渦巻いているのだ。
その渦巻いている日本語を頭の中から完全に取り除いてしまうことなんてできることなのだろうか。

結果的に言えばそれは可能であった。
ただ、そのために何も話せない期間が随分長い間続いた。
オーストラリアに来て以来、順調に伸びていたはずの英語力が、がたんと落ちてしまった。
当たり前だ、それまでは日本語で物事を考えていたのに、それをやめてしまったのだ。
しかも新しい言葉、英語はまだ身についていない。

でも、ここで引き返すわけにはゆかない。
先は全く霧の中だけれど、引き返すわけにはゆかない。
長い、長い、闇の時間が訪れた。
自信も、自尊心も、全てが消えうせてしまった。
そこに残されたものは、本当に本当にちっぽけな、
泣き虫の俺であった。

(つづく)

俺はオーストラリアに来てからひとつの決心をしていた。
それは日本語から全く離れてしまうこと。
会話だけでなくて図書や日本の家族や友人との連絡、全てに関して日本語から離れてしまおうと思った。

これはとても難しいことであった。
英語学校はおよそ200人からなる留学生で成り立っているが、そのうち半数以上は日本人なのだ。
そんな環境の中で日本語を使わないことは至難の業と言っても良い。
従ってそれをするには日本人社会とは離れる必要がった。

何故か日本人というのはこのような環境で群れたがる。
いや、日本人だけではない、どんな民族でもやはり異国の地では固まるものだ。
それは人の本能として当たり前のことだ。
その時はたまたま日本人が多かったので、日本人の集団が顕著だっただけだけれど、
今なら、きっと韓国人の集団が目立っていることであろう。

同じ国出身者同士、固まれば母国語を話さなければならなないし、聞かなければならない。
俺はあえてそれをしないことにした。

結果は...

孤立した。

それが目的だったから、俺は全く構わなかったし、
孤立といっても他の国から来た留学生の間に入り込めばよいだけだったから全く問題は無かったものの、
日本人学生社会からの風当たりは強かった。
俺としてはただ単に日本語を使いたくなかっただけなのだが、
周りからは変った日本人と思われていたようだ。

しかし、俺はこの地に遊びに来たわけでも、友達を作りに来たわけでもない。
俺には俺の目標がある。だから他の日本人が何と思おうと全く気にしなかった。
実際問題として、気にする余裕など無かった。

でも、中には俺の考えていることに理解を示してくれた日本人もいた。
リュウヘイがその例だ。
日本人どうしてへたくそな英語をしゃべるというのも変なものだが、
彼はそれにつきあってくれた。

10週間の英語研修が終わりに近づいた頃、俺はIELTSの試験を受けなおすことにした。
日本を出る前の試験ではBand 3、果たして3ヶ月に及ぶ英語だけの生活でどのくらい上昇したものか。
この時のIELTSの結果は...

Band 5.5。

これでは大学には入れない。

目標を3ヶ月と決めたが、現地入りして実際にはそんなに甘くないということを知り、
また、奨学金獲得の知らせも年末まで待たなければならないので、
俺はさらに10週間の英語研修延長を決めた。
でも、これが本当に最後の最後の10週間だ。
3ヵ月後、Band 6.5が取れなかったら...
まぁ、その時はその時で考えればよいけれど、英語研修はもうこれ以上できない。

10週間延長の手続きをしてVisaも年末まで延長できた。
IELTSの結果がBand 5.5だったので、
俺は特別クラスのEAP(English for Academic Purpose)クラスで学ぶ資格ができた。
EAPクラスへの編入にはIELTSのBand 5.5が義務付けられており、
俺はそれをクリアーしたというわけだ。

最初、語学学校は難色を示した。
Level 3からいきなりEAPクラスへ跳んだ学生は今までいなかったらしい。
Level 3からLevel 4へ、そしてLevel 5を経験して、EAPへ編入するべきと言われた。
EAPには上・下2クラスあって、
大学へ行くには少なくともこの両クラスで学ぶ必要があるとも言われた。

EAPへ行くまであと20週間???
さらにEAPで20週間??
40週(4ターム、2セメスター)というのは丸々一年の計算だ。
もちろん俺にはそんな金もなければ時間も無い。
Band 5.5を取ったのだから、とごり押しでEAPクラスへの編入を認めてもらった。
前例がなければ、俺が前例になると言って編入を認めてもらった。

EAPクラスにはほとんど日本人がおらず、まわりの学生も真剣だ。
ようやく自分のペースで英語を学ぶことが出来るようになった。
さぁ、これからの10週間が勝負だ。

(つづく)

語学学校が始まると同時に、俺は東京で出会ったG教授を訪れることにした。
大学のデパートメント(学科)のビルディングへ行くと、
G教授はちょうど講義を終えて帰ってきたところで、俺をみるなり、
"Oh, I remember you, come in, come in!"
と言い部屋に招き入れてくれた。

この時もし、
"Do I know you? "
とでも言われたら...俺はもうそこで立ち往生だったので、
この一言は本当に嬉しかった。
ぱっと周りが明るくなった気がした。

部屋の中はプランクトンの入ったサンプル瓶や書類であふれていた。
そしてひとりのおばさんが顕微鏡でプランクトンをソーティングしていた。
最初、手伝いのおばさんかと思ったのだが、実はG教授の奥さんであった。

人生には3つの大きな曲がり角があるといいますが、私の曲がり角のひとつはこの時であったと思います。もし、私がこのG教授夫妻に会うことが出来なかったら、もし、彼が私を覚えていなかったら、私の人生は全く異なるものであったでしょう。G教授夫妻はこの日から次の3年間、独り異国で暮らす私を心身共に私を支えてくれました。彼らはもう大学をリタイヤして、今ではたくさんの孫に囲まれての隠居生活を送っています。今でも深い交友のあるこのG教授夫妻、私にとってはオーストラリアの父母なのです。

そこで俺はまた必死になって自分の研究について説明し始めた。
なぜなら、それ以外に話せる英語が無かったから。
その時、手元にあったのは製本されていない日本語論文の原版だ。
その論文の図版を見せながら説明した。
G教授はただ黙って俺の説明を聴いてくれた。

一通り説明が終わったところで、G教授は私の論文原版を取り上げ、
このばらばらな原版を製本してくれるという。
論文の英語タイトルまで考え出してくれた。

俺はひとしきり恐縮してしまって、
"Thank you, Thank you!"
を連発した。

そこで聞き覚えのある言葉が耳に入ってきた。

"You are welcome"

ん?

東京で聞いた"Welcome"は実は歓迎するといういうことではなくて、
実は"You are welcome"(どういたしまして)だったのかもしれない...
ということがその時初めて頭をよぎったのであった。

(つづく)

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