「ガンに抗う」(仮称)」当【みな月句会】会員 計男さんが此の度癌の手術をされ、其の闘病記を投稿されましたので掲載します。
「ガンに抗う」(仮称)「東葛民主文学」44号原稿 林計男
二〇一三年秋の人間ドックで、「膵臓に異変あり」と指摘があった。これが、発端であった。
その後、主治医から紹介された病院の精密検査で、膵臓内の水ぶくれ(膵嚢苞)は癌化のおそれがあるので、経過観察が必要と指摘された。
二〇一五年秋の人間ドック後、「経過観察と言われたのを、無罪放免のように受け取っていたのでは安易すぎますよ。あなたのように、七五歳を超えたら、日頃から健康管理にもっと心を砕くべきです」と真顔で警告してくれた、人間ドック検査結果報告担当の女医の顔を、殆ど忘れかけていた二〇一六年一月末、病院からファックスで「至急来院、診察を」と緊急送信があった。
オレオレ詐欺に代表される、不審な営業案内の電話が少なくない自宅電話の受話器を、私は通常在宅でもとらず、「御用の方は、御用件をお話し下さい。ファックスの方は、送信して下さい」と受話器の案内に任せている私への緊急連絡のファックスであった。
二〇一三年秋の人間ドックの後と同様に、担当医から経過観察のため、次回は四月六日に診断を受けるようにと指示されたのは、同年一月一二日のことであった。
何の緊急連絡かといぶかりながら、妻と病院に赴き、診察とCT検査を受けると、「直ちに入院・手術を受けるように」と勧められ、その場で、入院・手術を決断した。病院内のカンファレンスにおいて、放射線技師が、私の十二指腸に異常ありと指摘し、担当医も改めて見直し、腫瘍を確認したという経過説明があった。
二月一五日に入院し、十九日、妻、長女、同夫、長男が顔を揃えた家族への医師の説明を受けた。
「周辺に血管が錯綜している十二指腸癌の摘出手術は、七五歳の男性には、八時間の手術となり、リスクも大きいので、それを避け、胃と空腸を結ぶバイパス手術のみを行い、事後に抗がん剤治療を行う」という治療方針のもとに手術を実施する。
執刀は、癌研出身の主治医の後輩の医師で、当該執刀医の日程上の理由から、手術は当初予定の二二日を二四日に変更したのであった。
入院に際し、私は、はじめて自筆で遺書を書いた。医師と病院と、現代の医療水準の高さを、私は基本的に信頼してはいたが、同時に、最悪の事態をも想定せざるを得なかったからだ。自筆の遺書は、万一の場合、家庭裁判所に届け、そこで開封してもらわないと、法律上有効ではないので、妻に、最寄りの家庭裁判所の所在地を教えた。遺書の内容は、妻の希望を尊重したものとした。自分名義のわずかな遺産は、妻の援助なしには獲得も維持も出来なかったのだから当然であった。
二月二四日、手術へ向かう朝、妻、長女、同夫、及び長男の見守るベッドの上で、私は余裕を示したつもりで、「ナンマイダブ、ナンマイダブ」とつぶやいた。半分負け惜しみの私の表情は、家族の目には、全身麻酔の手術への恐怖と緊張によって、歪んでいたに違いない。妻の、眉をひそめるのを感じた。
手術室に運ばれ、全身麻酔にかかり、私自身の意識の中では一瞬ではあったが、事後に妻から、手術は、医師の事前説明通り二時間かかったと聞かされた。待機していた家族は、手術の無事成功を確認して、散会した。
術後の入院中、抗ガン剤TS1を朝夕食後に各四ミリグラム服用した。二〇〇四年六月五日の脳梗塞発病以降、服用し続けている血液凝固防止剤ワーファリンが、抗癌剤TS1の副作用で効き過ぎる可能性を、病院の薬剤師は、予告していた。
退院の日は、文字通り嬉しかった。しかし、自宅へ戻って足腰が弱っているのを自覚せざるを得なかった。病院のベッド生活に慣れて気付かなかったが、自宅の布団から何かにつかまらずに、自然には立ち上がれなくなっていた。これからは、せいぜい一日に幾度も、二階への階段を昇降したり、足腰の屈伸運動を繰り返す努力が必要だなと感じた。
病院では、退院したら、映画館で公開中のいくつかの作品を見たいと思ったりしたものだが、実際には、妻が、私にマイカーのハンドルを握って外出することを許さなかった。
実際、蒲団からよろよろと立ちあがる様は、いかにも頼りなく妻の目に映ったに違いない。入院以前に七〇キロ以上あった体重は、わずかの間に、六三㌔台に落ちていた。
薬剤師が予告した通り、抗ガン剤の副作用は全く尋常ではなかった。医師の説明において、「今まで経験したことのない、異様な味」と表現されたのは、朝夕食後のTS1とワーファリンの副作用の味覚障害のため、食事がとてつもなく不味く、食欲が著しく低下したのだった。歯を磨くと、歯茎から口内に血が溢れた。小水は血尿であった。これは、間違いなく、副作用によるものだった。
自宅に戻っても、食事が殆ど出来なかった。結果として、退院時に医師が指定した外来診療日の三月三一日よりはるか以前に、私は病院を再訪し、即日、再入院に追い込まれた。三月九日に退院しながら、二四日には、再入院したのだった。
それでも、三月一日、私は七六歳になった。手術前、自分の享年は七五歳となるのかなと訝った弱気を顧みざるを得なかった。本年秋に、妻との金婚式を迎える可能性が出て来た。
四月一日に二度目の退院をした。電子辞書や書籍など、病室内に持ち込んだものは、かなりの重量になっていた。しかし、病室から我が家に向かうタクシーへの積み下ろしは、すべて妻が担った。日頃から足腰を鍛えておくようにと、私に言い続けている妻の趣味の第一位は山歩きで、日々体操や足腰を鍛える努力は怠らず、最近は、余り出かけてないとはいえ、彼女は、健脚コースに長年こだわってきていた。
タクシーの車窓から見える、流山市内の桜は満開であった。今回の退院は、次回入院は四月十日との条件付きであった。今後は、こうして入退院を繰り返すのだろうかと気持ちは暗くなった。
十一日午後、3度目の入院をし、即日、IVHポート造設術を受けた。心臓に直結する右鎖骨下静脈にカテーテルを埋め込み、ポート(点滴用の針を刺すための器具)を埋め込む手術で、 一時間余りを要し、患者にとっては、局部麻酔のため、痛くはなくとも、強い緊張を強いられ、術後かなりの時間麻酔が解けず、トイレに行くにも看護師の援助を要するハードな手術だった。
即日、ポートを通して、抗がん剤の点滴が行われた。抗がん剤の点滴は、私にとっては、二月二四日の手術以降、始めての副作用の殆ど伴わない治療となった。このため、病院食はおせじにも美味しいとは言えなくとも、従前のように、異様に不味くもなく、殆ど完食出来た。
担当医師は、今次施術後の血液検査の結果、副作用がなく、期待した以上の良好な結果が得られたとして、当初の一週間の入院予定を繰り上げ、入院六日目の一六日に退院し、以後は、毎週火曜に外来にて同抗がん剤の点滴と血液検査等の検査を受ける方向となった。
十九日にはタクシーで病院と我が家を往復したが、次回二十六日は愛車を運転して通院する許可が、医師から出た。
抗ガン剤治療の心身への負担は、軽くはない。しかし、私は、ガンには負けないつもりだ。徹底的に抗って、やり残したことを出来る限り多く片付けてから成仏しても遅くはないだろう。(2016年4月20日記)(未完)
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こんばんは!
十二指腸癌の摘出手術をされたとはびっくりしました。
徹底的に抗う気持ちがあれば大丈夫でしょう。
これから抗がん剤など大変ですが、頑張ってください。
2016/4/22(金) 午後 7:21