週刊 生活の中の洞察 聖書から教え

62にしても迷っています。生活の中でちょっと立ち止まって教えられた

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○○○ 手のわざを確かなものに ○○○             
 ヘブル語の時制は英語のように過去、現在、未来を表す形がありません。時制は二つで完了形と未完了形の二つです。例えば、教会に行った、完了したこと。教会に行く、これから行くので完了していないと表します。聖書の勧めは、主がすでになされたことを思い起こし、思い巡らし、感謝すること。そして、これから主がなされることについては、主に期待して待つ、そして小さな手のわざとして参加することです。
 詩篇90編には「私たちの手のわざを確かなものにしてください」との祈りがあります。私たちの手のわざは小さな手で行うことであり、それは限りがあります。たとえ大きな事業をしたとしても神の前にはちっぽけなことで、人からもすぐに忘れ去られるようなものです。
 大事なことは、それが主のわざであるかどうかです。「主よ、帰ってきてください」との祈りの言葉があります。私たちにとって必要なのは主の臨在。神がともにおられるということです。それなしには生きる意味がありません。イエス様が天に帰られる時の最後のことばは、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」あなたがたと共にいますとの約束の言葉を残されました。主が共におられるのであれば無駄なことは一つもありません。
 先週、日本伝道会議が神戸で開催され2千人が集まりました。今回の会議の特徴は講演を聞いた後で、小グループで話し合うことでした。私はグループのお世話役でした。神学校の先生。400人の教会の牧師、四国の由緒ある寺院のある町の牧師、二つの教会を一つにして会堂を建て、アルバイトをして奮闘している牧師、ご主人の牧師が召され毎週説教をしている夫人。すばらしい働きのお話もあるし、苦労話しもありました。しかし、私たちはお互いに聞き合うことをしました。そこに主がおられることを認めているからです。

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遺骨のゆくえ

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○○○ 遺骨のゆくえ ○○○             
 親鸞は、「それがし開眼せば鴨川に流していろくずに与えよ。」自分が死んだら、鴨川に捨てて魚のえさにでもするようにと言いました。鴨長明は方丈記で、仁和寺の僧侶が1条から9条まで1ケ月の間、死体を数えると4万2千3百あったと記しています。藤原定家は明月記で、自宅の近くの寺には死骸が数多くあり、毎日死骸が増え死臭が邸内にも漂っていると記しています。
 その時代には、死者を遺棄する、放置するという習慣でした。そのうちに、共同墓地として、鴨川から東の鳥辺野、蓮台野などに風葬されるようになりました。だから、鴨川より東は人が住みませんでした。
 そのような時代に、キリシタンの宣教師が来日しました。彼らは、死者を丁寧に埋葬しました。
 『異教徒はわが死者を葬る方法を見て大いに感激せり、我らが初めて死者を葬りし時、3千人余これを見んと来会せり。ただし、その盛大なるがためにあらず、・・・キリシタンが最も貧窮なる者に対しても、富者にたいすると同一の敬意を表するを見て、その博愛と友情とを認め』イエズス会の日本通信誌1555年9月20日。
 日本人は遺骨、墓を大切にするといいますが、少なくとも中世の時代はそうではありませんでした。現在はどうでしょう。
 2010年NHKの調査で、引き取り手のない遺体が全国で3万1千体ありました。では、引き取ったけれども墓がない、墓に入れたくないという遺骨はどうなっているでしょうか。遺骨を預かるサービス、寺院に宅配で送る送骨もあります。家にそのまま保管している人も何万体とあります。
 キリスト教は埋葬することを大切にします。そのことが当時の日本の社会に大きな影書を与えました。キリシタンが語る天国の教え、博愛の教えの裏づけとなりました。だから、先日召された身寄りのない田中喜久子さんの葬儀と納骨を私たちはきちんとします。

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秘密を話すこと

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○○○ 秘密を話すこと ○○○             
 クリスチャン心理学者のパウロ・トルニエ著作集13巻のうち1巻だけが見つからずにいたのですが、ついに見つけました。タイトルは「秘密」です。
 秘密を持てるのは子供にとって成長の過程です。人間誰しも人には言わない秘密を持っています。その人を尊重するとは、その人の秘密をあばくことをしないことです。
 子供が秘密を話すことができるのは、人間形成の次の段階です。自分の親から次に両親以外の人に秘密を話すことは、人と友情を築くことために必要なことです。秘密を話すことは自分の自我を相手に与えることを意味します。
 夫婦の親密さは、お互いに自分の秘密を相手に話すことによって築き上げられます。
 さて、カウンセリングとは、自分の秘密をカウンセラーに話すことになります。語ることによって心が解放されていきます。ところで、神に自分の罪を告白するのは、まさに自分の秘密を神に語ることになります。人には話せないことを私たちは神に語ることができます。そして、赦しを受け取ることによって心の解放を得ることができます。
 石巻の大川小学校を見学しました。全校108名中、74名の児童と10名の教員が流されました。その校舎を残すか壊すかが難しい議論になっています。そこにはお子さんを亡くされた父兄がおられ、小冊子を配っておられました。少しお話をお聞きすることができました。やるせない思い、どこにも持っていくことができない怒りを感じました。
 5つの集会でお手伝いをしましたが、最後の会で初めてこられた婦人とお話をしました。津波でご主人と娘夫婦を失い、二人のお孫さんと仮設で生活をされているとのことでした。聞く者が辛いのですから、ご本人の辛さはいくほどでしょうか。でも、ようやく初対面の者に話せるようになったのかと思いました。
 このような秘密を自由に語ることができる神に出会うことができたらと思いました。

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真の謙遜とは

○○○ 真の謙遜とは ○○○             
 ユダヤ教の教師ハロルド・クッシュナーは「謙遜とは、人生に起きた物事のすべてを自分のせいにしないということ」と定義しています。
 その意味は、まず、物事がうまくいったときに、自分の力でうまくいったと思わないこと。
次に、物事がうまく運ばなかったとき自分のせいだと思わないことです。
 モーセが人生における問題や挫折を乗り越えることができたのは、自分は神ではないこと、そして、単に神のしもべであることをしっかりと心に刻むことができたからです。
 私たちは物事の中心にいつも自分がいるという考えを持ちがちです。だから、物事がうまくいかなかったり、人から批判されると悩みます。それは幼児的な人生の見方に近いものです。2〜3ヶ月の幼児は世界の中心が自分だと思っています。そして、世界は自分の欲求を満たすように存在していると考えています。
 物事がうまくいかなくなり批判がでると謝ることによってその場を収めたいと思うことがあります。しかし、本当に自分は悪いとは思っていないのに謝るのはおかしいことです。
 謙遜の反対のことばを考えるとわかりやすいのですが、それは傲慢です。神を頼らずうまくいったと過信する傲慢、神の御心を考えずにうまくいかなかったと勝手に思う傲慢があります。
 モーセは真に謙遜でした。自分は神のしもべの一人と考えたので、望まれたすべてを果たすことができませんでしたが、失望しませんでした。
 カナンの地に人々を導くようにモーセは使命を与えられて40年間奉仕しました。そして、最後にモーセは約束の国に入れず、その直前で最後を迎えました。約束の国に入ることができなくても満足できました。それは神にすべてを任せることができたからです。

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民と共に苦しむ

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 先週の日曜は古川福音自由教会で奉仕をしました。礼拝前に門谷牧師から台風が近づいていて、東北に上陸すると観測史上初めてとなるとのことで心配されていました。私の携帯にも帰りのフェリーの欠航の知らせが入りました。どうして帰ろうかと困ってしまいました。しかし、門谷牧師の礼拝での祈祷を聞いて、そのような心配は吹っ飛んでしまいました。
 「牡蠣の養殖をされている方々が、東日本大震災で全てを失い、今回の台風の高波でせっかく養殖してここまで育ってきた牡蠣を失うことがないように」
切実に嘆願する祈りでした。
 自分が守られるように、自分がスムーズに帰れるようにという祈りが、なんと自己中心的な祈りかと感じました。自分のことはどうでもよくなりました。なんとか帰れればいいのです。それよりも被災地の方々のことが心配になり祈りました。
 大阪への帰りは陸路車で帰ることになりました。ちょうど台風が来る前に出ました。そして、台風は東北に上陸しました。
 ヘブル11章25節が思い出されました。「モーセはパロの娘の子と呼ばれることを拒み、神の民とともに苦しむことを選び取りました。」
 神の民とともに苦しむことをしないで、台風から逃げ出すようにして出てきた自分に後ろめたさがつきまとってきました。 
 失ったことで苦しんでおられる方々のために、そして、苦しんでおられる人々と共に苦しむことを選ばれた現地の奉仕者の方々のために、続いて祈ろうと思いました。

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