週刊 生活の中の洞察 聖書から教え

2017年6月、妻が乳がんの宣告を受け、8月に自分の人生を完結して地上の生涯を終えました。その後の生活についてです。

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死を友とする

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○○○  死を友とする ○○○   (教会の愛餐会です)          
 4月と5月に納骨式の奉仕を致しました。墓前で遺骨を前にしてありし日の故人を忍ぶ時を持ちました。イエス様はラザロの墓の前で、冷静なお方であるのに、ラザロを生き返る奇跡の力をお持ちの方なのに、涙を流されました。それは、私たちも悲しんで泣いてもいいということを示し、神が私たちを心から同情してくださることを現しています。死を迎える時、どのような苦しみだったかが頭をよぎりましたが、故人は一番すばらしい場所、イエス様のおられるところに行かれたことに思いを向けました。そして、自分の最後はどうなるのだろうと出席した者は考えました。
 ヘンリ・ナウエンの本の中で、「死を友とする」という言葉に出会いました。
死は、一般的には恐ろしいもので、心の無意識の深みに沈み、夢の中に巨大な影として出てきます。人のバックグランドミュージックに死が流れています。 
 しかし、死を友とするなら、それらから自由になることができます。死を見知らぬ脅迫者ではなく親しいゲストにすることができれば、私たちの生き方が変わるのではないでしょうか。
 確かに、多くの殉教した人たちのことを考えると、自分には死を選ぶことができるだろうかと信仰の薄さ、覚悟のなさを思いますが、死が友であるなら、それに身を委ねようという心になるかもしれません。しかし、死の先にある確かなキリストの救い、父なる神の招き、聖霊による平安と喜びがなければ死を友とすることは難しいことのです。

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○○ 臨終の床で語り合うこと○○        (教会の男性グループです)     
 4世紀のアウグスティヌスの『告白』の中に、母モニカのことが記されています。
 彼が異教の宗教に走り、乱れた生活の中にいても、モニカは息子のために祈り続けました。彼が神のもとに戻って洗礼を受けて一年後のアウグスティヌス33才の時に、母モニカは56才で死にました。最後の会話が残されています。
 「母モニカが召される日が近づいている時に、ゆっくりと話すときが与えられました。私達は二人だけで、本当に楽しく語り合いました。そして過去を忘れ、未来に向かって思いをはせながら、真理なるあなたご自身のまします御前において、聖者達が未来においてうける永遠の生命とはどのようなものであろうかと、尋ねあっていました。それは目も見ず、耳も聞かず、人の心にも思い浮かばないものです。それでも私達はみもとにある生命の泉、あなたの泉の天井の流れにむかって心の口をいっぱいに開き、なしうるかぎり泉にうるおされて、何とかこのすばらしいものについて思いをめぐらそうとしていました。」
 私たちの最後の親子の会話はどうなのでしょうか。自分の葬式の話し、自分が残す財産の処分について、病いの辛さからの解放の話しはするかもしれません。自分の人生を振り返り神の恵みを見出し、家族に感謝を伝えればすばらしいことです。しかし、アウグスティヌスは共に、楽しく、未来において受ける永遠のいのちとはどのようなものだろうかと尋ね合ったとあります。そのようなことができるでしょうか。

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○○ 聖霊から与えられるもの ○○  (高山右近列福記念献茶式)           
 受洗したときに、教会から記念品として「キリスト者の標準」という本をもらいました。その中に書かれているお話しです。
 著者のウオッチマンニーのところにある夫妻が相談に来られました。夫妻は1日に数回子供達のことでカッとなるので、忍耐力が与えられるように神に祈ってほしいという祈りの依頼でした。ウオッチマンニーは次のように答えました。
 「それは私にはできないことです」「神は決してあなたがたの祈りには、お答えになりません。」驚く夫婦に続いて「どうしてかというとあなたがたには忍耐の必要がないからです。あなた方に必要なのは、忍耐ではなく、キリストなのです。」と話しました。
 その解説です。「神は謙遜とか、忍耐とか、きよさとか、愛とかを別々の賜物として与えられるのではありません。神は恵みを薬のように一服づつ分けて調合し、忍耐欠乏症の者には忍耐を、愛の足りないものには愛を、高慢な者には柔和をというように盛り分けて小売するお方ではありません。神から恵みの資本を手にいれてそこから小分けにして自活するように求めてもいません。神はすべての必要を満たすために、ただ一つの賜物、御子イエス・キリストを与えてくださったのです。そのキリストが私たちに代わって必要なるものを満たしてくださるのです。」
 すでにすべての恵みをお持ちの聖霊が内におられるのです。御霊の実を一つ一つ求める私たちですが、すでに御霊をいただき、私たちではなく御霊が私たちのうちで実を実らせてくださるのです。聖霊の働きが私たちの人生に豊かにありますように。

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高山右近列福 献茶弥撒(ミサ)
 高山右近の列福を記念しカトリック高槻教会で裏千家千玄室大宗匠による「献茶弥撒(ミサ)」が行われました。
大宗匠は94才、しかし、しっかりとした献茶の式を執り行われました。その後、テレビ局のインタビューを受け、すぐに、1時間の講演をされました。
 高山右近は千利休の一番弟子、そして、右近のことを心から尊敬しているという挨拶をされました。講演会では、自分とキリスト教の関係をお話になりました。同志社の幼稚園から同志社大学まで毎週礼拝に出て、軍国主義の真っ最中でしたが聖書と賛美歌づけになったといいます。それが、外国に出て、「1碗からピースフルネス」という働きに役にたったといいます。先に召された奥様は、千家では最初のカトリックの信者で曽野綾子さんと一緒に洗礼を受けた方でした。
 逸話を話されました。「父に聖書の狭い門と茶室のにじり口は関係があるのか、と聞いた、父は自分で考えよと答えた」。どんな偉い人も、茶室に入るには、刀を置き、頭を下げなければ入れないように作ってあります。
 さて、講演会のチケットを取ってもらいましたが、すぐに完売になりました。教会での献茶ミサは先着100名。すぐに一杯になるだろうと思い講演会だけにしようと思いました。心の中に声がしました。「お前はキリスト者として茶道をしている。献茶は神社仏閣で行われているのが、今度キリスト教会で献茶がなされる、なのに並ぶのが嫌だと言うお前は、一体何をしているのか。」はっとして当日1時間前に並びミサに参列しました。
 ミサの中で大司教は、茶の精神を表す『和敬清寂』から、ミサと茶の湯には共通点があるが、右近の茶には静かな静寂ではなく、聖い静寂があると語られました。
 確かに一般の献茶式には音楽が流れますが、何の音楽もなく沈黙の中で行われました。大宗匠の棗の蓋を置く音が響きました。私の心にもその音が響きました。

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死を見誤らない神

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○○○ 死を見誤らない神 ○○○    (背割り桜が近くにあります)         
 103歳で召されたお母様のことを書いた証しを読みました。お父様が先に召され、その10周年の記念会でお話しされたことです。
 1テサロニケ4章を読んでから「その死について腹痛を訴えるお父さんを私がすぐに救急病院へ連れて行っていれば、などと後になって思い、周りから言われて悩んだりしたが、毎日愛読している内村鑑三先生の「一日一生」から、神はキリストを信じる者の死を見誤れるようなことはなさらない。人の死は神の決めたもう時のことだという信仰に立つことができた。この御言葉のように悲しみに沈むことは長くは続かなかった。イエスキリストの再臨の時には、キリストを信じて眠った人もイエスと一緒に連れて来られるはず。天にて再会の希望の喜びがある。だから主を信じることを一日延ばしにしないように。」
 私は人の葬儀に立ち会い、3つに気休めの言葉を言ってきました。家族がいる中で召されてよかったこと、痛まないで静かに召されたこと、死に顔がだんだんと安らかになってくること。
 それは地上に残されている人間の側からの見方です。その場に家族がいなくてもイエス様がいてくださいます。痛みがあっても叫んでも主が御国に連れて行かれます。死んだ後はだいたいが顔が落ち着いて安らかに見えるようになります。しかし、もう魂は神のみもと移されています。
 だから、自分が死ぬ時には、家族が間に合わなくても問題はないし、たとえ痛みがあって苦しい顔をしていても心配しないように伝え、本人は感謝していることを伝えておきたいと思います。
 遺族には確かに悔いが残ります。しかし、「神はキリストを信じる者の死を見誤れるようなことはなさらない。人の死は神の決めたもう時のことだ。」この信仰に立ちたいと思います。

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