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人の相知る必ずしも対面して
久しく語るに在らず
意(こころ)通ずれば即ち
傾蓋(けいがい)の遇(ぐう)なり
(性霊集)
人の心の本音を知るのには、必ずしも長く
語り合わなければならないという事はありません。
大切なのはお互心が通じ合う事です。
そうすれば、一目見ただけで親しくなれるのです。
時間をかけても、真心を尽くしても、なぜか
安らかでない人間関係が時にはあります。
それは、夫婦でも親子でも、友人知人でもそんな事が
ありますよね。
私も最近そんな経験をしました。きっと心が通じ
合わなかったのだと反省しました。
私たちは、目に見える外見や印象に惑わされて
しまいます。頭で理解できても心に響かない
言葉には意味がないのですね。
私は、誰かとお話しする時は、その方の心に
寄り添うよう心掛けているのですが、難しいものです。
心が通じるとは、同じものを目指し、同じものを
善しと思う事、同じ価値観を持つ、そのような人々に
一人でも多く出会い、暮らし、生きていけることが
人生を豊かに生きる事だと、お大師さまは
おっしゃっているのですね〜
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大師のことば
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コメント(10)
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心に妄念(もうねん)なくして六塵(ろくじん)
に染まらざれば、仏は即ち常に心に在(い)ます
迷いの心から起こる、執念がなくなり、六塵(ろくじん)に
染まらなければ、自分の心は仏さまの心と繋がっていますょ !
六塵とは(色=しき・声=しょう・香=こう・味=み・触=しょく・法=ほう)
視覚 聴覚 嗅覚 味覚 触覚 意識の認識
の五感と意識が認識する対象の事ですが、
その六塵(六種類の認識対象)の本源は、仏さまの身口意の三密の働きなのです。
私たちが認識する世界は、仏さまのお働きに満ちているのです。
私たちは、この六塵の穢れ(けがれ)を浄めるために、正しい教えに従い
三密修行をしているのですが、
お大師さまは、密教も顕教もその他の教えも「声字実相」によらない
ものはない。と述べられこの教えは密教だけに留まらず「一般法則」である
と言われています。
ちょっと難しいかもしれませんが、人は(我)や(煩悩)や(執着)などから
離れることが出来ずに素直になれず、人を恨んだり憎んだり、
また悪い事は人のせいにして
自身を顧みない悪循環の中にどっぷりとつかっていることに気が付かないのです。
だから私たち修行者は、懺悔(反省)滅罪(罪を犯さない)
生善(正しい行い)を修することにより、心と身体と言葉を清める三密行
を修し、蟻地獄から抜け出そうと努力しているのです。
文句や愚痴を言う前に、自分はどうだろう ?
教えに沿った行動や考えをきちんと保って精一杯精進しているだろうか ?
と、立ち止まってゆっくりと考えてみたら何かが見えてくるのではと
思うのです。
心にゆとりがなくては何をしても、上手く行きません。
焦ることはないのです、ゆったりとした仏さまの心に立ち返ってみましょうね。
南無大師遍照金剛・・・合掌
今月は花まつりですょ
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久しぶりに『大師のことば』
夫れ病なき時は即ち薬なし、障り有る時は
即ち教え有り、妙薬は病を悲しんで興り
仏法は、障りを憐れんで顕る。
(秘蔵宝鑰)
私たちは病気の時にはお薬やお医者さまが必要です。
それと同じように、悩みや苦しみがある時こそ、正しい教えが
必要なのです。世の中が生きにくくなって来れば来るほど
それを正して、乗り越える教えが必要であり、人の心が荒れれば
荒れるほど、それを憐れみそれを導き守って行って下さる
仏さまが現れなければならないのです。
お大師さまの開かれた(即身成仏)・(現世浄土)の教えは現実世界と
そこで生きる人々の妙薬ともいえる教えなのです。
お釈迦さまの説法も、現世の苦悩と人間の苦しみを救済する
事に徹して居られ、その時代の人々に接点を求めた
対機説法に四十五年の年月を尽くされたのです。
お大師さまの密教の教えは、一人一人の悩みや問題に応じ、また
その時代性に適合した救済や導きを施すものであり
お大師さまは常に方便(方法)をもって究竟と為すと、おっしゃって
いるのです。それは、病気の人に、あった薬を処方するのと同じで
個々の問題解決を最優先するお大師さまの衆生済度の御こころなのです
それには沢山の教えが必要であり、「秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』
の説く大師の教学は、すべての教法を内包する「十住心」を説き
密教の曼荼羅は、多くの病(身体・心・環境等)を癒すための
仏・菩薩・を現わしめている。そしてこの世が複雑多岐になる程
お大師さまの教えと導きが必要なのです。
だから私は、個々にお話しをする時間を大切にしているのです。
南無大師遍照金剛・・・合掌
道しるべは大切ですね !
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此の菩提心は能く一切諸仏の功徳の法を包蔵するが
故に、若し修証し出現すれば即ち一切の導師となる。
もし本に(もとに)帰すれば即ち是れ蜜厳国土なり
(菩提心論)
お大師さまは菩提心(悟りを求める心) 蜜厳仏国土という結論を
出してしっかりと説明されています。
私たちが住んでいる国土は森や林が失われ、ビルが
立ち並び、谷には橋が架かっているというように
人間の力が自然に加わっていますが、人間だ、自然だと
分けるからいけないのです。どんなに人間の力が
加わろうとも、そこは仏さまが秘密にしかも厳かに
宿っているのです。これを「蜜厳仏国」というのです。
蜜厳仏国はどこにあるのか ? と聞かれたら「住所不定」
と答えるしかありません。それはどこにでもあるから
なのです。これが真言宗の仏国土観だからです。
西方十万憶仏国土と言う必要はないのです。
自分も仏さまと同じ「六大」でできていると言う事が
納得できて、実感がわいた時には即身に成仏しているし
この世そのままが蜜厳の仏国になるというのです。
「蜜」の字が非常に大事なところで、目で見る事が出来る
ものなら「蜜」の字を使う事はないのです。目で見える
物だけを信用するのならば、「蜜」という言葉は必要なく
目で見えないものを見て初めて「蜜」と言う事ななるわけです。
例えば風景は青い松に白い波でなければ美しくないと
思っている限りは蜜厳ではなく、人間を見る場合も顔の
美しさやスタイルは目に見えるので蜜厳ではなく
その奥にある美醜(びしゅう)を超えたものを見るのが
「蜜」だと思うのです。
ですから経典では、蜜厳仏国土は住所不定だと言っているのです。
いつでもどこにでもふっと出るけれども、悪い心で見れば
ふっと消えて行ってしまいます。この関係が『六大所成』なのです。
人間は六大で所成されていると見ますが、現代の言葉で言えば
「個」です。私たちは一人ですから個の世界です。
それに対して六大法身というのは『全』の世界です。
全と個が自分を媒介として、信心を媒介として、一致するのが
宇宙の実態である六大は無碍(むげ)であると言う事です。
本来仏さまは、自分と他人、人間と自然という
区別はしていないのです。
※ この事が理解出来たら
滝行の内容が変わってきますょ !
南無大師遍照金剛・・・合掌
良かったら見て下さいね♪
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