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戦国時代、武家の娘は、家の都合や父、兄の為に政略の道具とされた。
山里丸を語る時、避けて通れない女性がいる。
太閤秀吉が名護屋で側室とした広沢の局(ひろさわのつぼね)である。
太閤秀吉の朝鮮出兵の前進基地として、垣添城の城主・名護屋経述(なごやつねのぶ)は
自らの城と幼くして両親を失った妹広子(当時二十歳)を側室として差出した。
城も名護屋城として大坂城に次ぐ広さを誇った。
名古屋城の居住空間として山里丸があり、秀吉がプライベートな時間を過ごした。
山里丸には、加藤清正が朝鮮より持ち帰えり秀吉が自ら植えたとされる蘇鉄(天然記念物)がある。
文禄三年(1594)広沢の局が眼病を患い、七山郷滝川の鳴神山福聚院に祈願、めでたく
平癒したため、秀吉がこの広沢寺(こうたくじ)を建立してあげた。
山里丸での秀吉との生活は僅か一年余り。
秀吉の死後、広沢の局は26歳で尼となり、一瞬の栄華を極めた山里丸の思い出をたどりながら、
秀吉や兄経述夫妻の菩提を弔いながら64歳の生涯を終えている。
彼女こそ太閤秀吉の大陸制覇の夢の中で、もてあそばれた女性の一人であり、名護屋城の
栄枯盛衰の真の証言者であったはずだが、広沢の局は何も語らず、山里丸の一角にひっそりと
眠っている。 (肥前名護屋城の人々より)
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歴史をたどりながらの旅もなかなか良いですね。
ホントに無知なんですが
名古屋城と太閤秀吉の繋がりを初めて知りました。
そして時代に翻弄される女性の人生も。
勉強させて貰ってます(笑)
ポッチン凸
2012/6/20(水) 午前 0:14
紅色さんこんにちは
コメント有難うございます。私はこの名護屋城が好きで既に3桁の数ほど訪ねており、付近の各大名の陣跡巡りも結構はまります。
何と言っても大陸制覇への名護屋城が前進基地として壮大さを感じずには居られません。が、陰で多くの人が犠牲を強いられたのも見逃せない事実なのです。
2012/6/20(水) 午前 11:25 [ みきまろ ]
朝鮮出兵の朝鮮側の資料である「宣祖実録」には次のように書かれている。
「人心怨叛し、倭と同心」「斬る所の首級半ば皆朝鮮の民」
朝鮮の民衆は既に王や大臣を見限り、日本軍に加担する者が続出した。
また、明の朝鮮支援軍が駆けつけてみると、辺りに散らばる首の殆どが朝鮮の民であった。
と書かれているのだ。
実際、王が首都漢陽から逃げ延びるとき二人の王子は民衆によって捕らえられて日本軍に引き渡されている。
漢陽死守を願う民衆を見捨てて、王や大臣たちがとっと逃げだしたのだから、朝鮮民衆も彼らのために命を投げ出して日本軍と戦う気が起きるわけがない。
また、景福宮などの焼失に関し、
李恒福の「白沙集」によれば、秀吉軍の入城前にはすでに灰燼となっていた。
それは、民衆が兵乱と聞けばすぐに蜂起して、宮廷を襲い略奪したからだ。
ことに奴婢は、秀吉軍を解放軍として迎え、奴婢の身分台帳を保管していた掌隷院に火を放った。
2013/7/13(土) 午前 10:23 [ 中国韓国の原発リスク ]
みきまろさま・・お元気そうで!
体調はもう大丈夫ですか?
10月になれば、またウォーキング始めますので、是非ご参加下さい!
2013/8/31(土) 午後 4:18 [ つる ]