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南蛮壺
胴径 27 高さ 44 口径 12 cm
購入時に若干の解説を聞いたのですがすっかり忘れてしまいました
沖縄壺屋焼のうち、荒土焼かも知れません
* 20代の頃、熊本に出張の折に骨董店にて購入したものです
一緒に行った会社同僚が掛け軸好きでしたので、彼と一緒に骨董店に行く羽目になり、大きな壺3つ買うということになりました
そのうちの1つです
完品だったのですが、子供に口を割られてしまいました
窯印でしょうか・・? 右下写真
以下インターネット記事より
* 南蛮焼の定義は非常にむつかしく、陶器辞典などをめくっても細かいところになると、不明瞭な点が多く、文化史や美術史の辞典類に至っては収録することさえひかえているようである
また、これまで書かれた南蛮焼の説明などを読んでもそのとらえかたに多少の相違点がみられたりして、その概念は時代差、地域差などともからんで流動的であるというのが現状のように見うけられる
南蛮という言葉自体は、歴史的にみると、中華思想の中に見られる東夷、西戎、南蛮、北狄の解釈による場合と、日本史の上で、江戸時代を通じて、オランダ以外の、ヨーロッパ人や彼等がもたした文物をこう呼ぶ場合の二様があげられるが、陶芸史の上では前者の解釈によっていることはいうまでもない
つまり、南蛮焼とは、広義では中国の南に位置する国々、すなわち東南アジア諸国でつくられた焼物ということになろう
< 参考 >
1) 那覇市立壺屋焼物博物館によく似た一斗壺が30個保存されているそうです
窯印に良く似たものがあります
2) 琉球南蛮壺の荒土焼きにも似たものがあります
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土器
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土師器 碗
サイズ 直径14.5〜15.5 高さ7 cm
土師器(はじき)とは、弥生式土器の流れを汲み、古墳時代(4世紀〜6世紀頃)〜奈良・平安時代まで生産され、中世・近世のかわらけ(土器)・焙烙(ほうろく)に取って代わられるまで生産された素焼きの土器である
須恵器と同じ時代に並行して作られたが、実用品としてみた場合、土師器のほうが品質的に下であった
埴輪も一種の土師器である ⇒Wikipedeaより
* 碗の中に煮る物を入れて、そのまま火の上に置いて煮炊きするときに使ったようです
当時の生活が偲ばれる器です
赤色に見えるのは、漆か弁柄でも塗ってあるのでしょうか・・・?
どこの出土品か確認するのを忘れてしまいました・・・
青森辺り・・・?
お茶わんに丁度良いサイズですが、ちょっと汚れが気になりますね・・・
高台です
下の写真 右 いくらか平らに削って高台が造られています
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他愛もない古いものを使った昼食 * 今日の昼食に、いつも使っている古物に加え、先日奈良に行きましたときに友人よりいただいた800〜1200年前の東大寺の瓦のかけらを使って見ました 瓦は東大寺が1180年、治承4年、南都焼討ちと言われた大火で焼けた時のものだそうです 残念ながら、東大寺を示す文様は入っていません というのは友人が、奈良のご主人が亡くなった骨董屋さんの奥さんからもらったものだそうですので・・・ 文様が入っていれば結構高価ですからただではくれないでしょうから・・・ ブロガーのPさんがよいものであれば、いただきましょう・・ということですのでここにUPいたしました こんな使い方は如何でしょう・・・? <南都焼討(なんとやきうち)> 治承4年12月28日(1181年1月15日)に平清盛の命を受けた平重衡ら平氏軍が、東大寺・興福寺など奈良(南都)の仏教寺院を焼討にした事件 平氏政権に反抗的な態度を取り続けるこれらの寺社勢力に属する大衆の討伐を目的としており、治承・寿永の乱と呼ばれる一連の戦役の1つである この2ヵ月後に平清盛は熱病によって亡くなった <信楽焼き> インターネット記事から・・・ 信楽は、日本六古窯の一つで1250年の伝統を誇る日本最古の産地です その始まりは、天平14年(742年)聖武天皇が紫香楽宮の造営に着手されたときに、布目瓦、汁器の須恵器を焼かれたことに始まり・・・云々 とありますので、この瓦は信楽焼最初期の焼き物であることが分かります 皆さんのご教示のお陰さまでいろんなことが見えてきます 有難うございます! *** 後日談です この瓦をPさんに差し上げましたところ、Pさんは奥様に座布団を作ってもらって、その上に載せているそうです その写真を送っていただきましたので大切な記念としてUPいたします Pさんの信心深さに敬服いたしました!!! |
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縄文前期深鉢土器 |
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山歩きで探した粘土による作品、茶碗、一輪挿し、ぐい呑み |




