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スポーツの世界に
 
 
昭和23年(1948)になり、恒徳はついに日本スケート連盟会長に、また日本馬術
連盟会長に相次いで就任した。スポーツを通じて若い人のために奉仕できれば
と、第二の人生をスポーツに捧げる決意をしたのだ。
 
 
恒徳は後に「スポーツの宮様」として親しまれることになるが、秩父宮雍仁
(ちちぶのみややすひと)親王も「スポーツの宮様」として知られていた。実は
恒徳は秩父宮から、馬術、登山そしてスキーなどいろいろなスポーツの手
ほどきを受けており、大正末期頃恒徳に初めてスケートを教えたのも秩父宮
だった。

赤坂離宮の池が凍ると、そのたびに電話でお召しがあったという。恒徳は後に
秩父宮について次のように記している。「〈秩父宮殿下はただ<スポーツが>
お好きであられただけでなく、その正しい発達を計るために、自ら率先垂範して
各種のスポーツをなされてスポーツマン精神を体得なされ、又スポーツについて
の優れた御意見を持つておられ蔭となり日向となつて、我がスポーツ界の正しい
発展を指導された」
(『人の子秩父宮』)

恒徳に多大な影響を与えた秩父宮は、昭和28年(1953)に50歳の若さで薨去と
なった。恒徳は、秩父宮のスポーツヘの情熱を受け継ぐようにスポーツ界に
のめり込んでく。恒徳の生きる道はビジネスではなく、スポーツの世界にあった。
スケートに関しては、日本で最初となる人工結氷のスケート場「後楽園アイス
パレス」を建設したのが最初の功績となる。

恒徳は昭和28年(1953)に国際スケート連盟総会に出席し、翌年の男子スピ
ードスケート世界選手権大会を日本で開催したいと懇請し、それがきっかけと
なって実現の運びとなった。(昭和29年)(1954)、数あるスポーツ種目の中で
日本で初めて世界選手権大会が開かれ、大成功を収めた。

そして翌年の昭和30年(1955)、男子スピードスケート世界選手権はソ連の
モスクワで開かれた。モスクワ大会に招待された恒徳は、果たしてソ連に
行ってよいものか悩んだという。終戦から既に10年が経過していたものの、
いまだに日ソ間の国交がなく、幾多の日本人がソ連に抑留されたまま
だったからだ。そして抑留者の中には、終戦直後に恒徳が満州に聖旨を
伝えに行った先の山田乙三・関東軍司令官、瀬島龍三・関東軍参謀をはじめ、
よく知った顔ぶれが多数含まれており、抑留者がいつ帰国を許されるのか
見当もつかない情勢だった。

しかも戦争中、恒徳は関東軍参謀として対ソ作戦計画に関係しており、満州を
占領したソ連軍が恒徳を探し回ったとの噂もあった。だが、恒徳は意を決して
モスクワに出かけることにした。現地では好意に満ちた歓迎を受け、用意された
部屋も第一級のスイートルイムで、予想外の特別の待遇を受けたという。

恒徳は抑留されている山田大将らに会いたいと願い出たが、返事がないまま
帰国の日を迎えてしまう。,先方に届けられるとの確信もないまま、かき餅や
海苔などに山田大将宛の手紙を添えて、ソ連の赤十字杜に託した。それから
数年後、ついにソ連に抑留されていた関東軍の首脳が日本に帰国することに
なり、恒徳は引き揚げ船の着く舞鶴港に出向いた。山旧大将との涙の再会を
したとき、山田が初めに口にしたのは「モスクワからのお手紙と慰問品有難う
ございました」という言葉だった。

抑留者たちは収容所の外がどのようになっているのか、全く知らされて
いなかった。しかし山田らは、竹田宮がモスクワに来ていることを知り、
日ソ関係がそこまで改善されているなら、間もなく日本に帰れるかも
しれないとの望みを抱いたのだった。


                      竹田恒泰著  「皇室の真実」より







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竹田家のその後
 
 
民間人となった旧皇族五十一人は路頭に迷った。自分たちの収入は自分たち
で確保しなくてはならなくなったからだ。しかし旧皇族たちはこれまで自分でお金
を稼いだことはなかった。
 
うまく社会に溶け込み、早い段階で自らの居場所を確保した人もいるが、
事業に手を染めるもことごとく失敗を重ねた人、新興宗教の教祖に祭り
上げられた人、詐欺に遭って財産を騙し取られた人、選挙に出て落選した人
、離婚した人などなど世間の荒波にもみくちゃにされた人もいた。

竹田恒徳は、皇族として特別扱いされることに抵抗心を抱いていたため、皇籍
離脱について「まさに渡りに舟といってもよいところ」としたが、「だが、実の
ところ、生まれてこの方、一人で生きていく道など一度も教わったことのない
私としては、ただただ戸惑ったの一語につきる」とも記しており、皇籍離脱後の
困惑ぶりが分かる。

竹田家の財産は622万円とされ、それに465万円の財産税が課されていた。
高輪の竹田宮邸にあった洋館は政府に貸し出され、商工大臣官邸として
使用されたが、後に広大な敷地ごと西武鉄道に売却され、高輪プリンスホテル
となった。当時の洋館は今も、ホテルの貴賓館として使用されている。

後年、ジャーナリストで作家の猪瀬直樹氏が竹田恒徳にインタビューした記事で、
邸宅を西武に売ったのはどういう考えからですか、との問いに対し、恒徳は
「持ちきれなかったということですよ。それに、西武は西洋館を潰さないで
大切に使ってくれるといっておりましたから。

跡形もなく消えちゃえば淋しいけれど、実際、いまだに西洋館は残っています
からね。嬉しいことですと答えた。これまであてがい扶持で生活してきた者に
金儲けができるわけがなく、また自分は兵隊をしていたために、何をやっても
武士の商法になってしまうと考えた恒徳は、終戦から3年間は何もせずに様子
をうかがうことを決めた。

各旧宮家には皇籍を離れるに当たっての一時金が与えられており、その資金で
売り食い、つまり「タケノコ生活」をすることができた。竹田家に支給された一時
金は544万円だった。この一時金は一人ずつ身分によって当主、当主以外の王、
内親王、親王妃とそれぞれ金額が定められたものであり、人数の多い宮家は
高額であった。

政府は当初4900万円を予算化していたものの、総司令部の指示により、
元軍人だった皇族には与えてはいけないとされ、宮妃だけが支払いの対象と
された梨本宮、閑院宮などは105万円という低額にとどまり、また山階宮は
当主一人であった上に元軍人であったことで、一時金はなしとされた。

だが、元皇族の周囲にはその資金を目当てにうまい話を持ちかける人が
後を絶たなかったという。恒徳はその全員に面会して話を聞くも、全て断った。
それらの事業経過を追ってみると、成功したものはほとんどなかったようだ。
そのときの苦悩は次のように記されている。

「この浪人生活の三年間は私にとって、いままでで一番辛い時期であった。
朝起きても今日一日なにをして過ごしたらよいか、当てがない。もったいない
ような話だが、仕事のないことぐらい苦しいことはない」
(竹田恒徳『私の肖像画』)




                                 竹田恒泰著  「皇族たちの真実」より




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続き 臣籍降下の伝達 
 
 
・伏見宮(4名)・山階宮(1名)・賀陽宮(8名)・久邇宮(10名)・梨本宮(2名)
・朝香宮(6名)・東久邇宮(7名)・北白川宮(4名)・竹田宮(6名)・閑院宮(2名)
・東伏見宮(1名)   (詳細省略)
 
もともと皇族に戸籍はない。戸籍に代わるものとして「皇統譜」と称する宮内
大臣の所管に属するものがあった。臣籍降下が実施されるに当たり昭和22年
9月に新たに公布された「皇族の身分を離れた者及び皇族となった者の戸籍に
関する法律」の規定に従い、臣籍降下した五十一人は各役所において、
宮号を姓として新たに戸籍を作成した。

竹田宮恒徳は著書で、臣籍降下は総司令部の指令によるものであると述べて
いる。しかし、既に述べたとおり、「直宮以外の皇族を全て臣籍降下させる」と
いう総司令部の意向が事前に宮内省に伝えられ、宮内省が・主導する形で
皇族の整理が進められた。
 
最終的には十一宮家の皇族五十一人が自らの意思によって皇籍を離れる
という形が取られたのだが、実際には総司令部の強い意向によるものであり、
一定の圧力がかけられたと考えるべきである。しかもダイク意見書からは
「天皇を残す代わりに皇族の大半を整理する」といったようなニュアンスが
読み取れるため、総司令部はアメとムチを使って皇室改革を推し進めたと
見てよい。

10月18日、皇籍を離れる五十一人は午前中に皇居の賢所(かしこどころ)を
参拝し、午後-時には朝見の儀があり一同参内し、順次両陛下に拝謁した。
そしてその日の夜は赤坂離宮で 天皇陛下御主催のお別れの晩餐会があった。
天皇、皇后、皇太后三陛下、秩父宮、高松宮、三笠宮の御出ましがあり、
十一宮家一同と、既に王公族の身分を離れた李王家の面々が出席した。

席上 昭和天皇から「身分は変わるようになったけれども、自分はいままでと
まったく同じ気持ちを持っている。どうか今後もいっでも会いにきてくれるように」
との御言葉を賜い、十一宮家を代表して梨本宮がこれに奉答した。

 
お別れの会があった二日後の10月20日、梨本宮は盗難に遭った。新聞には
次のような見出しで報じられた。「ぬかった梨本氏お蔵の衣類をごっそり」
(『読売新聞』、昭和22年月22日付)、

既に臣籍降下を済ませているため、「梨本宮」ではなく「梨本氏」と表記されている
。10月26日には、三陛下御主催の送別御茶会が赤坂離宮で催された。先日の
晩餐会は正式な会であったが、御茶会では余興や福引なども行なわれ、
出席者一同は大いに歓を尽した。だが、残念なことに服を盗まれた梨本宮は、
この日着ていく服がなく、宮妃だけの出席となった。

皇族方と旧十一宮家の交流は、菊栄親睦会という会を通じて現在も続いて
いる。この会は、昭和22年に皇籍離脱をした旧十一宮家の当主が会員資格
を持ち、宮内庁の中には現在も親睦会専用の部屋が存在する。

平成17年11月27日、黒田慶樹氏と、黒田清子様の結婚をお祝いする 
天皇皇后両陛下御主催の御茶会が、皇居の宮殿で開かれた。この席には
菊栄親睦会の会員である当主らも招かれてご夫妻の前途を祝福した。
ちなみに「菊栄親睦会」の名は昭和天皇が御付けになった。




                                   竹田恒泰著 「皇族たちの真実」より



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臣籍降下の伝達
 
 
昭和21年11月29日、御召により皇族一同が参内し、十一宮家の臣籍降下を
伝えられる。昭和天皇からは「諸般の情勢上秩父、高松、三笠の三宮を除き、
他の皇族は全員臣籍に降下することが妥当であるような事情に立ち至った。
まことに遺憾ではあるが、了承せよ。その時期は多分来年早々くらいであろう」
との御話があった。

閑院宮は臣籍降下に反対であったが「情勢ここに至り、ことに陛下のおことば
もある以上は、いっさいの意見をすてて、虚心に事態に従うことにやぶさかで
はない」と自らの考えを改めることになった。「諸般の情勢」とは総司令部の
意向を意味する。閑院宮はこの「諸般の情勢」について後に「それが皇室
縮小方針、ひいては日本弱体化政策の一環であることは明らか」と述べている。

臣籍降下が告知されたこの日、梨本宮妃伊都子(いつこ)は日記に
「ほんとに、陛下の御心中、御さっし申上ると、胸もはりさける思ひ。
もう、(私どもは憲法発表、皇室典範の事など新聞ですでにみてゐるから、
もうどうせ臣下にならねばならぬと覚悟はしてゐるが、実に何ともいへぬ
心もちである)」と記した。また伊都子妃は年末と年明けにも次のように
不安な気持ちを書き記した。
 
「ことしのごとく、色々の事に出合ひ、変化の多いとしは、すくない。心の内
のなやみは、ことに大きく、これから又、一大転落せねばならず、急転直下、
墜落の運命も、ま近くなってをるから、其先はいかになる事やら。老年に
なって、ずい分ひどい目に逢ふもの哉。しかし、まづ丈夫にすごせた
事をよろこぶ」(昭和21年12月31日付)
「老年になって、手足はもぎれ、家はやかれ、其上、身分まで落下しなくて
はならぬ。谷そこにつきおとされる様。これでも生てゐられるかしらん」
(昭和22年1月12日付)
 
皇籍離脱は形式上、それぞれの皇族が自らの意思により皇籍を離脱する
ものとして扱われることになり、昭和22年の5月になると、「最近の国情に
鑑(かんが)み、深くその趨(おもむ)くところを察し、今後は皇族の身分を離れ、
皇室の外に在って、皇運を輔(たす)け、世務に尽したいと思います。茲に
謹んで皇室離脱の情願を陳べ、微衷を容れ給わんことを冀(ねが)います」と
いう宮内省が起案した請願書に皇族が各々署名した。

昭和22年5月3日、新憲法が施行された。これにより、皇族の臣籍降下に
先立ち、華族制度が完全に廃止され、およそ四九〇家の華族が爵位と
財産上の特権を失った。そして、皇族に順ずる待遇を受けていた朝鮮王
公族の李王家も廃止となった。赤坂にあった李王家本邸は、昭和29年(1954)、
西武グループ会長で衆議院議長でもあった堤康次郎に売却され、現在は
赤坂プリンスホテルとなっている。

新憲法が施行された日、新皇室典範と皇室経済法が同時に施行された。
この二つの法律の立案作業は、十一宮家が近々臣籍降下することを前提と
して進められてきたものである。皇族の範囲をどのように規定するかは議論が
噴出したが、最終的に新典範では永世皇族制を採用して何世代下っても
皇族の子供は皇族となることにした。
 
このようにして皇位継承者を確保した上で、また一方では皇籍離脱を容易に
して皇族の数が増え過ぎないようにするための仕組みを用意した。旧典範
では天皇の庶子にも皇位継承権が与えられていたが、新典範ではこれは
否定され、皇位継承は嫡出子に限ることとされた。

また旧典範に規定された皇族会議は廃止され、新典範では新たに皇室会議が
定められた。旧典範では成年皇族男了全員が議員であったのに対し、新制度
では議員の定員が定められ、選挙によって任命されることになった。そして
10月13日に皇室会議が開かれ、翌14日を以って十一宮、五十一人が皇族の
身分を離れることが決議された。その日、各宮家に「御意思に基づき、皇族
会議の議を以て、皇族の列を離れさせられることに決定いたしました」と松平
宮内大臣から報告があった。この日皇族の身分を離れたのは
次の五十一人である。



続く


                                                   竹田恒泰著   「皇族たちの真実」より


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邦家親王と十一宮家

 
次に十二宮家について述べる。各宮家についての詳細は巻末資料を参照して
いただくことにし、ここでは当時の皇族の全体像を紹介する。

終戦時には十四の宮家が存在していた。昭和天皇の弟宮である秩父宮・
高松宮・三笠宮の三直宮家と、伏見宮・山階宮・賀陽宮・久邇宮・梨本宮・
朝香宮・東久邇宮・北白川宮.竹田宮・閑院宮・東伏見宮の十二宮家、
合わせて十四宮家である。

江戸時代に伏見宮・桂宮・有栖川宮・閑院宮(設立順)の四つの世襲親王家が
あったことは既に述べた。しかし桂宮は明治14年(1881)に、淑子内親王薨去
によって既に当主が亡くなっていたために断絶し、また有栖川宮は世子で
あった栽仁(たねひと)王が早世していたので、大正2年(1913)、威仁(たけひと)
親王の薨去を以って断絶となった。このとき、勅旨を以って大正天皇第三皇子
宣仁(のぶひと)親王に高松宮の称号を賜わり、有栖川宮の祭祀を継承させる
ことにした。

桂宮と有栖川宮はこのように大正期までには継承者不在が原因で断絶と
なったのだが、閑院宮については継承者不在であったところ、伏見宮から
養子を取ったことで終戦まで存続していた。江戸時代から続く四世襲親王家
のうち、伏見宮と閑院宮は終戦まで存続していたことになる。幕末から明治に
かけて、皇室の繁栄を企図し、勅旨によって多くの宮家が伏見宮から分立した。
山階宮、久邇宮、梨本宮、小松宮、北白川宮、華頂宮、東伏見宮の七宮家
である。また久邇宮から、賀陽宮、朝香宮、東久邇宮の三宮家が分立し、
更に北白川宮からは竹田宮が分立、つまり伏見宮から十一の宮家が分立した
ことになる。

このうち小松宮は明治36年(1903)に廃絶した。後に北白川宮能久(よしひさ)
親王の第四王子である輝久(てるひさ)王が臣籍降下した際、「小松」の姓を
賜わり小松侯爵となり、小松宮家の祭祀を継いだ。華頂宮(かちょうのみや)
家も大正13年(1924)に、継嗣がいなかったために四代目にして廃絶となった。
旧皇室典範では皇族が養子を取ることが禁止されたため、継嗣不在は宮家の
断絶を意味する。
〔現在の皇室典範でも皇族は養子と取ることは禁止されている〕

明治天皇の皇女で成人した四方の嫁ぎ先は、第六皇女昌子内親王が竹田宮、
第七皇女房子(ふさこ)内親王が北白川宮、第八皇女允子(のぶこ)内親王が
朝香宮、そして第九皇女聰子(としこ)内親王が東久邇宮であった。

ここで整理すると、もともと世襲親王家だった伏見宮、閑院宮と、幕未以降設立
された伏見宮の傍系としての十二宮家が創立され、そのうち小松宮と華頂宮が
廃絶になったため、終戦時、世襲親王家の子孫としては十一の宮家が残って
いたことになる。また、終戦時の三直宮は、いずれも大正時代以降に昭和天皇
の弟君がそれぞれ設立した宮家である。大正2年には大正天皇第三皇子の
宣仁親王が高松宮を、大正11年(1922)には大正天皇第二皇子の雍仁
(やすひと)親王が秩父宮を、また昭和年(1935)に大正天皇第四皇子の
崇仁(たかひと)親王が三笠宮を創設した。終戦時の十四宮家は、伏見宮の
子孫たる十二宮家と、大正天皇皇子の三直宮家ということになる。

十二宮家と現在の皇室を語る場合に、決して避けては通れない人物がいる。
伏見宮第十九代当主の邦家(くにいえ)親王である。親王は、十二宮家の
生みの親ともいうべき皇族である。三十二人の子沢山で、その中で十一人の
男子が成人した。
 
 
伏見宮を相続した貞愛(さだなる)親王をはじめ、山階宮を創設した晃(あきら)
親王、久邇宮(くにのみや)を創設した朝彦(あさひこ)親王、小松宮を創設した
彰仁(あきひと)親王、北白川宮を相続した能久(よしひさ)親王、華頂宮を
創設した博経(ひろつね)親王、閑院宮を相続した載仁(ことひと)親王、
東伏見宮を創設した依仁(よりひと)親王はいずれも邦家親王の実子である。
邦家親王の王子である久邇宮朝彦親王と北白川宮能久親王も子沢山であり、
伏見宮一族は隆盛を極めた。

系図7は邦家親王の子孫を記したものである(200ぺージ)。十二宮家は全て
邦家親王の子孫であり、また昭和天皇の皇后、香淳皇后も伏見宮の傍系で
ある久邇宮の御出身であらせられるため、昭和天皇の皇子女もやはり全方が
邦家親王の子孫に当たることに注目してほしい。

つまり終戦時の十一宮家五十一人とその子孫、そして今上陛下、皇大子殿下、
敬宮愛子内親王殿下、秋篠宮文仁親王殿下、眞子内親王殿下、佳子内親王
殿下、常陸宮正仁親王殿下、そして黒田清子様の全方が邦家親王の子孫と
いうことになる。


                                      竹田恒泰著 「皇族たちの真実」より



    注:系図がありますが省略させて頂きます。




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