週刊 生活の中の洞察 聖書から教え

生活の中でちょっと立ち止まって教えられたことを、2017年6月、妻が乳がんの宣告を受け、その後の歩みについて記しています。

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高山右近列福 献茶弥撒(ミサ)
 高山右近の列福を記念しカトリック高槻教会で裏千家千玄室大宗匠による「献茶弥撒(ミサ)」が行われました。
大宗匠は94才、しかし、しっかりとした献茶の式を執り行われました。その後、テレビ局のインタビューを受け、すぐに、1時間の講演をされました。
 高山右近は千利休の一番弟子、そして、右近のことを心から尊敬しているという挨拶をされました。講演会では、自分とキリスト教の関係をお話になりました。同志社の幼稚園から同志社大学まで毎週礼拝に出て、軍国主義の真っ最中でしたが聖書と賛美歌づけになったといいます。それが、外国に出て、「1碗からピースフルネス」という働きに役にたったといいます。先に召された奥様は、千家では最初のカトリックの信者で曽野綾子さんと一緒に洗礼を受けた方でした。
 逸話を話されました。「父に聖書の狭い門と茶室のにじり口は関係があるのか、と聞いた、父は自分で考えよと答えた」。どんな偉い人も、茶室に入るには、刀を置き、頭を下げなければ入れないように作ってあります。
 さて、講演会のチケットを取ってもらいましたが、すぐに完売になりました。教会での献茶ミサは先着100名。すぐに一杯になるだろうと思い講演会だけにしようと思いました。心の中に声がしました。「お前はキリスト者として茶道をしている。献茶は神社仏閣で行われているのが、今度キリスト教会で献茶がなされる、なのに並ぶのが嫌だと言うお前は、一体何をしているのか。」はっとして当日1時間前に並びミサに参列しました。
 ミサの中で大司教は、茶の精神を表す『和敬清寂』から、ミサと茶の湯には共通点があるが、右近の茶には静かな静寂ではなく、聖い静寂があると語られました。
 確かに一般の献茶式には音楽が流れますが、何の音楽もなく沈黙の中で行われました。大宗匠の棗の蓋を置く音が響きました。私の心にもその音が響きました。

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死を見誤らない神

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○○○ 死を見誤らない神 ○○○    (背割り桜が近くにあります)         
 103歳で召されたお母様のことを書いた証しを読みました。お父様が先に召され、その10周年の記念会でお話しされたことです。
 1テサロニケ4章を読んでから「その死について腹痛を訴えるお父さんを私がすぐに救急病院へ連れて行っていれば、などと後になって思い、周りから言われて悩んだりしたが、毎日愛読している内村鑑三先生の「一日一生」から、神はキリストを信じる者の死を見誤れるようなことはなさらない。人の死は神の決めたもう時のことだという信仰に立つことができた。この御言葉のように悲しみに沈むことは長くは続かなかった。イエスキリストの再臨の時には、キリストを信じて眠った人もイエスと一緒に連れて来られるはず。天にて再会の希望の喜びがある。だから主を信じることを一日延ばしにしないように。」
 私は人の葬儀に立ち会い、3つに気休めの言葉を言ってきました。家族がいる中で召されてよかったこと、痛まないで静かに召されたこと、死に顔がだんだんと安らかになってくること。
 それは地上に残されている人間の側からの見方です。その場に家族がいなくてもイエス様がいてくださいます。痛みがあっても叫んでも主が御国に連れて行かれます。死んだ後はだいたいが顔が落ち着いて安らかに見えるようになります。しかし、もう魂は神のみもと移されています。
 だから、自分が死ぬ時には、家族が間に合わなくても問題はないし、たとえ痛みがあって苦しい顔をしていても心配しないように伝え、本人は感謝していることを伝えておきたいと思います。
 遺族には確かに悔いが残ります。しかし、「神はキリストを信じる者の死を見誤れるようなことはなさらない。人の死は神の決めたもう時のことだ。」この信仰に立ちたいと思います。

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燭台もあげたのに

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○○○ 燭台もあげたのに ○○○      (おいしいコーヒーのいれかたセミナーに出ました)       
 レミゼラブルはヴィクトル・ユーゴーが1862年に執筆したフランス小説。
 ジャン・ヴァルジャンは貧しさのゆえに、たった一本のパンを盗んだことで捕らえられ、何度も脱獄をしたので19年も服役しました。小さな罪も見逃さないジャヴェール警部はどこまででも彼を追跡して、捕らえようとします。ヴァルジャンはミリエル司教のところで食事をいただき、その食器を盗んでしまいます。捕らえられた時に、ミニエル司教は彼に、「それは盗んだのではなくてプレゼントしたのだ」と優しく語り、「二本の銀の燭台もあげたのにどうして置いていったのか」と言って燭台をプレゼントしました。バルジャンはミニエル司教に罪を告白し改心をしました。
 ユーゴーはクリスチャンとは聞いていませんが、ジャベールが聖書の律法と考えるとよくわかる。人はいくらいいことをしても過去の罪を消すことができません。律法は、人を支配し、告発し、裁きます。バルジャンが自由になるには、どちらかが死ぬことしかありません。ジャベール警部は愛の人に変えられたジャン・バルジャンと向き合った時に自殺しました。律法は愛と出会ったときに、その役割が終わるのです。私たちはキリストを信じた時に律法に死に、律法から解放されたのです。
 ローマ書では結婚のたとえを使って説明しています。今までは律法という夫に結ばれていました。そこには厳しさしかありませんでした。監視され、命令され、愛など何もありません。その夫が死に、新しい夫のキリストと結ばれたのです。そこにはキリストの愛があるのです。
 ジャンバルジャンが変えられたのは、ミリエル司教の愛に出会ってからです。私たちが生きるのは、律法にではなく、キリストの愛、御霊の働きによって生きるべきです。
 さて、ミニエル司教は「銀の燭台もあげたのにどうして置いていったのか」と言いましたが、私たちに神は「恵みをあげたのにどうして置いていったのか」と語っていないでしょうか。

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透明人間になる指輪

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○○○ 透明人間になる指輪 ○○○  ○○○ 透明人間になる指輪 ○○○             
 プラトンの著作『国家』にギュゲスの指輪の話しがあります。ギュゲスという羊飼いは、ある日不思議な力をもつ指輪を見つけました。その指輪を回すと周囲から姿が見えなくなるのです。彼はその指輪を使って宮殿に入り、王妃と関係をもってしまいます。それから二人で王を殺し王位を得ました。
 ギュゲスのように不正を行なって栄華を極める人と、正義を貫いて何も得ない人と、どちらが良い人生を送ったと言えるのかとプラトンはソクラテスに質問しました。彼の答えは、不正に身を委ねるのは、自らを精神の中の醜く汚れた部分の奴隷にすることであり、外的な状況がどうあろうとその状態はみじめである。
 あなたはこの透明人間になる指輪があったらどうしますか。何をしますか。プラトンのいう正義とは、何もしないことですが、聖書は積極的です。
 パウロは、「義の器としてあなた自身とその手足を神にささげよ」と命令しています。この器という言葉は、武器という言葉です。ローマ13章12節では光の武具を着けよと語られています。13節では、「やみのわざを打ち捨てて遊興、酩酊、好色、争い、ねたみの生活を捨てるように」との勧めです。透明になる指輪をもっていたら、このようなことに使ってしまうのでしょうか。
 賭け事で人のカードを見て勝つ。人の秘密を見る。気に入らない人の家に入ってあら探しをする。監視カメラに映らないので、何処に行っても何でも手に入る。闇の世界です。
 聖書は、あなたが透明人間になって神の働きをするようにというのです。透明になるというのは、指輪を使って透明になるというのではなく、名前を出さないですること、人にわからないようにすることです。イエス様は右の手のしていることを左の手に知られないようにせよと言われました。義のために透明人間になることができるのです。

           
 プラトンの著作『国家』にギュゲスの指輪の話しがあります。ギュゲスという羊飼いは、ある日不思議な力をもつ指輪を見つけました。その指輪を回すと周囲から姿が見えなくなるのです。彼はその指輪を使って宮殿に入り、王妃と関係をもってしまいます。それから二人で王を殺し王位を得ました。
 ギュゲスのように不正を行なって栄華を極める人と、正義を貫いて何も得ない人と、どちらが良い人生を送ったと言えるのかとプラトンはソクラテスに質問しました。彼の答えは、不正に身を委ねるのは、自らを精神の中の醜く汚れた部分の奴隷にすることであり、外的な状況がどうあろうとその状態はみじめである。
 あなたはこの透明人間になる指輪があったらどうしますか。何をしますか。プラトンのいう正義とは、何もしないことですが、聖書は積極的です。
 パウロは、「義の器としてあなた自身とその手足を神にささげよ」と命令しています。この器という言葉は、武器という言葉です。ローマ13章12節では光の武具を着けよと語られています。13節では、「やみのわざを打ち捨てて遊興、酩酊、好色、争い、ねたみの生活を捨てるように」との勧めです。透明になる指輪をもっていたら、このようなことに使ってしまうのでしょうか。
 賭け事で人のカードを見て勝つ。人の秘密を見る。気に入らない人の家に入ってあら探しをする。監視カメラに映らないので、何処に行っても何でも手に入る。闇の世界です。
 聖書は、あなたが透明人間になって神の働きをするようにというのです。透明になるというのは、指輪を使って透明になるというのではなく、名前を出さないですること、人にわからないようにすることです。イエス様は右の手のしていることを左の手に知られないようにせよと言われました。義のために透明人間になることができるのです。

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社会の破れ口に

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○○○ 社会の破れ口に ○○○  (洛西で高山右近記念キリシタンセミナーをしました。)             
 古代ローマには、幼児の遺棄が多くありました。不要な子供が捨てられ、女子は売春宿の経営者に拾われて売春婦になるように育てられました。そして、街には売春屋が多く立ち並びそこに入る誘惑がいつもありました。客は自分の子供と関係を持つということも起こりえたと当時の人が書いています。罪が罪を作っていくのです。
 賀川豊彦の明治44年の年報です。
「もらい子殺し問題、大阪市南に384名のもらい子あり、神戸新川に200のもらい子があるという事実は、社会問題の重大事件だ。貧民窟で移住すること2年。この惨劇を見て黙していられぬ。44年1月中に3件のもらい子殺しを見て泣いた。パロの王女よ、モーセが流されているじゃないか、あれ、ナイルのワニが来る。ワニが来る。」
 もっとも弱い子供が社会の被害を受けます。これは、古代、明治だけの問題ではありません。
 親が赤ちゃんを育てられなくて匿名で預ける赤ちゃんポストが、神戸の助産院で設置する計画がありました。しかし、医師が常駐していないと赤ちゃんの迅速な対応ができないという神戸市の見解が出て、マナ助産院のクリスチャンである永原郁子さんが見送ることになりました。
 赤ちゃんポストは2007年に全国で初めて熊本の慈恵病院で設置されました。2015年までに預けられた子供は125人。相談件数だけでも昨年度5500件になるといいます。神戸にもらい子を殺す者がいて、その神戸に赤ちゃんを救おうという働きがありました。社会の破れ口に私たちは立たせられています。

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