週刊 生活の中の洞察 聖書から教え

毎週教えられていることを隔週で紹介しています。

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祭司として着るものは

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○○○祭司として着るものは ○○○
 新潟の佐渡島から看護学校に青年が入学し、近くの私たちの出身の東大宮教会に出席されました。その関係で佐渡には夏に伝道の応援に何度か行きました。北條和人牧師はその小さな町の教会の牧師でした。上京した青年たちを尋ねるために時々上京されましたので、私たちの教会の集会に奉仕をお願いしました。ところが集会が終わると、何も言わずにそのまま帰って行かれるのです。皆で追いかけて行ったことがありました。   
 この北條牧師は足に障がいがあったのですが、自分は障がいがあるので献身者としてふさわしくないというのです。
 旧約の祭司の規定を読むと、幕屋で奉仕をする祭司は身に欠陥のある者、目の見えない者、足のなえた者、足や手の折れた者、奉仕ができない。とあります。しかし、新約に入りイエス様は完全な犠牲となり、そして、私たちの真に祭司となってくださったので、その規定は関係のないものとなりました。むしろ、誰が祭司かというとキリスト信者すべてが祭司と言われています。 
 先生を通して、神の前における奉仕の厳粛さを教えられました。
 私たちは、外側は健康的でも、内側は罪と汚れで一杯です。そんな者に天の御国に入る資格がありません。そのような者に奉仕ができるでしょうか。 
 興味深いのは、その旧約の祭司の規定では、祭司は特別な装束を作るように命令されているのです。それを着ないと祭壇に近づく時、咎を負って死ぬというのです。
 盲人バルテマイは古い、汚い上着を脱ぎ捨て、イエス様について行きました。私たちもこの地上の価値観である古い、汚い服を脱ぎ捨て、イエス様の用意してくださっている救いという衣を着ることです。
 そして、バルテマイがイエス様に従ったように、私たちは祭司としても招かれています、イエス様のくださる特別な祭司の服を着て、世のために祈り、仕えていくように召されています。

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○○○ 教会堂で一番大切なものは何か ○○○
 十字架と答えるでしょう。しかし、初代教会では教会のシンボルは、復活のしるしでした。新しく会堂を建てる教会はいろいろと考えます。そこで、なくてならないのは、説教講壇、聖餐台、十字架です。現代のカトリック教会は非常にシンプルです。そして、聖餐台は必ずあります。
 安藤忠雄が設計した。「光の教会」(日本基督教団茨木春日丘教会)が斬新です。国立新美術館の開館10周年を記念して原寸大のコンクリート造りで光の教会が再現されました。そこには説教壇と聖餐台と十字架があります。
 彼は水の教会を北海道の星野リゾートに建てました。これはホテルのチャペルウェディングのためなので、聖餐テーブルがありません。そこには、キリストとの交わり、招き、十字架の恵みがありません。
 聖餐式は、見えないキリストが臨在される場所です。私たちが神の国に招かれ、いのちのパンが用意されていることを覚え、目に見えるパンを通してキリストを感じる時となります。
 大事なものは建物ではなくそこにいるキリスト者の信仰と交わり。テーブルを囲んでも相変わらず、争っていたり、愛を示さなければ意味がありません。
 「ちいろば先生物語」の主人公の榎本保郎牧師が始めたS教会の牧師会に出席しました。マンションの最上階にあります。管理人に尋ねるとあごで、エレベーターを指されて行きました。簡単な参加者の自己紹介があり、集会が終わってから、誰一人声をかけてくれる人がおらず、こんなところに人は来るのかと思いました。
 葬儀のあと、近くの伏見教会の牧師夫妻がお花を持って訪ねて来てくださいました。訪問する牧師から訪問される牧師になりました。ご夫妻の訪問は骨身にしみました。大切なことは私たちのうちに愛があるかどうかとということを感じました。

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ガリラヤ湖での祈り

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○○○ ガリラヤ湖での祈り ○○○
 小雨の中ガリラヤ湖の舟の周遊が始まりました。強い風が吹く中、一人船首に立っていると、2ヶ月間、毎日祈ったことが思い出されました。毎日寝る前に博子姉の足を揉み、びわの葉療法をして、患部に手を置いて祈りました。「ガリラヤ湖の嵐を静められたイエス様が、博子の炎症を静めて癒してください・・・。」炎症は癒されませんでしたが、しかし、毎日平安のうちに休むことができました。あの場面のビデオの繰り返しが流れ出しました。
 ペテロは、嵐の時にイエス様を舟に招きいれると嵐が止みました。舟から出て海を歩き出しました。最後は、イエス様の復活後、このガリラヤ湖で漁をしているとき、岸にイエス様が立ち、「子供達よ。食べるものがありませんね」と言われました。ペテロはイエス様とわかると湖に飛び込みました。100mほどだとありました。
 最後にペテロは水の上を歩きませんでした。舟から出てイエス様の用意された食事を食べ、用意されていた新しい歩みのために旅立ちました。弟子たちはもうガリラヤ湖には戻りませんでした。
 ガリラヤ湖は本当に静かなところです。私も食事をしてガリラヤ湖から出発し新しい歩みを進むように語られているように感じました。

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  『すべての中心に神の愛を』(イスラエルのマサダにて)
 水曜日の祈り会で今年の抱負を出しあいました。まず、マクゴニガルによる抱負の書き方の原則を紹介しました。新しい年に「どう成長したいか」を考える。昇進や業績という目標ではなく。「なに」の前に「なぜ」に焦点を当てる。具体的な行動目標を立てる。
 これまでいろんな事業をされた森さんの娘さんが、福祉施設を建てる計画をしています。彼女の抱負は「すべてのことを愛によって行いなさい」が大切。事業をするとしてもそこに欲からではなく、愛がなければならない。すべてのことについて愛をもって行いなさいです。はっとしました。
 葬儀以来、いつも同じビデオが流れています。新年になりそれが変わってきているのですが、何かの拍子にスイッチが入ることがあるのです。博子姉は召される直前まで、毎朝目を覚ますとグッドモーニングとベッドから笑顔で挨拶をしました。どうして毎朝笑顔で挨拶ができたのだろうか。それを考えると、同じ場面のビデオが流れて止まらなくなるのです。
 イスラエルに行きますが、のんびりという気になれず引率の奉仕を申し出ました。そうしたら、直前の説教の聖書箇所が、「偉くなりたいと思う者は仕える者となれ、先に立ちたいと思うものはみなのしもべになりなさい。」です。
 人の荷物を持ち、テロに会えば、自分が率先して身代わりになろう。自分が死んでも悲しむものがいないのだから。本当にできるだろうか、そんなことを考えていました。
 はっとしたのは、そこに愛があるのかどうかということです。イエス様が来られたのは父なる神の愛によります。イエス様が愛によって自分のいのちを与えました。愛によって仕え、しもべとなられました。それらはすべて愛から出たものです。
 誰が一番偉いかと議論していたヨハネは後に愛の人に変えられました。「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」
 キリストの愛があってはじめて愛がわかるのです。そして、愛を実践できるのです。
 私の中にはキリストの愛が抜けていました。義務感、責任感からで、そこには喜びがありません。私たちの信仰生活は愛が中心です。愛によって自分の欲から解放され、人との争いから解放されます。キリストの愛から離れないように。

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心の目が開かれて

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『心の目が開かれて』(友人の写真です)
 私たちの目が遮られて神がともにいることがわかりません。エマオの途上でイエス様が共に歩いてくださっているのに弟子たちはわかりませんでした。弟子たちは自分たちの成功を夢見ていました。
 私たちは、見えるものに捕らわれています。起こった出来事の苦しみ、悲しみ、辛さを嘆きます。しかし、その中に何が隠されているのか、その後に何が祝福として待っているのか。その意味についてなかなか考えません。
成功することと実りをえることについてナウエンは次のように語っています。
「成功しているということと、実りが多いということとの間には、大きな違いがあります。成功は、強さ、管理、世間体などによってもたらされます。成功は多くの報酬をもたらし、しばしば名声ももたらします。しかし、実りは弱さと傷つきやすさによってもたらされます。また、実りはユニークなものです。子供は傷つきやすさの中でみごもられた果実であり、人と人との交わりは傷を分かち合ってできる果実であり、親しさは互いの傷に触れることを通してできる果実です。私たちに真の喜びをもたらすものは、成功ではなく、実り豊かなさにあることを思い起こしましょう。」
 そのような目が遮られている弟子たちに、イエス様は聖書全体から説き明かしをされました。そして、宿ではパンを取って祝福して渡されました。その時、弟子たちの目が開かれました。目が開かれるとイエス様が見えなくなりました。聖書と神との交わりが心の目が開かれるために大切です。
 マタイの福音書は、イエス様がインマヌエルと呼ばれ、マタイの最後の言葉は「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」です。マタイの主張は、「神は我らと共におられる」ということです。心の目が開かれて共におられるイエス様とこの年も歩めますように。

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