週刊 生活の中の洞察 聖書から教え

2017年6月、妻が乳がんの宣告を受け、9月に自分の人生を完結して地上の生涯を終えました。その後の生活についてです。

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「御手の中で」

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○○○ 「御手の中で」○○○
  10月の賛美歌に、「御手の中で」を選びました。(御手の中で すべては変わる感謝に、御手の中で すべては変わる賛美に)どうしても歌えませんでした。どうして、すべてのことを感謝に、賛美に、英語の歌詞ではBeautiful にと簡単に言うことができるのでしょうか。
 10月は5週あったので、5回歌うことになりました。不思議なことに最後の週には、口ずさんでいました。あまりにも自分のことばかりに心がいっていたのでしょう。語る説教の聖書箇所には、神は決して信じるものを捨てない、永遠のいのちを与え、終わりの日によみがえらせる。それが繰り返されています。
 イエス様が与える神のパンを食べるものは「決して決して」飢えることがなく、渇くことがなく、イエス様は捨てないと言われているのです。今、妻はこの恵みの中にいます。
 2テモテ4章7、8「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」
 彼女は地上の歩みを走り終え、それを完結し、栄冠を受けているんだ、という言葉が心に入るようになってきました。自分の人生を完結することができるかどうか、多くの人がもがいています。彼女はそれをきれいに終えたと言えるのではないかと思います。次に遺された者がそれを感謝と賛美にしていくことが求められています。
 キリストの与えるパンは、受けるだけのもの、そして、神のパンは、すべての者に確かにいのちを与えるパンです。聖餐式でいつもこのパンが用意されています。

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悲しみは痛みの一つ 

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○○○ 悲しみは痛みの一つ ○○○
 「悲しみへの援助」という本を読んでいます。悲しみを経験した人には、動揺、無感覚、拒絶、憂鬱、混乱、恐れ、怒り、苦しみ、自責の念、後悔が起こるそうです。
 役にたったことは、悲しみは痛みの一つと考えるべきだということです。悲しみの感情はごく自然なことで、時間の経過と共に徐々に薄らいでゆきます。それは、外傷や火傷のそれと類似しているというのです。
 なるほどと思いました。自分は今悲しみという痛みがあります、痛いから妻のことをいつも考えてしまいます。痛いからしたいことができません、痛いから楽しくありません、痛いから泣いてしまいます、残念なことは痛いと神の臨在感も薄れてしまうのです。それはごく自然なことで、痛みを感じて耐えていると薄らいでいくようです。
 注意することは、人が悲しみに直面すると人間はいろいろな形で防衛しようとすることです。たとえば、精神の痛みが体に出てくる場合があります、行動に表すことによって悲しみを逃れようとすることも起こります。そのようなことをした場合には悲嘆は隠蔽され、少しも悲しみの処理が進みません。
 だから、悲しみを乗り越えるためには、悲しみを悲しみとして受け止めること、悲しみの痛みを自分のものとして引き受け、それと対決する姿勢が求められます。そして、悲しみを通過することによってはじめて人間的な深さとか、宗教性だとか、責任感などが出てくるというのです。
 体重が7キロ減ってしまいました。なかなか元に戻りません。焦らず、少しづつ元に戻るのを待つしかないのでしょうか。今はみなさんに甘えています。さて、イエス様はラザロの墓の前で、憤り、心の動揺を覚え、涙を流されました。イエス様は悲しみを経験した人と同じ経験をされているではありませんか。慰めです。 

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深い恨みを感謝に

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○○○深い恨みを感謝に○○○
 「年をとるにつれて、若い時の夢や希望が踏みにじられて「人生の欺かれた」と感じて、深い恨みをいだくことがあります。この恨みは人生において最も破壊的な感情の一つです。ところが聖餐式はこの恨みを感謝に転換してくれるのです。」(大塚野百合氏のナウエンの解説)の言葉に出会いました。
 深い恨みとあります。妻が天に召されて6週目になりました。最初は苦しかった時のことを思い出し辛くなり、次に妻がいないことの寂しさの辛さ感じるようになり、先週からは違う感情が湧き上がってきました。それは怒りに似た感情です。妻が私をおいて天に行ってしまったこと、父なる神は私の妻を取り去ったということ。
 旧約聖書で神に怒った人がいます、預言者ヨナです。ヨナはニネベに行って主のことばを伝えました。ニネベはアッシリヤの首都、現在のイラクのモスルの近くです。イスラエルの敵であるニネベの人はヨナの警告を聞いて神を信じて悔い改めたのです。滅ぼされなかったのです。ヨナにとってはおもしろくないことです。主を信じないと滅ぼされると叫びましたが、それは当然と思いながら語りました。神の憐れみからではなかったのです。罪深いニネベが滅んで当然なのに神は滅ぼされなかった。神は不公平。生きるのが嫌になり死を願いました。
 そこに、神がヨナのためにとうごまを備えました。ヨナは非常に喜びましたが、次の日に枯れてしまいました。ヨナはまた怒りました。神に「私が死ぬほど怒るのは同然のことです。」と言っています。
 この私の怒りが人にも出てきました。先日、久しぶりにある会に出席しました。途中で、水野牧師の愛の配慮を話し合うので、私の退室を求められました。みなさんに頭を下げてお礼をつげたのですが、そんなことは私がいないところで話をしてほしい。わからないように配慮をしてほしかったのです。後でまた、一人一人に頭を下げてお礼を言わなければならないのです。これは遺された者の宿命なのでしょうか。
 次の週、I先生ご夫妻が、食事をご馳走し、交わりの時を作ってくださいました。そして、帰りに手紙ですと封筒を渡されました。そこには便箋ではなくたくさんのものが入っていました。ありがたかった。イエス様の憐れみの心が伝わりました。
 そんな私に聖餐式が与えられています。神はあなたのことを見捨てたわけではない、あなたのためにいのちを与えた。これがそのしるしですとそっと毎回いのちであるパンを差し出してくださるのです。この恨みが感謝に変わる日を待たなければならないのでしょうか。

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盃が溢れています

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○○○盃が溢れています○○○
 詩篇23篇には、羊飼いは私の杯を満たして溢れさせてくださるとあります。
 主人は客に葡萄酒を出します。杯が一杯になっていると歓迎されていることがわかりますが、空のまま置かれていると受け入れられていないと感じます。主人は、いつも杯に葡萄酒をなみなみにつぎます。杯が溢れてきます。それは、神が私達を喜んでくださっていることを示しています。
 この盃も神から与えられるもの、そして、自分の努力で盃を満たすことのできるものではなく、主人であり、羊飼いである神ご自身が満たすものです。
 伴侶が召されて1ヶ月頃がとても辛いと聞きました。静まりのリトリートの世話役をしているので責任から参加しました。夜に会場の修道院の暗い食堂で2時間、時の流れるままに座していました。主が恵みの中で妻を取られました。ならば、これから私にはそれに替わる恵みが用意されていないはずがない。最後にそこに落ち着きました。
 次の日に詩篇23篇を読みました。一行のことば、「私の盃は、あふれています。」この盃はイエス様の受けたものとは違います。イエス様には、十字架の苦しみである盃でした。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」とイエス様はそれを受けられました。
 イエス様の十字架の御業のゆえに、私たちには祝福だけが用意されています。それを盃で表現されています。そこにはいつも一杯に祝福が溢れています。 
 しかし、それが満たされているのかどうかが、わからないのが羊である私たちの弱さでしょうか。待たなければならないものもあるのかもしれません。けれども、神は溢れる祝福を用意されているのは確かです。
 悲しみで辛くなると、この言葉にかえるようにしています。「神様、あなたが妻を取られたのでしょう。ならば、それに変わる祝福を用意されているのでしょうね。」半分焼けになっています。

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死について学ぶ

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○○○ 死について学ぶ ○○○  (4月の背割りの桜を背景に)
  伏見に移り、朝はデイリーブレッドを使って一緒に聖書を開き祈り、昼は、「ガンをかかえて生きるセラピー」を読み祈り、夜は、ヘンリーナウエンの「今日のパン、明日のパン」を読んで祈りました。
 ナウエンの日課は、丁度テーマが「死」のテーマが続いていました。
『死のとげを取り去る』「死とは家に帰ることです。このことを多くの人々から何度も聞いていますが、私たちが家に帰りたいと思うことはまずありません。今いるところにとどまっていたのです。それは死後何が得られるのかを知らないからです。私たちは生にしがみついています。けれでも、イエスは死のとげを取り去って、死を恐れる必要のないことを私たちに分からせてくださるために来られました。このことを本当に信じることは、簡単なことではありません。しかし、一つ一つの小さな信頼のかたちを表してゆくことで、私たちはこの真理へと近づけられます。」
 『私たちの旅をよく生きる』「死とは新しいいのちへの旅です。こういうと非常に美しく響きますが、私たちの内にこの旅をしたいと思う人はほとんどいません。これまでの旅の数々が、私たちの最後の旅の前置きとなっていると考えてみることは、死について考える時役に立つかもしれません。」
『愛と別離の苦悩 』
「愛する友が別の国へ旅立つ時や、亡くなる時、別離の悲しみは私たちを引き裂くほどつらいものです。けれども、人が去って行くことで受ける苦しみや悲しみを避けようとするなら、私たちが人を愛する喜びを味わうことは決してないでしょう。愛は恐れよりも強く、生は死よりも強く、希望は絶望よりも強いのです。私たちはこういう危険を犯してでも敢えて愛するということに、いつも価値があるのだということを信じなければなりません。」
『感謝に満ちた死』
「死について考える時、しばしば私たちは、死んだ後、どうなるかということについて考えます。けれども、後に残された人々がどうなるかについて考えることの方がもっと重要です。私たちがどのように死ぬかは、後に残って行き続ける人々に深い永続的な影響を残します。家族や友人たちに私たちが贈ることのできる最高の贈り物は、感謝の贈り物です。私たちが感謝の心で別れを告げるなら、私たちがいなくなった後も、後に残される人々が、つらい思いや罪責感なしに生きていくことができるように解放します。」
 これが。最後に読んだ日課です。死について向き合うことができるように導かれたのではないかと考えています。

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