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今日は最初の余談は無しにします。この憤りを私は隠しきれません。今日、臓器移植改正法A案が衆議院を通過した。この日本が暗黒の世界に踏み出すこととなった。今日、日本の議会で脳死を人の死と規定する法案が通過した。そして、人の生きるという権利は失われる。
国家により生きる権利を失わされた人間は、その身体を切り刻まれ残酷な姿で親や家族の元に返ることとなるだろう。その体の中にありとあらゆる臓器はなくなり、魂のない、中身のない木偶人形となる。目玉すら取られ、上下のまぶたはつなげられる。そしてその臓器摘出作業は、人間としての機能を有しているであろう、生きている証拠であるあろう、体温・温もりのあるうちに遂行される。多くの遺族がまだ温かかったと証言しているように、まだ心臓は動き、人として生きる権利を持っている中でだ・・・。
人の死をどう捉えるだろうか。移植が受けられない人の命、脳死だとしてもまだ生きようとしている人の命、この二つを天秤にかけることが出来ようか。出来るはずがない。命の重さは、同じである。同じでなければならない。しかし、このA案は「移植が受けられない人の命」を上位に据えた。温もりのある、命のある、血の通った人間、脳死だとしてもまだ生きようとしている人の命を見捨て、人を殺してまでも生きるというエゴを許してしまった。
子供にもこれは適応される。脳死で生き続けている(成長し続けている)子供たちはA案では死である。髪の毛は伸び、身長は伸び、身体は動き、心臓は動き・・・生きている子供達は臓器がほしい人間のエゴの為に、国家によって法律によって、人の権利、子供の権利、生きる権利を剥奪される。エゴと国家により人権を奪うこの法案を、私は許すことは出来ない。日本の子供達は様々な権利を国家によって奪われている、そして、今や生きる権利さえも奪われた。命の重さに差があるでしょうか?どんな人間にも生きる権利があります。どんな人間もその人生を全うする宿命があります。
野生動物の親は子供が死んだとしても、しばらくはその元からはなれず、寄り添い身体をなめたり、抱いたりします。そして、子供の死を受け入れたとき、その子供の元から離れます。子供の死を認めたくなのだろうか、諦めたくないのであろうか、それでも尚、親として愛情を注ぎ込み、諦めきれない自分の心をいさめているかのように、子供を見つめ続けます。
人も同じだと思います。死んだと分かっていても諦めきれません。そんな中で、まだ存在するその命を諦め切れるでしょうか。臓器の提供は体が生命活動を行っているときにしか物理的に出来ません。つまり、生きているときに手を加えるのです。命ある状態を死として認めることが出来るでしょうか。命ある限り、その人、その子供の人生を全うさせてあげたいという気持ちが心の通った人間です。人の悲しみを踏みにじり、自身だけ助かろうとする行為は、親としての心、人としての心を持っていると言えるでしょうか。仮に、臓器が欲しく、貰い、手術が成功し、何年生きられる保証があるのでしょうか?生き続けるために何人殺すのでしょうか?何故、その人生を全うさせようとしないのか、100歳生きようが、数年だろうが愛情を持って、愛を持って、生きている価値を、生きたという証を与えることが、人ではないでしょうか、それこそが全うするということではないでしょうか。自分だけ助かればいい、自分の子供さえ助かればいいというのであれば、鬼畜にも劣ると糾弾せざるを得ません。そして、痛みの分からないこの国の代議士や国民も人の血が通った人間とは、私には思えませんん。
私達は鬼畜を議員として送り出してしまった。人の死を踏みにじり、人の死を差別し、人の命を軽んじる人間を唯一の立法機関である国会に送り出してしまいました。彼らにはその資格は無い、人の命を軽んじる人間をけっして認めてはならない。彼らに人の命を語る資格があるだろうか。彼らに政治をやる資格があるだろうか。彼らのような鬼畜が政治家をやっているから、この日本が駄目になる。
今まで人としてこのことを語ってきました。勿論これからも人として書きたいと思います。ここからは、この法案の弊害についても言及したいと思います。私は文系なので文系からものを見てみたいと思います。
まず第一に、国家による人の死の認定です。国による死の認定、すなわち、脳死を人の死と認めることは、法律で憲法の言う人権、つまり、生きる権利を奪うということです。法律は本来何のために存在しているでしょうか。それは、国民の人権を国家からの横暴から守るためであり、国民同士の権利侵害を最小限に防ぐという観点です。その本来の趣旨を考えたとき、この法案は憲法違反であると考えます。人の生きる権利、生存権(もっとも遵守される権利)を人から奪う行為を憲法違反といわないで、どういえばいいか分かりません。それだけでなく、法的に死として認定されれば延命治療を受ける権利すら、医療保険すら受ける権利すらなくなってしまいます。死んでしまえば、法律上ただの物体になってしまいます。人として熱があったとしても、ただの物体です。
第二に、その所有権です。臓器の提供をしたとき、その臓器の所有権はどこにあるのでしょう。つまり、臓器を提供する側が、臓器という財産を譲渡するとき、その摘出にかかる費用、その臓器を今まで大きくしてきた(生々しい話でごめんなさい)経費に対する報酬はどうするのでしょうか。摘出するのに、提供者が費用まで負担するのでしょうか。それとも、提供される側が費用を負担するのでしょうか。そして、いつの次点で、臓器の所有権が移るのでしょうか。その明確な基準はありません。もし、臓器が家族のものであるとするならば、いつでも、返してもらうことが出来るはずです。まさに、移植しようとしている時であってもです。
なぜ、このことを問題視しているかというと、摘出に費用を払うということは、売買を成立させる可能性をはらんでいるからです。なぜなら、財産、財を提供するということはそれ相応の対価が必要となってくるからです。摘出の費用を出すことは、その財を取り出すという費用を支払うという行為になり、摘出費用がその臓器の値段ということになると考えます。つまり、売買が成立する。売買が起こるということになるでしょう。皆さん、現実的に、「数百万円あげるので私に臓器を優先的に下さい」と言われたらどうしますか?謝礼が無い者と謝礼を数百万円してくれる者とどちらを選びますか?誰もが考えられることです。そして、現実に外国ではビジネスとして成立しています。
この国には臓器売買を禁止する法律はありません。あったとしても、闇で起きるでしょう。途上国では、貧困を解消するため、腎臓が一つしかない人、胃がない人などが多数存在しています。子供の時に摘出されるものも存在します。臓器移植とはそのようにして、人身売買の種を作り上げています。先進国の人間がその安い臓器を買いに行っています。勿論、日本人も買いに行っています。勿論、脳死でなくなった方の移植は違うという馬鹿もいるでしょうが。同じことです。病院に袖の下を払って順番を変えてもらえばいいだけのことですから。
第三に、人殺しの材料に使われる可能性があるということです。疎ましい子供を転落したと見せかけ手にかけたとします。うっとおしい子供は脳死です。さあどうしますか?入院費用すら出したくない、親にとっては格好の始末の理由として、臓器移植が使われることになると考えます。それだけではありません。愛情がなくなった子供を金儲けの材料として使うという可能性すらはらんでいます。報酬をもらえるならたとえ火の中水の中です。拝金主義の日本では起こりうることだと私は考えます。脳死を人の死とすることは、罰則のない人殺しを容易に、自身でなく他者によって行うことが出来るという人道的にも、法的にもあってはならない事態を生み出します。
それだけではありません。脳死状態の子供を抱え、一生懸命生きて、一生懸命育てている親が恐怖を感じるでしょう、差別を感じるでしょう。いつ子供の命を奪われるのかと思うといても経ってもいられません。移植を受けたい方にとっては早く、楽になって臓器を提供してよという気持ちにもなりるでしょう。人としての心は奪われ、恐怖を生み出すだけです。
最後に、今まで、人の心や現実論を語ってきました。人の心を持って、現実を見ることが大切です。現実論から言えば、先ほど記載したことは、世界で起こっています。そして、臓器移植は行われています。一人のエゴが、途上国での人身売買を、貧富の差を生み出していることも事実でしょう。勿論、宗教の違いなどで移植の是非についての解釈が違ってくると思います。しかし、何でもありな外国でさえ、今や再生医療に重点を置いています。それは、この移植というものが治療ではなく、単なる個人のエゴであり、人道的におかしなことに気がついたかもしれません。
日本人として、人としてこの問題を考えるべきだと思います。私達は外国とは違います。日本の歴史・伝統、そして、宗教など様々なものを鑑みて、この国に即した法律を作ることが大切です。人の死を尊び、人の命を重んじ、宿命を悟り、家族を大切にし、人を愛し生きてきたこの日本の心を考えたとき、臓器移植という、犠牲者を生み出す行為が真っ当であるといえるでしょうか。私はそうは思いません。私は、現実よりも心を重んじます。人の命を重んじます。理想を語らなければ現実はよくなりません。理想がなければ現実を変えることは出来ません。人の命は地球より重い、それを、エゴイストは自覚するべきです。臓器移植法案自体を即刻廃止すべきだと考えます。
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