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地理・交通系お気楽ブログ(仮)
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久々の「熊本の県境」シリーズ。
今回の小さな旅の出発点はこちら。
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阿蘇と久住という2つの火山の間に広がる、日本離れした大平原地帯。
その一角にあるうぶやま牧場の大風車です。

やまなみハイウェイから延びる「ヒゴタイロード」を東へと走ると、この牧場の先で波野からの県道40号線と合流しますが、そこからは一転して谷間の集落へ向けて坂を駆け下りることになります。

やがて、見えてきたのは産山村の中心地となる山鹿地区の家並みです。
「山鹿」というと県北の山鹿市のほうを思い浮かべる方が大半でしょうが、ここ産山村の中心集落も山鹿といいます。
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山鹿集落を流れるのは玉来川
玉来が竹田市内の地名(玉来駅もあります)であることからもわかるように、この辺りは大分県側の水系だったりします。玉来川はその後大野川と合流し、最終的には豊後水道へと流れていきます。
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玉来川の広瀬橋のところでやまなみハイウェイ方面へと向かう県道40号線と、これから目指す久住方面へ向かう県道131号線が分岐します。
広瀬橋際は古くからの追分だったようで、この地点には古い石碑や道標が鎮座しています。
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山鹿地区の街並みはこんな感じ。左に郵便局、右に村役場、ほかにJA支店や村唯一の小中学校などもあります。
ここ産山村は明治の大合併以来一度も合併していないこともあって、今では熊本県内で2番目に人口が少ない自治体(およそ1400人、ワーストは球磨郡五木村)となっています。
村内にはコンビニどころか信号機すら一つもありません。
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県道131号線は山鹿地区を出るとひとつトンネルを抜け、村名ズバリの産山地区へと入ります。御湯船温泉へと向かう道を分けると、やがて目の前にはつづら折りの坂道が立ちはだかります。
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急なヘアピンカーブの途中から今走って来た方向(産山地区)を振り返ります。
なんだか、日本の原風景(?)のような里山地帯ですね。
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この峠こそが熊本と大分との県境だというのは尤もなんですが、拍子抜けすることに、峠のサミットにたどり着くことなく坂の途中でいきなり県境(竹田市&久住町)のカントリーサインが現れてしまいます。
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熊本県側のカントリーサイン。こちらはちゃんと「熊本県」の表示も。
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産山村が県境に設置した距離票。
「役場」はともかく12km先にあるという「民宿」というのが気になる(笑)。村内に民宿は何軒かあるっぽいですが・・・
右横の「里・・」という石碑は「里程標」ですね。
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中途半端な位置にある県境をすぎると、すぐに峠のサミットとなるトンネルが。
ここが県境のほうが絵的にもわかりやすそうなんだけどなぁ。
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こちらは久住側から。
このトンネルの名前は「稲葉トンネル」といい、長さは50mちょっと。
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この稲葉トンネルを抜けると目の前に久住の雄姿がどーんと見えて、ちょっと感動したりもします(笑)。
この写真の左手には白丹稲荷神社も鎮座しています。
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県境を超えた先は稲荷神社の名称よろしく、竹田市久住町の白丹地区。
白丹と書いて「しらに」とはなかなか読めないかもしれませんね。まぁ、ウニは漢字で「雲丹」とも書くので(「海胆」や「海栗」などほかの表記もあります)、白丹も読めなくもないかもしれませんが・・・
県境直近の集落は白丹字梅ノ木地区で、ここからは竹田市の中心部まで大野竹田交通のバス便があります。ただし1日1本だけのようですが・・・
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梅ノ木バス停から久住中心地方面側を望む。流れている川は稲葉川で、やはり大野川の水系です。
ここから国道442号線に合流する久住中心部まではおよそ7kmの道のりです。
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前回に続いて、薩摩街道の熊本・鹿児島の県境・・・というよりかつての「肥薩国境」、境川にかかる境橋についてのお話です。

ちょうど、肥薩おれんじ鉄道のHSOR-100形・ファミリーマート広告車両101A号が軽快な音を立てて境川を通過していきました。
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水俣側から境橋を眺めるとこんな感じになります。
鹿児島県石橋記念館のサイトによると橋の長さは12.7m、幅は6.2mとのことです。
(他に、長さ13.5m、幅4.9mと記載されているサイトもありますが・・・)
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こちら側にも水俣市の教育委員会が建てた境橋についての説明板が設置されています(なぜか「さかい橋」と、ひらがな書きですが)。
看板自体は新しいものの、説明文自体は1950年3月に書かれたものとのこと。出水市側の説明板よりも内容は詳しいです。
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せっかくですので、この説明版から橋についての概要を引用させていただきます。
肥薩国境の境川は小さな谷川であるが古来この川を巡って幾多の抗争が繰り返され、藩政時代には藩の安全と秘密を守るため固く閉した国境の川であったが、僅かにこの地のみが両国交流の地点であった。
この橋は明治16年(1883)に架けられた石造のアーチ橋で肥後石工の卓越した技術を今に伝えている。
実は境橋が架けられたのは明治に入ってからであり、薩摩藩が統治していた時代には橋は存在していないのでした。境川の川幅からして、それ以前でも橋を架けようと思えば架けれたのでしょうが、薩摩藩としては藩境であるゆえに防衛や情報漏洩を防ぐという観点からわざと橋を作らせませんでした。

では、橋が架かる以前はどうだったのかというと
この時代までは橋は架かっておらず飛び石伝いに川を渡っていた
・・・そうです。

境橋を上流側から俯瞰します。なんだか境橋よりおれんじ鉄道の鉄橋のほうが目立ちますね。
確かに川幅自体は大したことはないので飛び石で渡河するのは容易い気もしますが、むしろ川底までいちいち昇り降りすることが面倒だったのではないでしょうか?
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それでも、薩摩への幹線ルートとして、島津氏の大名行列や幕府の巡見使、頼山陽、高山彦九郎、そして西郷隆盛や坂本龍馬といったたくさんの歴史上の人物たちがこの地点で川を渡っていきました。
しかし、この先に待ち控える野間の関にて薩摩への出入国審査が待っています。高山彦九郎は野間の関における出入国の厳しさについて書き記していますし、それこそ西郷隆盛や月照、坂本龍馬あたりは関所を超えることができずに追い払われてしまいました。さすが「二重鎖国」とも言われていた薩摩だけのことはありますな。

おれんじ鉄道の鉄橋の真下から境橋を俯瞰。もうちょっと草を刈ってほしいところ。
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境橋から水俣方面へ向かう薩摩街道。出水側と違って整備はされていません。
少し進めば水俣病の慰霊碑である乙女塚があり、その先すぐに現在の国道3号線と合流します。
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さて、薩摩街道から西側へ、八代(不知火)海の海岸沿いに出てみました。
ここの南国交通/出水ふれあいバスのバス停名は「切通浜(きずしはま)」です。
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このあたりの国道3号線はやや内陸を走っているので、海沿いはほとんど車の通行もなく、非常にまったりした空気が流れています。
カーブした海岸線の先に見えているのは米ノ津港ですね。
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長島をバックに、夕陽を眺めるのもいい感じです。
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今回は、当ブログの定番となっている「熊本の県境」シリーズです。

熊本県水俣市と鹿児島県出水市の境界線のうち、一番のメインルートである国道3号線上の県境については熊本(鹿児島)の県境 国道3号線水俣市〜出水市境界 というタイトルで以前にご紹介を済ませておりますが、今回はその古道、つまり「薩摩街道」の肥後・薩摩国境線についてのお話です。

ひとくちに薩摩街道といっても出水経由(出水筋)、大口経由(大口筋)、日向高岡経由(高岡筋)の3ルートがありますが、この中で江戸末期において一番重要視され、参勤交代ルートとしても活用されていたのが現在の国道3号線ルートの前身となる、この出水筋ルートでした。
故に、独自の封建社会を構築していた薩摩藩において出水が出入国管理の最重要拠点とされ、箱根の関以上に取調べが厳しいといわれた国境検問所・野間の関が設置されたのも出水市の米ノ津地区でした(野間の関も以前当ブログでご案内したことがあります)。
そんな“薩摩の扉”となったのが、この肥薩国境なのです。



・・・と、いうことで出水市境町切通(きずし)地区の国道3号線です。
車の停め置きの都合もあって、鹿児島県側から県境を目指します。
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道の行く手にはゲート状になっている国道3号線の県境標識板が見えていますが、その少し手前の交差点の角に、かつての薩摩街道へと誘う道標が建てられています。

3号線から山手のほうへ200m、肥薩おれんじ鉄道の下をくぐるとすぐ左手にこのような「薩摩街道出水筋」の案内表示板と、芦北〜水俣〜出水界隈ではおなじみの「←江戸 薩摩街道 薩摩→」の白い木標、そして肥薩国境へと向かう薩摩街道の小道が現れます。
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ちょうど道を挟んだ反対側には「笹原の茶屋跡」の碑もひっそりと建てられています。この「(御)茶屋」とは武士のための宿泊・休憩所のことです。
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整備された薩摩街道の小道を、北へ向かって歩きます。
道の左手にはおれんじ鉄道の高い築堤が並行しています。
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そして、案内表示板の位置から百メートルちょっとの距離のところに目的地である、肥薩国境に架かる小さな石橋が現れたのでした。
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橋の欄干には、橋名であろう文字が彫って(書いて)ありますが、あまりに達筆すぎて(?)読めません。
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ありがたいことに、出水市側が設置した新しい案内板にはこの崩し字の転記とともに、橋の名前とその歴史が簡潔に説明されていました。
これで「さかいはし」とは流石に読めませんでしたよ。
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そう、この橋の名前は“境橋”。
文字通り、肥後と薩摩の国境に架かる橋という意味です。

境橋の背後には肥薩おれんじ鉄道の鉄橋と築堤が壁のように聳えています。
つまり、おれんじ鉄道における熊本・鹿児島の県境地点もここになるわけです。
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次回はこの境橋についての詳細その他と、この周辺(切通地区)の海岸風景をご案内する予定です。
今回ご案内する県道12号・天瀬阿蘇線は熊本・大分の県境を3度も跨ぎ、さらにそのうちの2か所はダムが絡んでいるという珍しい路線となっています。
そのダムとは筑後川の源流のひとつである津江川をせき止める形で建設された「下筌ダム」と、そのさらに下流、津江川と杖立川と合流する地点に建設された「松原ダム」です。

今回は主に下筌ダムのほうをクローズアップします。
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下筌(しもうけ)ダムは熊本県阿蘇郡小国町小竹と大分県日田市中津江村栃野にまたがって建設されたアーチ式の特定多目的ダムです。上の写真だと向かって左側が中津江、右側が小国となります。
多目的、というだけあって一般的な治水や利水だけでなく、水力発電にも活用されています。堤の高さは98m、長さは248.2mとなっています。

そして、そのダムの堤上を県道12号線が通り抜けているわけですよ。
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阿蘇と天ケ瀬温泉を結ぶ二桁の主要地方道、というと、いかにも観光ルートのように聞こえますが、この県道12号線は上津江〜中津江〜天瀬間のルート設定がかなり微妙でして、山の中を右往左往する文字通りの「迷走」ルートとなっています。道路の整備状況も区間によってかなりのばらつきがあります。

この下筌ダム周辺の区間も本来なら中津江の栃野地区から松原ダム・大山方面へ、素直にダム湖の西岸だけを走ればいいと思うのですが、12号線はその途中にある、蜂の巣トンネルと下筌橋の間の小さな交差点からダム本体へと向かう狭い道へと分け入っていきます。ダムの上を通って県境を跨いだ後は、松原ダム湖(梅林湖)の東岸へと移り、やがて国道212号と合流する手前でダム湖の一部と化した杖立川を渡って再度県境を跨ぎ、天瀬町へと入ることになります(ちなみに、蜂の巣トンネル〜松原ダムの湖畔西岸ルートをそのまま走るのは県道647号線です)。

・・・ということで、まずは下筌ダム上の県境風景から。
中津江側から小国側を望んだ図。ダム事務所は小国側にあります。
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振り返ると「中津江(村)」のカントリーサインが設置されています。
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小国側から中津江側を眺めた図。
奥に見えている赤い橋が下筌橋で、県道12号線はこのダムを渡った後、下筌橋を渡って上津江方面へと向かいます。
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こちらは小国と天瀬を跨ぐ県境の橋。手前が小国側、渡った先が天瀬です。
県道12号線は橋を渡ってすぐ左折し、国道212号線としばし重複した後、天ケ瀬温泉方面へ向けて鋭角な急カーブを切って崖をよじ登っていきます。
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さて、下筌ダムによって堰き止められてできた人工湖の名前はその名も「蜂の巣湖」といいます。
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「下筌ダム」「蜂の巣」と聞いてピンと来られる方もいるかと思いますが、1950年代から60年代にかけて、下筌ダムの建設を巡って室原知幸氏を中心として繰り広げられた地元住民によるダム建設反対運動を「蜂の巣城紛争」といいます。
ダム建設予定地には山の斜面いっぱいに巨大な木造の見張り小屋が作られ、その異様さから「蜂の巣砦」とも「蜂の巣城」とも言われました。
結局、代執行によりこれらの施設は強制排除され、1973年にダムは完成しましたが、この反対運動は公共事業の在り方や地元の振興策に対し一石を投じることとなりました。
湖名はこの故事にちなんでダム完成から15年後の1988年に命名されたそうです。

下筌ダムより下流側の眺め。
湖底に沈んだはずの、かつての道路跡が右岸に見えていますね。
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かつてダム反対運動が繰り広げられた下筌ダム一帯。
今ではそんなことがあったとは思えないくらい静まり返っています。
前回は国道218号線の熊本/宮崎県境地点にある「蘇望橋」を取り上げましたが、今回はその橋が架かる以前の旧道の県境についてのお話です。

蘇望橋を含む、国道218号線の県境区間の新道を「五ヶ瀬バイパス」と言いますが、この道が完成したのは1979年のことです。
では、それ以前はどうだったのかというと五ヶ瀬バイパスのやや南よりを、狭いくねくね道で峠越えしていました。この旧道のルートは、近くの標高917mの山の名前にちなんで「鏡山峠」と呼ばれています。
ただ、“峠”としては大して険しいものではなく、その先に控える津花峠旧道などに比べれば比較的気楽に訪れやすいと思います。

・・・ということで、宮崎県(五ヶ瀬町)側より旧道に突入します。現行ルート、飛渡橋の袂からの分岐です。
分岐直後、道幅こそ広いものの、なんだかこの辺は不法投棄ゴミが目立ちますね。
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少しずつ道の雰囲気は怪しくなってはきますが、まぁこの程度なら恐れることはありませんね(笑)。
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ちなみに旧道沿いは完全な無人地帯というわけでもなく、何軒かの家があります。
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この分岐は左手に進みます。右に行くと蘇望橋の袂にある物産センターのところに出ます。
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しばし進むとこのようなワインディングロードに差し掛かります。
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・・・で、ここからは阿蘇の雄姿が。
手前に蘇望橋も見えていますが、そこからよりもはっきり阿蘇山を捉えることができます。しかしながら、もうちょっと天気が良ければなぁ・・・
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再び車を走らせると、数分かかることなく県境に達します。
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国道218号線として現役だった頃のまま、旧タイプの白看が朽ち果てながら立ち続けています。
もちろん町名は「山都町」ではなく「蘇陽町」です。
その後ろの「お知らせ」標識はさらに劣化が進み、ぱっと見では読み取ることができません。まぁ、何ミリ以上の大雨の時は通行止めになるとかという内容でしょうけど。
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反対方向、熊本県(山都町)側から宮崎県側を望むとこんな感じ。
旧タイプの県名・町名表示板のほかに、道を挟んで右側には比較的新しめ(?)の道路情報板と謎の鉄骨組みが。昔は「ようこそ五ヶ瀬町へ」みたいな看板でも取り付けられてでもいたのでしょうか?
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熊本県側のカントリーサインに比べると文字がはっきり読めるだけ全然ましですね(笑)。

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県境を超えると少しばかり鬱蒼とした森の中を走ります。
この日みたいな曇天だとなんとなく薄気味悪いものを感じてしまうのですが、その途中の道端にはこんなものが・・・
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熊本県内の観光ルートではおなじみの“これ”。正直、ドキッとしましたよ(笑)。
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旧道降格してやがて40年近く。今では数少ない地元民の方々か私みたいな物好き(?)しかこんなところを通ることもないのに、未だ撤去されることもなく、風雪に耐えボロボロになりながらも蘇陽峡の存在を知らしめている姿に妙な感動を覚えましたよ(爆)。
ただ、この場所からだと蘇陽峡ってちょっとばかり離れていたりするんですがね。

カーブを繰り返しながら少しずつあたりが開けてくると、やがて現行ルートと立体交差します。
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そして、旧道に沿ってエディオンの小型店(!)や老人介護施設などが現れ、馬見原地区へと入る直前、ちょうど現行ルートの登坂車線が始まるところで新旧ルートが合流します。
まぁ、県境越えの旧道の割には比較的走りやすかったですかね。距離もそこまで長くないですし。
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