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昔、世界史なり西洋政治史で勉強したことがあると思いますが、ピータールーの虐殺を題材とした作品を観てきました。
今回もまた日比谷トーホーシネマズシャンテです。その日は新宿で卒業生のIさんMさんと会食の約束があったので、約束の時間に間に合うように標記の作品を鑑賞しました。
感想は一口で言えば、「すごい」としか表現できません。
事件が起きたのは1819年8月、ワーテルロー(ウォータ−ルー)の戦でナポレオン戦争に最終決着をつけてから4年後のことです。
当時のマンチェスターでは産業革命を契機に綿織物工業が急速な発展を遂げ、労働人口が急増していました。しかし未だ労働立法はありませんでしたので、労働者は過酷な生活を強いられていました。
加えて穀物法(Corn Law)により安価な穀物の輸入が禁じられていましたので、パン価格高騰などにより、一層厳しい生活を余儀なくされていたのです。
しかもマンチェスターは独自の議会代表を選出することもできなかったため(マンチェスターを含むランカシャーで2名のみ議員を選出することができたそうです)、市民は苦境を脱するため、議会改革(選挙法改正)を要求する集会を開くことにしました。そしてこの集会に、急進派の弁士として名高いヘンリー・ハントを招くことにしたのです。そして集会の会場となったのが、聖ピーターズ広場だったのです。
主催者の市民側は、ハントの強い要請もあり、集会が暴動化しないよう慎重に準備をすすめ、武器とみなされるものは決して携行しないことなどを申し合わせました。参加者の多くは幼い子供を含めた家族連れで、まるで祭りにでも行くように着飾っていたのです。集会に参加した市民の数は正確には分かりませんが、5、6万人とされています。
一方、市政を牛耳る治安判事たちは、この集会が暴動に発展し、場合によっては革命の呼び水になるのでは、と恐れていました。あのフランス革命の悪夢を拭い去ることができなかったのでしょう。その治安判事たちは集会を一望できる部屋に陣取り、ワインを飲みながら状況を見守っていました。
ハントの演説が始まって間もなく、彼に対する逮捕状が出され、義勇兵の騎馬兵がサーベルを振りかざして集会に突入しました。市民は必死に抵抗しましたが、所詮、義勇兵と言いえども武器をもった騎馬兵と、丸腰の市民の戦いで、勝敗は明らかです。しかし、これを眺めていた治安判事たちの眼には、市民の反撃で義勇兵が危ないと見えたようです。ここで治安判事は正規軍の投入を命じたのです。
すべてが終わり、広場には犠牲者の遺体が散乱していました。因みにこの時の死者の数は11名とも18名とも言われています。負傷者は数えきれない程でしょう。
一般に19世紀のイギリスは自由主義の時代と認識されていますが、19世紀の初頭はフランス革命の影響もあり、保守的色彩の濃い時代でした。このピ−タール―事件など克服し、ようやく自由主義的改革の時代にはいります。
この事件を目撃していた新聞記者は、最初はこれを「ワーテルローの戦」にちなんで「ピ−タール―の戦」と呼びましたが、これはまさしく「ピータールーの虐殺(massacre)」と名付けたのです。
ところで作品を通じて感じたことの1つは、市民の側はあまりにも理知的に描いているのに対し、対照的に治安判事や王太子などは過度に戯画化されていて、些か疑問を感じました。
しかし内容の大筋は史実に基づいており、改めて19世紀イギリスの暗部を知り、勉強になりました。
監督はイギリスの巨匠マイク・リーです。
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