週刊 生活の中の洞察 聖書から教え

2017年6月、妻が乳がんの宣告を受け、8月に自分の人生を完結して地上の生涯を終えました。その後の生活についてです。

全体表示

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

絶望がない人生

○○○ 絶望がない人生 ○○○             
信徒の友に載っていた宝田あいの証しです。
 「宝田あいのお嬢さんが山本書店の山本七平の奥さん。山本七平は結婚した当時貧しくて自分の家の四畳半1間を山本書店として地味な本を出版していた。10年位してようやく1軒の家を借りて今まで預けていた本を収納することができた。ところが、その3日後に漏電による火災でいっさいの物が焼けてしまった。そのとき、奥さんのお母さんである宝田あいさんが来て娘を抱いて『神様は愛なりよ』と言った。その時はとてもそうは思えなかったが、何か記念になるものがないかと灰の中を探したら1枚の絵が奇跡的に出てきた。それは「希望」と題するジョージ・フレドリック・ウオットの絵だった。一人の女性がたて琴を取って地球の上に腰掛けている。彼女は目かくしてされており、一つに星が輝いているがそれを見ることができない。この絵を見たときに彼女はやはり神は愛だ、希望を持たねばならない、1本の糸でも残っていればそれを弾いてみようと思った。私たちには絶望がない。神は絶望するようなことも益としてくださると教えられた。」
 私たちが苦しみにあったときに、先が見えないことが一番の悩みです。目隠しされている状況です。しかし、霊の目を持つと少し希望が見えてきます。一本の弦に気がつくのです。じつは、この苦しみを通して私たちはきよめられるのです。
 苦しみを通して今まで重要だったことが重要でなくなります。これまで誇っていたもの、知恵、強さ、富、行い。苦しみを通してそれらの価値がなくなってくるのです。その先に神の栄光があります。

この記事に

開く コメント(0)

勝利の光栄に酔う生涯

○○○ 勝利の光栄に酔う生涯 ○○○             
 内村鑑三の「ロマ書の研究」5章の解説より
 『喜びをなせりは原語のカウカオマイである。これは英語のrejoice(喜ぶ)、boast(誇る)glory(栄とする)などを意味する語であって、勝ち得てあまりあるところのその勝利を喜ぶという意味である。1節より4節までを反復熟読せよ。信仰生活の特徴は遺憾なくこの数語の中に示されているではないか。これを霊的領得の上より見れば、神と和らぎ恩恵に入り妙なる希望を与えられて勝ち喜ぶ心境であり、これを実際生活の上より見れば、患難にありても、その生むところが忍耐、練達、希望なるがゆえに、勝利の光栄に酔う生涯である。』
 『神を喜べりは神にありて勝ち誇れりの意味である。単に怒りより救いださるるにとどまらず、救われて勝ち誇るに至る。かろうじて救われたのではない。優に救われて、罪と死に勝ち得て余りあるのである。5章の1節〜11節は歓喜と勝利の連続である。』
 内村鑑三のローマ書講演は、大正10年、内村が61歳の時のこと。毎回600人が集いその中には仏教の僧侶もいたといいます。
 彼はしっかりと原語を調べて語っています。日本語訳の「神の栄光を望んで大いに喜んでいます」新改訳、「神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。」口語訳、「神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」新共同訳だけでは伝わりません。内村の解説は、『勝ち得てあまりあるところのその勝利を喜ぶ』『勝ち誇れりの意味である。』患難さえも喜んでいるは『患難にありても、その生むところが忍耐、練達、希望なるがゆえに、勝利の光栄に酔う生涯である』
 私たちの人生は、神を勝ち誇る人生、勝利の光栄に酔う生涯であることを喜びたいと思います。

この記事に

開く コメント(0)

赦しと監獄 

イメージ 1

○○○ 赦しと監獄 ○○○   (高槻で行われたニューイヤーフェスティバルでの茶席の奉仕者です      聖書に赦しと監獄の話があります。
 マタイの福音書 18 章で王がしもべと精算をすることになりました。何万年分の労賃の借りのあるしもべが連れてこらえました。王はかわいそうに思って赦しました。ところが、赦されたしもべはたった100デナリを貸していた人を赦さずに、借金を返すまで牢に投げ入れました。それを聞いた王は怒って今度はしもべを牢に入れました。期限は借金を返すまで。返せないしもべは永遠に牢に入れられることになりました。兄弟を赦さない者にはこのようにされるとイエスは言われました。
 人を赦さないものは、心が監獄に入れられているようなものだといわれます。心が閉じ込められていて体が自由なのに、心が自由になれないのです。忘れられない過去の記憶と傷の監獄のなかに閉じ込められているのです。赦しによって心の監獄から自由になることができます
 人を赦さないとは、心に囚人を見張っている看守のようだともいわれます。囚人がいる限り、看守は自由になれません。いつも監獄の中の囚人を見張っていなければならないのです。そして、赦すことで囚人は解放され、自由になれるのです。
 27年間監獄にいた南アフリカのネルソン・マンデラは大統領になり、その就任式の演壇に自分が入っていた監獄の看守を招きました。彼は「この国は正義よりも癒しを必要としている」「ゆるしこそ恐れを取り除く最強の武器だ」と語り赦しを伝えました。彼を何年も見張っていた看守に、マンデラは毎日従わなければなりませんでした。彼が自由になっても、看守はまだ存在します。看守との和解がマンデラを自由にしたのです。

この記事に

開く コメント(0)

 混乱の中での平安 

イメージ 1

○○ 混乱の中での平安 ○○    (高槻で行われたニューイヤーフェスティバルでの茶席の奉仕者です   
 私たち家族は父が友人の借金の保証人となり、それが払えず金沢から中学2年のときに夜逃げして関東にきました。父は社長からサラリーマンになりました。中途採用なので給料は安く。4畳半一間と台所、共同トイレ、風呂無しのアパートで再スタートでした。
 父は職人で母は寺で育って19才で結婚したので、大学に行くという考えがなく私は工業高校に行きました。
 荒れていた高校で、勉強をしていると後ろからたたかれ、校内では盗みが横行していました。学校のハイキングは県内の工場見学。卒業するとこのラインで働くのかと暗くなりました。夢も希望も持てませんでした。
 その学校にクリスチャンがいて、教会に誘ってくれました。17歳の時です。思い切ってイエス様を信じる祈りをしました。その決心した時、心になんともいえない、説明ができない平安が訪れました。平安がくると将来の希望を持つことができるのです。
 クラスの友人に神を信じると心に平安がくるということを語り始めました。クラスメールが教会に来てくれました。その中で3名の人が洗礼を受けました。
 その平安を説明するために、エレミヤ29章を引用しました.「主の御告げ、それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」
 しかし、このエレミヤ書が書かれたのは、イスラエルの危機の時です。国が滅ぼされて民がバビロンに引かれる中で、神は希望がある、将来があると語っているのです。
 人生の危機のときこそ、主が語られます。主の平安は普通の時に語られたのではなく、不安の真っ只中で、困難の真っ只中で、混乱の真っ只中で語られます。

この記事に

開く コメント(0)

十字架の栄光

イメージ 1

○○○ 十字架の栄光 ○○○             
 長崎で一番心に残っているところは、26聖人記念館です。
 24人のキリシタンは1597年秀吉の命令により、京都で耳をそがれて京の町を引きずり回され長崎に送られ処刑されました。途中で二人加えられて26人になっています。その処刑された場所に祈念碑があります。何度も来ているのに心に響くところなのです。
 彼らは、信仰を捨てると言えば解放されました。役人も最年少のわずか12歳の少年ルドビコ茨木がいるのを見て哀れに思い、「キリシタンの教えを棄てればお前の命を助けてやる」とルドビコに持ちかけました。しかし、彼は「(この世の)つかの間の命と(天国の)永遠の命を取り替えることはできない」と答えました。
 彼らの記念碑を見て、誰もが「ああ処刑されてかわいそうに」とは思いません」「うらやましい」とも思わないでしょう。しかし、誰もが見事だと思うでしょう。見事とは、「見るべき価値のある」という意味です。外側の輝きではなく、神の御心にかなって生きているかが問われます。
 キリストはヨハネ17章の祈りの中で、栄光を現してください、栄光で輝かせて下さいと祈られました。この栄光とは十字架のことを意味しています。
 キリストは本来王の着物を着るべきなのに裸にされ、犯罪人としてむち打たれ、十字架で殺されました。それが栄光だというのです。 
 十字架それは神のご計画、贖い、神のなさる最上のこと、最大の愛の現われなのです。イエス様は遣わされた者として、その使命を十分に果たすことが栄光を現すことだと言われたのです。十字架の上に神の栄光が輝いているのです。私たちは世に遣わされた者としてどのように生きたらいいのでしょう。

この記事に

開く コメント(0)


.


みんなの更新記事