週刊 生活の中の洞察 聖書から教え

2017年6月、妻が乳がんの宣告を受け、8月に自分の人生を完結して地上の生涯を終えました。その後の生活についてです。

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○○○『喜んで十字架を負う人生』○○○ (友人の竹内さんの写真です)
 19日夜岩手から、博子の母が召されたとの連絡がありました。通っていた教会では葬儀は難しいということで、前夜式は家で、告別式は、葬儀会館で私が司式、説教をしました。しかし、弟以外親族全てが未信者という完全アウェーで進行しました。偲ぶ会では、「みなさん、1時だけクリスチャンになって『アーメン』を唱和して下さい」お願いしました。
 父を導いたのは、水沢教会のKさん、母を導き数日前にも電話で励ましてくださっていました。そのKさんが教会からキーボードを持ってきて下さり奏楽をしてくださいました。彼女は事故に会い、右肩の関節がありません。その中で弾いてくださいました。
 火葬している時に思い出話になりました。私たちが6月に結婚して8月に実家の岩手に休暇で行った時に、博子が行きたいところがあるということで、訪問したのがこのKさん。当時彼女は病があり、家から出られませんでした。私は外で待っていました。その夜、寝ていると博子が夜中に起きて泣いていました。なにか私が悪いことをしたのかと思い、恐る恐る聞いてみると、昼間訪問したKさんがかわいそうで祈っていたという。私はこんな心の優しい人と結婚できてよかったと思いました。
 その話になり、Kさんは、博子姉は訪問した時にも泣いて祈ってくれたことを教えてくださいました。その後、病が癒されてから、博子の家の方々にできることをさせてもらおうと思ったというのです。
 私も博子の実家からすれば、関係が薄くなりました。しかし、私はこの週、自分の十字架というテーマを考えるように導かれていたので、これは私が負うべき大切な十字架だと受け止め、奉仕しました。倉成さんも自分が受けたことを今度は与えられた十字架と思い、喜んで毎週のように父、母を訪問し、介護の手伝いもし両親を助け、導いてくださいました。
 私たちにはそれぞれ喜んで負うべき十字架が与えられています。それはイエス様の十字架が代々バトンのように渡されているかのようです。

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ガンをかかえて

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○○○ ガンをかかえて ○○○ (友人の竹内さんの写真です)
 日本人の2人に1人がガンになり、3人に1人がガンで亡くなると言われています。
 がんの研究も進み、早期がんであれば治療が可能となっています。治療であるキュアーCureは進んでいます。高額医療のために、がん保険の広告が増えています。
 しかし、実際は3人に1人はガンで死んでいます。ガン患者のため、そして、その家族のための心のケアーをするところがあまりありません。
 病院ではガンになると治療しか医師は考えません。妻が治療ができないと言われて緩和科に移りました。そこでは痛みのコントロール、生きる時間が限られている者に何ができるかを考えることを教えられました。
 信仰を持っていることは強い価値観を持つことにつながることに気がつきました。
私たちは、「がんをかかえて生きるセラピー」を毎日1ページづつ読みました。
 「がんによって多くのことが変わります。健康だけではなく、ものの感じ方、見方、今後への期待、交友関係も変わります。生活も同じではないでしょう。けれども、現状を成長のまたとない好機にしましょう。」
「『どうして神は、こんなことが起こるのをゆるされたのだろう?』と思うかもしれません。神があなたのことを罰しておられるわけではありません。困難な、あるいは苦しい状況にあっても、神に希望をおく人たちにとって、『すべては良いことをもたらすものとなる』ことを信じましょう。
「どんなことがあっても、神はあなたを大切に思っておられます。ほかの人たちから示されるあなたを大切に思う気持ちを喜んで受け入れましょう。会う人すべてに、大切に思う気持ちを表しましょう。大切に思う心に助けられて苦難を乗り越えることができます。」
 神の力によって、神に希望をおくことによって、苦難に立ち向かうことができます。

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徐々に

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○○○ 徐々に ○○○
 私たちは速さを求めます。イエス様の癒しも素早い、一言で死人も生き返らせ、病人に会わなくても、遠く離れていても一言で癒されます。
 マルコ7、8章に出てくる耳が聞こえず口のきけない人と盲人の二人の癒しは独特です。一人には耳に指を入れ、舌に唾をつけ、深く嘆息してエパタと言われました。もう一人には、両目に唾をつけます。すぐにははっきり見えず、もう一度目に両手を当てられました。そして、徐々にはっきり見えるようになりました。
 聞こえない世界、見えない世界、沈黙の世界、暗黒の世界から、急に輝く世界、音に満ちている世界にこの二人は移っていきます。「徐々に」がよかったのではないでしょうか。そして、徐々にその心の準備がなされることが必要だったのではないでしょうか。病気で辛いのは何と言っても痛みです。痛みがあると何も考えられず、不安になり生きることが辛くなります。その痛みは早く、すぐに効くことが求められるでしょう。
 しかし、心の病いは痛みが問題ではありません。うつの人が急に元気になるとかえって心配になります。特に「徐々に」が大切です。
 7週連続で礼拝で泣いてしまいました。悲しみ、後悔、つらさ、寂しさ、怒り、恨み、恥ずかしさ、悲しみが痛みのようなものだという言葉がよくわかる日々を過ごしました。毎週心が変わっていくことを感じます。もし、徐々にではなく、すぐに感謝、ハレルヤとなると何か大事なことを飛ばしているように思います。今、徐々に日常生活に適応しようとしています。
 心の目も徐々に開かれていきます。エマオの途上で二人の弟子たちが歩いているところにイエス様が近づいてきました、村について食卓につき、パンを取って祝福されたときに、彼らの目が開かれて、イエス様だとわかりました。イエス様が共に歩いているのに、語っているのにわからなかったのです。信仰も徐々に開かれていくことがあるのです。
 神は急ぎません、私たちが急いでしまうのです。徐々には草花の成長のようにすぐには見えません、しかし、そこには神の確実性があります。
   

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「御手の中で」

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○○○ 「御手の中で」○○○
  10月の賛美歌に、「御手の中で」を選びました。(御手の中で すべては変わる感謝に、御手の中で すべては変わる賛美に)どうしても歌えませんでした。どうして、すべてのことを感謝に、賛美に、英語の歌詞ではBeautiful にと簡単に言うことができるのでしょうか。
 10月は5週あったので、5回歌うことになりました。不思議なことに最後の週には、口ずさんでいました。あまりにも自分のことばかりに心がいっていたのでしょう。語る説教の聖書箇所には、神は決して信じるものを捨てない、永遠のいのちを与え、終わりの日によみがえらせる。それが繰り返されています。
 イエス様が与える神のパンを食べるものは「決して決して」飢えることがなく、渇くことがなく、イエス様は捨てないと言われているのです。今、妻はこの恵みの中にいます。
 2テモテ4章7、8「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」
 彼女は地上の歩みを走り終え、それを完結し、栄冠を受けているんだ、という言葉が心に入るようになってきました。自分の人生を完結することができるかどうか、多くの人がもがいています。彼女はそれをきれいに終えたと言えるのではないかと思います。次に遺された者がそれを感謝と賛美にしていくことが求められています。
 キリストの与えるパンは、受けるだけのもの、そして、神のパンは、すべての者に確かにいのちを与えるパンです。聖餐式でいつもこのパンが用意されています。

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悲しみは痛みの一つ 

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○○○ 悲しみは痛みの一つ ○○○
 「悲しみへの援助」という本を読んでいます。悲しみを経験した人には、動揺、無感覚、拒絶、憂鬱、混乱、恐れ、怒り、苦しみ、自責の念、後悔が起こるそうです。
 役にたったことは、悲しみは痛みの一つと考えるべきだということです。悲しみの感情はごく自然なことで、時間の経過と共に徐々に薄らいでゆきます。それは、外傷や火傷のそれと類似しているというのです。
 なるほどと思いました。自分は今悲しみという痛みがあります、痛いから妻のことをいつも考えてしまいます。痛いからしたいことができません、痛いから楽しくありません、痛いから泣いてしまいます、残念なことは痛いと神の臨在感も薄れてしまうのです。それはごく自然なことで、痛みを感じて耐えていると薄らいでいくようです。
 注意することは、人が悲しみに直面すると人間はいろいろな形で防衛しようとすることです。たとえば、精神の痛みが体に出てくる場合があります、行動に表すことによって悲しみを逃れようとすることも起こります。そのようなことをした場合には悲嘆は隠蔽され、少しも悲しみの処理が進みません。
 だから、悲しみを乗り越えるためには、悲しみを悲しみとして受け止めること、悲しみの痛みを自分のものとして引き受け、それと対決する姿勢が求められます。そして、悲しみを通過することによってはじめて人間的な深さとか、宗教性だとか、責任感などが出てくるというのです。
 体重が7キロ減ってしまいました。なかなか元に戻りません。焦らず、少しづつ元に戻るのを待つしかないのでしょうか。今はみなさんに甘えています。さて、イエス様はラザロの墓の前で、憤り、心の動揺を覚え、涙を流されました。イエス様は悲しみを経験した人と同じ経験をされているではありませんか。慰めです。 

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