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鳥取花回廊・秀峰大仙・地元料理人渾身の創作会席・ついでに中国庭園「燕趙園」バスツアー
コースは、・・・宝塚IC・・(中国自動車道)・・院庄IC・・(R179他)・・燕趙園(鳥取県湯梨浜町)・・蒜山高原・・鍵掛峠(大仙眺望)・・とっとり花回廊・・(米子自動車道経由で帰宅)
* 最初の停車地は道の駅「燕趙園」でここで早めの昼食「地元産の食材を使った地元料理人渾身の創作会席」をご馳走になりました
道の駅と言ってももともとは中国庭園燕趙園であったものを1部転用したものですから、豪華な道の駅です
中国庭園「燕趙園」です
東郷池を背景にして、全ての材料を中国から取り寄せ、中国人の職人が造ったものだそうです
ご存知の方も多いでしょうが、中国の大きな庭園はみな湖などを背景にして設計されています
なお、庭園の一角で中国雑技団の公演が毎日開催されています
次に鍵掛峠で大山の眺望を楽しむ予定でしたが、全面霧に覆われて足元さえも見えませんでした
今回の目玉でしたのに・・・残念!
「大山まきばみるくの里」でおきまりの買い物をして「とっとり花回廊」です
「10万球ゆり祭り」が開催されていました
大きなドーム庭園が中心になっています
ドームの中の花です
庭園は洋風に設計されています
真っ赤なゆりの1群が印象的でした
今回のツアーの集大成、お土産です・・・
ぴーたん150円、ザーサイ200円(安いけど大丈夫かなー?)、牛たん1800円、スモークカマンベール750円、さんま寿司710円、しぼり大根420円・・・大分奮発しました
家内と次女との3人旅でしたが、日本的でいい旅でした
運転しなくていいし、安いし・・・5500円ですからねー・・・
東北地方が近ければ何度でも行けるるのにねー・・・
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小さな旅
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西方寺の田舎暮らしと大庄屋「上野家」
* GW初日の昨日、4月29日に赤岩山(669m)に登ろうということで出かけました
登山口は舞鶴市西方寺平にあるのですが、西方寺平は戸数10戸?くらいの山の中の集落です
丹後半島には、廃村に近いような集落がいくつもあるのですが、この西方寺平は違います
どこもそうですが、高齢者ばかりが目立つ農村が多いのですが、ここでは小さな子供が元気よく生活しています
と言いますのは、田舎暮らしをしたいという若い夫婦が5組ほど移住してきて住んでいるからです
ここで農業をしながら、勤めにもでる・・・という感じの生活のようです
ここは夏はよいとしても冬は交通事情も厳しいだろうなー・・ということでお尋ねしましたら、4駆の車でスノータイヤをつければ何とかなるそうです
どうしてここに移住してきたのかという理由ですが、大学や市役所が紹介してくれたということでした・・
私が尋ねました方は、京都市と大阪吹田市から移住してきたとのことでした・・
舞鶴市西方寺には観光スポットとして大庄屋「上野家」があります
室町時代から、15代続く上野家が江戸時代に建てた大庄屋屋敷を再生保存しているものです
ここでは地元特産品の販売、田舎料理の提供などをしています
大庄屋「上野家」
〒624-0118 京都府舞鶴市字西方寺285
TEL 0773-83-1300
休館日 毎週水曜日
* まず位置関係と交通事情です
西方寺平の集落ですが、ごく普通の集落です
右側写真は西方寺付近を若い力で発展させようと言うポスターです
こういう所に日本の再生のカギがあるように思いますが如何でしょうか?
「上野家」母屋です
人がいた方がいいかなと言うことで人物をいれました
右側写真は「上の家」長屋の特産品販売所です
上野家歴史館入り口と私が買って帰りましたお土産、こごみ、ゆきのした、地元産こしひかり使用の米粉うどん、万願寺甘とうジャムです
今日のお昼はこごみ、ゆきのしたを天ぷらに揚げてぶっかけうどんにしようと思います
このGWにお近くの方は出かけてみてください
赤岩山登山は舞鶴市西方寺田舎暮らしと大庄屋「上野家」、赤岩山登山 その2として別の記事にしました
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(66さんの「しりとり酒器揃え」を陶郷の風さんに無事引き継いでいただきましたので、箸休めの今回の記事をUpします このところ陶磁器の話が続きましたので・・・) * 長崎ミステリーツアーの主目的は、その2の「古美濃を訪ねて」なのですが、日帰りは無理だったのでハウステンボスに一泊してついでにハウステンボスで遊びました <ハウステンボス> オランダ語で「HUIS TEN BOSCH」 それは一般的には「森の家」を表します 17世紀のオランダの街をイメージして造りましたのがこの施設です <パレス ハウステンボス> 現在、オランダの女王陛下がお住まいされているところが「パレス ハウステンボス」です その宮殿の外観を忠実に再現する許可を得て、パレス ハウステンボスを再現しました そして新しく造ったこの街を「ハウステンボス」と命名しました およそ5年の年月をかけてこの街を造りました ・・・と言うことを前提にしての探訪記録です では・・・ * 「ANA JRハウステンボスホテル」です(一泊朝食つき9000円でした) ハウステンボスは17世紀のオランダの街を再現したものですので、このようなデザインの建物になったのだと思います さすがー!でした ホテルの玄関の反対側の夜景を撮ってみました デジカメで初めて撮る夜景ですがカメラの機能が進歩しているせいか何とか撮れました 私が思うに、このハウステンボスは夜のイルミネーションが最大の売り物ではないかと思うのですが、この日は午後8時Closeでしたので、残念ながらお目にかかれませんでした 8時ではまだ明るかったですから・・・ 午前9時Openと同時に入りました 入り口と入場して直ぐの風景です さーここからスタートです シーズンオフの朝一番ですので、お客さんはパラパラでした 入って直ぐのお出迎え人形です 順に遊覧船の波止場、風車、花畑です 花はちょっと時期はずれのようでした 展望台、ドムトールンです 高さ105mです ピサの斜塔風に少し斜めに写して見ました 私がここに登ると馬鹿の高登りになりますので登るのは止めました ホテルアムステルダム、ホテルヨーロッパ、商店とレストラン街などです ヨットハーバーですが、個人用のヨットが係留されています 18世紀の帆船もありましたが・・・ パレス ハウステンボス オランダ王国ベアトリクス女王陛下が住むハウステンボス宮殿を再現 内部は、美術館・時代部屋・壁画の間からなっています なかでも、「壁画の間」は、高さ19m、日本最大級のドーム型壁画で、8カ国40名のアーティストが4年をかけて完成させたもの 美術館の大きな部屋一杯に広がる大壁画です 圧倒されるほどすばらしい壁画でしたが何を描いてあるのか私にはわかりませんでした ここでは何かの演奏でもあるのでしょうか・・・ (注)英蘭戦争 17世紀〜18世紀にかけて英蘭戦争(えいらんせんそう、Anglo-Dutch Wars)があり、3次にわたりイングランドとオランダが戦った 海戦が中心で双方とも相手方の本土に侵攻することはなく、いずれも中途半端な結果に終わった 18世紀に行われた第四次英蘭戦争により、オランダの国力は疲弊し、海上交易における優勢を失った ・・・ がありましたのでこの戦争を描いたものかも知れません これだけでもここを訪れる価値があります!!! 17世紀の部屋 17世紀当時の豪商、ヤン・ハートマン家のメインホールを復元しています 興味をひくのは壁の装飾です 「金唐革」といわれる装飾で、仔牛の革をなめして型押しし、彩色したもの 当時の人々の金へのあこがれを伝えてくれますが、この技術、実はオランダではとっくに過去のものとなっていましたが、ハウステンボスが同国で約1世紀ぶりによみがえらせたのです 要は、17世紀と18世紀のオランダを代表する建築・インテリア様式を再現したものです 当時の贅を尽くしたインテリアは、今見ても新鮮な輝きに満ちています 当時の部屋には必ずベッドがあったそうで赤い色の部分がそうです 陶磁器もありました マイセンと古伊万里です さすがに豪華なものばかりです ヨーロッパ人はなんせ豪華なものが好きなんですね・・ 利休はここではおよびじゃないでしょう 他にオルゴールの部屋、ガラスの部屋もあったようですが見損ねました ピクスドールです 庭園です この庭園は18世紀、フランスの造園家ダニエル・マローがオランダの宮殿のために設計したものの実現しなかった「幻の庭園」で、保存されていた図面をもとにハウステンボスに甦らせました 宮殿の後ろ側に、ヨーロッパの造形美を極めた、広大なオランダ・バロック式庭園が広がっています 写真では全体を捉えきれませんで狭く写っています 中庭でシャボン玉を飛ばしていました ハウステンボスに隣接する別荘t群です みな個人の所有だそうです ディズニーランドなどの大仕掛けなものになれた人には物足りないかも知れませんが、江戸時代より通商を通じて縁の深かったオランダの街の再現はそれはそれで頷けるものです シーズンオフでお客さんの数はそう多くはありませんでしたが園内で聞く言葉はほとんど中国語でしたのでちょっとびっくりでした 老若男女の観光客みな中国人・・・中国人の観光が増えている話は知ってはいましたが現実に実感しました 来たれ!!!中国人観光客!!!
落とせ中国Money !!! (どうも本音が出てしまいます・・・) |
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海遊館 大阪市大阪港 Universal Studios Japanも近くにあります * ボランティアのお手伝いで海遊館に出かける機会に恵まれました このようなことでもなければ、なかなか行く機会がないかも知れません・・ 動物園、植物園、水族館・・・などを見ると自然のなせるわざに感嘆します・・ 近代的設計の海遊館です 大阪港に面していますので、海を見る眺望ポイントがあります 総勢13人でした 海遊館に入りますとこんな感じです・・ アリューシャン列島のラッコ アメリカ西海岸モンタレー湾のアシカ パナマ湾のベニハシカモ、アカアシカメ エクアドル熱帯雨林のコロソマ、カピパラ 南極大陸のオウサマペンギンとその子供(茶色のペンギン) グレート・バリア・リーフ(全長2000Kmにも及ぶ世界最大のさんご礁)のチョウチョウウオ、スズメダ イなど・・ エクアドル熱帯雨林のピラルク 写真の順番がずれてしまいました ウツボ 太平洋のマンタとジンベイザメ マンタとそれに吸盤でピタッと引っ付いている魚 生きる要領がいいですねー! ジンベイザメはものすごく大きい鮫でした 動きが早くてなかなか写真が撮れません クック海峡のアカウミガメ 日本海溝に住むタカアシガニ 水深200〜400mに住む世界最大のカニ アカクラゲ、オワンクラゲ、イソギンチャク 神秘的という言葉がぴったりですねー! トラザメ 20〜30cmくらいの小さな鮫です 何かの技で日本一になったことのある大道芸人リスボン上田です 芸人がいると見ないでいられません・・ 今回は折りたためるものを帽子に入れました 「素晴らしい技を見せてもらいました・・!」・・・ということで・・ * 一緒に行った先生が魚博士で、いろんな説明をしてくれました
その場では結構分かったつもりになれました |
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世界遺産吉野・大峯 * 昨日4月14日に「桜の日本3大名所」に桜を見るバスツアーで出かけたのですが、桜はすでに散っている状態でさっぱりでした しかし、観光客は溢れるばかりでした そこで歴史の宝庫吉野に焦点を当てて見ることにしたのですが、なにせ短時間の上に徒歩で訪ねるということで時間に追われ、じっくり見て写真を撮ることが出来ませんでした そんなわけでしたので写真も良くありません [1]義経伝説 (1)附近概略 地図を見てください (2)吉水神社 源義経は、兄頼朝の不興を買い命を狙われるようになったので、京都から奥州の藤原氏の元に逃避しようと静御前他主従数名で摂津の大物浦からこの吉野に逃れて来ました 吉野の人たちは義経に吉水神社を隠れ家として提供てくれたのですがその後直ぐに吉野を去さざるを得なくなり、大峯奥駆道を通って大峯方面に逃げのびました この附近の地図の、黄色で色をつけた道が大峯奥駆道で、大峯山を越え熊野に至る道です 水分(みずまくり)神社までを大峯奥駆道というようです この道ははっきりしていませんでしたが、世界遺産に指定されるにあたり旧道を復活させました 吉水神社は、後醍醐天皇が南北朝時代に吉野に南朝をおいた時に仮の皇居として定めたところでもあります また秀吉が、1594年に盛大な花見会を催し、歌会、お茶会、お能の会を開いた所でもあります 義経の潜伏していたのは5日間という短い期間でした 義経潜居の間、弁慶思案の間です どうやって奥州まで逃げ延びようかと思案している図でしょうか・・・ 静御前の舞衣装と義経の色々威腹巻が飾ってあります 色々威腹巻は鎧の下に身につけたものだそうです とても小さいように思いました かなり義経は小柄だったのではないでしょうか・・・ 静御前の舞衣装には感動!!! ・私の友人がよくいいました 「大きな男は気が小さいんだよ」って・・・ 小さい男は逆に気は大きいのでしょうね・・・ 後醍醐天皇玉座 古美術品も素晴らしいものがあります 狩野永徳の金屏風、秀吉所持の青磁壷、蝉丸所持の琵琶、後醍醐天皇所持の羊皮太鼓、能面など・・ 義経は吉水神社に潜伏するも僧兵の不穏な動きをひしひしと感じ、ここで静御前と別れ家臣数名と大峯山を越えて逃避することにしました そのときの別れの門です 左側の門です 2人の惜別の情はいかばかりであったのか・・・なんとなく分かりますね・・ 吉水神社から上の方を見る一目千本の桜の一群です (3)勝手神社 義経と別れた静御前は従者の雑色男に金品を奪われ山中をさまよっているうちに荒法師に捕らえられましたが、その時に請われて法楽の舞を舞い居並ぶ荒法師たちを感嘆させたという伝説のある神社です その後鎌倉まで移送され頼朝、政子の前でも舞を舞いました (4)大峯奥駆道 大峯奥駆道の道を大峯に向かって逃げる義経主従に、怪僧横川覚範が迫り、これを迎えた義経の家臣佐藤忠信と一騎打ちになり横川覚範は討ち取られました その横川覚範の首塚があります (5)水分(みくまり)神社 創建は不詳 歴史は698年まで遡るが、現在の建物は慶長10年、1605年豊臣秀頼によって創建されたものです 秀吉ももこの地を訪れ秀頼を授かったといわれています 話は義経に戻りますが、この神社の少し手前、すなわち南側の花矢倉で佐藤忠信は1人で大いに奮戦し追っ手を食い止め、義経主従を大峯方面に逃がしました <何故義経は兄頼朝に命を狙われることになったのかの考察> 色々な説があります 梶原景時の讒言、頼朝の許しを得ることなく後白川天皇より官位の検非違使の任官を受けたこと、義経が戦いに強いのでこれを恐れた・・・などなどありますが、私は単純に北条政子とその父北条時政一族が源氏を追い落とし、権力を手中にしようとしていたのだと思います 頼朝は原因不明の死でした なんとも妙な落馬で亡くなったいう話もあります・・あれほどの男が落馬とは・・・ その子長男の2代将軍頼家は稀に見る武芸の達人であるのに将軍位に就くとまもなく重病に陥りました その後直ぐに退位させられ後暗殺されました 3男実朝は時政の後押しで3代将軍位に就きましたが頼家の3男公暁に鎌倉八幡宮にて暗殺されました 頼家の他の3人の男の子供はいずれも非業の死を遂げました 実朝の死で源氏は完全に絶えてしまったのです 北条一族にとれば頼朝さえ単なる政子の養子であってどうでもよい傀儡であったのだと思います このように考えると、鎌倉幕府成立後は、戦上手の義経は真っ先に葬るべき人物であったのです そうして北条一族は義経の抹殺に成功して、次に頼朝とその子も葬り、執権という形で政権を奪ったのです ・・・というのが私の推理なんですけど・・ [後醍醐天皇、南朝、他] (1)金峰山蔵王堂仁王門(国宝) 巨大な憤怒の表情をした阿吽(あうん)の仁王像(金剛力士)が左右に二体、吉野山への不審な者の進入を防いでいます この門をくぐることは、単に吉野への入口ということではなく、ここから大峰山を越えて熊野へと続く修験道の山々への登竜門ということになります (2)蔵王堂(国宝) 修験道の開祖、役行者[えんのぎょうじゃ]によって奈良時代に開かれた金峯山寺の本堂(国宝)で、高さ約34m 木造古建築では東大寺大仏殿に次ぐ大きさです 堂内には蔵王権現高さ7mの巨像があり、国内最大といわれる厨子に納められた秘仏があります (3)大和3庭園 竹林院 寺伝によれば、聖徳太子が開創して椿山寺と号し、その後弘仁年間(810年〜824年)空海が入り常泉寺と称したという 1385年(至徳2年/元中2年)に竹林院と改められた 大和3庭園の1つで利休が造り、細川幽斉が改修したと言われています 今は老舗旅館のように運営されているようです (4)参道 この通りは不況知らずの大賑わいでした・・・ * ずいぶん久しぶりに訪ねたものですからすっかり忘れていました
奈良平安時代から桃山時代くらいまで、歴史の中心位置にあったのですね 天然温泉もありますし・・・ 歴史好きのひとはじっくりと回って見たいところです |




