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島暮らし満喫‥韓国との交流の島 Tsushima island
『国境』を超える“民際交流”

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対馬産ヒノキの丸太5120本が28日、対馬市峰町の峰港から韓国・釜山市に向けて輸出された。県対馬振興局によると、今年初めてで、住宅などの内装材に使われる。
貨物船に積み込まれるヒノキ
 長さ3・6メートル、直径14〜34センチ(樹齢約40〜50年)の間伐材。三重県鈴鹿市の木材会社「インベス」(森和正社長)が、対馬森林組合(同市厳原町)や県林業公社などから購入し、約50キロと距離的に近い釜山市の製材会社と取引した。
 農林業振興協議会に昨年12月、木材班を設け、輸出態勢を整えた。同局の高屋雅生・農林水産部長は「対馬は地理的に韓国に近く、取引を考えるべきだ」と話していた。
 振興局によると、対馬の民有林面積は約5万8000ヘクタール(うち人工林約1万9600ヘクタール)で、戦後に植えられたスギ、ヒノキは伐採時期に達しているという。
2012年1月29日  読売新聞)
 
 
29日付け読売新聞によると、対馬産のヒノキが韓国に輸出された
 
昔から対馬がさかんに島外との経済交流を行っていたことは、3世紀後半に書かれた『魏志倭人伝』が伝えるところ・・・・
『居る所絶島、方四百余里ばかり。土地は山険しく、深林多く、道路は禽鹿(鳥やシカ)の径(小道)の如し。千余戸有り。良田無く、海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴(貿易)す。』
 
 
701年は“日本”という国号が制定された『大宝律令』が制定された記念すべき年だ
このとき、日本で初めて対馬で銀が産出され朝廷に献上され、これを祝って『大宝』という国号が生まれた
対馬厳原町にある佐須鉱山は隆盛を極める
当時、銀は金よりも価値が高く、対馬で産出された銀は『人参往古銀』という貨幣になって朝鮮国との交易を有利にした
これによってもたらされた木綿は船舶の帆布になり漁船の操業形態を変え、麻は火縄銃の火縄になっては日本の戦さの様相を変え、絹は西陣織を発展させることになった
対馬の銀はシルクロードをさかのぼり、ヨーロッパにまで旅をした
 
海に囲まれた対馬は水産物に恵まれている
新鮮な魚介類は半島でも珍重され、古来、保存ができる“たわらもの”と呼ばれた干しアワビやサザエは朝鮮国を通じて海が少ない中国大陸にまでもたらされ、北京に至って、『中国王宮料理』を発展させていった
対馬韓国先賢顕彰会では、上対馬町鰐浦を日本に漢字と学問を伝えた王仁(わに)博士着船地として『鰐浦(わにうら)』に功績碑を建立したが・・・・国内各地にはフカのことをワニという所がたくさん残っており、対馬の『鰐浦(わにうら)』は、あるいは、フカヒレの原材料を中国に向けて輸出したことにちなんでいるのかもしれない
 
 
対馬はどうすれば貿易を振興させることができるか・・・・
貿易の推進と言えば、何を輸出すればいいのかという議論になる
対馬で産出するものは限られている
貿易とは輸出することだけを指しているのではない、輸入もまた交易となる
 
1392年足利義満が室町時代を築き、半島では李成桂が朝鮮王国を建国した
『通信使』を介して日本と朝鮮国との関係は親密度を深めた
このころ対馬から朝鮮へ輸出されていたのは胡椒や象牙、さらには仏像の鋳造に不可欠な胴・・・・東シナ海の交易の拠点になっていた琉球王国にまで対馬の交易範囲が拡大していたことを物語る  
また対馬では耕地が少なく輸出できるほどの穀物は収穫できないので、島守は各入江に塩釜を造らせ、塩を重要な輸出品としたが、肉食を好む朝鮮国では、塩や胡椒は重要な調味料として珍重された
(永留久恵著『対馬国志』)
 
 
 
対馬を軸に考えると、インフラは海路から空路へと大きく変革し、船舶も大型化されて海難事故もなく本土から日本海を渡って韓国へ直接航行することができるようになった
つまり、時代の流れは、半島との交流に対馬を介する必要をなくしてしまった
明治維新まで国内津々浦々まで知らない人がいなかった『対馬』という地名は次第に薄れてしまった 
このことは対馬にとっては大きなマイナスになる
 
島の経済活性化を図り、再び『対馬』の知名度を上げる行動が必要だと考えていた時の1983年、長崎県が主催した『長崎県・韓国経済交流視察団』に参加した
 
対馬で積極的な商業活動を展開されているウエハラの社長とふたり、視察団一行と分かれて東の浦項市に足を延ばした
港町である浦項は鉄鋼産業が盛んで、列車制作など韓国では大きなシェアを占めている
そこで、地元の経済人と接触し、“生うに”の買い付けが成立した
ところが後日厳原港に荷揚げされた生うには塩分濃度が濃い塩うにだった
後日、調査すると、生うにの塩分濃度の規格が日本と韓国とでは異なっていた
つまり、“だまされた”のではなく、“調査不足”だったのだ
このことをきっかけに、経済交流の前提として、“文化交流”が不可欠なことを思い知らされた
 
このことが、 『通信使』 を核にした“文化交流”を進めることになったのだが、実は“対馬経済の活性化” を図ること最終目的だった 
 
昭和の半ば、朝鮮半島では政権も安定し経済活動も活発になった
コンピューターを駆使した鉄鋼産業の台頭は・・・・瞬く間に、造船産業が日本の市場を席巻し、自動車産業も世界に進出した
経済的にも一応の潤いを得た韓国は文化面に興味が広がってきており、『通信使』はかっこうの文化交流材料になり得た
 
 
従来、対馬からは木材やメクラウナギ、養殖魚といった第一次産品が試験的な輸出をしたのだが、いずれも継続性がなく、中断した形になっていた
 
小さな記事だが、今回のヒノキの輸出は、大きな意味を持っている
 
対馬では戦後間もなく、官民こぞってスギ、ヒノキの植林を進めてきた
これには民俗学者宮本常一先生の助言と、努力が後押ししていた
これらの木々は現在40〜50年を経て建築材として活用が望まれているのだが、時代の流れはまた対馬の森林産業に打撲を与えている
安価で大量な外国産建築材の流入、技術革新による合板材の流布、核家族化による建築様式の変化が需要を阻害している
林業者にとっては、下草の清掃や間伐作業をする日当が出ないという憂き目に会っている
林業は三代事業といわれる・・・・植えた人から三代目の孫の時代にならないと商品にならない
ようやく、伐期を迎えた対馬の建築材が山奥から搬出もできない状況が続いてきた
 
針葉樹を伐採して、かつての雑木林に戻してツシマヤマネコなど野生動物の保護に向かおうという動きもあっていて、そのこともまた対馬にとっては重要なことにちがいない
ちょこっと残念なことは、対馬の関係者が協議を重ねてこの事業ができなかったのだろうかということ・・・・
利益を上げないと事業の継続性が困難になったり、じっくりと全体のバランスを調整しながら林業振興をはからないと、ハゲ山ばかりで緑のない観光客にとっては魅力半減の対馬になってしまう危惧もある 
 

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