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ブログ始めました! と2年前の7月に、但馬に行った時のことを書き始めました。ウイルスが入り消えましたので、少しずつかきなおします

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但馬の地名だけを眺めていますと、稲作を知っている人達が、いつの日かやって来たでおしまいです。
 直ぐ、東隣りは、夜久野という地名です。最近、合併して福知山市に編入されてしまいました。
JR下夜久野駅辺りの地図をごらんください。この辺りが夜久野の中心地だったようです。
 
 少し、西へ移動しますと、〔日置ヘキ〕の集落です。重要な所から少し離れた所にあることが多いです。以前に、日置のことを書いたことがありますので、
No301 一志町と日置をご覧ください。
 少し、南へ行きますと、〔千原〕があります。地図でも判りますが、千も原があるほど、広くはありません。夜久野の方に叱られるかも知れませんが、ここは、昔は〔血原〕と呼ばれたのではと推理しています。(根拠はありません) ということは、激しい戦の場となったのではないでしょうか。
 東へ移動しますと、〔額田〕です。どこかで聞いた名前です。
 このように、福知山の地名をすべて、眺めますと、いろいろ発見出来ますが、田村誠一という方は、この地にイザナギの子供の天照大神と月読命がやってきたという仮説を立てておられます。
 これの説明は厖大過ぎるほどのことを書きませんと説明になりません。田村氏が書かれた〔田村誠一著 第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 62ぺージ〕に短い文章がありますので、紹介しておきます。
 
地図と古代史 (1) 
イザナミの命は古事記では、出雲と伯耆の国境いの比婆山に葬られたと書かれている。この場所は島根県能義郡太伯町に現存していた。一旦は鳥取県西伯郡溝口町の御墓原に、風葬され、改めて比婆山神社に祀られたのである。
 伊弉諾神の命は
近江八幡の、王ノ浜で上陸し、この町の白王町で住まわれ、御所は宮内にあった。ここの地名は多賀で、古事記に載せられた通りであった。
 天照大神は京都府の福知山市の天照に住まわれ、御所は大江町の天座にあった。葬られた所は同じ大江町の元伊勢だったのである。
 ここには皇大神社、内宮、豊受神社が現存している。
 月読命は京都府天田郡夜久野町に封ぜられ亡くなられた後隣りの大江町の皇大神社に、天照大神と一緒に祭られた。
 神武天皇は若い頃には、鳥取県西伯郡大山町に住んで居られた。
 このことは別稿で述べて置いた。日本の古代史は此の時地図に遺跡が始めて残された。
以上
意味はお解りでしょうか。僅か、一ページのところに、書かれた文章ですから、理解できない部分があるかと思います。
 神話時代のイザナミとイザナギと天照大神と月読命が、住んでいたことが、地名に残されているのだと書いておられます。
ここの地図と古代史 (1)  地図と古代史(2)に書いておられます。
 
地名の多くの例は、この記事の以前にスクロールをして頂きますと、
等に、その詳細を述べておられます。
 
今度は、私が考えたことと田村氏が考えられたことを合体しますと、
但馬に入植した稲作の知識を持っていた人達は、天照大神によって、中国の雲南省の方から、移民した人達であったと思われます。その事実は、ここだけではなく、日本海沿岸一帯に入植したと思われます。その本拠地になったのは、〔福浦〕〔福江〕などの地名の港から上陸した様で、そこに流れ込む川の上流を眺めますと、〔田〕の字の付く、地名がいっぱい見ることが出来ます。福浦のことは、次のとみころに書いています。
No178 渡来人がやってきた証拠 福浦
 
 話を戻しますと、福知山ところへ、漢人の人達が、やってきました。そのままにしておきますと、漢人は、西の方へやってきますし、南下しますので、それを防御するために、アマテラスは、西の押さえを月読命に任せました。 南の押さえには、アマテラス自身が出動しました。
 その子孫のかたは、今でも、アマテラスのことを天照(てんしょうさん)と称して、神社で祭られています。何所だと云わずに、この辺り一帯の神社を廻られますと、分かる筈です。
 
 天照大神と月読命の死後、崇神天皇の妹である卑弥呼が、二人をお祀りすると同時に、大陸からやってくる人達の入国管理所のような事をしていたのではないかと考えています。
 
 このようないい加減な話は聞きたくないと思われる方が殆どではないかと思います。
 
朝来一帯に住んでいた人等が、どこでどのような生活をしていたのかを一つずつ調べて行こうと思います。茶すり山古墳は、こうした古墳の中の一つです。
 

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