★のんの★の悪性リンパ腫(ホジキン病)体験記

2006年に発症し、ABVD療法6クール+放射線治療50グレイで寛解。2017年に再発し、2018年7月から治療開始。

初発(2006年)症状〜治療まで

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全3ページ

[1] [2] [3]

[ 次のページ ]

2006年9月 治療開始まで


それまでも時々咳は出ていましたが、「咳がやたらと出るなぁ」と意識したのは
セカンドオピニオンへ行った日でした。

それからは激しい咳が出るようになり、
そして、9月に入ってからの体の痒みはひどいものでした。

痒みで2〜3時間寝付けなかったり、夜中に激しい咳で起きるようになりました。

この当時の私の体は、至る所掻き傷だらけでした。


人工死産後、夫が
「お腹にいた子どもの為にも、病気を治そう。
悲しんでばかりいると、病気に負けてしまうよ。」
と言いました。

私も、
お腹にいた息子を諦めたからには、絶対に病気を治そう。
治らなかったら、息子を諦めた意味がないんだ。
と思いました。

息子には申し訳ないですが、息子のことを考えると
悲しくて気持ちが前に進めないような気がしたので、
病気に勝つ為にも、とにかく今は息子のことを考えずに、
治療のことだけを考えて暮らしていこうと思いました。


2006年9月13日、
明け方頃に目を覚ますと、首の付け根や肩に痛みがあることに気が付きました。

(初めて腫れたリンパ節の痛みについては、日増しに和らぎ、1週間も経つと、
その箇所を指で押したりしない限りは痛むことがありませんでした。)

鏡で見てみると、以前とは違う箇所が更に腫れていることが分かりました。

「病気が進行したんだ・・・」

そう思いました。

お腹の中に息子がいた時は、自分の命を深刻に考えなかった私でしたが、
この時、急に自分の病気のことが怖くなりました。

今まではお腹にいた息子の存在が、病気に対して私を強くしてくれましたが、
息子がいない今は、もう私は強くなることが出来ませんでした。


病気を絶対に治すんだと誓ったばかりなのに。

きっと大丈夫。

そう自分に言い聞かせても、怖くて怖くて仕方がありませんでした。


この日の朝の検温で、私は微熱があることが分かりました。

この日を境に、私は毎日熱が出るようになり、
夜は、パジャマや布団がびっしょり濡れるくらいの寝汗をかくようになりました。

熱は1日中下がらないこともありましたが、
大体が朝起きると平熱に戻っていて、午後2時頃に37度前半の微熱が出て、
夜になると37度半ばから38度前後になるということが多かったです。

自分はこれは悪性リンパ腫のB症状だと思いましたが、
(B症状は、予後不良因子になります。)
F先生は
「今までこんなに腫瘍が大きくてもB症状が出なかったのだから、
B症状とは考えにくい。何かに感染したのではないか。」
という見解でした。

また、新たなリンパ節が腫れたのだから病状が進行したのではと
私は心配しましたが、F先生曰く
「腫瘍が僅かに大きくなった。」
とのことでした。

この日の午後2時頃、私は産婦人科病棟から血液内科病棟に戻りました。

この時は、まだいつから治療を始めるのか決まっていませんでした。

自分は症状が悪化したと思っていたので、
一刻も早く治療を開始して欲しいと、F先生にお願いしました。

抗がん剤治療は、9月16日から開始することになりました。



9月14日は、息子を火葬する日でした。

妊娠12週以上の胎児の遺体は、条例で、市役所から火葬の許可をもらい、
遺体を火葬しなければならないことになっていました。

私の熱は朝起きると下がっていたので
外出許可をもらい、夫と2人で火葬場へ行きました。

人工死産後は、
息子のことをなるべく考えないように、何も感じないようにしていましたが、
火葬場へ着き、
最後のお別れをする時に息子の姿を見たら、
たまらなくなって涙が出てきました。

泣きながら、白い小さな箱に入っている息子の周りに
お花をたくさん添えました。

火葬の間中、私はずっと大声で泣いていました。

一ヶ月前までの自分を思うと、今この場所に自分が立っているのが
本当に信じられませんでした。

目の前の光景が、信じられませんでした。

本当に、息子に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

火葬する前、火葬場の職員の方が
「お子さまくらい小さいと、お骨が残らない場合があります。」
と言いましたが、火葬が終わると、小さな骨が幾つも残っていました。

私と夫は2人で息子のお骨を拾い、骨壷に入れて、自宅に持って帰りました。

この日、保育園から帰ってきた娘は、骨壷の入っている小さな白い箱を見て
「ここに赤ちゃんがいるの?」としきりに不思議がっていました。


9月15日、産婦人科の検診を受けました。

F先生は私の発熱が子宮からくるものではと考えていましたが、
産婦人科の先生の答えは、
「子宮は特に問題無いので、熱は産婦人科的なものではないと思います。」
でした。

子宮の状態は良好で、翌日からの抗がん剤投与は問題ないということでした。



「2006年9月 ABVD療法1クール前半」へは、こちらhttps://blogs.yahoo.co.jp/mimi_nonno98/1444406.htmlをクリック願います。

2006年9月А/郵死産


2006年9月10日、
私はS病院の血液内科病棟から産婦人科病棟へ移りました。

この日は子宮口を広げる処置をして、
翌日に薬で陣痛を起こす予定になっていました。

大部屋にすると同室の人が出産したばかりだろうから、
私が精神的に辛いだろうと思い、高額になるけど一人部屋にしました。

それから、夫にお願いをして、娘は私の両親に預け、人工死産が終わるまで
夫に付き添ってもらうことにしました。

子宮口を広げる処置は、子宮口に水分を含むと膨らむ物質
(すみません、名前を忘れてしまいました・・・)を入れるのですが、
それを一つ入れた途端にお腹に痛みが走りました。

全部で7つ入れましたが、腹痛は治まりません。

時間が経てば経つ程痛みは増してきて、痛み止めの飲み薬も効かず、
座薬を使うと、ようやく我慢できる程度の痛みになってきました。

2006年9月11日、
午前10時に、まず初めの陣痛を起こす薬を子宮口に入れました。

その後は、2時間ごとに薬を入れました。

陣痛が段々強まり、腰とお腹の痛みが耐え難くなってきてからしばらくすると、
私の体内から「ぷつっ」という音が聞こえ、
温かい水がたくさん出てきたのが分かりました。

と同時に陣痛がなくなったので、きっと子どもが生まれたんだと思いましたが、
助産師さんを呼んで確認してもらうと、ただの破水だったことが分かりました。

この時、午後3時半くらいでした。

破水後は陣痛が治まってしまったので、
また陣痛を起こす薬を入れることになりました。

しかし、以前程の痛みはきませんでした。

娘を出産する時もそうだったのですが、私は「いきみ」を感じたことがなく、
分娩台にあがってからは、自分でふんばって2時間掛けて娘を出産しました。

私はそういう体質なのか、この時もいきみが全く来なかったので、
助産師さんに「自分でいきんで下さい。」と言われ、
弱い陣痛の波に合わせて一生懸命いきみました。

「足が出てきましたよ。綺麗な体で生んであげたいから、
ひっぱることが出来ないので、もう少し頑張って下さいね。」
と助産師さんに言われ、陣痛の波に合わせて体に力を入れ続けました。

午後5時1分、ようやくお腹の子どもが生まれました。

体重120グラム、身長19僂涼砲了劼任靴拭

この時は分娩台にあがることなく、病室のベッドで生みましたが、
この後に後産の為分娩室へ行き、胎盤を出しました。

そして、しばらく分娩台の上で安静にしているように言われ、
しばらくしてから生まれた息子と会わせてもらいました。

息子はとても小さく、まだ皮膚が出来ていないせいか、
体中真っ赤な色をしていました。

でも、手も足もちゃんと5本の指があって、それぞれの指に可愛い爪がありました。

夫は息子の顔を見て、私に似ていると言いましたが、
私は夫にとても似ていると思いました。



人工死産が終わってみると、なんだか現実感がありませんでした。

でも、今までは、お腹の中に守るべき存在を確かに感じていたのに、
もうお腹の中にはその存在を感じとることができませんでした。

今まで私の体の中には、私と子どもの2つの魂が入っていたのに、
もう私の体の中には、私の魂しか入っていないということを
はっきりと感じることができました。

2006年9月Α/郵死産まで


色々な人から意見も聞き、悩みましたが、
結局私は子どもを諦めることにしました。

胎児の器官形成期が終わった直後から
出産まで子どもに抗がん剤を投与すること、
抗がん剤以外にも副作用を軽減する薬等を使用する可能性があること、
そして、出産を選んだ場合は
巨大腫瘤のある私の抗がん剤投与の回数が少なくなってしまうことが、
出産を選ぶことに躊躇いを感じてしまいました。

9月7日に病院へ戻る予定でしたが、
7日に予定していた骨髄検査が立て込んでいて出来なくなったので、
外泊を延長してもいいですよという連絡が病院からあったので、
私は外泊を延長し、9月8日に病院へ戻りました。

病院へ戻ると、F先生に私の決断を話しました。

そして、こういう決断をしたからには、一刻も早く治療を開始したい旨も
話しました。

病院は土日はスタッフが少ないので、月曜日が望ましいようでしたが、
私の要望で、日曜日に産科へ入院し処置を始めることになりました。

F先生は土曜日でもいいですよと言って下さいましたが、処置を始めたら
すぐに治療になり遠出が気軽に出来なくなるかもしれないので、
土曜日にカツラを買っておこうと思い、日曜日にしてもらいました。

決断をF先生に話した時、私は改めてF先生に尋ねてみました。

私「私の腫瘍はどのくらいの大きさなのでしょうか。」

F先生「セカンドオピニオンに行った時の資料に
    レントゲン写真を入れましたが、のんのさんは見ませんでしたか?
    あれは実物大なので、定規で測れば分かったんですよ。」

私「いいえ、計りませんでした・・・。」

私「私の腫瘍の大きさだと、私の5年後の生存確率は
  どのくらいなのでしょうか。」

F先生「5年後ですか?」

私「はい、そうです。」

F先生「40%・・・」

私「そうですか。」

結局はっきりとした自分の腫瘍の大きさは分からず、そして、
私の5年後の生存確率が以前聞いた時よりも更に下がっていることに
少なからずショックを受けましたが、頑張ろうと思いました。

私の腫瘍は脾臓より上にあるから、骨髄は大丈夫だろうと
F先生が先延ばしにしていた骨髄検査を、この日の午後にすることに
なりました。

病院側から骨髄検査の説明が特に無かったのと、
お腹の子どものことで頭がいっぱいだった私は、
骨髄検査が腰辺りに太い針を刺して、骨髄を採取するものだという
認識がなかったので、いざ骨髄検査をする時に驚きました(^^;)

夫には
「骨髄検査って聞いただけで、すぐに分かるだろう。」
と言われましたが・・・(汗)

始まってみると、腰辺りにごりごりと針を刺している圧迫感と痛みがありました。
局部麻酔をしていましたが、生検と同じで私は麻酔が効きにくい体質なの
でしょうか、痛かったです(悲)

9月9日土曜日に外泊許可をもらい、夫と娘の三人でカツラを
買いに行きました。

ですが、この日は1日中骨髄検査をした腰の部分が痛み、座っても駄目、
寝ていても駄目で、カツラを買いに行くのがしんどかったです。

F先生は骨髄検査が終わった後、「軽い骨折と同じだから。」と言っていたので、
日曜日から人工死産処置を始めると陣痛で腹痛や腰痛があるというのに、
こんな体調で大丈夫なのかと、かなり心配になりました。

(私のブログを読んで、骨髄検査が怖いものだと思われる方がいたら
申し訳ありませんので、敢えて書きますが、
後日、看護師である私の友人にこの話をしたら、
普通は骨髄検査をした翌日に、そんなに処置した箇所が
痛むことはないと言っていました(^^;) )


お腹の子どものことで悔いを残したくなかったので、
私はセカンドオピニオンへ行くことにしました。

F先生は心良く承諾して下さり、国立がんセンターのセカンドオピニオンには
S病院からの事前の予約が必要ということで、F先生に予約をお願いしました。

本当はもう少し早くに行きたかったのですが、夫の仕事の都合で
9月6日の水曜日に行くことになりました。

予約をする段階では、
国立がんセンターならば、きっと多くの症例を扱っているだろうから、
妊婦の悪性リンパ腫を扱ったことがあるかもしれないと思い、
どうしたら無事に子どもを生めるのか、
そして、無事に生んだ事例を知っているのならば
是非話を聞きたいと思っていました。

しかし、国立がんセンターからの返事は
「そういう事例は扱ったことがない」
でした。

それならば、わざわざ東京までセカンドオピニオンへ行く必要がないのでは・・・
とも思いましたが、既に予約を取ってしまったので、
折角だから、治療に専念した場合について聞きに行くことにしました。

妊娠を継続するのか、それとも子どもを諦めるのか、
どちらにするのか早く決めないといけないので、
セカンドオピニオンに行ったら、正式に決定しようと思いました。

しかし、巨大腫瘤があると知ってからは、私はお腹の子どもを諦める方向に
気持ちが傾いていました。

もしお腹の子どもを諦める選択をした場合、お腹の子どもの処置から
約1週間後に治療を開始するとことになると聞いていたので、
セカンドオピニオンへ行く前日、F先生に
「お腹の子どもを諦める選択をした場合、この調子でいくと、治療開始が
リンパ節が腫れてからちょうど4週間後になります。
私のリンパ腫が1ヶ月ごとに進行するのでしたら、もう少し急いで
お腹の子どものことを決断をした方がいいでしょうか。
少しでも決断を急いだ方がいいのでしたら、明日の夜には決断を出します。」
と聞いてみました。

F先生は、少し考えてから
「急がなくても大丈夫でしょう。問題ないと思います。」
と言いました。

結局、セカンドオピニオンへ行った翌日の9月7日に、
F先生に私達の決断を伝えることになりました。

2006年9月6日、夫と二人で築地にある国立がんセンターへ行きました。

がんセンターのセカンドオピニオンは、
1回につき30分と時間が決められていたので、事前に質問事項をメモして、
聞き漏れがないように準備しておきました。

診察室に入ると、
妊婦であるとS病院から連絡を受けていたがんセンターの先生は、
妊娠継続は可能であるという話を始めました。

F先生が見せてくれたものと同じ海外の論文を出し、更にメキシコの論文を出して、
海外ではこんなに事例があるということを話しました。

そして、先生は、自分がもし私の担当医だとしたら、中絶はお勧めしないとも
言いました。

がんセンターの医師までもが妊娠継続を勧めるのかと、私はショックでした。

親なら、生むべきなのだろうか。

生まない選択をするのは、非道なのだろうか。

メモした質問事項は一応尋ねたものの、ショックの余り何を尋ねたのかは、
今は全く覚えていません。
(メモはもう捨ててしまいました。)

巨大腫瘤は、10僂鯆兇┐疹豺腓箸いΔ茲蠅癲
腫瘍が胸の幅の3分の一以上だったら、巨大腫瘤になるという話を
夫と先生が話しをしていたのは覚えています。
(私の場合は3分の一を超えてるので、やはり巨大腫瘤になるそうですが。)

がんセンターの先生がF先生宛てに診断書を作成する間、
私と夫は待合室にいましたが、
私はショックの余り、夫と話す気力もありませんでした。

がんセンターの先生に呼ばれた時も動く気力がなく、夫1人で診察室へ行ってもらいました。

待合室にいる間、テレビではしきりに、秋篠宮妃紀子さまの男のお子さまが
無事誕生されたことを報道していました。

私は、ぼんやりとその報道を見ていました。

胎動も感じる。

まだ悪阻もある。

この子は生きているのに。

私は、お腹を何度もさすりました。


診察室から出てきた夫は
「がんセンターの先生が、『妊娠を継続した場合、奥さんの生存確率が
下がるリスクがあるから、そのことを考慮して決断されてはどうか』
と言っていたよ。」
と言いました。

帰宅途中、電車に乗っている間、夫にメキシコの論文を読んでもらいました。
論文の内容は、ABVD療法で妊娠を継続することは
何の問題もないような雰囲気でした。

がんセンターの医師の見解やメキシコの論文の存在で、私はまた
お腹の子どもを産んだ方がいいのでは・・・
と思うようになりました。

某掲示板に書き込みした文章の続きです。

▼ Re:分からなくなってきました・・・2006/09/07(木) 04:58

すみません。補足します。

私の担当医師は、私の存在を知ってから勉強し、海外の論文の存在を
知ったようです。

それまでは、子どもは諦めるしかないだろうと思っていたそうです。

私に告知した医師は、担当医師ではありませんでしたが、その医師も
子どもは無理だろうと言いました。

私の看護師の友人や知人の医師に聞いても、抗がん剤を投与しながらの
妊娠継続は、無謀だろうと言います。

本当に、あの海外の論文だけなんです。
医師が生む根拠としているのは。

ですが、安全性も確立されていませんし、科学的根拠もなく、
ただ「こういうことをしたら、こんな例が見られました」という内容なのです。

メキシコの論文では、
「妊娠初期でさえ、抗がん剤を投与しても安全だ。奇形になった例は、
我々には見られなかった。
××という人物は、妊婦への抗がん剤投与の危険性や
胎児の奇形についての論文を書いているが、我々にはそのような事実は
一切見当たらなかった。」
というようなことが書いてありました。

××という人物が書いた論文のことは、メキシコの論文には具体的に
どのようなことが書かれていたのかが書いていないので、分かりません。

でも、反対説を唱える人がいるようだということは分かりました。

メキシコの論文が、余りにも妊婦への抗がん剤投与を勧めているような
雰囲気なので、論文の内容をねつ造しているのではと疑いたくなります。
(論文の事実を曲げて発表し、後で発覚するケースは日本でもありましたし)

私の病気が治る確率を減らしてでも、
もしかしたら健常児で生まれるかもしれない可能性がある子どもを
産む行為が、やはり親の愛なのでしょうか。

万が一障害児であったなら、私は一生子どもに罪悪感を持って
生きていくことになると思います。

そして、障害児になった子どもは

「この世に生まれて良かった」

と思ってくれるのでしょうか・・・

私の妊娠週数ですと、奇形になることはあり得ません。

ですが、内臓や脳の機能障害が出る可能性があります。

脳の障害ですと、知的障害が出るかもしれませんし、
内臓の障害ですと、もしかしたら一生チューブか何かをつなげて
生きていかなければならないかもしれません。

それでも、生んだ方が良いのでしょうか。

海外の論文では、抗がん剤を投与しても大丈夫となっています。

担当医師と国立がんセンターの医師も、問題ないだろうと言います。

私の親や友人は、私の命を優先にして、子どもは諦めた方が良いと言います。

どれが最善の選択なのでしょうか・・・・


▼ ありがとうございます ..2006/09/08(金) 02:54

今日(もう昨日ですね)は、本当なら病院へ戻る予定でしたが、
病院から連絡があり、予定していた検査が立て込んでいて出来なくなったので、
もう一泊外泊していいということになり、今自宅にいます。

子どもを失う悲しみをご存じの方なら、
きっと私の諦めきれない気持ちを分かってくれる筈・・・
そう思って、こちらの掲示板に書き込みさせていただきました。

告知を受けてから、夫や私の両親から
「のんのは、全然自分の命の心配をしていない。
お腹の子どものことばかり考えている。
もっと自分のことを考えないと。」
と言われ続けていました。

正直本当にその通りで、癌だと言われても自分が死ぬという恐ろしさは
全くなく、とにかくお腹の中の子どもを失ってしまう悲しみばかりで、
ずっと泣いていました。

昨日こちらの掲示板にどうしたらいいのか分からず書き込みをしましたが、
文章にして書き込んでいる内に、少しだけ冷静になることができました。

本来ならばホジキンリンパ腫は80%以上治る確率がありますが、
私の腫瘍が大き過ぎ、担当医師から「50%の確率で治る」と言われていて、
よくよく考えたら2人に1人は治らない確率なんだ、もしかしたら私は
本当に死んでしまうかもしれないと、考えられるようになりました。

色々考えましたが、お腹の子どもは諦めて、治療に専念しようと思います。

子どもを諦めることに、ずっと罪悪感を持っていました。

生む選択をしない私は意気地なしなんだって、思っていました。

お腹の子どもの為にも、私は生きて頑張ろうと思います。

本当に有り難うございました。


▲頑張ります ..2006/09/10(日) 06:50

昨日外泊許可が出たので、今自宅にいます。

皆さんの書き込みを読んで、治療に専念することへの決心が深まりました。

あと3〜4ヶ月お腹の中にいることができれば、
この子はちゃんとこの世に生まれることが出来て、普通の人生を歩むことが
出来たのではないかと、お腹の子どもに申し訳ない気持ちと罪悪感で
いっぱいでした。

生む決断が出来ない自分が、意気地なしに思えて仕方がありませんでした。

今日は朝9時に病院へ戻り、それから産婦人科病棟へ入院し、
お腹の子どもとお別れをします。

私の週数ですと、お別れをするのは処置を始めてから
早くて2日掛かるそうです。

私は胎動を感じるのが早いようで、上の子も早かったですが、
今回はもっと早くから感じていました。

胎動を感じる度に、悲しくなります。

でも、またお腹の子どもが私のお腹に戻ってきてくれることを願って、
病気に打ち勝とうと思います。

レスを読ませていただいて、私の決断に背中を押してもらったような気がしました。

私は、もしかしたら誰かに背中を押してもらいたかったのかもしれません・・・。

担当医師は「私は中絶は勧めない」とはっきりと言いました。

万が一障害児が生まれた場合、それは私の治療のせいなので、
一生申し訳ない気持ちで子どもを育てることになる、
それは私には出来ないような気がする、
子どもも果たして幸せなのか・・・と言うと
「そんなの親じゃない。本当の親だったら、どんな子どもが生まれてきても
愛するのが親だ。」
と言われました。

なので、産める筈なのに産まない選択を取ることに、
ずっと罪悪感を感じていました。

皆さん、レスを本当に有り難うございます。

皆さんの優しいお心遣いに、心から感謝致します。

全3ページ

[1] [2] [3]

[ 次のページ ]


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事