主よ、怒ってわたしを責めないでください。 憤って懲らしめないでください。 あなたの矢はわたしを射抜き御手はわたしを押さえつけています。 わたしの肉にはまともなところもありません。 あなたが激しく憤られたからです。 骨にも安らぎがありません。 わたしが過ちを犯したからです。 わたしの罪悪は頭を越えるほどになり 耐え難い重荷となっています。 負わされた傷は膿んで悪臭を放ちます わたしが愚かな行いをしたからです。 わたしは身をかがめ、深くうなだれ 一日中、嘆きつつ歩きます。 腰はただれに覆われています。 わたしの肉にはまともなところもありません。 もう立てないほど打ち砕かれ 心は呻き、うなり声をあげるだけです。 わたしの主よ、わたしの願いはすべて御前にあり 嘆きもあなたには隠されていません。 心は動転し、力はわたしを見捨て 目の光りもまた、去りました。 疫病にかかったわたしを愛する者も避けて立ち わたしに近い者も、遠く離れて立ちます。 わたしの命をねらう者は罠を仕掛けます。 わたしに災いを望む者は 欺こう、破滅させよう、と決めて 一日中それを口にしています。 わたしの耳は聞こえないかのように 聞こうとしません。 口は話せないかのように、開こうとしません。 わたしは聞くことのできない者 口に抗議する力もない者となりました。 主よ、わたしはなお、あなたを待ち望みます。 わたしの主よ、わたしの神よ 御自身でわたしに答えてください。 わたしは願いました 「わたしの足がよろめくことのないように彼らがそれを喜んで尊大にふるまうことがないように」と。 わたしは今や、倒れそうになっています。 苦痛を与えるものが常にわたしの前にあり わたしは自分の罪悪を言い表そうとして犯した過ちのゆえに苦悩しています。 わたしの敵は強大になり わたしを憎む者らは偽りを重ね 善意に悪意を持ってこたえます。 わたしは彼らの幸いを願うのに 彼らは敵対するのです。 主よ、わたしを見捨てないでください。 わたしの神よ、遠く離れないでください。 わたしの救い、わたしの主よ すぐにわたしを助けてください。 |
聖書
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聖書の好きな箇所を不定期に更新しています。
ヤコブの手紙 5章15節〜16節 信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起きあがらせてくださいます。 その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。 だから、主に癒していただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。 正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。 ブログにきてくださった、べにやみんさんが僕のために選んでくださった聖書の箇所です。 この聖句を今年のテーマにしたいと思います。 罪を告白し合い、互いのために祈り合いましょう。 写真は僕の聖書と、先日行った教会の牧師さんにいただいた手作りの十字架ブックマークです。
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コリントの信徒への手紙 4章16節〜18節 だから、私たちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、私たちの 「内なる人」は日々新たにされていきます。 私たちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほどの重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。 私たちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えない ものは永遠に存続するからです。 |
「そこで王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」 (マタイ25・40) ここが大事なところでしょう。神はどこにいるか。私は小さいときから、神は天の上の彼方にいるか、あるいは”おんぶおばけ”みたいに自分には見えない背中のほうにいて、ちょっと意地悪く私のすることをじっと見ているのかな、と思っていました。神と人間との位置関係とはそういうものだと、ずっと思っていたのです。しかし、ここではっきりと、(神は)あなたの目の前にいる者のなかにいる、と教えられたのです。つまり、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者」のなかにです。
「小さい者」には何をあてはめてもいいのです。健康とか、権力とか、知識とか、美貌とか、運動能力とか、何でもいいのですが、とにかく、そういうものが何もない。お金がなくて、さえなくて、頭もあまりよくなくて、特に技能も何もない。貧乏で、飢えて、困っている。そのような人にしたことは私にしてくれたことである、そういう人のなかに私はいるのだ、とおっしゃっているわけです。 これは私の信仰の生活のなかで、決定的なことでした。私は、人間は人間として生きており、神様というのは別のところにいると思っていました。けれども、神は人間のなかに、それもあなたの目の前にいる人のなかにいらっしゃるというのです。 人間は、友だちを好きになる場合も多いのですが、時にはけんかしたり、嫌ったり、意地悪したり、無視したくなることがあると思います。本当にボランティアをした人は、ボランティアを受ける人に腹を立てることがあると思います。けれども、相手に対して怒りの感情をもったりもう親切にしてやらないと思ったりするそのときに、神はどこにいらっしゃるか。あなたの目の前にいて、あなたと対している人のなかに神はいらっしゃる。もし医師だったら、神は患者のなかにいるということです。その患者は、わがままで、そして文句ばかり言い、不従順で、かわいらしくない。そういう人のなかに神はいらっしゃるのです。 曽野綾子 : 著 : 「現代に生きる聖書」 |
コヘレトの言葉3章1節〜11節(旧約聖書) 何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。 生まれる時、死ぬ時 植える時、植えたものを抜く時 殺す時、癒す時 破壊する時、建てる時 泣く時、笑う時 嘆く時、踊る時 石を放つ時、石を集める時 抱擁の時、抱擁を遠ざける時 求める時、失う時 保つ時、放つ時 裂く時、縫う時 黙する時、語る時 愛する時、憎む時 戦いの時、平和の時。 人が苦労してみたところで何になろう。 わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。 神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。 それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない。 |




