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minminの独り言そして時々俳句
今年は、幸多き年になりますように。

書庫母を介護していたときのこと

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立位

ドラッグストアーにもこの頃、車椅子に乗った方が、(電動車椅子は一人で)よく買い物にこられる。
世話をしている方ほんとうによくされていると思う。
母は、一人暮らしのとき健脚だった。
4kmくらい、平気で歩いていた。
私と同居したころ、一緒によく散歩した。
そのうち一人で一定のコ−スを歩くようになった。
さらに、何時の間にか飛び出して、私が、追いかけるようになった。
その後、足がもろくなっていたのか、転んで、部屋の中でテレビを見ていることが多くなった。
特別養護老人ホームに入居して、しばらくしてベッドから落ちた。
慢性硬膜下血腫になって手術した。
手術は成功したが、2週間の入院後、車椅子になった。
母をみまったとき、ホームの中をあちこち、車椅子を押して歩いた。
母は、まだ、しっかりしていて、車椅子に座って食事もできた。

その次の年、発熱後、平熱に下がった日も車椅子に座っていることができなくなった

介護計画で立位訓練をしていますと報告されていた。
ほとんどベッドで寝たきりになった母は次は寝返りもうちにくくなり、辱創ができはじめた。
最後の病院では、エアベッドを使っていた。
人間、座れることが、当たり前と思っていた私、今車椅子にのっている人を見て、「頑張れ、その姿勢をうしなうな」と声をかけたい。

母の嫌いだった色

 母が亡くなったとき、母のいた特別養護老人ホームから、母の私物が送り返されてきた。
母は、自分が気に入らない服だと、自分専用箪笥から、自分の気に入った洋服を引っ張り出して、重ね着する
体温の調節など、考えもしない。
ヘルパーさんは、母に気に入った服を繰り返し、着せてくれる。
そのうえ母は、最後のほうは食べこぼしをした
洗濯をしても汚れは落ちない。
だから、汚れた洋服類は、すべて捨てた。
けちんぼうな私、私自身が着られそうな服はとっておいた。
衣替えの季節である

出してみると、のこっているのは紫系統の服ばかり

買った覚えがあるのは、黒、藍、紺、黄色、スカイブルーなど、
母の好みそうなものを選んだつもりだった。
花は、桔梗やリンドウが好きだった。紫色好きだとばかり思っていたのに・・・

母の散歩

 母は一人暮らしのとき、親しい友人がいて、その方とよく散歩していた。
周りの人が見て「なんとなく変」という状態になってもよく歩いていた。
1人暮らしができなくなって、同居しても、時間があると私と散歩した。
新聞を読んでも何を書いているかすぐ忘れるにもかかわらず我家の近くの道順はしっかり覚えた

杖をつきながら、一人で20分〜30分 くらい一定の道順を歩いていた

ある日デイケアがあるから、でかけないでと言ったのにもかかわらず、また散歩に行ってしまった。私は、行きそうな所を必死に探した。お迎えに来て下さったヘルパーさんも迎えの車で、近くをさがしてくれなんとか見つけて下さって、事なきを得た。
団地で玄関に鎖をかけられるようになっているので、いつもかけておくようにした。
母は鎖ははずせなかった。
気をつけなきゃと思っているうちに、午前2時に散歩に行くと騒ぎ出した
他の事情もあり、特別養護老人ホームに入居し最初は看護師さんの言葉によると
徘徊しまくりだったらしい。
その母はベッドから落ちて手術をし車椅子になった。
その後母はおとなしくはなったが、体力が落ち始め立位も保てなくなった。
最後は、尿路感染で発熱し寝返りも打てなくなった。
そのころ母は完全に言葉を失った。

私の顔を見て、私だとは分かっている。顔に笑いが浮かび、一言「「あっ」といったきりだったが

今考えると、母が散歩しているときは、大変だった。
でも、その時、まだ、母が母らしかったときだったのだ

母の思い出話

 母は義理の母に育てられた。
学校から帰っても、食事の用意がしてないとき、空腹のまま夜まで待ったという。
義理の母は自分の子供を実家に残してきたらしい。
母の生まれた家は農家だったので、できた作物をその義母は自分自身の子供のところへ送り続けたようだ。
認知症になってから、母は繰り返していった。そのときの母の心は子供に返っていたようだった。
義理のお母さんが憎い。寒いときでも、下着を買ってもらえなかった。学校から帰っても食べる物がなかった。
同居しているときも、特別養護老人ホームにはいって尋ねた私の顔を見て、落ち着いて話をはじめると繰り返した。
よほど辛い思いをしたのだろう。私は実母に育てられたから、母の辛さは、分かってなかったと思う
昨年の冬発熱した。その後言葉を発することができなくなった。
しかし、最後に話ができたとき

義理のお母さんを許せるものがある。私も同じ立場なら、実の子に食料品を送り続けただろう

と言った。
 母は亡くなる前に仏様の心を持ったようだった。
 母が特別養護老人ホームに入居してから、片道5時間かけて、2週間に1回母を見舞いに行っていた。
子供が一緒に行ってくれることもあったし、私一人のこともあった。
母はそのころほとんど耳が聞こえなかった。
お祖母ちゃん、こんにちは
耳元で言う。
はい、おみやげ
食べることが楽しみな母だった。特にプリン、ジュースに目がなかった。
もっと
いつも言っていた。
たくさん食べさせたいが、規定の昼ごはん、おやつを食べて、その上に差し入れである。
食べて欲しかった
でも、食べすぎは怖い。
このくらいにしておこうね
その後母のマッサージをする。
母は目を細めながら
せっかくminminが来てくれたのに、何も食べさせてやれるものがない。悲しい。そうだ、何か美味しいものを食べてきなさい。待っているから

母はいくつになっても、私の親だった

そして、悲しいことだけど、これが母のところから、帰るチャンスだった。
お昼ごはん食べてくるね。待っててね。すぐ、来るから
急いで部屋をでて、エレベーターで1回に降りる。
最初のころ悲しそうな顔をしている私に息子は言った。

大丈夫!お祖母ちゃんは5分もしたら、お母さんに会ったこと忘れている

それは事実だった。
次に2週間後会いにいくと言う。
minmin!ま〜!1年ぶりだね〜

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