週刊 生活の中の洞察 聖書から教え

62にしても迷っています。生活の中でちょっと立ち止まって教えられた

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お茶のもてなし

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○○○ お茶のもてなし ○○○             
 「おいしい!」「心が落ち着く!」この言葉を聞くために、今年も被災地に行って仮設住宅の集まりでお茶を点てます。私たち日本人はお茶を飲むとどういう訳か落ち着きます。
 お茶を飲むのは、親しい人と話をする時、休憩の一服するときでホッとする時なのでしょう。
 おいしいお茶を点てるために、宇治田原の茶師の谷口さんとの出会ったことが大きなことでした。茶道教室では作法が重視され、どのようにおいしいお茶を入れるかについては重視しない傾向にあります。そこで、お茶を作る専門家から、おいしいお茶をどのように点てるのかを教えてもらいました。
 これまで、被災された方々にお茶をお出しして喜んでもらいました。夏には、抹茶の冷たい冷茶はどの人にも好評です。
 忘れられないのは、漁師さん達がすべてを流された浜辺に集られたときに、どうぞと出した冷茶を、続いて3服飲まれたことです。また、宮古では被災前にお茶教室に行かれていた方が全てを失いました。久しぶりに抹茶を飲まれた時、昔を思い出すかのように遠慮しながら、ゆっくりと3服飲まれました。
 暑い日にイエス様は「わたしに水を飲ませてください。」とサマリヤの女に語りかけられました。それをきっかけに彼女に救いを伝えようとされました。おいしいお茶をもてなすことで、魂の渇きを潤すいのちの水を下さるイエス様をお伝えできるようにと願います。

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言い争わすに

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○○○ 言い争わすに ○○○             
  テモテに宛てたパウロの手紙の、「男は怒ったり、言い争ったりすることなく」の『言い争う』という言葉は、審議する、問題にするという意味があります。
 前東京都知事の問題が大きな話題でした。
 〈毎週、週末に、どこに行っていたのか。 
 災害があったときも別荘に行っていたの
 か。私的なことに公用車を使ったか。家
 族旅行で公費を使ったのか。その家族旅
 行で会議をしたとなると誰としたか〉
 あの審議は都知事を辞めさせるための追求でしかありませんでした。
 さて、私達にその矛先を向けられたらどうでしょうか。誰も太刀打ちできるようなものではありません。
 〈牧師としていつ祈っていたか。何を
 祈っていたか。休みの時はどこにいたの
 か。給与を何に使ったのか。牧師として
 ふさわしい行動をしたのか〉
 これは私だけの問題ではありません。皆さんにも、〈キリスト者として、どれだけ祈っているのか。ふさわしい行動をしているか。お金を貧しい人のために献金をしたか。自分の楽しみだけに使っていないか。時間を有効に使ったか。無駄な時間を浪費していないか。嘘をつかなかったか。意図的な嘘はつかないかもしれないが、間違って言ってしまったことはないか〉
 正しい人は誰もいません。だから、人を追求すると、審議すると、問題にすると答えることができません。政治のこととは別に、私たちの生活の中では、そのようなことは避けるべきことです。その前にむしろ自分が神の前にきよいかどうかをまず反省すべきです。
 イエス様の宣教の中心はなんだったでしょうか。それはイエスの十字架による罪の赦しです。イスラム国は憎しみから始まっています。憎しみからは何もよいものが出てきません。私たちにはキリストの罪の赦しがあります。それは人と人との和解に進むことを可能にします。

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○○○ Tサイト(天国の場所)○○○             
 韓国料理を楽しむ会に、佐野文子さんが出席されました。彼女の料理店に学生達を招いてくれました。佐野さんとツタヤの社長は親しい仲で、社長さんは枚方に来た時には、いつも彼女のお店に来られます。先日、彼女はTBSにも出演されました。
 ツタヤの第一号店が枚方でスタートしたときに、佐野さんがアドバイスをしました。「ただお客様が喜んで満足して下さるように、いつもお客様に自分を合わせるように。」
 そのツタヤが駅前にTサイトを作りました。夜に行くと5階までが本棚が並ぶガラス張りのステキな空間になっています。そこで、コーヒーを飲みながら過ごせるのです。
 佐野さんのビジネスの成功の秘訣は、与えることです。与えれば返ってくるという霊的な法則を持っています。私たち学生たちのチームも招待してくださり、おいしいごちそうを頂きましたが、確かに私たちは佐野さんのために祈りました。そのように、祈られる場所は祝福される訳です。
 さて、学生たちとTサイトを見学した後、危篤になられた田中さんを訪問しました。次の日から三日間、多くの時間を田中さんの病室で過ごしました。人生の終わりに誰か近くにいてくれる人がいないというのは寂しいことですから。
 Tサイトで多くの若者とスタバのコーヒーを飲んでいる時に、とてもいい気分になりました。ここで過ごしたいと思いました。田中さんの病室で買って来たコンビニのコーヒーを飲みながら、ここはステキな場所ではありませんが、とても大切な場所だと感じました。
 どちらも現実ですが、神に近い場所は病室でした。Tサイトにはサービスがありましたが、病室には人々の愛がありました。この田中さんは28日召され、30日親族が誰もいない中、数人の教会員で葬儀をしました。彼女は今、本当のT(天国)サイト(場所)におられます。

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大船に引かれるように

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○○ 大船に引かれるように ○○○    (石巻の仮設、復興住宅で薄茶と点てました。)        山室軍平の祈りに関する言葉を読みました。
「私達は祈祷によって神を説き伏せ、これに自分の思惑/おもわくを行わせるのではなく、かえって祈祷によって自分を神の御心に合致させ、神と一緒になって、その最もよき御旨を行う者となるのである。
 今小舟から大船に縄をかけて引っ張れば、大船は小舟の方にこないで、小舟がかえって大船のほうに引き寄せられる。ちょうどそのように私達は祈祷によって、神を私達の方に引き寄せることができない場合にも、私達が神の方に引き寄せられる。
 私達の祈祷は「主よ、救いたまえ、我らは滅ぶ」と言うことに始まって、「我が意のままにとはあらず、御旨のままになしたまえ」と言うことに終わる。祈祷の極意は私達が全く自分を無くして、神と合致し、一切万事その、おぼし召しのままになり、また、そのおぼし召しのままを行う間にあると言わねばならぬ。」
 私達の祈りは、小舟で大船を引いているような祈りになっていないでしょうか。神に御心よりも自分の思いを通そうとしていないでしょうか。神の御心は神の大船のようなものです。自分の願いを神の御心に変えるようにお願いするのは、小舟で大船を引くようなものです。真の祈りではありません。神の御心を知って神の大船に任せることですが祈りです。小舟で大船を引き寄せるのではなく、そのまま任せて大船に引いてもらうのです。 
 それにしてもまずは縄を大船にかけなければなりません。それが祈りの最初です。日本のことわざに「大船に乗ったつもりで」があります。それは、心配ない、安心だという意味です。「大船に引かれるように」安心して、任せなさいが聖書的です。

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天の父さまと呼べる幸い
 ノートルダム清心学園のシスター渡辺和子さんが、NHKこころの時代〜私の戦後70年で出演されました。彼女は、二・二六事件で、父を目前で殺されました。その父にとどめを刺した陸軍少尉の弟が安田善三郎氏。事件から50年の法要で初対面したことの番組です。それ以来二人が交流を続けています。番組が注目したのは、学園の玄関に飾られている河野進牧師の詩でした。
「天の父さま どんな不幸を吸っても、はく息は感謝でありますように すべては恵みの呼吸ですから」
 河野進牧師は、岡山の教会の牧師でハンセン病施設を訪問する働きをしていました。ある日渡辺さんを訪問してこの詩を渡しました。何かお菓子の入れ物の底に書いたものでした。当時の渡辺さんの言葉です。
 「この詩を手にした当時の私は、多分自分を『不幸』というバイキンのただ中に置かれた不幸いっぱいの人間と考えていたと思います。そんな私に、神は、その人の力に余る試練を与えないこと、不幸に思えることも『恵み』以外の何ものでもないという信頼、また、人間には、吸い込んだ不幸を、感謝に変える力が与えられていることを教える励ましの詩でもありました。」
 詩は『天の父さま』と呼びかけています。この呼びかけが大切です。
 どんな不幸の中にいても天の父さまが見ていて下さること、不幸を感謝に変えて下さること、天の父さまに頼らなければならないことを教えています。
 私達は息をしなければ死んでしまいます。息をしている中でどうしても嫌なことも吸わなければならない時、避けられないものがきます。そのときこそ、天の父さまによって、感謝に変えていくのです。

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