蓂莢亭の物書きペンギン

泣いても一生、笑っても一生、ならば今生泣くまいぞ。

穏やかな手

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久しぶりの恋愛小説です。
ドキドキしながら読んでいただけたら幸いです。
よろしくお願いいたします。
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穏やかな手 30

 五月六日 金曜日。

 清明さんに別れを告げて、三日が経った。

 あれ以来、清明さんから連絡は一度もない。

 それは、良い事だ。

 本来、連休明けの初日は学校へ行かなくてならないが、体が言うことをきかない。

 ベッドの中で、うつらうつらしていると電話が鳴った。

 手を伸ばし、床に転んでいるスマートフォンに触れる。

「もしもし」

 相手も確認せず電話に出て、私はとてつもなく後悔をした。


[こんばんは、小雪さん。今日は、どうしたんですか? ずっと待っていました]


 時計に目をやると、図書館の閉館時間を十分も過ぎていた。

 夏は心配そうな声で、私の身を案じてくれている。

 清明さんを夏から奪おうとしていた私など、心配に値しない最低の人間だ。

 これ以上私に関わると、夏をたくさん傷付けてしまう。

 だから、全て終わりにしなくてはならない。

「すまない、夏」

[小雪さん、謝りは結構です。ですから、また来週からお願いします]

 律儀な夏の声を聞き、私はゆっくり呼吸を繰り返した。

「夏。そのことなんだが、勉強会に私は出ることはできない」

[                 ]

 返事はなかった。

 私の言葉が伝わったか心配になるくらい、夏は沈黙を守り続けた。

[なぜですか?]

 沈黙を破った夏の声は少し不機嫌だった。

「すまない」

[理由を教えてください]

「すまない。もう、本当にダメなんだ」

[ダメな理由を教えてください]

「すまない」

 同じことを繰り返すように、私は夏の声を受けて謝り続ける。

 夏は、また何も言わなくなってしまった。

[彼氏さんとなにかあったのですか?]

 再び夏が電話口に出た時、声は心配の響きを持っていた。

[カレカノイベントが成功しなかったのですか? ケンカしたのですか? それなら早く仲直りをした方

がいいです。おすすめします]

 夏は本当にいい子だ。

 真面目で優しい。

 清明さんを本当の意味で夏から盗らないでよかったと、心から思った。

「ありがとう。でも、無理なんだ」

[無理とは、全ての努力をした上でもダメだった時に使う言葉です。最善策があるはずです。僕も一緒に

考えます。だから、あきらめないでください]

 夏はいい子だが、このままでは、いつまで経っても終わらない。

 どこかでケリを付けるのは、私にとっても大切なことだ。

「最善の策は、彼と別れることだ」

[小雪さん! あきらめてはいけません。小雪さんを笑顔にできるのは、彼氏さんだけなんです。ですか

ら、一緒に]

「私の彼は君の父だ。それでも一緒に考えてくれるのか?」

[                ]

 夏の優しさが重たくて、私は口にしないでおこうとした真実を伝えた。

 夏は、再び黙ってしまった。

 このまま沈黙が続き、夏との関係が切れてしまえば最高だというのに……。

[なるほど、合点がいきました。ここ数日、父の元気がなかったので不思議に思っていたのですが、そう

いうことだったのですね]

 納得したような答えに、私は焦った。

「清明さん、元気がないのか!」

[いえ、至って普通です]

「今、元気がないといったじゃないか!」

 平然とした夏の声に、私は怒り露わにした。

[もし、本当に元気がなかった、父にメールをしますか? 電話をしますか? それとも直接会います

か?]

 私の怒りに反し、夏は絶対に出来ない提案ばかりしてくる。

 もし、一つでも実行してしまえば、今度こそ本当に清明さんを奪ってしまう。

 だが、今はそれよりも、気がかりなことがある。

 それは冷静過ぎる夏の対応だった。

「夏は私を軽蔑しないのか?」

[正直驚きました。でも、それだけです。本来なら、小雪さんのことを罵ったりするべきなのでしょう

が、小雪さんを幸せにしてきたのが父であるのは揺るぎない事実です。それに別れてしまったのでした

ら、僕は何も言うことは出来ません]

 今にも笑い出しそうな夏の声に、私は混乱した。

「どうしてそんなに寛容なんだ?」

[それは決まっています。僕は小雪さんが好きなんです。小雪さんを初めて見た時、あなたは世界から消

えてしまいそうな感じで心配でした。それと同時に、僕はあなたのことが好きになりました。小雪さんの

笑顔も幸せも僕が守るつもりでした。父に先を越されたのが悔しくて、気持ちを伝えてしまいました。本

来、鶺鴒に合格してから告白をする予定でした。フライングです。すみません。しかし、フライングをし

てしまった以上、僕としても小雪さんとの勉強会は不可能となりました。小雪さんの希望を、了承しま

す。終了です。これから僕は自分の力で鶺鴒に合格します。給費生になります。そして小雪さんへ一番に

報告行きます。その時、今日の返事を聞かせてください。ですから、僕が会いに行くまで、父と寄りを戻

さないでください。新しい彼氏さんを作らないでください。ゆっくりでいいので元気になってください。

絶対に世界から消えないでください。全てを約束していただかないと、心配で勉強が手に着きません。お

願いします]

 夏は、いつもみたいに延々と淡々と流暢に気持ちを言葉にした。

 顔は、きっと真剣そのものなのだろう。

 黒目がちの瞳に、まっすぐ見られているような気がする。

 真剣な夏に、私は真面目に答える。

「約束する」

「ありがとうございます。では、半年後に会いに行きます。絶対に会いに行きます」

 夏は明るいトーンの声でそれだけ言うと、通話を切った。

 私はスマートフォンを両手で包み、静かに目を閉じた。





 世界は無道と秩序で出来ている。


 もしかしたらそれは間違いで、世界はそれ以外のもので創られているかもしれない。                 


                                            終

穏やかな手 29

「小雪ちゃん、それは……」

 清明さんは、困っていた。

 その表情は、初めて告白した時と同じ表情だ。

 清明さんの気持ちが進展していないことがよく解った。

 私の気持ちは、空回りしていただけなのだ。

 夏に話した時、夏のくれた答えなど、全く以てありえないことなのだ。

 それでも、私は期待した。

 少しでも私を想ってほしい、

 日常の中で私を思い出してくれることが数秒でもあってほしいと願っていた。

 でも……。

 続きを考えず、私は言葉を訥々と続ける。

「私は子供。そして清明さんは大人。子供でも、私は清明さんのことが好き。でも、気持ちを伝えるの

は、いつも私ばかり。清明さんは、気持ちを教えてくれないね。はぐらかしてばかり。良い子でいるけ

ど、私はいつだって知りたかったんだ。清明さんにとって、私はどんな存在? 私と同じでいいの?」

「小雪ちゃん、俺は……」

「私は知っているよ。清明さんが造る境界線を。必要な線であることも解っているよ。なければならない

ものだと頭は理解しているよ。でも、心の中では拒絶されていると感じていた。感じれば感じるほど、私

が清明さんの心の中心の存在となって、永遠になればいいとさえ願っているの。こんな私を清明さんは、

受け入れてくれる? 少しでも、私のことを好きだと思ってくれるなら……」



 抱きしめて。



 声が出なかった。

 言葉にしようとしたら、なぜか夏の送ってくれた写真が脳裏に浮かんだのだ。

 戸惑っていると、清明さんが私の右手から自分の手を離した。

 嫌われた。

 完全拒絶された。やはり、清明さんにとって最初から、迷惑な人間だったのだ。

 それが解っただけで、良かったではないか。

 泣くなよ。

 私は消えてしまいそうな心に呼びかける。

 しかし、私は泣いていた。

 一年前と同じように泣いていた。

 やっぱり嫌だ! 

 清明さんを失うのは嫌で、私の清明さんでいてほしくて大声で泣いた。

「小雪ちゃん、ごめんな」

 泣きじゃくる私の耳に、清明さんの優しい声が聞こえた。

 大好きなコロンの香りが近くでして、私は穏やかな何か包まれた。

 それが、抱きしめられていることだと気付くのに数秒使ってしまった。

「本当に、ごめんな。小雪ちゃんの本気は、解っていた。こんなおじさんのことに好意を寄せてくれるな

んて、嬉しかった。小雪ちゃんを抱きしめたいと思ったこと、なかったなんて言わない。いつも手を握る

だけで、制御していた。境界線だって造っていた。そうしないと、俺は……」

 清明さんの抱きしめる腕の力が、少しだけ強くなる。

 私は耳を疑った。

 そして、清明さんの一言一句を噛みしめた。

 空回りでないことが、心から嬉しかった。

 今すぐ清明さんの背中に手を回し、抱きしめ返したかった。

 ゆっくり手を動かし、私は清明さんの胸に手を置き押し返した。

 優しさも、暖かさも、穏やかも、私の欲しかったものが離れていく。

「小雪ちゃん!?」

 清明さんは、驚いていた。

 声が震えていた。

 境界線を越えてくれようとしてくれた全てを、私が拒絶したのだから当たり前だ。

「どうしたんだ?」

「清明さん、ごめんなさい。私は、これ以上、清明さんを困らせることはできない」

「困ってなんかいない」

「いや、困っているよ」

 顔を上げ、清明さんの顔を見つめる。

 私と目が合うと目を細めて笑ってくれたが、いつもと違って辛そうだ。

 私を選ぶということは、多くを失う。

 理解した上での決意なら、そんなことはさせてはいけないのだ。

「清明さん。ずっと、言えなかったけど、私は父と母の親友との間の子供なんだ。私が生後間もない時、

父と本当の母は亡くなり、血のつながりのない母が私を引き取ったの。引き取った明確な理由は知らな

い。愛を私に注ぐこともなく、なぜ今も育てているのか、まったくもって私には解らない。でも、愛する

人を盗られてしまった人間の感情は反吐が出るほど体験しているの」

「……」

「私は清明さんと家族の縁を断ち切ってはいけないんだ。清明さんは、家族のところへ帰らなくっちゃ。

私の気持ちは空回りだったの。大好きだと言っておきながら、ごめんなさい。我儘でごめんなさい」

「……」

「私なら平気だよ。私は母の愛がなくても、お金さえあれば育つ。でも、夏は違う。夏は清明さ……父親

を尊敬しているの。その気持ちを裏切らせること、私は出来なかった」

 黙って聞いていた清明さんの表情が夏の名前を出した瞬間、驚きに変わった。

 一度も会話に出したことのない息子の名前を、なぜ知っているのか? 

 そんなことを言いたそうな顔をしていた。私は疑問に答えず微笑んだ。

「清明さんは、夏のいる世界、夏との時間を大切にしなくちゃだめだよ」

「それじゃあ、小雪ちゃんは」

「夏の泣き顔を見たくないよ。清明さんだって、そうだよね?」

 ニコリと微笑むと、電車が動きを緩慢にし静止した。

 清明さんから離れ立ち上がる。

 同時に、電車のドアが開いた。

 私はドアに向かって歩き出し、飛び出す前に清明さんへと顔を向けた。

 硬直していた清明さんは、私が動いたことでこちらへ視線を動かした。

 世界が止まってしまったような表情の清明さんに、私は微笑みかけ、ゆっくりと口を動かした。

 読み取ってもらえたら、ありがたい。


「ありがとう」


 精一杯の気持ちを込めて、私はそれを最後の言葉にした。

穏やかな手 28

 私と清明さんは入口でUターンをし、電車へ乗り込んだ。

 乗り込んだばかりの時は、電車は半数くらいの乗客で埋まっていた。

 電車に揺られていくうちに、乗客は二人だけになっていた。

 窓の外へ視線を向けると、あと三十分ほどで到着しそうだ。

(よし、ここからだ)

 私は隣に座る清明さんの左手に右手を絡ませた。

 軽く握ると、痛みを感じた。

 その痛みは、清明さんと奥さんの絆の証となっている指輪だ。

 普段、清明さんは私の右手を握ることはない。

 そうすると、今のように痛みを私が感じるからだ。

「こんなに痛いものなのだな」

「どうした?」

「なんでもない。清明さん、あと少しだよ」

「そうだな。あっちへ着いたら何をしようか?」

 清明さんの問い掛けに、私は微笑んだ。答えない。

 答えられるわけなど出来ないのだから……。

 この痛みを知っていたら、私は清明さんをこんなに好きにならなかっただろうか? 

 答えは否だ。

 私の気持ちは、清明さんの本来のあるべき生活には関係なかった。

 私と会っている時、私のことだけを見てくれる清明さんが好きなのだ。

 この気持ちさえ、今は右手の痛みが間違いだと警告している。

「小雪ちゃん……」

 清明さんの声に、心配の響きを感じた。

 何も喋らない私を心配しているのだろうか? 

 だったら、それは申し訳ない。

 私は笑顔を返し、清明さんの不安を払拭する。

「清明さんは覚えてる? 初めて会った日のこと」

「当たり前だろ。あんなに印象的な出来事を忘れたりするわけないだろ」

「私も忘れてはいないよ」

 私は心からホッとした。

 少ない繋がりを、清明さんが覚えているか不安だったのだ。

 今まで言い出せずにいたが、ここで聞くことが出来て本当に良かった。

「泣いている私を、外に連れ出してくれた。今でも感謝しているよ」

「感謝されるようなことじゃない。俺は小雪ちゃんが泣き止まないから、すごくテンパってかなり必死

だったんだぞ」

「清明さんでも、慌てるんだ」

 クスッと笑いを漏らすと、空いている右手で頭を軽く小突かれた。

 いつもは少し不満の残る子供扱いさえ、今は嬉しくてたまらない。

「必死という割には、駅に降りた途端、泣いている私を置き去りにして、写真を撮りまくっていたよね」

「それは、謝っただろ。ああいう建物を見ると、撮らずにいられない性分なんだ。小雪ちゃんなら解るだ

ろ?」

「付き合って一年。初めの一ヶ月で、これでもかってくらい理解したよ」

「なんだ、そのいいかたは〜」

 少し怒った口調だが、少しも怖くない。

 なぜなら、清明さんはニコニコと微笑んでいたいからだ。

 本気で気分を害しているわけではないのが手に取るように解る。

(優しいな……だから、ダメなんだ)

 心の中でそっと呟き、清明さんの手を強く握る。

「清明さん」

「んっ?」

「私は清明さんが大好き」

「小雪……ちゃん?」

 呼びかけに応えてくれた清明さんを、私は一年ぶりに真っ直ぐ見つめた。

「大好きで大好きで大好きで大好きで大好き。世界が滅んで誰もいなくても、清明さんがいてくれたら私

は生きていける。私は本気だよ。それを知ってもらった上で、清明さんに聞きたい。清明さんは、私のこ

とをどう思ってくれている?」

穏やかな手 27

「あの日の穏やかな手、思い出すのは容易だ。私を救ってくれた大切な温もりだ。そして、これは夏に返

さなくていけないものだ」

 私は温もりを覚えている左手をジッと見つめ、それからバッグの中からスマートフォンを取り出した。

 ここに来る前に、夏からメールが届いた。

 メールは、夏の律儀さが目に見えるような文面だった。

「メールが遅くなった謝罪と、勉強を疎かにした反省。君は本当に真面目だな」

 クスッと笑いを漏らし、画面をタップする。

 次に待っていたのは、この数日間、恐怖で目を背けてきた正解が添付されていた。

 夏が送信してきたのは、数枚の家族写真。

 ほとんどが、夏と夏の母親だけが映っていた。

 子供らしい笑顔の夏、どこか儚げだが芯の強さを感じさせる綺麗な母親。

 二人の表情は幸せに満ちていた。

 二人の笑顔はポーズというより、撮ってくれている相手に対して向けているのを強く感じる。

 その相手は、夏が送ってくれた写真の最後に映っていた。

 満面の笑顔の夏と、恥ずかしそうに微笑む夏の母親と、二人を両手で抱きしめるように真ん中で笑って

いる清明さん。

 私が関心を持たずにいた現実が、そこにはあった。

 この現実を受け入れるだけの力がなくて、私はさっきまで逃避していた。

 まだ、家に居て湯船に浸かっていると思い続けて、その後全てが夢だと思っていた。

 でも現実だ。

 これは、全て現実。

 逃げてはいけない現実だ。

 でも、この現実は……。

「結構キツイな」

 呟くと同時に、周囲が騒がしくなった。

 私の目の端に、美術館へ向かう観光客が映った。

 画面の端っこの時計は開館二十分前を表示していた。

 もうすぐ清明さんが来てくれる。

 夏の父親でない、私だけの清明さんが来てくれるはずだ。

 スマートフォンをバッグへしまい代わりに小袋を取り出す。

 両手で優しく包み込み、一心に願う。

「大丈夫だ。私は上手くやれる」

 目を閉じ三度呟き、小袋を握りしめる。

「小雪ちゃん?」

 清明さんの声がした。

 目を開けると、数メートル先に清明さんが立っていた。

 九日ぶりの再会の清明さんは、いつものカジュアルな服装でなく深い紺色のスーツを着ていた。

 眼鏡の奥の目を細めて笑い、私に手を振ってくれている。

 私は小袋をバッグへしまい、軽やかに駆け出した。

「小雪ちゃん、早いな。というか、俺の方が絶対に早いとおもったのに、うわっ!?」

 清明さんが言い終わらないうちに、私は彼を抱きしめた。

 出会って一年、清明さんを抱きしめたのは初めてだった。

「こ、小雪ちゃん!?」

 私は何も言わず、清明さんを抱きしめ続けた。

 拒絶されると思ったが、清明さんは私を離さず頭を静かに撫でてくれた。

 ふわりと甘いコロンの香りは、清明さんの香りだ。

 街中でこの香りに気付くと、そちらを振り返ってしまうくらい私は清明さんの香りが大好きだ。

 抱きしめる力を少しだけ強くする。

「小雪ちゃん、本当にどうしたんだ?」

「清明さん、我儘を言ってもいい?」

 何度目かの問い掛けに、私は言葉を返す。

「んっ? どうしたんだ? 急に」

「急じゃない。ずっと考えていた。私は、いつもの場所に行きたい」

「いつものって、美術館はいいのか?」

「清明さんと初めて会った、あそこに行きたい。ダメ?」

「そうか。じゃあ、美術館は、また今度な」

「ありがとう。本当にありがとう。それと、本当に、ごめんなさい」

 私は清明さんの胸に顔を埋めたまま、謝罪と感謝を繰り返した。

穏やかな手 26

 あの日は、晴れていた。

 気持ちいいくらい、真っ青で、少しピンク色をした春の空の土曜日だ。

 私は彼女と諍いを起こした。

 理由なんて忘れた。

 忘れるくらいの事なのだ、きっと些細な事なのだろう。

 だが、諍いの最中に、彼女に「全てあんたが悪いのよ! あんたなんて育てなければよかった!」と罵

られたのはよく覚えている。

 私はショックではなかった。

 彼女に愛されない理由を知っていたからだ。

 私は父親と彼女の親友の間に生まれた子供。

 生まれてひと月と立たないうちに、私の本当の両親は事故死、残された私は施設行きのところを、彼女

が引き取ったのだ。

 不逞相手の容姿全てを色濃く受け継いだ私を、彼女が愛することなどありえない。

 そのことを知って以来、彼女と極力顔を合わせない生活を始めた。

 解っていた、何も言われなくても解っていたからこそ、近寄らなかった。

 だが、あの日は彼女の琴線に触れたのだろう。

 私は初めて面と向かって罵られた。私を育てるイカレタ彼女と、壊れ始めた私の諍い。

 その結果がもたらしたものは、私の家出だ。

 所持金全てぶち込んで、どこまで電車でいけるのか実行したのだ。

 考えてみれば、これが後先考えず行動した最初かもしれない。

 シートに座り、車窓を流れる風景を眺め続けた。

 いつも見ている街並みが、だんだんさみしくなり、畑一面となり、山が眼前に迫ってくる風景に変わっ

ていった。

 街暮らしの私にとって、この風景にはクルものがあった。

 それは、恐怖だ。

 恐ろしさが私に冷静さを取り戻させた。

 冷静さが教えてくれたのは、車内にいるのが私とスーツ姿のおじさんだけ。

 おじさんは背凭れに背中を預け眠っていた。

 無防備なおじさんなのに、私には恐怖の象徴にしか見えなかった。

 逃げるべき避けるべき相手だった。

 もっと人のいる別の車両へ移ろうと立ち上がった瞬間、列車が大きく揺れたのだ。

 私はバランスを崩し、盛大に転んでしまったのだ。

「大丈夫か?」

 寝ていたはずのおじさんは、いつの間にか正面にいて私を助け起こしてくれた。

 シートに私をそっと座らせてくれ、片膝を着く姿勢でこちらを覗き込んできた。

「どこか痛いか?」

 眼鏡越しの細い目が、私をジッと見つめる。

 そして、おじさんの手が伸びてきて私の額に触れたのだ。

「顔が赤いが熱でもあるのか?」

 おじさんの声は、優しかった。

 手から穏やかさがつたわってくる。

 恐怖の象徴のはずのおじさんがくれたのは、生まれて初めて誰かにもらった温もりだった。

「少し熱いみたいだけど、平気か?」

 一言も発しない私をおじさんは心配してくれた。

 見ず知らずの十五歳を心配してくれるおじさんに、私は私の事情を説明する前に泣き出した。

 おじさんは突然泣き出した私に対しオロオロし困っていたが、私は泣くのをやめなかった。

 嬉しかったのだ。

 こんなに誰かを暖かいと思ったことが嬉しくて、車内に響き渡るくらい大きな声で泣き続けた。

「う〜ん。ええい! 君、歩けるな」

 おじさんは何かを悩み決意した声で、私に呼びかけると、私の手を取って止まったばかりの電車から飛

び降りたのだ。

 突然すぎて、拒否とか逃亡も考えなかった。

 それよりも、おじさんの手を離すことの方が怖かった。

 私はおじさんの手を強く握り続けた。

 そのおじさんこそ、清明さんだ。

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