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ゴーン容疑者について。
先月の末、デジタル朝日にこんな記事がありました。

ゴーン前会長「従業員のやる気落ちる」退任後報酬の理由



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 日産自動車の会長だったカルロス・ゴーン容疑者(64)が、約20億円の報酬のうち毎年開示するのは約10億円にとどめ、差額の約10億円を退任後に受け取ることにしたとされる点について、「(公表したら)従業員のモチベーションが落ちると思った」と話していることが、関係者への取材でわかった。
 関係者によると、2008年秋のリーマン・ショックで日産の業績が下がったため、ゴーン前会長の報酬も減った。その後、日産の業績は回復。ゴーン前会長は報酬を元に戻そうと考えたが、開示すれば従業員のやる気を失わせてしまうと考えたという。
 一方で、退任後の報酬の支払いについては「確定したものではなく、記載義務はない」と容疑を否認。弁護士でもあるケリー前代表取締役に相談して「『合法な方法です』と言われた」とも主張しているという。


みけねこ姫はこの記事を読み
「ああ、彼はわかっていたんだ」と思いました。
自分の高額な年収が、従業員のやる気を削ぐことを。

だって、彼らの年収とどれだけ違うか。
たいていの従業員は
「やってられるか」と思うでしょう。

だから退任後に、ということなんですね。
従業員のモチベーションが下がることがわかっていたなら、
他の方法は取れなかったのか。

コストカッターって要はリストラですよね。
多くの従業員の失業の上に自分の報酬があることについて

思うところはなかったのか。

みけねこ姫は、もやもやとした気持ちでした。
それを、文字にしてくれたのが
デジタル朝日の、佐伯啓思さんの文章です。

長いですがそのまま貼り付けます。

(異論のススメ)道徳観と切り離された報酬額 「常識」あっての市場競争 佐伯啓思



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 日産自動車会長のカルロス・ゴーン氏の突然の逮捕という衝撃的ニュースが流れてから2週間余り。様々な事実が明るみに出されており、ほとんど日産を私物化したといってもよいようなワンマンぶりも報じられている。報道をみる限り、急激な業績回復の陰で、日産はそこまで彼のやりたい放題を許していたのか、という暗澹(あんたん)たる気持ちになる。はたして、ゴーン氏は、相手が日産つまり日本の企業でなく、かりに米や仏の企業であれば同様のことをしたのだろうか、などと邪推もしてしまう。
 この逮捕の背景には、事実上ルノーの傘下に置かれてしまうという日産側の危機感もあったであろうし、日仏の国家間の関係もあろう。とはいえ、これはまずは、自身の報酬額の虚偽記載という金融商品取引法違反に関わる法的問題である。だから、あくまで「ゴーンの犯罪」という法的問題として論じるべきだ、という意見もでてくるし、報道の主要な関心もその方向で進展している。
     *
 しかし、法的対応はそれでよいとしても、より根本的な問題は、倫理的で道徳的なものだと私には思われる。そして、ゴーン氏自身が、なかばそれを告白している。なぜなら、報道によると、彼は、虚偽記載の理由を、あまりに多額の報酬を公表することが、社員を刺激するのではないかと危惧した、というようなことを述べたそうだからだ。
 ゴーン氏の日産社長就任によって、日産の多くの工場が閉鎖され、2万人を超す従業員が解雇され、その上で日産は奇跡の業績回復を果たした。その功績によって彼は「コストカッター」の異名をとって日産の大功績者となった。「コストカッター」などといえば聞こえはよいが、へたをすればこれは「ヒューマンカッター(人間切り)」である。
 2万人を超す従業員の犠牲の上に、5年で100億円の報酬を受け取るということは、法的問題はなくとも倫理的な問題ではないのだろうか。これが常識的な感覚であろう。もしも、虚偽記載の理由が社員の批判を恐れたというものであるなら、彼が恐れたのはこの常識である。
 仮に、彼がこの常識を恐れずに報酬を正確に記載し、さほど日産を食い物にしなければ、それで問題はないのだろうか。クビになる従業員とクビにする経営者の間にこれほどの格差がつき、短期的成果を達成した無慈悲な「コストカッター」が、すっかり英雄扱いをされ、神格化されてしまうことは倫理的な問題ではないのだろうか。
 多くの人は、何かおかしいと思うであろう。常識とはそういうものである。ところが、常識が何とささやこうが、この格差は今日の市場競争主義の帰結であり、そこに法的問題は何もない。年に数えるほどしか会社にやってこない最高経営責任者が年間20億円の報酬を得ようが、それが正当な契約に基づく限り、倫理的、道徳的に問うことも難しい。
     *
 ゴーン氏の問題を離れてもう少し一般化していえば、今日のグローバル市場は、短期間に企業業績を回復させ、株価を上昇させた経営者には巨額の報酬を与え、他方で、一般従業員の平均的賃金は下落させる。それがグローバルな競争原理であり、自己責任原則であり、成果主義、能力主義である、ということになった。法に違反しなければ問題はない。
 だが、かつて自由な市場競争の重要性をいち早く発見して「経済学の父」などと呼ばれるアダム・スミスはまた「道徳感情論」の著者でもあって、人間社会を構成するものは、人々の相互に対する共感(同感)だと強く主張していた。いくら個人の自由や競争といっても、市場がうまく機能するためには、その背後に人々相互の共感がなければならないことをスミスは知っていた。市場競争といえども、社会の中にある人々の信頼や相互的共感に支えられなければならないのである。
 それから260年ほどたった。時代は違っている。だが、グローバルに拡大した市場競争を支える経済理論の基本は、スミス以来ほとんど変わっていない。ただ、社会を構成する道徳感情をすっかり捨て去っただけである。そして、市場理論が抽象化されて理論として高度化するにつれて、経済は、倫理や道徳からはすっかり切り離されてきた。そのことと、今日のあまりの格差や過剰なまでの短期的な成果主義の現状は無関係ではなかろう。
 倫理観や道徳観念は国や地域によって少しずつ異なっている。一般論としていえば、米国では、自由競争、自己責任、法の尊重(逆にいえば法に触れなければよい)、能力主義、数値主義などが大きな価値を持って受け入れられる。しかし、日本ではそうではない。協調性やある程度の平等性、相互的な信頼性などが価値になる。
 だが米国流の価値をグローバル・スタンダードとみなした時、グローバル競争は、日本の価値観や道徳観とは必ずしも合致しなくなる。しかしそれでよいではないか。もともとグローバル・スタンダードなどという確かなものはないのだ。あるのは、それぞれの国の社会に堆積(たいせき)された価値観、つまり「常識」であり、そこには明示はされないものの、緩やかな道徳観念がある。企業も市場経済も、この「われわれの常識」に基づいているはずなのである。


佐伯さんのこの文章に同意します。
特に、

ゴーン氏の問題を離れてもう少し一般化していえば、今日のグローバル市場は、短期間に企業業績を回復させ、株価を上昇させた経営者には巨額の報酬を与え、他方で、一般従業員の平均的賃金は下落させる。それがグローバルな競争原理であり、自己責任原則であり、成果主義、能力主義である、ということになった。法に違反しなければ問題はない。
 だが、かつて自由な市場競争の重要性をいち早く発見して「経済学の父」などと呼ばれるアダム・スミスはまた「道徳感情論」の著者でもあって、人間社会を構成するものは、人々の相互に対する共感(同感)だと強く主張していた。いくら個人の自由や競争といっても、市場がうまく機能するためには、その背後に人々相互の共感がなければならないことをスミスは知っていた。市場競争といえども、社会の中にある人々の信頼や相互的共感に支えられなければならないのである。

の部分は、みけねこ姫の言いたいことを代弁していただいたような気がします。

グローバルスタンダードとよく言われますが
それは「アメリカ流」に過ぎないのではないでしょうか。
アメリカは幸せですか?

日本社会を「アメリカ流」にすることを主張する言説が目立ちますが
危険なものを感じます。

能力ある人は
自分さえよければ、と思わないでほしいです。

リストラの結果、大勢の失業者を出し、
工場を閉鎖することで、周辺の中小・零細企業にも打撃を与え

それでも、株価が上がれば、
「自分の功績だ」
「良い成果を挙げた」
と思わないでほしい。

前の記事では、
ゴーン容疑者は、自分の倫理的な誤りに気が付いていたようなのに
こんなことになって残念です。

今日は、薩摩川内市で食べた
から揚げとか、
西郷どんの愛犬の話も書きたかったのですが

長くなったので、またいずれ。

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