聖書に記載されているエルサレム神殿の「美(うつく)しの門」と呼ばれる門で、すばらしい出会いを体験し、喜びの人生に変えられた男の人の話(使徒言行録3章1〜10節)をご紹介したいと思います。 エルサレムの都に、時の国主であったヘロデ王によって、壮大美麗な神殿が建築されましたが、その神殿に幾つかの門がありました。「美しの門」と呼ばれる門もそのひとつです。「門」は人の出入りするところです ちょうど、午後3時の祈りのとき、多くの参詣者の出入りする中で、この門の傍らに、生まれつき足に障害があって、歩くことのできない40歳余りの男の人が抱えられて来て、座ったのです。目的は、門を出入りする人々から施しを受けるためでした。 この男の人はペテロとヨハネに出会った時、当然、何か、施しを貰えるものと期待していたのですが、しかし、彼に返って来たことばは意外なことばでした。 ペテロとヨハネは彼をじっと見て、「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」と言ったのです。 そして、ペテロが彼の右の手を取って起こしてやると、不思議なことが起こったのです。それは生まれつき40年間、歩くことのできなかった彼の足とくるぶしが強くなって、立ち上がり、喜びの余り踊りながら、神様を讃美する人生に変えられていったのです。 施しを要求するこの男の人に対して、多くの人々が冷たい眼差しを浴びせたり、無関心を装って通り過ぎていく中で、ペテロたちが取った行動は違っていました。彼の前に立ち止まり、じっと彼を見つめたのです。ここにペテロたちの愛があります。 愛の反対は無関心だと言われますが、ペテロたちが愛をもって、彼を見つめることによって、彼の身体的な痛みだけでなく、彼のこれまでの人生で受けてきたであろう精神的、社会的、霊的な痛みも見えてきたのではないでしょうか。 神様は私達一人ひとりに対しても愛の目を注がれています。私達の人生にも目的と計画をもっておられます。ペテロが言われた「わたしにあるもの」とはイエス・キリストの名前であり、イエス・キリストの十字架に象徴されるアガペの愛(神の愛)でもあります |
聖書
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聖書の好きな箇所を不定期に更新しています。
ヘブライ人への手紙 13章5節 「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」 |
主よ、彼らをいやしたのは、
薬草や塗り薬ではなく、
すべてをいやすあなたの言葉であった。
旧約聖書続編 知恵の書 16章12節
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ヨハネによる福音書 1章 1節〜5節 初めに言があった。言は神と共にあった。 言は神であった。この言は初めに神と共にあった。 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは 何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。 |
列王記上17章4節 「わたしは烏に命じて,そこであなたを養わせる」 エリヤという名の預言者がいました。彼は,時の王アハブの暴挙を非難し,神の罰として
数年に及ぶ干ばつを預言しました。 そのためエリヤは追われることになり,神の避難勧告に従って,ケリト川の峡谷に身を 隠したのです。 朝夕エリヤのもとにパンと肉をカラスが運んできます。身を隠せとお命じになった神は カラスに食料を運ばせると約束されました。 カラスというのは人を示す隠語だとも言われています。同じようにアハブ王に追われ 殺された多くの預言者のうち100人を,オバドヤという宮廷長が洞窟にかくまい,パンと 水で養ったとありますから,エリヤにも陰で彼を支える人がいたのかもしれません。 私たちにも,人生の表舞台から身を隠さなければならないような時があります。もちろん 追われているから,という理由ではありません。しかし,エリヤに追われる苦難があったように 私たちにも少なからず苦難があります。 人生はいつも思ったように運ぶわけではありません。失敗し挫折し,苦しみを味わいます。 その時,その失敗,挫折を取り戻そうといたずらに動き回ると,かえって苦しみを重ね, 絶望とあきらめの淵に,はまり込んでいく場合があります。動き回るよりも,身を隠すかのように 一歩退き,自分の来し方を内側から省み,静かに耐えることが必要な時が,人生にはあります。 「そこ」から抜け出そうとあがくよりも,「そこ」で自分の人生を引き受けて生きるのです。 自分の人生の「そこ」,”置かれたところ”を引き受けて誠実に生きていると,不思議と支えて くれる人が見えてきます。その温かな支えを通して,人生は”支えられてあるもの”と 気付かされます。「神の養い」とは,この人生の内なる真理を教え諭す言葉です。 ※月刊誌「こころの友」より抜粋
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