うたかたばなし ―雄峯閣別棟―

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歴史学への誘い

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歴史に関心のある方はたくさんいるでしょうが、では、歴史とは何者なのでしょうか。
歴史学とは?歴史はどのようにして書かれるか、ということ
などをわかりやすく伝えていければと思います。
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最近、世の中を賑わす女性天皇論ですが、私は女性天皇は問題ないと思います。
ですが、'''女系天皇'''となるとちょっと話は別かなと思っています。
一応、曲がりなりにも男系で天皇家は存続してきたのですから、それを考えると・・・。
歴史学への誘い、今回は歴代の女性天皇について大雑把に考えます。
なお、()は生没年です。ちょっと長くなりますが、概説と思ってくだされば。

推古天皇(554〜628)。ご存知のように日本最初の女性天皇です。

聖徳太子を摂政とし、蘇我氏とうまくやっていったなかなかの切れ者。
もともとは敏達(びだつ)天皇の皇后でした。即位時は中継ぎという感が否めませんが、結局
なくなるまで在位しており、跡継ぎを定めなかったため、紛争が巻き起こりました。
紛争後定まった跡継ぎは舒明天皇(推古女帝の義理の孫)です。

皇極・斉明天皇(594〜661)

舒明(じょめい)天皇の皇后で、天皇亡き後、跡継ぎが定まらなかったので皇位につきました。
大化改新の先駆けである蘇我入鹿暗殺の後に退位するものの、655年再び皇位に(重祚 ちょうそ
といいます、考えてみると重祚を行ったのは女性のみですし、退位というのもこの女帝が初めてです。
女帝は初めて尽くしです。)。土木事業がやけに好きだったらしい。
この後出てくるのが天智天皇(この女帝の子、父は舒明天皇)です。

持統天皇(645〜703)

天武天皇の皇后で、天皇亡き後しばらくして皇位につきました(このしばらくの間を称制 しょうせい
といいます。)。本来跡を継ぐはずの皇子が早く亡くなってしまい、孫に当たる皇子がまだ若いという
ことで、中継ぎといえましょうか。現に孫(文武天皇)が15歳になると譲位しています。

元明天皇(661〜722)

持統天皇のところででた本来後を継ぐはずの皇子(草壁皇子)の妃で、息子に当たる文武天皇が
早く亡くなってしまったので、文武天皇の子(後の聖武天皇)が大きくなるまでの中継ぎとして
皇位につきました。しかし、自身が老いてしまい、715年、娘に当たる元正天皇に譲位しています。

元正天皇(680〜748)

どうやら生涯独身だった人で、父は草壁皇子、母は元明天皇。兄が文武天皇ですので聖武天皇は
甥っ子になります。715年の時点で聖武天皇がまだ若いということで元明天皇から譲位されました。
724年、聖武天皇に譲位しています。

孝謙・称徳天皇(718〜770)

父は聖武天皇、母は光明皇后です。この人も生涯独身です。史上初の女性皇太子で、749年、
聖武天皇から譲位されます。758年には淳仁天皇に譲位しますが、この淳仁天皇というのは
天武天皇の皇子の7男坊でした(孝謙天皇から数えるとひいじいさんの兄弟の子)。
この後、恵美押勝の乱というのが起こり、淳仁天皇は廃位、孝謙上皇が重祚します。道鏡という
坊さんが出てくるのもこの時期です。770年、亡くなるのですが、跡継ぎがいませんでした。
そこで、天智天皇の孫を即位させ、光仁天皇としました(つまり、称徳天皇から数えると
ひいひいじいさんの兄の孫)。

明正天皇(1624〜1696)

急に江戸時代まで飛びますが、女性天皇はこの間、一度も出ていません。
この女帝の父は後水尾天皇、母は徳川和子(2代秀忠の子)。後水尾天皇の怒りがもとで、
突然譲位されました。後水尾天皇は院政を敷きます。1643年には異母弟にあたる後光明天皇
に譲位しています。なお、生涯独身です。

後桜町天皇(1740〜1813)

今のところの最後の女性天皇。父は桜町天皇、異母弟に先代に当たる桃園天皇がいます。
桃園天皇には5歳の皇子がいましたが、まだ若く、とうの桃園天皇がなくなったため、中継ぎと
して即位しました。9年後、その皇子(後桃園天皇)に譲位します。ところが、この後桃園天皇は
跡継ぎのないまま(内親王が一人いたそうですが)亡くなり、皇族の閑院宮家から跡継ぎを設けて
います(後桃園天皇から数えるとひいじいさんの兄弟の孫、この血筋が今の天皇家です)。
この人も生涯独身です。

以上、女性天皇について駆け足で概説していきました(本来なら人物史として、取り上げる事項は
たくさんあるのですが)。これを踏まえて次回は現在の女性天皇、そして女系天皇について考えて
いこうと思います。

それにしても、何が手間かかるといえば、天皇家は膨大な歴史を抱えているので、それを読み解い
ていかなければならないということなんです。それをせずしてこの問題は解けないと思います。
だからといって「わからん!!」の一点張りもいかがかと。

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最近さぼり気味でしたので、久々に書きましょう。
今回取り上げるのは奈良時代です。
一般的には、平城京遷都(710年)〜平安京遷都(794年)までのことを指します。
私が東大寺に行く日も近くなりましたので、企画モノとでも言いましょうか。
そして、現場へ行ったあと、改めて書くこととなりましょう。
ちなみに来年は聖武天皇がなくなって1250年です。

奈良時代の史料


まず挙げられる史料としては『続日本紀』(しょくにほんぎ)があります。
それから、東大寺正倉に伝えられた「正倉院文書」があります。ちょっとずれてきますが、
『日本霊異記』(にほんりょういき)も使おうと思えば。
忘れていけないのは『律令』です。ありがたいことに、注釈書としてですが残っています。
文学という面なら『万葉集』『懐風藻』もいいでしょう。

また、文献史料からはずれますが、正倉院に伝えられた聖武天皇遺愛の品々、東大寺に伝わる仏像、
これらも使えます。
そして昨今は考古学の発見が目覚しいので、勿論使えます。

ただ、「人物を知りたい」となると『続日本紀』になってしまいます。『続日本紀』とは
『日本書紀』の続きとして編さんされたものです。鵜呑みにしていいかはともかく、これしかないので
仕方ない。例えば、大仏建立を思い立った聖武天皇を知りたいとなると、とりあえずこれを読むしか
ないでしょう。

聖徳太子の時代に比べれば史料はそれなりに出てきます。しかし、後世に比べるとやはり数が限られ
てきます。ただ、「正倉院文書」があるので、当時の写経生の生活や、戸籍などがわかっています。
そう考えると聖徳太子の時代に比べると少々具体性を帯びてくるのが奈良時代です。

奈良時代・・・皆さんはどのように連想しますか?

イメージ 1

写真を御覧下さい。急な階段です。傾斜角度にして60度。金沢城の橋爪門続櫓の階段です。
写真に見える大きな手すり、それから背中の板はもともとついていません(安全基準のため
つけたものです)。ようははしごです。
これをどのようにして上りますか?江戸時代の人は当たり前のように上がったと言いますが・・・。

無難に上がるのでしたら、はしごのように上がるということになるでしょう。しかし、ちょっと考え
ますと、江戸時代以前の階段というものは、大体が急につけてあります。場所をとらないため、と言
うのもありますが、どうやらこの急さが当たり前だったようです。
これを二足歩行で上がり降りできるか?

観察していたことがありまして、どのように上がっていくかを見ていたんです。すると、
普通の歩きかたで上がろうとするんです。
これは疲れます。なぜなら、右足を出したら左手も出るとなると、体がねじれます。
江戸時代のことを考えて見ましょう。着物がはだける原因です。

ためしに、右足と右手を一緒に出してみましょう。すると、こんな階段は簡単に上がれます。
次は左手と左足を出して上がりましょうか。さっさと上がることができます。
なれると、手すりも使わず、腰と膝の力だけで上がることができます。

別に右と右を一緒に出さなくてもいいのですが、右足で上がってその拍子に左手が出ると身体は
ねじれ、しかも左足が伸びきって(特に足の付け根)しまい、ばねの機能を果たしません。


では下りる時は?これも不思議なもので、例として右手で手すりを持ち、左手は力をいれずに
だらんとする。そして左足から下りれば簡単に下りれます。なんでしたら左手に荷物を持ち、
腕に力をいれず自然に伸ばしてこの動きをすると、荷物の重さのおかげで身体が簡単に下ります。


例えば、刀を構えるにしても、右手右足が前に同時に出ます。伝統芸能でもそう。しかし、今は
こんなこともわからなくなってしまいました。少なくとも今の歩き方と言うのは明治時代以降、
西洋風の歩き方です。洋服の歩き方と言いましょうか。
和服を着て腕を振る人はまずいないでしょう。ためしに浴衣を着て腕を振って歩けば、えらいこと
になります。基本的に腕は振っていなかったようです。

実は、江戸時代以前どのように歩いていたか、なんていうのもわからないことなんです。
そういうことも今着々と復元されつつあります。最近では「ナンバ歩き」と言われて、一部ブーム
ですが・・・。ただ、文献(このように歩くなんて、書いてありませんからね)はありませんので、
古武術などの力を借りることとなりますが・・・。

こういうことも歴史学に生かしていってもいいのではないかと思います。

明庵栄西(みんなんえいさい 1141〜1215)

最近私がお邪魔しますはずきさん、すけさんのブログでは、寺院が美しい写真、または御朱印
とともに紹介されている、私のお気に入りのブログです。
最近、鎌倉の建長寺が紹介されていました。日本最初の純粋な禅寺というところです。
ではそれ以前は?日本臨済宗の開祖、明庵栄西がそれを教えてくれます。

栄西といいますと、教科書的に言えば、日本臨済宗の開祖で、禅宗の一派ということになりましょう。
また、お茶を広めた人といってもいいかと思います。しかし、この栄西という人、調べてみると面白い。

彼は比叡山で仏教の勉強をしています。比叡山は仏教の総合大学みたいなものですから、何でも教
えてくれます。念仏(南無阿弥陀仏)も題目(南無妙法蓮華経)も密教も、そして禅も。
ところが、栄西は密教にはまっていたようなんです。それから比叡山に嫌気が差して、宋の国に渡り
ます。そこで禅がいいと思って、禅の勉強をしています。

日本に戻って禅を広めようとしたらしいのですが、比叡山に嫌がられます。ようは、新興勢力ですか
らね。朝廷も比叡山の言うことは聞きますから、栄西をいい目で見ません。
それで、鎌倉に行って、禅を広めようとした。中国最先端の知識もあるよ、と。
そこで登場するのがお茶です。鎌倉幕府は気に入ります。自分たちも新興勢力ですから。

そして、再び京都に戻り建てたのが建仁寺というお寺です。しかし、純粋に禅をやっているよと
看板を掲げると、また文句を言われますから、天台も、それから真言宗もやってますよと看板を
掲げておく。誰も文句は言えません(現にやってましたから)。
東大寺再建の時には「私は宋にいた経験が長いから使って欲しい」と言ったりもしています。

しかも、どうも大師号(だいしごう 空海=弘法大師というように、死後賜る称号にして、僧の
最高の名誉)を生前に欲しがっていたようなんです。ですので必死に自己PRする。
しかし、九条家の血を引き、天台座主(比叡山のトップ)であった慈円(愚管抄を書いた人、
拙ブログでも取り上げています。)に邪魔されます。理由は簡単、「前例無し」。

純粋な禅寺である建長寺が建つ、50年前のことでした。このあと、道元が登場しますし、
宋から亡命してくる僧が多くいます。そして純粋な禅寺がうまれて来るわけです。
鎌倉といえば、源頼朝から北条氏の滅亡までのいわゆる「鎌倉時代」の舞台です。
その鎌倉に由比ガ浜というところがあり、そこから人骨がたくさん出土しました。
その人骨を医学の立場から調査がおこなわれまして、本日のニュースに紹介されていました。
平均寿命は24歳、そんな数字が出たそうです。

今回は、古代から急に飛びまして、鎌倉時代の話になりますが、医学がどれだけ歴史を解明して
いるかについて書こうかと思います。しかし、私は医者ではありませんので、あしからず。

なぜこんな数字が出たかといいますと、どうやら戦死者が多かったということなんです。ですから、
鎌倉時代の平均寿命は・・・と一概には言えません。ただ、戦いが起こると世情が混乱しますし、
それに異常気象などが重なると、食糧問題なんかも起こるわけです。こういうところは、同時代の
記録と照らし合わせて、見ていく必要があります。
ただ、どうやら中世というのは、生き難い時代だったらしい。

骨という話を展開しますと、実は徳川将軍家のお墓が昭和30年代に発掘されていまして、骨の
調査などもおこなわれています。歯の擦れ方などからどのような病気だったかがわかるといいます。

また、日記などに見える症状から病気を断定していく、という方法もあります。典型的な例は
平安時代の藤原道長。糖尿病だったようです。

このようなところは医学の知識がないとわからない部分が多いのですが、気軽に読める本として、
篠田達明『モナ・リザは高脂血症だった』(新潮新書)をお勧めします。

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