週刊 生活の中の洞察 聖書から教え

生活の中でちょっと立ち止まって教えられたことを、2017年6月、妻が乳がんの宣告を受け、その後の歩みについて記しています。

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平和を作る者として

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○○○ 平和を作る者として ○○○             
 私達は平和を作る者としてふさわしいでしょうか。
 キリスト者の中に争い、批判、言葉による攻撃はないでしょうか。ただ武器を使わないだけではないかと思うときがないでしょうか。 
 ヤコブ4章2節では「ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをする。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。」これはキリスト者に向けられた言葉です。私達は人殺しも争いも戦ったりする欲深い人間であると語られています 
 戦争論を研究する石川明人氏は『キリスト教と戦争』の中で、「悪を意識している時よりも、善を意識している時のほうが凶暴になり、他者を傷つけることをためらわない。」と語っています。わかりやすい例は律法学者です。彼らは自分たちの正しさを追求するためにキリストを十字架につけてしまったのです。私達も自分の正しさを追求すると人を深く傷つけるようになります。彼は田川建三氏の言葉を引用しています。
 「キリスト教は愛の宗教です、というのは、建前にすぎない。表向きの看板である。この種の表向きの看板には、嘘と偽善が常につきまとう。しかし、それでも、彼らはこの看板を下ろすことはしなかった。こういう看板をかけている限り、自分たちは愛の宗教なんです、と言い続けている限り、なるべく忠実にその看板を実現しようとする人たちが、常にキリスト教の内部に出現するものだ。そしてそれがキリスト教を支える力となってきた。だからますます、この看板を下ろそうという気配はない」 
 私達は真の意味で愛することができない存在なのです、だから、イエス様は「互いに愛し合いなさい」の命令を出されました。愛せということにおいて条件はまったく議論していません。ただ、命令しかありません。私達はこの命令を聖霊の力によって守れるように神に求めるだけの存在です。

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信仰による反骨精神

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 ○○○ 信仰による反骨精神 ○○○             
 朝日新聞の反骨の記録のシリーズで『「殺すなかれ」貫いた牧師』日本で最初に良心的兵役拒否をした人物矢部喜好のことが紹介されていました。
 日露戦争の補充兵として召集令状がきたとき、洗礼を受けた20才の矢部は司令官に入営できない理由を説明しました。『汝殺すなかれ』『剣をとるものは剣にて滅ぶべし』の聖書の教えを守り信仰を貫きました。
 陸軍刑法違反に問われ、裁判で禁固2ヶ月の判決。地元紙から「にくむべき非国民」と報じられました。研究家はこの刑務所での服役が彼の信仰をより深めたのではないかとみています。その後、看護兵として仙台で入営し戦争が終わり除隊しました。その後、米国で学び、伝道者となります。そして、琵琶湖湖畔の大津教会を設立、会堂はボーリスの設計です。
 彼の主張は「何の敵意もない人が私の銃弾で死ねば、その妻や子どもが残される。そういう悲劇を戦争はたくさんつくるから、反対しなくてはならない」
 51才で召された矢部喜好は「主が私に与えたものは、才能でも人格でもない。貧窮、困難、疾病のときに彼を呼びまつる、砕けたる魂だった」と語っています。召されるその日、突然目を開いて「見える、見える天国が」「イエス様が見える」。それから最後に「バンザーイ」と叫びました。
 この矢部喜好の教会に来ていたが田畑忍。彼は憲法学者で同志社学長になりました。彼の弟子が土井たか子。土井は田畑の講演「平和主義と憲法九条」に感銘を受け、同志社大3年次に編入して指導を受けました。
 我らのうちに信仰からくる世に対する反骨精神はあるでしょうか。
 ところで、この話をした時に、当教会の丸橋義次さんはこの時期に田畑の憲法の講義を受けていたとのことです。講義はどういうわけか教室ではなく教会堂で行われたとのことです。一人の人の信仰は次の時代にも広がっていきます。

(2016年5月12日朝日新聞夕刊より)

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変えられた母

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○○○ 変えられた母 ○○○             
 私の母は、私達が結婚してから教会に行くようになりました。それまでは、キリスト教のテレビ番組をビデオに録画して機械を家に持って行ってセットして観てもらいました。ある時から、近くの教会に心の洗濯をするためにといって行くようになり信仰を持ちました。そして、父も定年後、教会に一緒に行くようになり信仰を持ちました。
 母ははっきりとものを言う人で、「あんたは日曜にちょっと話をするだけの仕事でいいねえ」と言っていじめました。「あなたは教会に行くようになって悪くなった」と悪口を言うこともありました。
 その母が信仰を持って変わりました。人の悪口を言わなくなりました。感謝が多く出てきました。将来を心配しなくなりました。
 私の育ったところでは、お客さんが帰ったあとでその人の悪口を言うことがよくありました。信仰を持ってから母は人の悪口を言わなくなりました。3人の牧師に世話になったのですが、最後は私より若い牧師で足りないところもあったと思います。しかし、若い牧師を両親は支え批判が出たときには守っていました。
 これまでの母の感謝は、寺で育ったために、処世術のように身についていました。事故に会った時には死ななかったので感謝、食事の時には食べられない人もいるので感謝と言っていました。しかし、信仰を持ってから神から生かされている恵みを感謝するようになりました。神に祈り委ねて心配することもなく、人の話をよく笑顔で聞いて差し上げていました。
 私の子ども達はその変えられた祖母しか見ていません。長男があるとき「お祖母ちゃんならこう言うだろうね」と言ったとき、その祖母の影響が孫に至っていることを発見しました。
 パウロはテモテにあなたの信仰は最初に祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていると語っていますが、私達の信仰が子ども達、孫達に伝えられるのです。私達の人生がさらに変えられたものとなりますように。

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憐れみ深いとは

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○○○ 憐れみ深いとは ○○○             
 あなたは憐れみ深い人間になりたいと思いますか。つらい生活が待っていますよ。テレビを見る度に募金をと強いられ、給料をもらえば困っている人にあげなければと思います。食事のときは食べられない人のことを考え、寝るときには、寝ないで仕事をしている人のことが気になります。時間があれば、手が必要な人のところに行かなければと思い、生きているのが苦しくなります。
 新約聖書には、憐れむという言葉が二つあります。一つは上からの憐れみで神が私達を憐れんで下さいました。英語ではmercyです。 もう一つは、ギリシャ語でスプラグクニゾ。内臓ということばからできたもので、内臓が動かされて、憐れみで一杯になるという意味です。英語ではコンパッションと訳されます。日本語の「同情する」という言葉に近い言葉です。福音書で12回イエス様でしか使われていません。
 ところで、このイエス様で使われた同情して憐れむという言葉は、私達に「同情しなさい、憐れみなさい」とは命令されていないことに気がつきました。
 私達はイエス様ではないので、イエス様のように人に同情することができないのです。争ったり戦争をしてしまう弱い人間なのです。 
 イエス様の憐れみの特徴は「一緒に歩く」ということです。
 イエス様は、弟子達と一緒に歩まれました。癒された盲人はイエス様について歩いていきました。エマオの道でイエス様は弟子と一緒に歩まれました。
 山上の説教の中で、「1ミリオン行けと強いる者に、一緒に2ミリオン行きなさい。」と教えられました。ただ、2ミリオン行けとは言っていません。一緒に歩みなさいです。私達は人と一時は一緒にいられますが、いつも共にいるのは無理です。イエス様の御霊は信じる者にいつも共に、一緒にいてくださいます。私達のうちにおられイエス様の御霊が深く人々を憐れまれるので、私達も人に同情を表すことができるのです。

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心が迷い込む道

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○○○ 心が迷い込む道 ○○○             
 箴言7章に若者の話しがでてきます。彼が女の家の方に歩いていきました。そこには、夫が旅に出て一人留守番をしている女性がいました。「彼は女の家への曲がりかどに近い通りを過ぎ行き、女の家のほうに歩いて行った。」「あなたの心は、彼女の道に迷い込んではならない。その通り道に迷ってはならない。」と諭しています。 
 現在、ネット社会になり多くの誘惑がきます。その道に迷い込み、多くの家庭が破壊されています。
 私達にとって、心が迷い込むことは何でしょうか。その背後に私達の欲があることに気がついているでしょうか。心が迷い込まないようにするにはどうしたらよいでしょうか。
 H・ナウエンはキリストの憐れみの心を持つことを勧めています。
 「憐れみは、傷みのある所に行き、苦しみの場に足を運び、挫折、恐怖、混乱、苦悩を共に分かち合うことを、私達に求めています。憐れみは、苦悩の中にある人と共に泣き、孤独な人と共に悲しみ嘆き、涙にくれている人と共に涙を流すことを、わたしたちに促しています。憐れみは、弱い人と共に弱くなり、傷つきやすい人と共に傷つき、力のない人と共に無力なることを私達に課しています。」
 私達の足はどこに向かっているでしょうか。イエス様は悲しみの人で病の人でした。そして、悲しんでいる人、病んでいる人のところに足を運ばれました。
 ペテロはキリストの足跡に従うように勧めています。虐げられている奴隷に対しての勧めのなかで、私達にはキリストの足跡が残されており、その足跡に従うようにとペテロが語っています。私達の心を迷わせ間違った道に引いていくものがある中で、日々キリストの憐れみの心を持ち、キリストの足跡に従うことです。今日、私達はキリストの足跡をどこで見い出せるでしょうか。

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