週刊 生活の中の洞察 聖書から教え

毎週教えられていることを隔週で紹介しています。

全体表示

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

イメージ 1

  『すべての中心に神の愛を』(イスラエルのマサダにて)
 水曜日の祈り会で今年の抱負を出しあいました。まず、マクゴニガルによる抱負の書き方の原則を紹介しました。新しい年に「どう成長したいか」を考える。昇進や業績という目標ではなく。「なに」の前に「なぜ」に焦点を当てる。具体的な行動目標を立てる。
 これまでいろんな事業をされた森さんの娘さんが、福祉施設を建てる計画をしています。彼女の抱負は「すべてのことを愛によって行いなさい」が大切。事業をするとしてもそこに欲からではなく、愛がなければならない。すべてのことについて愛をもって行いなさいです。はっとしました。
 葬儀以来、いつも同じビデオが流れています。新年になりそれが変わってきているのですが、何かの拍子にスイッチが入ることがあるのです。博子姉は召される直前まで、毎朝目を覚ますとグッドモーニングとベッドから笑顔で挨拶をしました。どうして毎朝笑顔で挨拶ができたのだろうか。それを考えると、同じ場面のビデオが流れて止まらなくなるのです。
 イスラエルに行きますが、のんびりという気になれず引率の奉仕を申し出ました。そうしたら、直前の説教の聖書箇所が、「偉くなりたいと思う者は仕える者となれ、先に立ちたいと思うものはみなのしもべになりなさい。」です。
 人の荷物を持ち、テロに会えば、自分が率先して身代わりになろう。自分が死んでも悲しむものがいないのだから。本当にできるだろうか、そんなことを考えていました。
 はっとしたのは、そこに愛があるのかどうかということです。イエス様が来られたのは父なる神の愛によります。イエス様が愛によって自分のいのちを与えました。愛によって仕え、しもべとなられました。それらはすべて愛から出たものです。
 誰が一番偉いかと議論していたヨハネは後に愛の人に変えられました。「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」
 キリストの愛があってはじめて愛がわかるのです。そして、愛を実践できるのです。
 私の中にはキリストの愛が抜けていました。義務感、責任感からで、そこには喜びがありません。私たちの信仰生活は愛が中心です。愛によって自分の欲から解放され、人との争いから解放されます。キリストの愛から離れないように。

この記事に

開く コメント(0)

心の目が開かれて

イメージ 1

『心の目が開かれて』(友人の写真です)
 私たちの目が遮られて神がともにいることがわかりません。エマオの途上でイエス様が共に歩いてくださっているのに弟子たちはわかりませんでした。弟子たちは自分たちの成功を夢見ていました。
 私たちは、見えるものに捕らわれています。起こった出来事の苦しみ、悲しみ、辛さを嘆きます。しかし、その中に何が隠されているのか、その後に何が祝福として待っているのか。その意味についてなかなか考えません。
成功することと実りをえることについてナウエンは次のように語っています。
「成功しているということと、実りが多いということとの間には、大きな違いがあります。成功は、強さ、管理、世間体などによってもたらされます。成功は多くの報酬をもたらし、しばしば名声ももたらします。しかし、実りは弱さと傷つきやすさによってもたらされます。また、実りはユニークなものです。子供は傷つきやすさの中でみごもられた果実であり、人と人との交わりは傷を分かち合ってできる果実であり、親しさは互いの傷に触れることを通してできる果実です。私たちに真の喜びをもたらすものは、成功ではなく、実り豊かなさにあることを思い起こしましょう。」
 そのような目が遮られている弟子たちに、イエス様は聖書全体から説き明かしをされました。そして、宿ではパンを取って祝福して渡されました。その時、弟子たちの目が開かれました。目が開かれるとイエス様が見えなくなりました。聖書と神との交わりが心の目が開かれるために大切です。
 マタイの福音書は、イエス様がインマヌエルと呼ばれ、マタイの最後の言葉は「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」です。マタイの主張は、「神は我らと共におられる」ということです。心の目が開かれて共におられるイエス様とこの年も歩めますように。

この記事に

開く コメント(0)

圧倒的な勝利者に

イメージ 1

○○○ 『圧倒的な勝利者に』○○○
 何が辛いかというと、召された人のことをいつもビデオの同じところを繰り返し見ている感じです。いつも考えてしまいます。引きずられているのです。だから、故人の写真は飾りたくないのです。
 嫌なことは、「水野さんは奥様をガンでなくした」と紹介されること。敗北者の家族のように見られるのです。
 神が召して、神が一番よいことをされて、今勝利者となって天に導かれました。私はそれを送ることができたのです。しかし、この世の見方は妻がガンに負けて死んで、夫が寂しくこの世に残されている。決してガンで死んだのではなく、神が召したのですが。
 いつも繰り返されるビデオには二つの質問がいつもついてきます。彼女はしあわせだったのか。今どうなっているのか。
 福岡の方がこんなお手紙をくださいました。
 「博子さんは幸せだったのだろうかと自分に問うておられますが、博子さんの『夫より先に召されたい』という希望がその問いへのお答えだと思います。この言葉は夫に愛されて大切に尊重されて満ち足りた幸せな結婚生活を送っている妻だけが言えることばだからです。そして、心から夫を愛して信頼して、いつも夫と一緒にいたいと願っている妻の、日々夫に感謝して、夫がいない人生なんて考えられないと思っている妻だけが言える言葉なのですよ。」
 彼女の友人が召される1ヶ月前にこんな話をしたという
「ガンを宣告されて、主人から人には神から与えられている寿命というものがあると言われた。それが慰めになった。今、平安があるのよ。」その前の電話で「私は結婚してとっても幸せなのよ」と話していたという。
 二人の言葉でとても慰められました。すでに答えが出ているのですが、その過程を解いているのが今の生活です。答えに至る解は様々なのです。
 もう一つの問い、今彼女はどうしているのか。
「キリスト教における葬儀」の中で、天国とはどんなところでしょうかという質問に、デーケン神父は「この世の中でいちばん幸せだった時のことを思い出してください。天国はそれ以上の幸せをあなたに与えるところです。」この言葉でも慰めを得ました。
 ローマ8:37圧倒的な勝利者となる、v69キリストにある神の愛から私たちを引き離すことはできない。地上で幸せだったなら、それ以上の幸せの中にある。なんという慰めではないでしょうか。

この記事に

開く コメント(0)

誕生のお祝い 

イメージ 1

○○○ 誕生のお祝い ○○○ (伏見の散歩コースです)
 先月寂しい誕生日を迎えました。夜、帰りの遅い次男の帰りをローソクの火を灯し時を過ごしました。悲しみのセラピーには「記念日や祝日や誕生日。ただただ喜びとお祝いであった時間・・・。それが今では、非常につらい日々となりうるのです。痛みを和らげることができるように心を配って、ささやかに祝いましょう。」とあるので、一人ささやかに祝いました。
 振り返ると、その日の昼は、埼玉の友人が来てくれてランチをしました。子供達のメール、教会の役員会でケーキをご馳走になり、次の週、牧師夫人の集まりで祝って頂きました。きわめつけは、ある方から30センチ以上のでっかい誕生日カードが届きました。神が祝っていることを叫んでいるかのようです。
 みな、牧師と信徒の関係を超えて、友として接してくれています。改めて友の存在は大切だと感じます。ある週、関東の友と、カリフォルニアの友と1時間ラインで電話しました。博子姉の友と1時間話しました。彼女は自分の教会の聖餐式の時に、博子姉のことを覚えて受けたといいます。みなこちらが終えなければずっと続く会話でした。大切な1日のうちの1時間、時間をとって下さいました。
箴言 17:17 友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。
 キリストが友となって下さいました。私たちのそばに来てくださり、寄り添い、導いて下さる最も近くにいる方です。そのキリストはクリスマスに赤ちゃんとなって来て下さいました。人が片手でその命をどうにでもできる形で差し出されました。友以上のものとなってくださったのです。
 クリスマスに何を祝うのでしょうか。私たちは誕生日をお祝いします。その人の存在を喜び祝福します。しかし、イエス様の場合は私たちと違います。キリストの誕生は、キリストにとって苦しみの始まりです。キリストは神であってすでに存在された方。そのお方が人としてきてくださいました。だから、キリストが生まれたことを「おめでとう」とはお祝いできません。私たちのために生まれてきてくださったことをただ感謝するだけです。

この記事に

開く コメント(0)

あの世について

イメージ 1

○○○ あの世について ○○○
 瀬戸内寂聴さん95才がテレビのインタビュー番組で
 「あの世はないのではないかと思う。死んだら先に死んだ人に会えると教えるが会えないのではないかと思う。」と語っていました。
 天の御国に入るにはどうしたらいいか。まさにイエス様が語っていることです。
聖書の通読で黙示録にきました。黙示録7:17「なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」イエス様についていくとは、羊飼いであるイエス様についていくこと。 
 このコラムを読んで下さっている方が、ガンの仲間にも送られました。その友人は近くの大学の「生と死を考える会」で講演をされました。
 最初に乳がんになったのは21年前、手術、放射線、抗がん剤。15年過ぎて、転移して再発、強い抗がん剤治療。昨年6月から違う場所にも転移。もう抗がん剤は辞めることにします。命の長さよりも質を取ろうと決心をして緩和ケアーにされました。死について最後に話されました。
 「死は人間の力ではどうすることもできません。死にたいと思ってもし死ねないように、どんなに生きたいと思ってもどうにもならない。がん友のNさんの友人は牧師夫人ですが、炎症性乳がんで告知から3ヶ月で亡くなられました。死の2週間前までオルガンを弾き、前日はシャワーを浴びて、亡くなる直前にはトイレに行かれた。がんの人で最期まで自力でトイレに行った人をはじめて聞きました。神様の委ね、神様に愛されたクリスチャンの最期とうらやましいです。人の生死は神様の領域、果たすべきことがあれば生かされ、もういいよと言われればそれが死ぬ時だろうと思うと平安になります。」
 加えてお伝えしたいのは、最後の数分前に痛みではなく、「聖霊で一杯になっている」と次男に語り、私には「幻が見えた」の言葉が最後でした。もし、天の御国がなければ永遠のいのちがなければなんとむなしいことでしょうか。神様の特別な配慮があったことと思います。
 クリスマスにイエス様は天の御国から私たちを導くために来て下さいました。天の御国に行くには、いつか捨てなければならない、この世のもの、変なプライド、根深い欲、限りない自己中心を捨てて、羊飼いイエス様について行くことです。

この記事に

開く コメント(0)


.


みんなの更新記事