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THE WIND FROM TERRANORA
オーストラリアのTweed Coastからの便り

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久しぶりのタイムマシーン、
今回は、移住したばかりの頃、汚いオヤジになる前の青年だった頃。
もっとも、この頃の青年Songlarkは本当に貧乏で、
着ているものといったらボロ着だったけれども。

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まず最初は、サンシャインコースとのNoosaへ行った時の画像。
Noosaといったら、クイーンズランド屈指のリゾート地ではあるが、
相変わらずのボロ着に短パン姿。ちなみにこの画像の服、まだ時々着ている...

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つづいて、Bribie Islandで一軒家を借りて独りで住んでいた頃。
画像の後ろの林がSand Dune、その向こう側はビーチ、
借りていた一軒家は私の右側、こんな立地条件で週115ドルであった。
毎晩、波の打ち寄せる音を聞きながら寝た。

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学生時代は、Bribie Islandの研究施設に詰めていたので、
St.Luciaのキャンパスにはほとんど通わなかった。
当時、研究施設は建設途中で、オフィスはDemountable、仮設オフィス、
幸い、自分の机をひとつもらえた。
狭いDemountableに他の研究者達と机を共にしたが、
この頃が一番活気があったと思う。

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今現在の仕事内容からは、とてもではないが想像できないが、
実は、私は研究者であったりする。
オーストラリアに来たのもそのためだ。
一体、どこで道を誤ったのやら...



いや、道は誤ってはいないと思う。
ただ、色々と寄り道をしているだけさ。
だって、オトコノコだもん。

今回のタイムマシーンは、母親と一緒の時代から。

母は私と同じ午年であるから、私は彼女が24歳の時の子供である。
画像は、妹が生まれる前の時代であるから、昭和41年から43年頃。

こんなに小さな男の子が、この後10年もすると、彼女と同じ背丈になり、
やがて、身長180cm、体重90kgのむさくるしいオヤジと化してしまう。
いやはや、オトコノコはホント、つまらない。
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私は母親ではないので、「母親のキモチ」というのは判らないが、
オトコノコからの「母親へのキモチ」というのは判る。

母さん、俺はもう四十路のオヤジなんだからさ、
いい加減、コドモ扱いはやめてくれよなぁ、ぶつぶつ...
今回のタイムマシーンは、高校時代、大学時代、そしてこちらに来ても続けたラグビー・シーンから。

ラグビーを始めたのは、高校入学時の16歳の頃。
現役から引退したのは37歳の時であるから、
20年以上続けていた競技である。

高校時代はFlyhalf(スタンドオフ)で、ポジション番号は『10』、
フォワードから供給されたボールを蹴ったり、
あるいはバックスラインにまわしたりと、司令塔に当たるポジション。
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高校から大学に上がった際に、
実は自分はバックス・プレイヤーでないということに気がつき、
フォワード(スクラムを組むプレイヤー)に転向したのだが、このコンバートが大当たり。
大学時代を通じてのポジションはNo 8(ナンバー・エイト)で、ポジション番号はもちろん『8』。
No 8はスクラムの一番後ろのポジションで攻撃的要素が強いポジション。

私の大学のラグビー部は、北海道大学のラグビー部と定期戦を組んでおり、
1年生と3年生の時に、函館まで遠征した。
1年生の時は、急行「八甲田」で上野から青森まで行き、青函連絡船で函館に渡った。
長旅の疲れか、このゲームは大敗、それに懲りて、3年生の時は、飛行機で函館へ渡った。
このゲームは大勝、私自身も2つか3つ、トライを挙げた。
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夏の合宿は、ラグビー合宿のメッカ管平(すがだいら)。
この管平という町、冬はスキーリゾートとして人が集まるが、
夏の間は、多くの大学のラグビー部が合宿を行う。
宿泊したホテルの周りはキャベツ畑で、とにかくハエが多くて困った。
また、朝食時のバック・グラウンド・ミュージックはビバルディの四季。
朝食の後はいつも辛い練習であったので、今でもこのビバルディの四季を聞くと嫌な気持ちになる。
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オーストラリアに渡り、語学学校へ入学すると共に、地域のクラブチームにも所属した。
基本的にオーストラリアのラグビーは地域のクラブチームが基盤、
これらのクラブチームからワラビーズの選手達が輩出される。
引退するまでの10年間のうち、最後の2年間はチームのキャプテンでもあった。
ポジションはオープンサイドのBreakaway(フランカー)でポジション番号は『7』。
ディフェンス的要素の強いポジションで、タックルに明け暮れた。
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引退したのは37歳の時。
コンペディティブ・ラグビー、つまり、がちんこでプレーするプレイヤーの中で、37歳という年齢は超高齢。
他の20代のプレイヤー達と比べても、体力的にも精神的にも決して劣ってはいなかったと思うのだが、
最後の一年間は本当に怪我が多かった。
特に、顔の怪我が多く、週末のゲームの後は、いつも顔を腫らしていた。
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顔の怪我は、反射神経が衰えた証拠、
この年、Best & Fairestに選ばれたの機に引退を決めた(Best & Fairestは10シーズンプレーして4回獲得)
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以下、Presentation Nightでのスピーチの冒頭...

"You think I'm the oldest player in this team... but actually I'm not, I'm the most experienced player in this team..."
(皆は俺のことを一番の年寄りプレイヤーと思っているだろう...本当はね、一番経験豊かなプレイヤーなんだよ)

と言ったところで"Oh Yah!"の掛け声と共に、大拍手でStanding Ovation。
今でも時々ひとりニヤニヤしてしまう思い出なのである
今回のタイムマシーンは、高校3年生の夏休み、富士山登頂から。
富士山登頂は、以前に、「愛しき我が教師達−地理−」というタイトルで記事にしているので、
文章はその記事からの抜粋である。

高校3年の地理の授業で、地理のN先生から、

昔はな、富士山に登るのはまず麓の浅間神社でお参りしてから登ったもんだ。
それが今では5合目まで車で登れる。そんなのは富士山登頂とはいわん。
お前達の中で本当の富士山登頂ができる根性のあるものはいないな、わはは!

なんて言われたものだから、癪に障って、運動部のツワモノ数人を募った。

ヨッチャン(バスケット部)
おいちゃん(バスケット部)
とうじょう(ラグビー部)
やぎさん(帰宅部)
そしてさんちゃん(ラグビー部)の5人が集まった。

ヨッチャンはひょろながの長身で、
いつもひょうひょうとして、誰からも好かれる好人物だ。

おいちゃんもやはりマイペースの好人物で、
岩手の大学へ木を学びに行った。三保純のファンであった。

とうじょうは、不二家のポコちゃんを思わせるような人物で、
ラグビーというより柔道の方が似合うような、日本男子的な好青年であった。

やぎさんは、ちょっと変わったヒトで、運動神経抜群なのに、何故か何処のクラブにも属さなかった。
英語が得意でとても人懐っこく、私と全く正反対だったけれど、なんとなく気が合った良き友だ。

登る前にやまさん(ラグビー部)の助言も聞いておいた。
彼は、自転車を富士山の頂上に持っていったというツワモノだ。

昼過ぎ、大船で待ち合わせをして、まずは御殿場へ向かった。
途中、信号事故があったとかで、「やが」という駅で足止めをくらってしまった。

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列車はまもなく動き出し、御殿場の駅からバスで浅間神社へ。
そこでお参りをし、ガッツポーズの記念写真を撮り、山頂にむけててくてく歩き始めた。
それは夏の午後、まだ日が暮れる前であった。

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裾野の演習場の間の道をてくてく、てくてく、途中、遠く大砲の音が聞こえたりした。

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次第に日が暮れ、舗道はいつの間にか砂利道になった。
日が暮れてからは、御殿場の花火がはるか下の方に見えた。

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御殿場口から登頂する人はほとんどおらず、
2,3台の車がむこうみずのばか野郎集団を通り過ごすだけであった。
7合目の山小屋には夜11時頃到着した。
途中、追い抜いたタクシーの運ちゃんが、バカな若者達が登ってくるのを知らせておいてくれおかげで、
山小屋を経営する老夫婦が山小屋を閉めずに我々を迎えてくれたのだ。

もうすでにくたくただったけれど、先を急がなければ日の出に間に合わない。
小一時間休憩した後、また登り始めた。
山小屋を出てしばらくすると、森林限界線を越え、
一気に視界が開けたが、真っ暗で何も見えない。
ここからが至難だった。火山礫で、一歩進むと半歩さがる。
しかも疲労はピークに達している。皆、無口になった。

山道は8合目で富士宮口からの登山道と合流する。
ここから頂上までは人、人、人、人、人の行列だ。これには参った。
富士宮からの皆さんは5合目からだけれど、
こっちは昨日の昼過ぎから歩き通しなんですよ、なんて思っても、
日の出の時間にまにあうように、後ろから押し上げるように人々が登ってくるから、
山頂まで止まることも休むこともできない。

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人の流れに押されるように、日の出ぎりぎりに登頂完了。
とにかく寒くて寒くて凍えていた。
やまさんの助言の通り、ちゃんと防寒具は持参したが、疲れで寒さが倍増だ。
形ばかりの記念撮影をして、そそくさと下山。

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下山は「砂走り」といって、一歩進むと10歩くらい下がる火山礫の下山道。
真直線に一気に下山してしまった。

後ろを見上げると、真夏の空に、富士山の頂上がはるかかなたにあった。

それは登り始めてから18時間後のことであった。

夕方、その足でクラス合宿に参加、
スズキという名前のひょうたん顔のばか野郎が、したり顔で、

山は降りる方が登るより大変なんだよな

なんて言っていたので、
ぶん殴ってやろうかと思った。
でもくたくたで、それどころではなく、
女の子達との楽しい「いちゃいちゃ」もできずに、
その晩は早々と眠ってしまった。

後日、地理のN先生の元へ

富士山、ちゃ〜んと登りましたよ

と写真を持っていったら、

へなへな笑いながら、


なんだお前ら、本当に登っちゃったのか、冗談だったのに。バカだなお前達、あははは!

と言われた。

高校生を手玉に取れるN先生は本物のツワモノだ。
私の本棚の「フォトアルバム」は2005年で終わっている。
保存する画像が「フォトアルバム」から「フォトフォルダー」に変わったのは2005年末以降、
会議のため日本へ行った際にConica Minoltaのデジタルカメラを購入して以来だ。

このConica Minoltaのデジタルカメラ、とても気にいっていたのだけれども、
一昨年、落として壊してしまった。
今現在使っているのは、Olympusの2代目のデジタルカメラ、
画像的に満足しているわけではないのだけれども、
メモ帳代わりに常に胸ポケットに入れている。

さて、今回のタイムマシーンは、ほんの一年前の2011の「フォト・フォルダー」から。
過去記事で使ったものもあるので、重複しているものもあるが、
滅多に自分で自分を撮ったりはしないので、どうぞご勘弁を。

まずは昨年のState of Origin第二戦でQueenslandが負けた後。
一日モヒカンで過ごして、その晩に丸坊主になった。
今年のState of Originも、同様の賭けをしようとWayneとは話している。
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次はBroken Headsで撮ってもらったミニと一緒の画像。
2011年、彼と一緒に撮った唯一の写真である。
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サイトワークは危険がつきものだが、この日は、本当に危なかった。
D6 ブル・ドーザーの下にもぐりこんで、Alternator交換の作業をしていた時、
突然、上から何かが降ってきて、眉間に当たり、激しい激痛、
眉間から血がだらだら流れてきた。
最初、何が当たったのか判らなかったのだが、
降ってきたものがAlternatorを支えていた長さ1mくらいのCrowbar(バール)と判った時には、
真っ青になってしまった。あと数センチメートルずれて当たっていたら、確実に失明していた。
これ以降、Safety Glasses無しでは作業はしない。
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年末に行ったBallinaのカフェでミニが撮ってくれた。
おやじになったものよ。
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私は極度の近視、日中はコンタクトレンズを着用するが、
家ではメガネを使用する。
ちなみに着用しているブルーのフランスのレプリカジャージは、
22年くらい着用しているもの。
長袖がいつのまにか半袖になってはしまったが。
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(以上、画像はすべてインターネットから)

人呼んで、コッテリ系時々イケメンばかたれオヤジ、
今日も元気に暮らしております。

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