広島人の日記

広島人の過ごし方や考えたことを紹介(過去の日記も読んでみてください!)

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 今日はラグビーの試合をしてきました。このくそ暑い中、やってきました。暑いと、どうして、まぁー走れませんよ。どんどん体力を奪われていきます。しかし、まだまだ、僕は若いので(チームの中では・・・)やるしかないのでひたすら走りました。疲れたー。でも、やめられないっす。



 さて、今日はエコポイントについて思ったことを書きたいと思います。きっかけは今日の試合の帰りに、六本木を車で移動しているときに、東京タワーを見たことです。2011年の地上デジタル放送移行で地上アナログテレビが見れなくなるといいます。その放送網を担うのが、この東京タワーと高層ビルによる障害を無くすために作られる東京スカイツリーです。東京タワーは試験放送から地上アナログテレビの放送を担い続けていました。その東京タワーを眺めていると、ふと、今の地上デジタル対応のテレビを連想しました。

 地デジ対応テレビを売り出すための商戦が続く中、エコポイントの有用性とエコポイントの存在について考えました。

 エコポイントは、エコ商品を買うという動機となってます。勿論、マスコミが云うように、制度や何にポイントを還元するのかも決まらぬまま、エコポイントという文字が躍り、そして、私たちを煽りました。財源と制度が先行し何がしたいのか、ただのバラまきではないかと言う批判が多くあります。確かにその通りだと私も思います。その批判を受け、政府はお米券やクオカードなどに換えられるというものを打ち出してきました(確か、ポイント還元の対価はまだ決まってないと思いますが・・・)。

 これに便乗して、各種電気店は自社のポイントとエコポイントを上乗せし、エコ商品と題するものを売ろうと躍起になっています。勿論、その中で地上デジタル対応テレビは主力商品であり、各種メーカーは様々な商品を打ち出してきました。

 ただ、ここで問題になってくるのは、個人商店と大型商店の差がこのエコポイント商戦によって大きな影を落しています。個人商店でもエコポイントは受けることができるという周知があまり出来ていないのか、大型量販店に消費者が集中し、個人商店の客までも取り込んでいるというのです。個人商店はその資金力を考えて、大型店に料金的にも宣伝力も劣ってしまうのは事実です。しかし、それをサービスや親切さなどでその差を埋めていました。

 しかし、今回の報道では多くの大型店の商戦に焦点を当てていることが多く、まるで、エコポイントはそのような大型量販店でしか受けることができないという錯覚を与えてしまっている状態です。勿論それだけでありません。このエコポイントは、ある意味、小規模商店ではなく、大型店を援助するためにやっている節があるように感じます。

 ポイントという文化(?)は往々にして大型量販店です。つまり、ポイント=ポイントカードがあるお店(大型量販店)という連想を起こすことは、誰でも創造できることだと思います。つまり、自民、公明はそれらの大型量販店の意向を汲んでこのサービスを打ち出したものであり、それは、大型店のみを儲けさせる為に行う、ばら撒きであるとしか思えません。ある業界一位の○田電気の社長は公○党(つまりS学会です)このことを考えても、定額給付金と共にそこに私的な思惑があった可能性が・・・です。

 この政策は、景気刺激ではなく、弱者切捨ての政策でしかありません。なぜなら、エコポイントで儲かる大型量販店はエコポイントだけでなく自社のポイントを上乗せすることで、また、そのお店に来てもらうことができます。つまり、今後もまた、個人商店には行かなくなるということです。私たちの地元の電気屋がなくなって行くのを見かけることはありませんか?見かけることがあると思いますし、今から増えると思います。

 今述べてきたように、それでなくても広がってきた、個人商店と大型量販店の格差はより広がるはずです。しかし、私はそのことよりも、この政策は単なるバラまきであり、更なる格差を生み出して行くと思います。それは、これらなエコ商品とされる物の値段をよく考えたとき、買える値段でしょうか?少なくとも私の家では買えません。テレビに7,8万円をかけれるでしょうか?このご時勢できません。つまり、お金があるものに対する還元であって、無い者はそのエコポイントの恩恵を受けることさえできません。

 商品にかかるエコポイントもその証拠です。テレビの大きさが大きくなるほどエコポイントが大きくなります。つまり、より高いTVを買うものに、より還元する。それは、はっきり云って金持ち優遇政策の何ものでもありません。僕の税金はその金持ちのために使われ、僕らのためには使われません。母子加算の問題しかり(僕は母子加算より老齢加算を止めたことの方が問題であると思っていますが)、消費税の問題しかり、年金の問題しかり、むしろ手厚くする必要があるものは削られ、そんな、金持ち加算を繰り返しています。政治は経済活動で生まれた弱者を救済するために存在しているはずですが、この国ではそのような機能は一切持ち合わせていません。

 さらに、エコポイントはエコ商品に古いものを買い換えることによって電気や環境にやさしいものを日常から行うという目的があると聞きますが。商品を製造するときに出る二酸化炭素、製品を分解するときに必要な熱量、工場を稼動するときに必要な電気代などその生産活動や製造活動で起きうるエネルギーの消費を計算せずに行っていると共に、リサイクルということを逸脱し、ただの企業優遇政策となっていることに気づきながら、それをおこなう矛盾をひた隠しにし続けています。新しく買い換えると言うことはリサイクルではなく、ゴミを生み出し自然の破壊を繰り返すことになります。

 金持ちのエゴポイントになってはいまいか。私はなっていると考えます。この政策をおこなっても儲かるのは一時的であって、日本の製造業の衰退を免れることは出来ないでしょう。今、氾濫した物は買い控えられ、既存のものを長持ちさせることが主流となりつつあります。物が高すぎます。家賃が高すぎます。食料品が高すぎます。この国に希望はあるのでしょうか。この国の政治は何をしてきたのでしょうか。疑問だらけです。どうしていいか分かりません。打破することは、おそらく経済成長のほとんどない中で、自分達が質素倹約し、暮らして行くことが必要となってくると思います。給料が低くても食べていける世の中を作る必要があると思います。私は思うのは、経済成長を望むのではなく(望めない!)如何にコストを抑え、如何に工夫して行くかで勝負、生きて行くしか日本の道はないと私は考えます。

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 今日は最初の余談は無しにします。この憤りを私は隠しきれません。今日、臓器移植改正法A案が衆議院を通過した。この日本が暗黒の世界に踏み出すこととなった。今日、日本の議会で脳死を人の死と規定する法案が通過した。そして、人の生きるという権利は失われる。

 国家により生きる権利を失わされた人間は、その身体を切り刻まれ残酷な姿で親や家族の元に返ることとなるだろう。その体の中にありとあらゆる臓器はなくなり、魂のない、中身のない木偶人形となる。目玉すら取られ、上下のまぶたはつなげられる。そしてその臓器摘出作業は、人間としての機能を有しているであろう、生きている証拠であるあろう、体温・温もりのあるうちに遂行される。多くの遺族がまだ温かかったと証言しているように、まだ心臓は動き、人として生きる権利を持っている中でだ・・・。

 人の死をどう捉えるだろうか。移植が受けられない人の命、脳死だとしてもまだ生きようとしている人の命、この二つを天秤にかけることが出来ようか。出来るはずがない。命の重さは、同じである。同じでなければならない。しかし、このA案は「移植が受けられない人の命」を上位に据えた。温もりのある、命のある、血の通った人間、脳死だとしてもまだ生きようとしている人の命を見捨て、人を殺してまでも生きるというエゴを許してしまった。

 子供にもこれは適応される。脳死で生き続けている(成長し続けている)子供たちはA案では死である。髪の毛は伸び、身長は伸び、身体は動き、心臓は動き・・・生きている子供達は臓器がほしい人間のエゴの為に、国家によって法律によって、人の権利、子供の権利、生きる権利を剥奪される。エゴと国家により人権を奪うこの法案を、私は許すことは出来ない。日本の子供達は様々な権利を国家によって奪われている、そして、今や生きる権利さえも奪われた。命の重さに差があるでしょうか?どんな人間にも生きる権利があります。どんな人間もその人生を全うする宿命があります。

 野生動物の親は子供が死んだとしても、しばらくはその元からはなれず、寄り添い身体をなめたり、抱いたりします。そして、子供の死を受け入れたとき、その子供の元から離れます。子供の死を認めたくなのだろうか、諦めたくないのであろうか、それでも尚、親として愛情を注ぎ込み、諦めきれない自分の心をいさめているかのように、子供を見つめ続けます。

 人も同じだと思います。死んだと分かっていても諦めきれません。そんな中で、まだ存在するその命を諦め切れるでしょうか。臓器の提供は体が生命活動を行っているときにしか物理的に出来ません。つまり、生きているときに手を加えるのです。命ある状態を死として認めることが出来るでしょうか。命ある限り、その人、その子供の人生を全うさせてあげたいという気持ちが心の通った人間です。人の悲しみを踏みにじり、自身だけ助かろうとする行為は、親としての心、人としての心を持っていると言えるでしょうか。仮に、臓器が欲しく、貰い、手術が成功し、何年生きられる保証があるのでしょうか?生き続けるために何人殺すのでしょうか?何故、その人生を全うさせようとしないのか、100歳生きようが、数年だろうが愛情を持って、愛を持って、生きている価値を、生きたという証を与えることが、人ではないでしょうか、それこそが全うするということではないでしょうか。自分だけ助かればいい、自分の子供さえ助かればいいというのであれば、鬼畜にも劣ると糾弾せざるを得ません。そして、痛みの分からないこの国の代議士や国民も人の血が通った人間とは、私には思えませんん。

 私達は鬼畜を議員として送り出してしまった。人の死を踏みにじり、人の死を差別し、人の命を軽んじる人間を唯一の立法機関である国会に送り出してしまいました。彼らにはその資格は無い、人の命を軽んじる人間をけっして認めてはならない。彼らに人の命を語る資格があるだろうか。彼らに政治をやる資格があるだろうか。彼らのような鬼畜が政治家をやっているから、この日本が駄目になる。

 今まで人としてこのことを語ってきました。勿論これからも人として書きたいと思います。ここからは、この法案の弊害についても言及したいと思います。私は文系なので文系からものを見てみたいと思います。

 まず第一に、国家による人の死の認定です。国による死の認定、すなわち、脳死を人の死と認めることは、法律で憲法の言う人権、つまり、生きる権利を奪うということです。法律は本来何のために存在しているでしょうか。それは、国民の人権を国家からの横暴から守るためであり、国民同士の権利侵害を最小限に防ぐという観点です。その本来の趣旨を考えたとき、この法案は憲法違反であると考えます。人の生きる権利、生存権(もっとも遵守される権利)を人から奪う行為を憲法違反といわないで、どういえばいいか分かりません。それだけでなく、法的に死として認定されれば延命治療を受ける権利すら、医療保険すら受ける権利すらなくなってしまいます。死んでしまえば、法律上ただの物体になってしまいます。人として熱があったとしても、ただの物体です。

 第二に、その所有権です。臓器の提供をしたとき、その臓器の所有権はどこにあるのでしょう。つまり、臓器を提供する側が、臓器という財産を譲渡するとき、その摘出にかかる費用、その臓器を今まで大きくしてきた(生々しい話でごめんなさい)経費に対する報酬はどうするのでしょうか。摘出するのに、提供者が費用まで負担するのでしょうか。それとも、提供される側が費用を負担するのでしょうか。そして、いつの次点で、臓器の所有権が移るのでしょうか。その明確な基準はありません。もし、臓器が家族のものであるとするならば、いつでも、返してもらうことが出来るはずです。まさに、移植しようとしている時であってもです。

 なぜ、このことを問題視しているかというと、摘出に費用を払うということは、売買を成立させる可能性をはらんでいるからです。なぜなら、財産、財を提供するということはそれ相応の対価が必要となってくるからです。摘出の費用を出すことは、その財を取り出すという費用を支払うという行為になり、摘出費用がその臓器の値段ということになると考えます。つまり、売買が成立する。売買が起こるということになるでしょう。皆さん、現実的に、「数百万円あげるので私に臓器を優先的に下さい」と言われたらどうしますか?謝礼が無い者と謝礼を数百万円してくれる者とどちらを選びますか?誰もが考えられることです。そして、現実に外国ではビジネスとして成立しています。

 この国には臓器売買を禁止する法律はありません。あったとしても、闇で起きるでしょう。途上国では、貧困を解消するため、腎臓が一つしかない人、胃がない人などが多数存在しています。子供の時に摘出されるものも存在します。臓器移植とはそのようにして、人身売買の種を作り上げています。先進国の人間がその安い臓器を買いに行っています。勿論、日本人も買いに行っています。勿論、脳死でなくなった方の移植は違うという馬鹿もいるでしょうが。同じことです。病院に袖の下を払って順番を変えてもらえばいいだけのことですから。

 第三に、人殺しの材料に使われる可能性があるということです。疎ましい子供を転落したと見せかけ手にかけたとします。うっとおしい子供は脳死です。さあどうしますか?入院費用すら出したくない、親にとっては格好の始末の理由として、臓器移植が使われることになると考えます。それだけではありません。愛情がなくなった子供を金儲けの材料として使うという可能性すらはらんでいます。報酬をもらえるならたとえ火の中水の中です。拝金主義の日本では起こりうることだと私は考えます。脳死を人の死とすることは、罰則のない人殺しを容易に、自身でなく他者によって行うことが出来るという人道的にも、法的にもあってはならない事態を生み出します。

 それだけではありません。脳死状態の子供を抱え、一生懸命生きて、一生懸命育てている親が恐怖を感じるでしょう、差別を感じるでしょう。いつ子供の命を奪われるのかと思うといても経ってもいられません。移植を受けたい方にとっては早く、楽になって臓器を提供してよという気持ちにもなりるでしょう。人としての心は奪われ、恐怖を生み出すだけです。

 最後に、今まで、人の心や現実論を語ってきました。人の心を持って、現実を見ることが大切です。現実論から言えば、先ほど記載したことは、世界で起こっています。そして、臓器移植は行われています。一人のエゴが、途上国での人身売買を、貧富の差を生み出していることも事実でしょう。勿論、宗教の違いなどで移植の是非についての解釈が違ってくると思います。しかし、何でもありな外国でさえ、今や再生医療に重点を置いています。それは、この移植というものが治療ではなく、単なる個人のエゴであり、人道的におかしなことに気がついたかもしれません。

 日本人として、人としてこの問題を考えるべきだと思います。私達は外国とは違います。日本の歴史・伝統、そして、宗教など様々なものを鑑みて、この国に即した法律を作ることが大切です。人の死を尊び、人の命を重んじ、宿命を悟り、家族を大切にし、人を愛し生きてきたこの日本の心を考えたとき、臓器移植という、犠牲者を生み出す行為が真っ当であるといえるでしょうか。私はそうは思いません。私は、現実よりも心を重んじます。人の命を重んじます。理想を語らなければ現実はよくなりません。理想がなければ現実を変えることは出来ません。人の命は地球より重い、それを、エゴイストは自覚するべきです。臓器移植法案自体を即刻廃止すべきだと考えます。

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昨日は、元棋士の方と食事に行きました。棋士というのは四段以上からがプロになるそうです。毎年30人くらいが難しい試験を受け棋士の養成所みたいなところに入り、4人がプロの道を歩むことが出来るそうです。日本にいるプロの棋士は全国で100人超、すごい、その中の一人(数年前にやめたそうですが・・・)とお会いし、ご飯をご馳走になったと思うと、なかなか貴重な体験だったと思います。

 その棋士の方にファミレスに連れて行ってもらいました。なかなか庶民的!!Coco'sというファミレスに初めて行きました。まずくはないがやはりファミレス、たいしたことがない。それもランチでも割りに高いです。僕は結構体格が良いので気を使ってくれたのか、二つ頼んでいいよと言われ、日替わりランチ(ライス大盛、ハンバーグと魚のフライ、サラダ、スープ)とパスタセット(パスタ、サラダ、コーヒーゼリー)を食べてしまいました。こんな不況な時期に景気の良い話しですが、まあ、ファミレスごときではそれぐらい食べないと満足できません。おそらく量もも少ないのだろうと思います。最近、ファミレスも安くなったとはいえ、やっぱり割りに高いですねー。安いという風潮に(僕が洗脳されているだけかもしれませんが・・・)、騙されないようにしないといけませんね。




 では本題に入りましょう

 私はNPOの是非について考えることが多々あります。もともとNPOの存在は嫌いでした。しかし、その考えが一変するNPOを私は知りました。それは、自殺者を食い止めるため一人の人間が作り出したNPOです。そのNPOの運営はだんご屋の経営と少しの寄付、そして本人の貯金です(今はどうなってるのか分かりません)。彼は自殺しようとするものを見回りし、いたら声をかけ、そのだんご屋に連れて行き、団子をご馳走しながら様々な相談や手配をしてくれるといった活動をしています。元々警察官で様々な人の死を見てきたことから、自殺を食い止めようと思ったそうです。このNPOは年間50人の人を救っています。このことはテレビで知りました。私自身はテレビのニュースやドキュメントをあまり信じません。そして、NPOは嫌いでした。しかし、彼の出で立ちを見ればなんとなく、その思いが分かります。

 NPOも捨てたもんじゃないと思っていたのですが、やはり、そのおかしさをよく感じます。つまり、まともなNPOとそうではないNPOが存在し、やはり、ほとんどのNPOが後者だということを私は感じて成りません。

 一昨日、TBSにおいてドキュメントが放送され、その中にもNPOが出てきました。生活保護受給者を無料低額宿泊所に住まわせ月8〜9万円を食費・住居費などで生活保護費から天引きし、三万円のお金を自由なお金として居住者に渡すといった事業を、NPOが運営している。そして、その施設を、政府や自治体が活用しているという。

 やくざ関係の方がそのような施設を作り運営しているということをよく耳にしますが、それを、合法的に日本では行うことが出来るということです。ドキュメントの中で、良心的はNPOはもっと安く、金銭的身体的自由を与えている団体で様々な支援をしているといった報道もしていました。その、NPOでは借り上げ住宅を生活保護受給者に四〜七万円くらいで貸し出し、後のお金は受給者自身で使えるようにとするというものでした。前者に比べれば良心的にも思えます。

 しかし、NPOの職員の服装とスタッフの数を、そして、彼らが何を持って生きているかを考えたとき、彼らが不幸な人々を、福祉を、食いものとし生きているという現実を考えざるを得ません。彼らは、こぎれいな格好をし、肌もきれいで、ちゃんとご飯を食べているのでしょうプックリとしている。そこに善意を感じることが出来るでしょうか。私には出来ませんでした。

 確かに良い団体もあると思います。しかし、今の制度では非営利団体とは名ばかりの本来の目的ではなく隠された目的を図るための団体を容易に作り出すことが可能です。それによって様々なNPOが作り出されています。ある宗教団体の者が運営するNPOは貧困を助けるという表の目的を掲げていても、その裏にあるものは信者を増やすという宗教団体の目的を、人の弱みに付け込むという形で遂行しています。

 彼らは、テレビで堂々と善意な行動をしているというアピールをし、メディア(ドキュメントなど)によって存在を正当化する。私に言わせれば、彼らの行動は人を騙す行為である。そして、多くの人々が騙されてしまっているというのが、この日本の裏に隠された悪しきNPOの実態であると考える。

 この拝金主義の日本では、本来、あるべき団体の様相は変わってしまった。NPOは偽善者と格差、人の上下関係を作り出した。特によく話題になっている貧困救済を目的としたNPO、私の言う悪しきNPOの最たるものだと考える。なぜなら、人間の格差をもっとも作り出している団体だからである。NPOが偽善の顔を持って困窮者を助け、NPOに助けてもらったものが、貧困に苦しむものを救済する。一見して素晴らしいことかもしれない。しかし、私には単なる私は貧困から逃れた勝者である目線から、困窮者に向けて施しを与えるという立場であるという、立場上の格差、上から目線を作り出しているようにしか思えない。この目線の格差がスパイラルを起こしている。

 NPOが何を救えることが出来るであろうか。一時的な貧困を救済し、一時的な満足を与えることで、NPOの存続の口実を作り上げる。そしてその目的を遂行するための道具として、生活困窮者を扱っているようにしか、私には思えない。本を書き、テレビに出演し、デモ活動をし、炊き出しをする。すべてが拝金主義、NPOにはあってはならない儲けに繋がっている。

 本当のNPOと悪しきNPOを見分けるのは確かに難しい。私達に入ってくる情報も少ない。しかし、私の町でも猛威を振るっているように、NPOは実はその存続を図るために儲けなければやっていけない。つまり、その目的のみが一人歩きし、その裏に隠された儲け主義は表には出てこないでいるということだ。私の町ではNPOに生涯学習などを任せた結果、私達の学習の場であり憩いの場であった古きよきカルチャーセンターは、単なる天下り先とNPOの経済活動の場と成り下がった。

 拝金主義の日本ではNPO、その他の団体の成長はなされないであろう。NPO・団体は自己の権利のみを追い求め、その、社会的な影響力、自身が利益を得ることで他者が不利益をこうむるという社会関係・社会扶助の考えはそこに存在しないからである。自分が食べて行くために貧困者を使う。自分が食べて行くために、善意を訴える。単なる偽善である。今の日本には偽善が多すぎる。

 「武士は食わねど高楊枝」 志があるなら、自己の仕事とは別にその団体の活動にいそしむべきである。偽善で飯を食うな。NPOで飯を食うな。人の不幸で飯を食うな。本当の善意は利益がなくても、食べていけるという中で生まれるはずである。そうでなければ、そこに大義名分はない。

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 ブログの更新をサボっているミッキーです。もう耐えられません。この怒りを、このブログに記します。

 今、私は睡眠不足です。なぜかというと、公共事業なんでしょう。家の前の道路を夜から朝にかけて、ずーーーーと工事をし、重機の動く音、穴を掘る音、アスファルトを固める音、アスファルトを壊す音、工事人の怒号・・・

 寝れません・・・もう三日になります。睡眠不足で仕事はやる気をなくすわ、頭いたいわ、インフルエンザは東京に上陸するわで、もう、勘弁して下さい。




 んでもって、今日5月21日は裁判員制度の始まりの日である。

 私はこの制度に反対だ。それは色々な理由がある。まず第一に、この制度は裁判という制度を単なる、見せ掛けの国民の声と偽るという不可思議な制度であること。次に、国民を馬鹿にした制度であること。

 まずは、理由の一つの見せ掛けの制度というものであるというものは、裁判という過程を簡素化し、裁判員に見えない裁判の公開という最大の国民の権利を愚弄する。

 公判前の公開はなされず、裁判官や検事によって入念に作り上げられた、裁判という劇場を私達は見せられることになる。その劇場は私達を裁判官と共に先導し裁判という公平公正なものを、難なく不可思議なものに陥れられる。

 それも、取調べの可視化や証拠の公開などを行うことはなく。単に重罪を裁くという重い十字架をも私達に背負わすものとなるであろう。国の不正にメスをいっれるべく、行政裁判という制度を作ることのほうがよっぽど、国民の為になると考えるのは私だけであろうか。

 警察が証拠を捏造することは無いと考える方もいるであろうが、私は警察の捏造によってもう少しで犯罪者になりそうになった人を知っている。冤罪がどんなにずさんな操作や恣意的な証拠の操作で発生し何人もの人がその貴重な人生の歳月を奪われていることは周知の事実である。

 そんなずさんな裁判をやり冤罪を作り出した検事が、弁護士となってテレビに出て一世を風靡している確か、住田裕子(行列が出来る・・・出演)という名前だったか・・・草加事件と聞けばピンとくる方も多くいるであろう。

 さらに、もう一つの理由は、国民を馬鹿にしているという点である。裁判員制度で私達が判決を下すのは下級審であり、単なる、通過点であり。検察としては、次でいい証拠を出せば何の問題もない。

 裁判とは、公正なものであらねばならん。なぜなら、私達を救うための最後の要であるからである。様々な不当事項について私達は当事者であれば裁判を起こすことが出来る。

 しかし、私は裁判の乱用には反対である。なぜなら、本来、訴えられるべきでない者が、激しい費用の必要な裁判を行わなければならなくなる。勿論弁護士費用は持ち出しである。今の体制は金があるものが勝つ可能性を秘めているという状態は、事実である。

 裁判とは最後の門番であり、私達の人権や財産を死守するために存在するべきものだと私は考えている。法律という最低限の中で私達は社会を形成している。しかし、その裁判が、政府の犬とかし、単なる権力を国民に見せ付けるだけの存在となっている。

 今の重罰かもその一つであり、行政に対する裁判や大企業に対する裁判、大病院に対する裁判が不可思議であることがその証拠である。権力負ける裁判官の下で、国民に対して公平と公正を訴えることが出来るであろうか。甚だ疑問である。

 最後に、最高裁の判事を行政府から任命することに私は疑問に思う。


裁判員制度に向けて付けられた、壁掛けテレビなどのものがパナソニックが目立つのは何故だろうか・・・後、モニター(裁判官や検事・弁護士などの前にある白いやつ)のメーカーの筆頭出資者の一つに三井住友銀行が入っていた・・・のは何故だろう。うーーーん、何でだろう。

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