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あなたは、英語なら dying と表現されるベッドの上に居る。もう時間的に、体力的に、運命的に、あなたに残された余裕は、食べたいものを食べるというくらいしか使えない。おそらくはそれがあなたの一部になる前に、あなたはこの世界に別れを告げることになるだろう。食物はその本来の目的を遂げられない。重要なのはあなたの脳に最後、どんな刺激を与えるのかと言うことだ。願わくばそれが至福の時をもたらす様に。 私ならアマトリチャーナだ。なぜならこれほど自分が生きていることを実感出来る食べ物はない。嘘だと思えば、あなたはまだ本当のアマトリチャーナに出会ったことが無いのだ。濃厚なトマトソースとチーズのハーモニー、唐辛子のアクセント、パスタの小麦パフューム、アーリオオーリオも手を抜けばそれと分かる程に露わに感じるバランス。上品に口に運ぶ事は許されない。あなたの前に皿が置かれた瞬間から涎が口に溢れ、流れ落ちる汗に気を払う暇は無いほどにあなたは貪り食わされることだろう。これが生きている事の実感ではなくてなんであろう。 そう、あなたの目の前に出された皿の上に乗っているのはアマトリチャーナではない。それはあなたの本能であり、あなたの生である。もしかしたらあなたの性であるかもしれないのだ。そんなアマトリチャーナをまだ食したことが無いなら、あなたは半分死んでいると私は断言する。暴論である。しかし、これほどの正論もまた無い。 世にオシャレと言われるイタリアンレストランに、私でも出かけることがある。なぜか、それは美しき婦女子との交流ではなく、単にアマトリチャーナを摂取するためである。私に瀟洒なイタリアンレストランに同行する美しき婦女子が無いということは問題ではない。 初めて入るイタリアンレストランにて、私が必ずすること。メニューにアマトリチャーナがあるかどうかを見ることである。私が次にすること。店員にアマトリチャーナと注文することだ。メニューにあろうがなかろうが構わない。イタリアンレストランと看板を掲げながら、アマトリチャーナの無いほうが犯罪であり、イタリアンへの冒涜であり、そんな店はポンペイに埋まるべきだったのだ。 さて、毎回のイタリアンレストランでのその試みは、必ずしも成功するとは限らない。いや、半数以上が失敗であると言えよう。半数以上のアマトリチャーナが、精気なく死んだアマトリチャーナの抜け殻なのだ。これは誠に驚くべきことである。当然のことながら、死んだアマトリチャーナを出す店に私がもう一度足を運ぶことはない。何?他においしいのがあるかもしれないって?バカなことを言うんじゃない、イタリアンレストランでアマトリチャーナ以外に何を食べるというのだ。 命のアマトリチャーナを出す店は、いくつかストックしてある。そのどの店でも、私は生きていることを実感できる。生きていることを実感するには、安すぎる値段でいずれも提供されている。なんなら、3倍は払っても惜しくは無い。麻薬も覚醒剤もそんなものは要らない。私はアマトリチャーナでトベる。そしてセックスの次に気持ちがいい。 私が一番好きなアマトリチャーナは、何の変哲もないとある店にある。そこに行けば、私は幸せになれる。しかも千円でおつりが来る。しかし、私は同時に人生の難しさを感じてしまうのだ。この素晴らしきアマトリチャーナにも欠点が存在する。生と性を実感させる味なのに、にんにくと唐辛子が少し焦げている。 にんにくと唐辛子を焦がさないのは、イタリアンの基本であるべきである。しかし、私の一番好きなアマトリチャーナではそれが達成されていない。この店と同じ味で、にんにくと唐辛子を焦がさないで出してくれる店がもしあれば、なにも問題はないはずである。問題は、望んだすべてが叶う人生など存在しないように、そんな店が存在しないことである。加えて世の半数以上の店が、生きたアマトリチャーナを提供してくれないことである。まるで、あなたが正しいと思っていることが、社会に広く受け入れられない様に。 私がアマトリチャーナから人生について学んだことはこれくらいだ。なに、大したことではない。なにしろ、私の人生はそう大したものではないからだ。
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ピザカリフォルニアが新作を出して、なんだろうと見たら、アマトリチャーナでした。しかもパスタではなく、ピザで!
ピザカリフォルニアはポンペイに埋まらなくてすみそうです。新しいアプローチをもって。
・・・と気づかれないこと承知でコメントしてみる
2010/3/23(火) 午前 0:10
ううむ。ピザのアマトリチャーナ。食いたい。
そのアプローチはポンペイに埋まらないけど。食べてみたらベスビオ火山に投げ込む可能性も。
と、気づかれないことを承知で返事を書いてみる。
2010/4/16(金) 午後 11:13