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俺は亜姫の手を、もう一度握った。
でも、亜姫は隣りには帰ってこなかった。
亜姫の両親は離婚をする時、亜姫の親である事を放棄したのだ。放棄するにあたり、両
親は亜姫にあの家を与えた。
「手切れ金みたいなものだよ」
亜姫は平然と言ったが、俺は親子の間でそんなものが存在するのは間違っていると思う
のだ。でも、口にはしなかった。亜姫は何かを割り切っているらしく、思い出の詰まった
家を、不動産屋に売り払ったからだ。
家はすぐに買い手がついて、亜姫は大学へ進学してもおつりがくるほどの金額を手にし
た。
岩井先輩の父親の奨学金は丁重に辞退した。
でも、岩井先輩の妹のカテキョーはやめないので、マンションにそのまま住むことにな
ったのだ。
「ルナちゃんとの約束を破る事は出来ないよ」
亜姫はニコリと笑ったのだ。
ルナとは岩井先輩の妹の名前だ。お人形みたいに凄く可愛いと、亜姫は教えてくれた。
俺と俺の両親としては、同じ家で暮したいと思った。
「亜姫には亜姫の”世界”があって、テッチャンにはテッチャンの”世界”があるんだ
よ。でもね、亜姫の”世界”とテッチャンの”世界”は、二人が手を繋ぐことで、一つ
の”世界”になることもあるの。その”世界”も亜姫は大好きだよ」
亜姫の決意を聞いた気がして、俺は何も言えなくなってしまった。
今もまだ、何かに夢中になりすぎて危なっかしいこともあるけれど、以前に比べてその
回数は減っていた。
亜姫は自分の事は自分ですると言ったが、御飯だけは毎日食べにきている。
一緒に住めないなら、一緒に御飯を食べること。
おふくろの絶対命令が下ったのだ。
亜姫もおふくろの絶対命令には逆らうことが出来ないらしく、毎日御飯を食べにきてい
る。
俺は目覚ましが鳴る前に起き出し、制服を着る。
そして、門のところで自転車でやってくる亜姫を待つのだ。
おやじのサンダルで表に出る。
この三日ほど、となりは引越し業者や庭師やホームクリーニングなんかが来ていて騒が
しかった。
この家を買った新しい主が、昨日、俺の留守中やってきて、おふくろに挨拶をして言っ
たそうだ。
おふくろ曰く
『王子様』
だそうだ。
女子中学生みたいに、キャッキャはしゃぐおふくろを見て、俺は肩を竦めるだけだ。
南の制服姿の亜姫が、微かに見えた。
同時に、隣の家の門が静かに開いた。どうやら、新しい主の登場のようだ。
どんな奴か見てやろうとして、俺は一瞬固まった。
「岩井先輩?」
門から出てきたのは、学校一のモテ男。
おふくろが『王子様』と言った意味が、すげー解った。
岩井先輩が俺に気付き、爽やか過ぎる笑顔を向けてきた。
「やぁ、一君。おはよう」
「先輩、どうしてここを買ったんですか?」
挨拶をすっ飛ばし、俺はストレート勝負をした。
この勝負に、先輩はルール無視の球で勝負をしてきやがったのだ。
「一君、忘れたわけないだろ? 私は君にライバル宣言したはずだよ。彼女……亜姫を絶
対に振り向かせてみせるよ」
「………はぁ?」
俺はすっとんきょうな声を上げた。
あの時、亜姫の住所の紙を握らせてくれたとき、肩をポンと叩いた意味は?
なんだったんだ???
俺が何も言えず、口をパクパクさせていると、亜姫が到着した。
「あれ? 先輩。おはようございます」
亜姫はバカ丁寧に挨拶をしたのだ。
「おはよう、木之下さん」
「亜姫でいいですよ。先輩には、色々お世話になったし」
亜姫はニコリと微笑んだ。
岩井先輩は面食らった顔しつつも、口を開いた。
「では、改めて。亜姫、おはよう。私の事は義彰と呼んで……」
「はい、おはようございます。で、どうして先輩はここにいるのですか?」
亜姫は岩井先輩の頼みを、あっさりスルーした。
岩井先輩が少しガッカリした顔をしていた。なんかいい気味だ。
岩井先輩がガッカリしている間に、俺が説明してやる。
「岩井先輩が、亜姫の家を買ったんだと」
「へー、そうなんだ。売っちゃった私がいうのもなんですが、大切にしてくださいね」
亜姫が岩井先輩へニコリと笑いかけた。
岩井先輩は復活したらしく、微笑み返した。
「大切にするよ。亜姫は自分の家だと思って、帰ってきていいんだよ」
「それは、まずありえません」
亜姫は見事ともいえるストレートを、岩井先輩にぶち込んだ。
今度こそ岩井先輩は撃沈した。
ショックのあまり、微動だにしていない。
(亜姫、よくやった)
俺は心の中でガッツポーズを作った。
玄関のドアが開き、おふくろが登場した。
「亜姫ちゃん、おはよう」
「おばさま、おはようございます」
亜姫は御辞儀をして、自転車を俺の自転車の隣りへ置くと家の中へ消えていった。
おふくろは、その後に続くかと思いきや、
「岩井さん、おはようございます」
岩井先輩へ少女みたいに微笑んだのだ。
岩井先輩は、爽やかな笑顔で対応。
「おはようございます」
挨拶をすると、亜姫に続いて家の中へ……。
(はぁ?)
俺は岩井先輩の後ろ姿に見とれているおふくろの前に立つ。
おふくろは、あからさまに嫌な顔をした。
俺は、そんなの気にせず、おふくろに詰め寄る。
「どういうことか、説明を求める」
「あら? 説明していなかった? 岩井さんがね、家庭教師のバイト先を探しているって
いったの。あんたのこと話したら、即刻OKしてくれたのよ。全国模試第1位の現役学生
に勉強をみてもらえるなんて、しあわせ者♪ 格安の料金でね、それじゃあ悪いから、毎
日の食事をつけたのよ」
(なに!?)
今度は俺が微動だにできなかった。
呆然とする俺の耳に、家に戻るおふくろの陽気な笑い声が聞こえたが、それにたいする
ツッコミさえ出来なかった。
俺は動けるようになってから、俺は頭を抱えて叫び声をあげた。
「うだー!!」
俺を待っている俺の”世界”は、どうやら順風満帆といかないみたいだ。
だが、亜姫と一緒の”世界”は、今始まったばかりだ。
失敗もあるが、二人で手を繋いで歩いて行こうと思う。
おわり
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