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この世は目に見えないものばかりだ。目に見えるものでも、ただ体で感じられるものでも、近すぎると見えなかったり、遠くに来てその大切さに初めて気づいたり。
これは近くに来過ぎて起きた『後悔』の物語である。
22歳女・フリーター。都心在住。彼氏アリ。毎日は平和で幸せなようでもあり、死にそうなくらい退屈でもあった。
ここ最近同じくフリーターだった彼氏の就職が決まり、彼は毎日に充実していて、お互い会える日は前よりも減ってしまったけど、そんな彼を輝かしく誇らしく思えた。
ただ、私の中で何かが変わった。
今でも彼のことを愛していると思うし、不満なんて無い気がする。でも、彼と私はもう同じ『枠』にはいないことに気がついた。彼は今までつるんでいた仲間ともあまりいなくなったし、今まで属していた『グループ』とは違う世界にいるようになった。
私は今までやっていたファーストフードのバイトを辞め、近所にできたもっと割りのいいレストランのバイトを始めた。
彼と会える日が減ったせいか。私は寂しくならないように、バイトを毎日ぎゅうぎゅうに詰め込んだ。「寂しい」なんて言えなかった。こんな弱さを見せちゃいけない気がしたから。
バイトは人間関係にも恵まれ、店長もいい人で、友達もすぐできた。特に同年代だったN子と調理担当のTとRとは帰りに飲みにいったりもした。
四人ともすごい気があって、バカみたいな話もたくさんできたし、一緒にいると気がまぎれた。ずっとこういう男女の友情っていうのにも憧れていたから、毎日が楽しかった。
そんなある日、私は変な夢を見た。
Tと抱き合ってキスをする夢だった。
私は彼氏のことを愛しているし、不満も無い。でも、毎日が退屈だった。
それから、私はTとキスをする想像を、ときどきするようになった。別に恋心を抱いているわけじゃない。ただ、別にTとならできると思った。きっと楽しいと思った。付き合いたいとか、全然そういう欲求は無い。だって、今の彼氏の替わりになれるほどじゃないって、わかっていたから。
その想像を始めてから、Tとするギリギリの掛け合いが楽しかった。まるで花火が打ちあがる直前のような高揚感。
7月11日はRの誕生日だった。Rは彼女と別れたばっかりだったし、N子とTと私で一緒に誕生日会をしようということになった。一人暮らしをしていたRのアパートに集まり、私たちは飲み会を始めた。私たちはいつも以上にハイテンションで、酒の量もいつもよりも多かった。
Tと私の距離も、いつもよりも近かった。
夜中の2時を過ぎた頃、N子とRが飲みつぶれて寝だした。Tもグデグデで、私はトイレに行こうとその場を離れた。
しばらく便座に座って一息ついていた。ちょっと今夜は飲みすぎた。少し気持ちを入れ替えなければと思っていた。
トントンとノックをされ、私はトイレから出た。
「あれ、やっぱり入ってたか。どこ行ったのかと思ったから。」少し目をしょぼしょぼさせたTが、そこに立っていた。
部屋に戻ろうとして歩き出したら、突然後ろを向いたTとぶつかった。
口から「ごめん」の言葉が出そうで出なかった。Tの顔は私の顔にすごく近くて、今にも唇が触れてしまいそうだった。でももうどうにでもなってしまいたかった。
でも、唇が触れた瞬間、どこかで何かが壊れる音が聞こえた気がした。
私は驚いてすぐに離れ、少し気持ちを落ち着かせた。
何かが壊れる音は、私の胸の中から聞こえたんだって気づいた。
私とTとの間には、一つのラインがあった。いつもいつも、そのラインの向こうには何があるんだろうというワクワク感があった。まるでクリスマスの朝のように。
近づきすぎて、私はそのラインがどこにあるのか見失っていた。そのラインを超えてしまった時、ラインの前にあったすべてのものが一瞬にして崩れ去った。まるで踏み場を失ったかのように。私はもう、このラインの前に戻ることはできないんだって気づいた。
私とTは付き合わなかった。それ以降も何もなかったし、私は彼氏にも言わなかった。
私の中でのキスの罪は、あまりにも重すぎた。これから一生、私はこの罪を背負って生きていくんだ、そう心のどこかで悟った。
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