先祖供養

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先祖供養による奇蹟的体験例
 
奇蹟!不治の脳腫瘍が全治
 
 
皆様、ありがとうございます。花巻市の○○○○でございます。
私の孫は今年の二月五日に、医大の付属病院に入院しました。その時、私は娘から「陽子が医大に入院しました」という知らせの電話をもらったので、びっくりしてすぐに病院ヘとんでまいりました。見たところ大したことではないようでしたが、とても危険な病気に罹(かか)ったらしく、大ヘん心配しました。
 
 
 
そうして、今日も検査、明日も検査と、検査に追われて四十日というもの検査か統きました。その間、毎日のように「今日は足が立たなくなりました」「今日は手が動かなくなりました」「今は口がまがって来ました。涎(よだれ)が出てきました」と、「悪くなるばかり。私もー週間しては来て見、十日しては来て見、見舞いに来てみましたところが、大ヘん病気が悪化しているばかりでとても心配でした。
 
 
 
そうしている間(うち)に、四十日過ぎたところが、医大の先生より娘に、「この子供は脳腫瘍という病気で、大ヘん危険な病気でありますが、大ていのものなら手術もできますが、この子供は頭の大事なところに腫瘍が出来ましたので、手術も手入れも出来ません。手入れの方法がありませんから、気の毒でございますが、諦(あきら)めて頂きます」という知らせであったのでございます。
 
 
 
娘はびっくして、また私に電話をかけて寄越したのです。それまで、私は「生命の實相のみ教えのことを娘にも話し、『白鳩』や『光の泉』の本を送ってもいたのですが、娘は先生にそういわれない間は、先ずお金をかけて良いお医者さんにかかったら、それ以上のことはないと思ってアッサリしていたんです。
 
 
 
それでも、私一人ではどうすることもできないし、先ず地方講師の○○○○さんに相談にあがりましたところが、「ちようど、ここの盛岡の練成道場に本部から○○○○講師という先生がいらして、講演がありますから、その講演の話を聴いて頂いたら、快(よ)くなるでしよう」と教えられました。
 
 
 
喜んでその講習を受けましたところ、心が収まりまして、今まで悪くなる時は泣いてばかりいた娘も私も、その時心が晴れ晴れとしました。私はながいことこのみ教えを教わっておりましたが、足伸びばかりで、その効果がなかったとみえて、泣くことばかりであったんですが、そのお話によってスッカリその晩から眠ることができました。
 
 
 
けれども、子供の病気の方はその後も変りがなかったので、また地方講師の○○○○さんに相談に行きました。
 
 
 
○○○○は「それでは私が病院に行ってみます」と言ってくれました。そこで、お願いして病院に来て貰ったところ、○○さんが、「先祖供養していますか」と娘にきいて下さったそうです。
 
 
 
娘はなんぼ私が教えても興味ないものですから知らなかったのです。
 
 
 
「なんにもそんなことをしていません」と娘が申しますと、○○さんは、
 
 
 
「先祖供養が大事ですから、先祖供養をするようにして下さい」
 
 
 
と言って、詳しく先祖供養の仕方を教えられたのでございます。
 
 
 
それで、娘は先祖供養に、お墓参りに行く気になりました。主人の実家が花巻の○○村ですから、そこのお墓にお参りするにはー日はゆっくりかかるので、「お婆さん、私がいない間、孫の看護に来て下さい」と言いますので、私は看護に行ったわけでございます。
 
 
 
娘はそのお墓参りに行くために、供え物やお花や、掃除するいろいろな物を買って仕度をしておりました。
すると、その心が御先祖様に通じたのでございましょう、孫が
 
 
 
「おかあちゃん、手が、手が動くよ」と言って左の手を上げたのだそうです。
 
 
 
娘は私が着くなり、
「お婆さん!,○○がねえ、今朝、“手が動くよ”と言って、こう、手を上げましたよ!」と言うのです。
私もそれを聞いて、もう嬉しくって嬉しくって、親子、孫といっしよに、三人で手を取り合って泣きに泣きました。
 
 
 
そうして、娘はお墓参りに行きましたし、私はこの孫の看護をしていましたら、それからというものは、薄紙を剥ぐように毎日日増しに病気が快くなりまして、それからの電話の知らせでは、
 
 
 
「お姿さん、今日は○○はね、手が動くようになりましたよ」
 
 
 
「今日はみかんをー人でむいて食べますよ。箸を持って茶碗をもって御飯を食ベますよ」
「今日は寝台からー人で下りますよ」というように、本当に良いお知らせばかり受けたのでございます。
 
 
 
この体験によりまして、先祖供養ということがどんなに大事かが始めてわったのです。今まで、かねがね、“樹でたとえるなら、幹は親であり、根は祖先である。そのお蔭によって吾々枝葉は栄えるのだから、親孝行、先祖供養は大事である”と教えられていたのですが、「そうでしようかねえ」位のことに思って、実行しなかったのです。
 
 
 
それをしたら、この孫は恢復しまして、退院してもいいというお知らせを受けたのでございます。
本当にありがたいことだと思って感謝しております。谷口雅春先生ありがとうございます。皆様ありがとうございます。
(48.8.12岩手県民会館)

先祖供養の仕方

先祖供養の仕方



○ 宗旨を変える事によって起る障害



往々精神病者の家族を持っているとか、あるいは変なえたいの知れない病気―小児麻痺であるとか、癲癇(てんかん)であるとか、舞蹈病(むとうびょう)であるとか、医者の方でちよっと原因不明な病気を持っておられる方が、その率にしてクリスチヤンの方が多いのである。



これは確かに率が多いのであるが、必ずしも、これはキリスト教そのものがわるいのではない。けれどもキリスト教が日本に移入されたのがきわめて近代であるために、祖先の霊魂たちがキリスト教というものを知らない。



そしてお祖父さん、お祖母さん、その上の曽祖父(ひい)さんあたりになると、その霊魂が霊界においてどういう信仰を持っているかというと、あるいは神道であるとか、仏教であるとかの信仰を持っていて、耶蘇(やそ)という名前を聞くだけでも嫌いだというふうな、異教を毛嫌いする霊魂たちが先祖に多いのである。



その考えは褊狭なのであるけれども、ともかく日本人の祖先の霊魂たちの多数は、国粋的とでもいうか、多少排他的な褊狭な霊魂があるのであって、耶蘇の耶の字を聞くだけでも嫌いだというような人の霊魂がある。今も七十歳、八十歳ぐらいの人に聞いてみると、そういう風潮がずいぶんその人の時代にはある。



自分の子が耶蘇になるとでもいったら、実に穢(けが)れた異人種にでもなり、四足にでもなるような気がする。



可愛い息子でも耶蘇教を信ずる以上はやむをえない、家に入れないで、勘当してしまうふうな気持をしている爺さん婆さんの霊魂もあるのである。



そういう霊魂たちのいる霊界ヘ行って、われわれの子孫が耶蘇教信者という名前を附けて入ったら、「えらいことだ。こいつは汚れた奴になってきた」という偏見をもって毛嫌いして、容易に子孫を霊界の生活に馴れるまで導いてくれないのである。



「あいつはヤソになったから勘当する」可愛い息子の霊魂でも先輩の霊魂から勘当同様の取り扱いを受けて構いつけてくれないと、霊界で村八分的になり、どうして生活したらよいのか、ちよっと事情がわからない、自分だけー人ぽっち置去りにされる。



自分だけで修行してコツコツやって行くよりしようがないというような状態になっているのも往々あるのである。そういう霊魂は霊界の生活に戸惑って早く悟りきれない。その悟れない霊魂が、子孫に済(すく)われようと思って子孫に憑(かか)って来ると、そういう医学的には原因不明な病気を現わすのである。(生命の實相参照)



○ 先祖に対して聖経を読誦する時の心得



先祖に対して聖経を供養する時「祖先の霊魂よ、お前は迷っていて、迷いの霊波を送って来るので困っている。この聖経を読んであげるから、それをよく聴いて悟りを開いて、二度と迷いの靈波を送って悩ませないようにしくれ」というような事を言ったり、思ったりして聖経を読誦しても効果が少ないのである。



何故なら、そのような気持で聖経を読誦したりすることは、相手の悪をみとめて、軽蔑的語調や、“よく勉強せよ”などといっているようなもので、現実界の人間に対してでもこのようなこと言うと、反抗心を起こして反撥されたりするのである。



これと同じ事が祖先の霊たちにも起こるのであって「お前は迷っているから、この真理のお経をおききなさい」では、いくら聖経を誦げても霊魂達は聴きに来ないかも知れないのである。



だから、祖霊に対して、聖経を誦む時には、


1、唯、尊敬と報恩・感謝の念をもって誦むこと。


ただ尊敬と感謝の念をもって、「今まで色々と子孫が受けて来た密(かく)れたる御恩、陽(あらわ)なる御恩に対して唯感謝のためにこの真理の御経を霊界に対して放送しますから、どうぞお受取り下さいませ」と誦えて、“ただ感謝”の念をもって読誦するがよい。



2、聖経の意味を説明する。


聖経を読む前に、先ず「この聖経『甘露の法雨』はあなたが祖先から伝承して来た××宗の教えの真理を最も解り易く、現代語で書かれたものでありますから、心を集中して此の聖経を聴き給うて、その真理を体得し、霊界に於て解説を得て神通自在となり給いて仏陀の境涯に達し給わんことを冀(こいねが)う」と生ける人に語るが如く唱えてから聖経を誦むがよい。


そうでないと折角、『甘露の法雨』を誦んであげても、それは他宗教の経文であると誤解して反感を起こして傾聴しない場合があるのである。



3 読誦の時間を定める。



聖経読誦は、毎日一定の時間を決めて、正確に必ず読誦するようにするがよい。霊界には霊的訓練があって、中々多忙であって、毎日不定な時間に読誦しては、残念ながらその聖経の読誦を霊が拝聴することができないことがあるのである。だから、聖経を誦み終わると「毎日“この時間”又は幾時に聖経を読誦しますから必ずその時間には来たりて傾聴して下さい」と約束して置くがよい。
(生命の實相参照)




○葬祭等に焼香する意義



葬祭にあたって香を焚(た)くのは何故かという問いがあるが、辞書によれば、香を焚くことは本来、仏教の発祥地であるインドでは高温のため身体の分泌物多く、不快の体臭を発するので、その体臭を打ち消すために塗香(とこう)と共に用いられたのであるが、宗教では、焼香はその香気によって人間的臭気を払って、仏、菩薩その他高級神霊を勧請(かんじょう)するために行われることになったのである。



生命の實相では神想観中に、人間界では薫香(くんこう)を焚いていないのに、時ならぬ薫香の匂いがすることがある。これは神想観を指導するために来臨された高級霊が、人間界の体臭その他の悪臭の禍(わざわい)を消すために、霊界に於てあらかじめ香を焚いて、その芳香を衣裳(おめしもの)に移して降臨せられたのが匂うのである。



特に死者の霊を弔うため儀式の際に、線香を燃し、香を焚くのは、肉体を脱して他界した霊といえども尚、肉体の臭気を脱却し切れない者があり、それを導くために法要の際、仏、菩薩を勧請するのには、芳香を焚いて死者の霊魂の体臭を消して仏、菩薩の降臨しやすいようにするためである。

◎ 「奇蹟の『甘露の法雨』」
 
 
 
『奇跡の聖経』
谷口清超先生は『甘露の法雨』の奇跡を沢山書いておられる『感謝の奇蹟』(昭和49年1月10日発行)いう御本がありますがその36頁に『甘露の法雨』は有難いいろいろの功徳がある
 
 
 
・・・『甘露の法雨』というお経には、素晴らしいお陰があります。その他『甘露の法雨』を持っていただけで災難をまぬかれたとか、あるいは又、『甘露の法雨』を一心に読んで御先祖をお祀りしたところ、一家が非常に幸せになったとかいう話がよくありますね。これは一体何故でしょうか。それは『甘露の法雨』の中に書かれている眞理が尊いからで、「真理の言葉」によってすべてのものが浄められ、「実相」があらわれてくるからです。
 
 
 
「実相」即ち本当の世界には、病気もなく、貧乏もありません。どんな不幸も、あらそいも、災難もないのです。この「実相」が、そのまま現象界にあらわれて来ていないために、色んなよくない事が起こっているのです。ところが、真理の言葉が読まれますと、読む本人の迷いが消え、霊界の人々も悟りをひらかれますから、その心の影として素晴らしいことが次々と起こってくるのです。
 
 
 
『甘露の法雨』は、只じっと持っているだけでも素晴らしいのですが、それをよくお読みになると、もっとよいことにになる。ことに御先祖のみたまをお祀りしてあるお仏壇や神棚の前で、心を込めてお読みになると、もっとよろしいのです。
 
 
 
中には『甘露の法雨』を持って悪いところをなぜさすったら、治ったというような話もありますが、どれもこれも皆本当で、うそではありません。眞理の言葉はそれを口に唱えても、「写経」といって書き写しても、全く素晴らしい力があるのです。
 
 
 
しかし一番普通に行われている方法はその意味をよく理解して、心を込めてお読みになることです。その上『甘露の法雨』を大事に持っておいでになれば、それにこしたことはありません。
 
 
 
 
 
◎ 谷口雅春先生は立教当初、生命感あふれる詩をつぎつぎと「生命の實相」に発表されてゐる。例へば「夢を描け」「生きた生命」「光明と暗黒」「光明の国」「或る日の生命の国」といった詩である。それらは谷口先生の脳裡に霊感的にひらめいて来だのを書きつづった一種の自由詩であった。
 
 
………中略
 
ところで、それらの自由詩のなかでも最も長篇の詩が「甘露の法雨」であった。この詩は、昭和五年十二月一日発行の「生命の實相」誌に”神” ”霊” ”物質”の三章が発表され、昭和六年二月一日発行の同誌には「甘露の法雨」と題して”実在” ”智慧” ”無明” ”罪” ”人間”が発表され、昭和七年二月一日発行の同誌に「甘露の法雨」と題して。「生命の實相」が発表されたのであった。
 
 
 
最後に発表された”生命の實相”の詩は、今日、聖経『天使の言葉』となってゐるものであるが、そもそも「甘露の法雨」と「天使の言葉」は、谷口雅春先生がインスピレ−ションによって一気に書かれたところの自由詩であったのである。谷口雅春先生は、この詩が「甘露の法雨」として掲載された時の『生命の實相』誌において次のやうにこの詩を説明してをられる。
 
 
 
《……三篇「神」「霊」「物質」の続篇にして、この三篇と共に生命の真理を霊感によって書かしめられたものであります。「生命の實相」では所与の経典のほかに神仏の祭壇に対って之を朗読することにしてゐます。病人に対して又は、病人自身が繰返し朗読すれば病ひが不思議に癒え、障りの霊に対して読誦すれば、障りの霊が悟りを開いて守護の霊にかはる助けとなります。それ故これは誠に生命の實相の経典とも云ふべきものであります》
 
 
 
この言葉どほり誌友の間には「甘露の法雨」を読誦することによって病気が治癒し、家庭が調和するなどの体験が相ついで起った。やがてこの「甘露の法雨」の詩は、昭和十年六月、当時京都に於ける熱心な誌友である工学博士小木虎次郎氏が「甘露の法雨」の詩を『生命の實相』といふ詩集の中にのみ収めておいては、功徳のあることを知らない人が多いから、ハッキリとこれは聖経であると明示して、折本型の経本として発行すれば、功徳を受ける人が多いであらうと、京都教化部から経本式折本として発行されることになった。
 
 
 
かうして『甘露の法雨』が経本になって頒布されるや、陸続として功徳を受ける人が現はれた。さらには、それを携帯するだけで、交通事故に遭ひながら微傷も負はなかった人が出て来たりもしたのである。そこで京都の教化部ではこれを京都のみで独占すべきものでないと、その出版権を昭和十一年末に、光明思想普及会に移すことになったのである。
 
 
 
その後聖経『甘露の法雨』は、さらにその功徳を発揮して、多くの人々をさまざまな人生苦から解放して行ったのであるが、その功徳の及ぼす範囲は、単に個人だけでなく、後に述べるやうに、あの大東亜戦争の終結には国家の危機を未然に救ふ働きをも果すまでになるのである。
 
 
 
ところで谷口先生は『甘露の法雨』の功徳についてのちにつぎのやうに記してをられる。
 
 
 
《どうして『甘露の法雨』にこのやうな偉大な功徳が生ずるのであらうか。私は、それをただ霊感で詩作するときに、ふと感じてその詩の題を「甘露の法雨」としたに過ぎないのであって、別に『法華経』の観世音菩薩の普門の功徳を説いた”普門品”に連関して詩の題を「甘露の法雨」と題したのでもなかったし、観世音菩薩が教への本尊として門脇観次郎氏の霊眼に見れるなどといふことも全然予想もしなかった。
 
 
 
ところが私の著書や執筆の雑誌を読んで功徳を得た人にあらはれる色々の霊顕や現象が次第に観世音菩薩が本尊であり、その観世音菩薩が、『法華経』の”普門品第二十五”にある通り「甘露の法雨を澎ぎ給うて煩悩の炎を滅除し給ふ」のであることを証明するやうになったのである。聖経『甘露の法雨』の功徳はそれをお説きになった観世音菩薩の妙智力と引き離して考へてはならないのである》
 

お彼岸 (甘露の法雨)

聖経「甘露の法雨」
 
 
或る日天使(てんのつかい)生長の家に来たりて歌ひ給(たま)ふー
 
創造(さうざう)の神は、
五感を超越している 
六感を超越している
聖(せい)
至上
無限
宇宙を貫く心
宇宙を貫く生命
宇宙を貫く法則
真理
光明
知恵
絶対の愛
これらは大生命ー
絶対の神の眞性にして神があらはるれば乃(すなわち)ち善となり、
義となり、
慈悲となり、
調和おのづから備わり一切の生物處(ところ)を得て争うものなく、
相食(あいはむ)ものなく、
病むものなく、
苦しむものなく、
乏しきものなし。
 
神こそ「すべ」てにましまして絶対なるが故に、
神の外(そと)にあるものなし神は実在のすべてを蔽(おお)ふ。
存在するものにして
神によって造られざるものなし。
神が一切のものを造りたまふや
粘土を用ひ給はず、
木材を用ひ給はず
槌(つち)を用(もち)ひたまはず、
如何なる道具も材料も用ひ給はず、
ただ「心」をもって造りたまふ
「心」はすべての造り主
「心」は宇宙に満つる実質
「心」こそ「全能」の神にして遍在したまふこの全能なる神、
完全なる神の
「心」動き出てコトバとなれば一切の現象展開して萬物成る。
萬物はこれ神の心、
萬物はこれ神のコトバすべてはこれ霊、
すべてはこれ心、
物質にて成るもの一つもなし。
物質はただ心の影、
影を見て実在と見るものはこれ迷い。
汝ら心して迷いに捉はれる々こと勿れ。
汝ら「実在」は永遠にして滅ぶることなし。「迷い」は須臾(しゆゆ)にして忽(たちま)ち破砕す
「実在」は実在にして苦悩(くるしみ)なし
「迷い」は捉(とら)われの相(すがた)にして苦患(くげん)多し。
「実在」は真理
「迷い」は假相(かりのすがた)
実在は五官を超越し
第六感さへも超越して人々の感覺に映ずることなし。
 
 
 
 
感覚はこれ信念の影を視るに過ぎず。
汝ら霊眼を備えて霊姿を視るとも
実在を視たるに非ず、感覚にて視得(みう)るものはすべて心の影にして第一義的実在にあらず、霊姿(れいし)に甲乙あり、
病める霊あり、
苦しめる霊あり、
胃袋もあらざるに胃病に苦しめる霊あり、
心臓も有たざるに心臓病にて苦しめる霊あり、
これすべて迷いなり、斬(か)くの如き霊、人によれば
よられたる人或いは胃病を顕し
或いは心臓病を顕す
されど霊覺(れいかく)に映ずるさまざまの苦しめる霊は第一義的実在にあらず、
彼らは誤れる信念によりて
流転せる迷いの影なり迷い迷いて流転せる心は
 
その信念が形となりて假の相(すがた)を現(げん)ずべし
されど如何に相を現ずるとも
假相(かりのすがた)は永遠に假相にして実在となることを得ず
 
汝ら実在にあらざる物を恐るること勿れ、
 
実在にあらざる物を恐るること勿れ、
実在にあらざる物を実在せるが如く扱うこと勿れ。
 
実在にあらざる物には実在をもって相対せよ。
眞にあらざるものには眞をもって相対せよ。
假相に対しては実相を以て相対せよ。
闇に対しては光をもって相対せよ。
非実在を滅するものは実在のほかに在らざるなり。
假相を破るものは実相のほかに在らざるなり。
虚妄(こもう)を壊(え)するものは真理のほかに在らざるなり。
闇の無を証明するめのは光のほかに在らざるなり、
彼らに生命の実相を教えよ。
彼らに生命の実相が神そのものにして完全なる事を教えよ。
神はすべてなるが故に神は作らざるが故に
神のほかに造り主なきが故に
此の世界におかされたる罪もなく
報いらるべき罪もなきことを教えよ
三界の諸霊
三界の諸生命
この真理を観じ
この真理をさとりて、一切苦患(くげん)の源となるべき
顛倒妄想(てんどうもうぞう)をさい破すれば、
天界の諸神ことごとく真理の合唱(コーラス)を雨ふらし
現世(このよ)の生命ことごとく光りを仰ぎ、
惑障(わくしょう)ことごとく消滅し、此世(このよ)はこの儘(まま)にて光明世界を示現(じげん)せん。
 
 
 
物質
 
 
汝ら感覚にてみとむる物質を
実在となすこと勿(なか)れ。物質はものの実質に非ず、
生命に非ず
真理にあらず、
物質そのものには知性(ちしょう)なく
感覚なし
物質は畢竟(ひっきょう)「無」にしてそれ自信の性質あることなし。
これに性質を興(あた)ふるものは「心」にほかならず。
「心」に健康を思へば健康を生じ、
「心」に病を思へば病を生ず。
そのさま(あたか)も映画のスクリーンに
力士を映せば力士を生じ
病人を映せば病人を生ずれども
映画のフィルムそのものは
無色透明にして本来力士も無く
病人も無く
ただ無色透明のフィルム上をおほへる
印画液によりて生じたる色々の模様(くもり)が
或いは力士の姿を現じ或いは病人の姿を現ずるが如し
されど健康なる力士も虚弱なる病人も
印画液の作用によりて生じたる
影にして実在に非ず
汝ら若し活動写真の映写機に
印画液によりて生じたる色々の模様(くもり)なき
無色透明のフィルムをかけて
スクリーンにこれを映写すれば
やがて老(お)いて死すべき健康なる力士もなく
虚弱なる病人は無論なく
ただスクリーンにあるものは光明そのもの
生命そのものにして
かくしゃくとして照(て)り輝(かがや)かん
汝ら今こそ知れ、
汝らの「生命」は健康なる力士の生命以上のものなることを
如何なる健康なる力士も
彼が肉体を実在と観(み)
肉体即(すなは)ち彼なりと観る以上は
彼は滅ぶる者にして眞の「健康」に非ずるなり
眞の「健康」は物質に非ず、肉体に非ず、
眞の「生命」は物質に非ず、肉体に非ず、
眞の「汝そのもの」は物質に非ず、肉体に非ず、
物質の奥に、
肉体の奥に、
霊妙(れいめう)きはまりなく完全なる存在あり。
これこそ神に造られたる儘(まま)の完全なる「汝そのもの」にして、
常住健康永遠不滅なる「生命」なり
汝ら今こそ物質を超越して
汝自信の「生命」の実相を自覚せよ
 
 
 
実在
 
天使また続いて説(と)き給はくー
実在はこれ永遠
実在はこれ病まず、
実在はこれ老いず、
実在はこれ死せず、
この真理を知ることを道を知ると云ふ
実在は宇宙に満ちてかけざるが故に道と云ふ道は神と倶(とも)にあり
神こそ道なり、実在なり、
実在を知り、実在に住るものは、
消滅を超越して
常住円相なり、
 
生命は生を知って死を知らず、
生命は実在の又の名、実在は始めなく終わりなく、
滅びなく、死なきが故に、
生命も亦始めなく、終わりなく、
亡びなく、死滅なし。生命は時間の尺度のうちにあらず
老朽の尺度のうちにあらず、
却(かへ)って時間は生命の掌中(しやうちゆう)にあり、
これをにぎれば一点となり
これを開けば無窮(むきゆう)となる、
若しと思う者は忽ち若返り、
老いたりと思う者は忽ち老い朽(く)つるも宜(むべ)なるかな、
空間も亦(また)決して生命を限定(かぎ)るものにはあらず空間は却(かへ)って生命の造りたる「認識の形式」にすぎず、
生命は主にして空間は従なり、
空間の上に投影されたる
生命の放射せる観念の紋(あや)
これを称して物質と云ふ
物質は本来無にして
自性なく力なし。
これに性質あり、
亦生命を支配する力あるかの如き観を呈(てい)するは、
生命が「認識の形式」を通過する際に起こしたる「歪み」なり、
汝ら、この「歪み」に捉われることなく、
生命の実相を正観せよ。
生命の実相を知る者は
因縁を超越して生命本来の歪みなき円相的自由を獲得(かくとく)せん
 
 
 
知恵
 
知恵はこれ本来神のひかり
実在に伴う円相的光なり
それは無量光、無偏光(むへんこう)にして局限(かぎり)なし、
局限(かぎり)なきが故に
一切のものに満ちて
一切のものを照らし給ふ
人間は光の子にして常に光の中にあれば
暗(くら)きを知らず、
つまづきを知らず
さはりを知らず
かの天人が天界を遊行するが如く
また海魚(かいぎょ)が水中を遊泳ずるが如く
光の世界に光に満たされ法悦に満たされて遊行す。
知恵はこれ悟りの光にして、
無明(まよい)の暗(やみ)を照破(せうは)する真理なり。
真理のみ実在、
無明(むみやう)はただ悟らざる真理にして
これをたとえば悪夢の如し。
汝ら悪夢を観ることなかれ。
悟れば忽ち此の世界は光明楽土となり
人間は光明生命なる実相を顕現せん
 
神は無量光、無偏光の知恵
かぎりなき善
かぎりなき生命
一切のものの実質
また一切のものの創造主
されば神は一切所に偏在し給ふ
神は偏在(へんざい)する実質且(か)つ創造主(つくりぬし)なるが故に
善のみ唯一の力
善のみ唯一の生命
善のみ唯一の実在、
されば善ならざる力は決して在ることなし、善ならざる生命も決して在ることなし、
善ならざる実在も亦決して在ることなし。
善ならざる力即ち不幸を来す力は畢竟悪夢(ひっきょうあくむ)に過ぎず。
善ならざる生命即ち病は畢竟悪夢に過ぎず。すべて不調和不完全は畢竟悪夢に過ぎず。
病気、不幸、不調和、不完全に積極的力を興へたるは吾らの悪夢にして、
吾らが夢中に悪魔におさえられて苦しめども覺(さ)めて観れば現実に何ら吾らをおさえる力はなく
吾と吾が心にて胸をおさえるが如し
まことや、悪の力
吾らの生命を抑える力吾らを苦しむ力は
真に客観的に実在する力にはあらず。
吾が心がみづから描きし夢によって
吾と吾が心を苦しむに過ぎず。
佛(ほとけ)の道ではこれを無明(まよい)と云ひ
神の道ではこれを罪と云う
完全円満の実相をさとらざるが故に無明と云う
完全円満の生命の実相を包みて顕現せしめざる
が故に罪けがれと云う
 
 
 
 
無明(まよい)
 
 
かく天使(てんのつかい)生長の家にて歌ひたまふ時、
一人の天の童子あらはれて問ひを設けて云ふ。
「願はくは人々のために、人々のさとりのために、無明の本質を明らかになしたまへ」と。
天使答へて云ふー
無明はあらざるものをありと想像するが故に無明なり。
真相を知らざるを迷いと云ふ。
快苦は本来物質の内に在らざるに、
物質の内に快苦ありとなして
或は之(これ)を追ひ求め、
或は之より逃げまどふかかる顛倒妄想(てんだうまうざう)を迷いと云ふ。
生命(せいめい)は本来物質のうちにあらざるに
物質の内に生命ありとなす妄想を迷いと云ふ本来物質は心の内にあり
心は物質の主にして、
物質の性質形態はことごとく心の造るところなるにもかかわらず、
心をもって物質に支配さるるものと誤信し
物質の変化に従って
憂苦し懊悩(あうなう)し
われとわが生命の円満完全なる実相を悟ことを得ざるを迷いと云ふ
迷いは真実の反対なるが故に無明なり。
迷いは実在に反するが故に非実在なり。
迷い若し実在するものならば
迷いより生じたる
憂苦も懊悩もまた実在ならん
されど、迷いは実在の虚なるが故に
憂苦も懊悩もただ覺むべき悪夢にして実在には非ざるなり
 
 
 
 
「罪は実在なりや?」とまた重ねて天の童子は問う。
天使(てんのつかい)の答うる声聞こえて曰(いは)く、
すべて真実の実在は、神と神より出でたる物のみなり。
神は完全にして、
神の造りたまいしすべての物も完全なり、
然(しか)らば問わん。汝は罪を以(もつ)て完全となすや?此の時天の童子答えて曰くー
「師よ、罪は完全に非ず」と、
天使また説き給うー
罪は不完全なるが故に実在にあらず、
病は不完全なるが故に実在にあらず
死は不完全なるが故に実在にあらず、
汝ら神の造り給わざるものを実在となすなかれ。
在らざるものを悪夢に描きて恐怖することなかれ
罪と病と死とは
神の所造に非ざるが故に
実在の仮面を被りたれども
非実在なり、虚妄なり我は此の仮面を剥(は)いで
罪と病と死との非実在を明らかにせんが為に来たれるなり
かって釈迦無尼如来(しゃかむににょらい)もこの為に来たれるなり
若し罪が実在ならば
十方の緒仏もこれを消滅すること能わざるなり
イエス・キリストの十字架もこれを消滅する事能わざるなり
されど汝ら幸いなるかな、
罪は非実在にして迷いの影なるが故なり
十方の緒仏も
衆生を摂取してよく罪を消滅したまえり
イエス・キリストも
ただ言葉にて「汝の罪ゆるされたり」と云いてよく罪を消滅したまえり
われもことばにて
「生長の家の歌」を書かしめ
言葉の力にて罪の本質を暴露して
罪をして本来の無に帰帰せしむ
わが言葉を読むものは実在の実相を知るが故に
一切の罪消滅す
わが言葉を読むものは生命の実相を知るが故に
一切の病消滅し
死を越えて永遠に生きん
 
 
 
 
人間
 
 
吾は「真理」なり、「真理」より遣(つか)はされたる天使(てんのつかい)なり。「真理」より照りがやく「光」なり、
迷いを照破する「光」なり。
吾は「道」なり、
吾が言葉を行ふものは道にそむかず。
吾は生命なり
吾に汲む者は病まず死せず。
吾は救なり、
吾に頼む者はことごとくこれを摂取(せっしゅ)して実相の国土に住せしむ。
 
天使(てんのつかい)かくの如く説き給へば
天の童子また重ねて問ふ
「師よ、人間の本質を明らかになし給へ」
天使答へたまはくー
人間は物質に非ず
肉体に非ず、
脳髄細胞に非ず、
神経細胞に非ず、
血球に非ず、
血清に非ず、
筋肉細胞に非ず。
それらすべてを組み合わせたるものにも非ず。
汝ら、よく人間の実相を悟るべし、
 
人間は霊なり
生命なり、
不死なり。
神は人間の光源(ひかりのみなもと)にして人間は神より出でたる光なり。
光の無き光源(こうげん)はなく、光源の無き光はなし
光と光源とは一體なるが如く
人間と神とは一體なり神は霊なるが故に
人間も亦霊なるなり神は愛なるが故に人間も亦愛なるなり。
 
神は知恵なるが故に
人間も亦知恵なるなり。
霊は物質の性に非ず、愛は物質の性に非ず、知恵は物質の性に非ず、
されば、
霊なる愛なる知恵なる人間は、
物質に何ら関はるところなし。
 
まことの人間は、
霊なるが故に、
愛なるが故に、
知恵なるが故に、
生命なるが故に、
罪ををかすこと能(あた)はず、
病にかかること能はず、
死滅すること能はず、罪も、
病も、
死も、
畢竟(ひっきょう)汝らの悪夢に過ぎず。
 
汝ら生命の実相を自覚せよ。
汝らの実相たる「眞性の人間」を自覚せよ。「眞性の人間」は神人(しんじん)にして
神そのままの姿なり。滅ぶるものは「眞性の人間」に非ず。
罪ををかすものは「眞性の人間」に非ず。
病に羅(かか)るものは「眞性の人間」にあらず。
 
地上の人間よ、
われ汝らに告ぐ、
汝ら自身の本性を自覚せよ。
汝ら自身は「眞性の人間」にして、
そのほかの如何なるものにも非ず。
されば人間は真理の眼より見る時は
罪ををかす事能(あた)はざるものなり
病に羅(かか)る事能はざるものなり、
滅ぶること能はざるものなり。
 
誰か云う「罪人よ、罪人よ」と
神は罪人を造り給はざるが故に
この世に一人の罪人もあらず。
罪は神の子の本性に反す。
病は生命其自身の本性に反す、
死は生命其自身の本性に反す、
罪と病と死とは、
畢竟存在(ひっきやう)せざるものを夢中に描ける妄想(まよひのかげ)に過ぎず。
 
実相の世界に於いては神と人とは一體(たい)なり、神は光源にして
人間は神より出でたる光なり。
罪と病と死とが
実在すると云う悪夢を人間に見せしむる根本妄想は、
古くは、
人間は塵(ちり)にて造られたりと云ふ神学なり。
近くは、
人間は物質にて造られたりと云ふ近代科学なり。
これらは人間を罪と病と死との妄想(まうざう)に導く最初の夢なり。
 
この最初の夢を摧破(さい)はするときは
罪と病と死との
根本原因は摧破せられて
その本来の無に帰するなり。
 
汝ら「生長の家」を読んで真理を知り病の癒ゆるは
この最初の夢の摧破せらるるが故なり。
最初の夢無ければ
次の夢なし。
悉(ことごと)く夢なければ本来人間清浄なるが故に
 
罪ををかさんと欲するも
罪ををかすこと能はず、
悉く夢なければ自性無病なるが故に
病に羅らんと欲するも病に羅ること能はず、
悉く夢なければ本来永生(ほんらいかぎりなきいのち)なるが故に死滅すること能はず。
されば地上の人間よ
心をつくして自己の霊なる本體(ほんたい)を求めよ、
これを夢と妄想との産物なる物質と肉体とに求むること勿れ。
 
キリストは
「神の国は汝らの内にあり」と云ひ給えり。誠に誠にわれ汝らに告げん。
「汝らの内」とは汝ら「人間の自性」なり、「眞の人間」なり
「汝らの内」即ち「自性」は神人なるが故に「汝らの内」にのみ神の国はあるなり。
外にこれを追ひ求むる者は夢を追ひて走る者にして
永遠に神の国を得る事能はず。
物質に神の国を追ひ求むる者は
夢を追うて走る者にして
永遠に神の国を建つる事能はず。
 
キリストは又云ひ給へり、
「吾が国は此の世の国にあらず」と
此の世の国は唯影(ただかげ)にすぎざるなり
常楽(じやうらく)の国土は内にのみあり、
内に常楽の国土を自覚してのみ
外に常楽の国土は其の映しとして顕現せん
内に無限健康の生命を自覚してのみ外に肉体の無限健康は其の映しとして顕現せん、
 
人間の五官はただ「映しの世界」を見るに過ぎず。
「映しの世界」を浄(きよ)めんと欲すれば心の原版(げんばん)を浄めて
迷いの汚点を除(のぞ)かざるべからず。
われ誠に物質の世界の虚(むな)しきを見たり
物質の世界が影に過ぎさることを見たり。
われはまた人間が神より放射されたる光なる事を見たり。
肉体はただ心の影なる事実を見たり。
 
汝ら、物質は移りかはる影にすぎざること
あたかも走馬灯(そうまとう)に走る馬の如し。
されば、影を見て実在となすことなかれ
 
人間眞性(にんげんそのもの)はこれ神人なり、永遠不壊不滅(えいえんふえふめつ)の霊體(れいたい)にして
物質をもって造り固めたる機械にあらず、
また物質が先ず存してそれに霊が宿りたれものにもあらず、
かくの如き二元論は悉く誤れり。
物質は却ってこれ霊の影、心の産物なること、
 
あたかも繭(まゆ)が先ず存在して蠶(かいこ)がその中に宿るには非ずして、
蠶が先(ま)づ絲(いと)を吐(は)きて繭を作り
繭の中にみづから蠶が宿るが如し。
 
人間の眞性は先ず霊なる生命にして
心の絲(いと)を組み合わせて肉体の繭(まゆ)を造り
その繭の中にわれとわが霊を宿らせて、
はじめて霊(ことば)は肉体となるなり。
 
汝ら明らかに知れ、繭(まゆ)は蠶(かいこ)に非ずかいこ
然らば肉体は人間に非ずして、
人間の繭に過ぎさるなり。
 
時来たらば蠶(かいこ)が繭(まゆ)を食(く)ひ破(やぶ)って羽化登仙(うかとうせん)するが如く、
人間もまた肉体の繭を食ひ破って霊界に昇天せん。
 
汝ら決して肉体の死滅をもって人間の死となす勿(なか)れ。
人間は生命なるが故に常に死を知らず。
想念(こころ)に従い
時に従い
必要に従ひて
肉体と境遇とに様々の状態を顕(あらは)せども、
生命そのものは病に非ず、
生命そのものは死するに非ず、
 
想念(こころ)を変ふることによって
よく汝らの健康と境遇とを変ふること自在なり。
されど汝ら、
つひに生命は肉体の繭(まゆ)を必要とせざる時到らん。
かくの如きとき、
生命は肉体の繭を食ひ破って
一層自在の境地に天翔(あまかけ)らん。
これをもって人間の死となすなかれ。
人間の本體は生命なるが故に
常に死することあらざるなり。
 
 
 
ー かく天使(てんのつかい)語り給ふとき、
虚空(こくう)には微妙の天楽(てんがく)の声聞こえ
葩(はなびら)は何處(いずこ)よりともなく雨ふりて、
天の使い説き給へる真理をば
さながらたたふるものの如くなりき。
 
 
 
(聖経終)せいきょうおはり
 
願はくは此の功徳(くどく)を以て普(あまねく)く一切に及ぼし、
我等と衆生と皆ともに実相を成(じょ)ぜんことを。
◎ 新たに祖先霊を祭祀する場合
 


◯ 新たに霊碑又は墓石を作って、お祀りする時は、祓式を行い、次に先ず“招神歌(かみよびうた)”を唱えて正しい神様の御降臨を願って、祭祀の意義をといた祭文を読み、仏教ならば祓式の代りに「般若心経」を読みて妄念を浄めて本尊の御守護のもとに招霊するようにする。これは浮浪の霊などに災(わざわ)いされないためで力強く権威ある態度で行うようにする。
 



◯  招神歌(かみよびうた)

生(い)きとし生けるものを生かし給(たま)える御祖神元津霊(みおやがみもとつみたま)ゆ幸(さきは)え給え。 
吾(わ)が生くるは吾が力ならず、天地(あめつち)を貫(つらぬ)きて生くる祖神(みおや)の生命(いのち)。  
吾が業(わざ)は吾が為(な)すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能(ちから)。 
天地の祖神の道を伝えんと顕(あ)れましし生長の家の大神(おおかみ)守りませ。




◯ 『七つの燈台(とうだい)の点燈者(てんとうしゃ)』の神示     (大調和の神示)


汝(なんじ)ら天地一切(てんちいっさい)のものと和解せよ。天地一切のものとの和解が成立するとき、天地一切のものは汝の味方である。天地一切のものが汝の味方となるとき、天地の万物何物(ばんぶつなにもの)も汝を害することは出来ぬ。

汝が何物かに傷つけられたり、黴菌(ばいきん)や悪霊(あくれい)に冒(おか)されたりするのは汝が天地一切のものと和解していない証拠であるから省(かえり)みて和解せよ。われ嘗(かつ)て神の祭壇(さいだん)の前に供(そ)え物(もの)を献(ささ)ぐるとき先(ま)ず汝の兄弟と和解せよと教えたのはこの意味である。
汝らの兄弟のうち最も大なる者は汝らの父母(ちちはは)である。

神に感謝しても父母に感謝し得ない者は神の心にかなわぬ。天地万物と和解せよとは天地万物に感謝せよとの意味である。本当の和解は互いに怺え(こらえ)合ったり、我慢しあったりするのでは得られぬ。怺えたり我慢しているのでは心の奥底で和解していぬ。感謝し合ったとき本当の和解が成立する。

神に感謝しても天地万物に感謝せぬものは天地万物との和解が成立せぬ。天地万物との和解が成立せねば、神は助けとうても、争いの念波は神の救いの念波を能(よ)う受けぬ。皇恩に感謝せよ。汝の父母に感謝せよ。汝の夫又は妻に感謝せよ。汝の子に感謝せよ。汝の召使に感謝せよ。一切の人々に感謝せよ。

天地の万物(すべてのもの)に感謝せよ。その感謝の念の中にこそ汝はわが姿を見、わが救いを受けるであろう。われは全(すべ)ての総(すべ)てであるからすべてと和解したものの中にのみわれはいる。われは此処(ここ)に見よ、彼処(かしこ)に見よと云うが如くにはいないのである。

だからわれは霊媒には憑(かか)らぬ。神を霊媒に招(よ)んでみて神が来ると思ってはならぬ。われを招ばんとすれば天地(てんち)すべてのものと和解してわれを招べ。われは愛であるから汝が天地すべてのものと和解したとき其処(そこ)にわれは顕(あらは)れる。        (昭和6年9月27日夜神示)

時(とき)が来た、今すべての病人は起(た)つことが出来るのである。最早(もはや)、あなたにとって病気は存在しない時が来たのである。二千年前、キリストが「汝の信仰によって汝の信ずる如くなれ」という唯一語(ただいちご)で、遠隔(えんかく)の地にいる病人を癒したその真理が、すべての人類に開顕(かいけん)される時期が来たのである。

「生長の家」を読み真理をしるだけで遠くにいて病気が治る事実を見よ、「生長の家」は今かの黙示録(もくしろく)が予言した「完成(ななつ)の灯台」として人類の前に臨(のぞ)むのである。此の灯台より真理の光を受くるものは、創世紀のエデンの楽園追放以後、人類を悩ましたところ「罪」と「病」と「死」との三暗黒(あんこく)を消盡(しょうじん)するのである。

光が近づくときすべての暗黒は消える。「真理」が近づくときすべての「迷い」が消える、「迷」が消える時、「迷」の産物なる「罪」と「病」と「死」とは消える。疑わずに我が光を受けよ。われは「完成の灯台」ななつのとうだいに灯を黙(てん)ずるものである。


(昭和6年1月15日神示)




谷口雅春 著 「甘露の法雨講義」





★ なるべくご先祖様がやっていた宗派でやられる方がいいようです。わからない場合は、この通りにおやりになるといいです。

説明はYouTubeで谷口雅春先生のをお聞き下さい

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