週刊 生活の中の洞察 聖書から教え

毎週教えられていることを隔週で紹介しています。

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○○○ 教会堂で一番大切なものは何か ○○○
 十字架と答えるでしょう。しかし、初代教会では教会のシンボルは、復活のしるしでした。新しく会堂を建てる教会はいろいろと考えます。そこで、なくてならないのは、説教講壇、聖餐台、十字架です。現代のカトリック教会は非常にシンプルです。そして、聖餐台は必ずあります。
 安藤忠雄が設計した。「光の教会」(日本基督教団茨木春日丘教会)が斬新です。国立新美術館の開館10周年を記念して原寸大のコンクリート造りで光の教会が再現されました。そこには説教壇と聖餐台と十字架があります。
 彼は水の教会を北海道の星野リゾートに建てました。これはホテルのチャペルウェディングのためなので、聖餐テーブルがありません。そこには、キリストとの交わり、招き、十字架の恵みがありません。
 聖餐式は、見えないキリストが臨在される場所です。私たちが神の国に招かれ、いのちのパンが用意されていることを覚え、目に見えるパンを通してキリストを感じる時となります。
 大事なものは建物ではなくそこにいるキリスト者の信仰と交わり。テーブルを囲んでも相変わらず、争っていたり、愛を示さなければ意味がありません。
 「ちいろば先生物語」の主人公の榎本保郎牧師が始めたS教会の牧師会に出席しました。マンションの最上階にあります。管理人に尋ねるとあごで、エレベーターを指されて行きました。簡単な参加者の自己紹介があり、集会が終わってから、誰一人声をかけてくれる人がおらず、こんなところに人は来るのかと思いました。
 葬儀のあと、近くの伏見教会の牧師夫妻がお花を持って訪ねて来てくださいました。訪問する牧師から訪問される牧師になりました。ご夫妻の訪問は骨身にしみました。大切なことは私たちのうちに愛があるかどうかとということを感じました。

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ガリラヤ湖での祈り

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○○○ ガリラヤ湖での祈り ○○○
 小雨の中ガリラヤ湖の舟の周遊が始まりました。強い風が吹く中、一人船首に立っていると、2ヶ月間、毎日祈ったことが思い出されました。毎日寝る前に博子姉の足を揉み、びわの葉療法をして、患部に手を置いて祈りました。「ガリラヤ湖の嵐を静められたイエス様が、博子の炎症を静めて癒してください・・・。」炎症は癒されませんでしたが、しかし、毎日平安のうちに休むことができました。あの場面のビデオの繰り返しが流れ出しました。
 ペテロは、嵐の時にイエス様を舟に招きいれると嵐が止みました。舟から出て海を歩き出しました。最後は、イエス様の復活後、このガリラヤ湖で漁をしているとき、岸にイエス様が立ち、「子供達よ。食べるものがありませんね」と言われました。ペテロはイエス様とわかると湖に飛び込みました。100mほどだとありました。
 最後にペテロは水の上を歩きませんでした。舟から出てイエス様の用意された食事を食べ、用意されていた新しい歩みのために旅立ちました。弟子たちはもうガリラヤ湖には戻りませんでした。
 ガリラヤ湖は本当に静かなところです。私も食事をしてガリラヤ湖から出発し新しい歩みを進むように語られているように感じました。

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  『すべての中心に神の愛を』(イスラエルのマサダにて)
 水曜日の祈り会で今年の抱負を出しあいました。まず、マクゴニガルによる抱負の書き方の原則を紹介しました。新しい年に「どう成長したいか」を考える。昇進や業績という目標ではなく。「なに」の前に「なぜ」に焦点を当てる。具体的な行動目標を立てる。
 これまでいろんな事業をされた森さんの娘さんが、福祉施設を建てる計画をしています。彼女の抱負は「すべてのことを愛によって行いなさい」が大切。事業をするとしてもそこに欲からではなく、愛がなければならない。すべてのことについて愛をもって行いなさいです。はっとしました。
 葬儀以来、いつも同じビデオが流れています。新年になりそれが変わってきているのですが、何かの拍子にスイッチが入ることがあるのです。博子姉は召される直前まで、毎朝目を覚ますとグッドモーニングとベッドから笑顔で挨拶をしました。どうして毎朝笑顔で挨拶ができたのだろうか。それを考えると、同じ場面のビデオが流れて止まらなくなるのです。
 イスラエルに行きますが、のんびりという気になれず引率の奉仕を申し出ました。そうしたら、直前の説教の聖書箇所が、「偉くなりたいと思う者は仕える者となれ、先に立ちたいと思うものはみなのしもべになりなさい。」です。
 人の荷物を持ち、テロに会えば、自分が率先して身代わりになろう。自分が死んでも悲しむものがいないのだから。本当にできるだろうか、そんなことを考えていました。
 はっとしたのは、そこに愛があるのかどうかということです。イエス様が来られたのは父なる神の愛によります。イエス様が愛によって自分のいのちを与えました。愛によって仕え、しもべとなられました。それらはすべて愛から出たものです。
 誰が一番偉いかと議論していたヨハネは後に愛の人に変えられました。「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」
 キリストの愛があってはじめて愛がわかるのです。そして、愛を実践できるのです。
 私の中にはキリストの愛が抜けていました。義務感、責任感からで、そこには喜びがありません。私たちの信仰生活は愛が中心です。愛によって自分の欲から解放され、人との争いから解放されます。キリストの愛から離れないように。

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心の目が開かれて

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『心の目が開かれて』(友人の写真です)
 私たちの目が遮られて神がともにいることがわかりません。エマオの途上でイエス様が共に歩いてくださっているのに弟子たちはわかりませんでした。弟子たちは自分たちの成功を夢見ていました。
 私たちは、見えるものに捕らわれています。起こった出来事の苦しみ、悲しみ、辛さを嘆きます。しかし、その中に何が隠されているのか、その後に何が祝福として待っているのか。その意味についてなかなか考えません。
成功することと実りをえることについてナウエンは次のように語っています。
「成功しているということと、実りが多いということとの間には、大きな違いがあります。成功は、強さ、管理、世間体などによってもたらされます。成功は多くの報酬をもたらし、しばしば名声ももたらします。しかし、実りは弱さと傷つきやすさによってもたらされます。また、実りはユニークなものです。子供は傷つきやすさの中でみごもられた果実であり、人と人との交わりは傷を分かち合ってできる果実であり、親しさは互いの傷に触れることを通してできる果実です。私たちに真の喜びをもたらすものは、成功ではなく、実り豊かなさにあることを思い起こしましょう。」
 そのような目が遮られている弟子たちに、イエス様は聖書全体から説き明かしをされました。そして、宿ではパンを取って祝福して渡されました。その時、弟子たちの目が開かれました。目が開かれるとイエス様が見えなくなりました。聖書と神との交わりが心の目が開かれるために大切です。
 マタイの福音書は、イエス様がインマヌエルと呼ばれ、マタイの最後の言葉は「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」です。マタイの主張は、「神は我らと共におられる」ということです。心の目が開かれて共におられるイエス様とこの年も歩めますように。

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圧倒的な勝利者に

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○○○ 『圧倒的な勝利者に』○○○
 何が辛いかというと、召された人のことをいつもビデオの同じところを繰り返し見ている感じです。いつも考えてしまいます。引きずられているのです。だから、故人の写真は飾りたくないのです。
 嫌なことは、「水野さんは奥様をガンでなくした」と紹介されること。敗北者の家族のように見られるのです。
 神が召して、神が一番よいことをされて、今勝利者となって天に導かれました。私はそれを送ることができたのです。しかし、この世の見方は妻がガンに負けて死んで、夫が寂しくこの世に残されている。決してガンで死んだのではなく、神が召したのですが。
 いつも繰り返されるビデオには二つの質問がいつもついてきます。彼女はしあわせだったのか。今どうなっているのか。
 福岡の方がこんなお手紙をくださいました。
 「博子さんは幸せだったのだろうかと自分に問うておられますが、博子さんの『夫より先に召されたい』という希望がその問いへのお答えだと思います。この言葉は夫に愛されて大切に尊重されて満ち足りた幸せな結婚生活を送っている妻だけが言えることばだからです。そして、心から夫を愛して信頼して、いつも夫と一緒にいたいと願っている妻の、日々夫に感謝して、夫がいない人生なんて考えられないと思っている妻だけが言える言葉なのですよ。」
 彼女の友人が召される1ヶ月前にこんな話をしたという
「ガンを宣告されて、主人から人には神から与えられている寿命というものがあると言われた。それが慰めになった。今、平安があるのよ。」その前の電話で「私は結婚してとっても幸せなのよ」と話していたという。
 二人の言葉でとても慰められました。すでに答えが出ているのですが、その過程を解いているのが今の生活です。答えに至る解は様々なのです。
 もう一つの問い、今彼女はどうしているのか。
「キリスト教における葬儀」の中で、天国とはどんなところでしょうかという質問に、デーケン神父は「この世の中でいちばん幸せだった時のことを思い出してください。天国はそれ以上の幸せをあなたに与えるところです。」この言葉でも慰めを得ました。
 ローマ8:37圧倒的な勝利者となる、v69キリストにある神の愛から私たちを引き離すことはできない。地上で幸せだったなら、それ以上の幸せの中にある。なんという慰めではないでしょうか。

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