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上人橋通り(しょうにんばしとおり)(福岡市中央区)
国体道路警固1丁目交差点〜薬院六ッ角交差点を通称上人橋通りという。
上人橋通りの名称は、福岡藩主二代・黒田忠之公が日延上人登城のため、
自ら、現国体道路(旧薬院川)に架けさせ命名揮毫した。
黒田忠之公が命名揮毫した橋柱は長光山香正寺(こうしょうじ)境内に残されている
長光山香正寺の本堂
「黒田のお姫様」
開基檀越(かいきだんのつ)・(お寺を建立した方をさす)
長光院殿松月日浄大姉(しょうこういんでんしょうげつたいし)と開山した日延上人の墓
左が黒田の姫と地域の人に呼ばれた長光院よしの墓右が開山可観院日延上人の墓
黒田のお姫様と呼ばれた「よし」は1601年10歳の時、毛利の人質として福岡藩に送られて来た。
豊臣秀吉の軍師と知られる黒田如水の弟で黒田二十四騎の一人黒田直之(くろだなおゆき)が、
よしを「私には娘がいないので養女にしたいと願い出、黒田家の養女となった。
よしの父方の祖父は毛利元就で、母方の祖父は大友宗麟である。
黒田直之の墓
上人橋の由来が書かれ掲示されている
開山・可観院日延上人(かかんいんにちえんしょうにん)は、加藤清正が朝鮮征伐から
帰国した折、朝鮮人少年を二人連れて来た。
秀吉の命を受け加藤清正の養育される。
清正は、日延が法華層として大成することを願い、物心両面の援護をした。
28歳で小湊誕生寺十八世に迎えられ、関東一円に多くの寺を建立する。
後に徳川家より左遷され、福岡藩主・二代黒田忠之公の相談役、囲碁の友となり、
現在地に忠之公と長光院殿の後ろ盾もあり九千坪の土地を賜った。 |
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福岡城・上之橋御門
石垣修復工事現場に見学台が
石垣修復工事が始まった頃の上之橋御門北側の石垣
9月15日写す
普段は見ることができない石垣内部の貴重な構造が見学見学台。
見学台には、石垣の積み方や構造などを紹介するパネルも設置されている。
見学台より緻密な作業風景が確認できる。
石垣の築石(つきいし)の裏込石(栗石)を手ほうき状の物で細かな作業で
石垣は解体される。
工事は福岡城の正門となる上之橋御門(かみのはしごもん)の
北側(高さ約8m、幅約28m。
来年春から再度築石を積み上げる。
見学台のパネルのある、石垣の積み方の説明 12月3日現在の残されている石垣 |
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鍋島藩窯公園
伊万里市大川内にある、秘窯の里の歴史文化遺産の
保護顕彰と、憩う施設を有機的に配置された焼物の里なら
ではの特色ある公園。
鍋島藩窯として栄えた歴史と、土と炎の芸術「伊万里焼」の
全てが息ずいている。
陶工橋とめおとしの塔
この橋を渡るとセンサーが働き風鈴から美しい音色のメロディーがながれる
陶祖橋
陶祖橋を渡ると、江戸時代に朝鮮より連れてこられた朝鮮陶工たちの無縁墓がピラミット型に
積み上げていて「陶工無縁墓」といわれる墓は880余もある。
鍋島藩窯橋の鳳凰の陶板 |
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国指定史跡 「福岡城跡」 上ノ橋御門(かみのはしごもん)北側の
石垣修復工事の築石(つきいし)約750個のクレーンによる移動が
始まり、景観が変化している。
24・9・15 工事が始まった頃
24・10・23 石垣の上の白壁部分が取り外されているのが分かる
築石にワイヤーを掛け大型クレーンで吊り上げトラックの荷台へと移動
トラックで近くの保存場所まで移動する
トラックから保管場所へ
築石に貼られた番号の順に並べられる
記録を取るのも大変な作業 |
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重要文化的景観として
蕨野の棚田は選定されている
重要文化的景観とは、日本の景観区域または景観地区内にある
”文化的景観”であって、都道府県、または市町村が保存措置を
講じているもののうち、特に重要なものとして文化財保護法
第134条第1項の規定に基ずき国(文部科学大臣)が
選定した文化財である。
2008年7月28日に選定
佐賀県唐津市相知町蕨野の棚田は「日本棚田百選」に選ばれている。
画面中央付近がハートの形 |


